とうとうKindleがうちにやって来ました。paperwhiteという機種です。
・・・あれ、、なんか電子書籍に対してちっと抵抗感あったんですけどどういうんだったか思い出せない。
とこんな感じに今「ワーイ!」状態です。
ワーイ!!
まずは有料でピクウィッククラブの上巻を買って、あとは無料のをダウンロードしてます。
青空文庫のものが無料やかなり安く読めるようで、とりあえずポーとかチェスタトンとか。
おおブラウン神父だ、なつかしい・・!
思い出してみると、子ども向け以外の外国の小説を読み始めたのは小学校の高学年頃、
母が推理小説好きでいっぱい文庫本持ってたので、アガサ・クリスティー辺りがスタートだったかなと思います。
結構それで外国(おもにイギリスだけど)の生活がどんな感じなのか大ざっぱにつかんだような気がします。
ちょっと今の日本とは違うので、最初は???って思うことが多いんです。
なんでお金がないお金がないと言いながら大きい屋敷に住んで執事やお手伝いさんがいるのか、とか。
読んでる内に、イギリスではそういうもんなんだとなんとなくなじんでしまったけど。
でも、夏目漱石とか芥川龍之介とかの本だって、同じなんですよね。
生活に困ってるらしい描写があるのに、通いの女中さんがいたりしますから。
Kindleが来る前に、アーサー・C・クラークの「白鹿亭奇譚」と「宇宙のランデブー」を紙の本で買って読みました。
アーサー・C・クラークは好きで結構読んだんですが、なにせ沢山書いてるので読みのがしてるのがあって。
どっちも面白かったですけど、特に「宇宙のランデブー」すごく面白い………!!!
なんでこれ読んでなかったんだろう。ほんとに。
私はクラークの描く未来の人間が好きで、一つの理想像というんでしょうか。
あとSFだけれど、むやみと人が死なないんです。「宇宙のランデブー」も登場人物が一人も死にません。
お話の前提として、小惑星が地球に激突して60万人死ぬという未曾有の大災害が設定されているんですが、
そこはあまり書き込まないで半ページくらいであっさり切り上げてるとこに、
オレが書きたい所はパニックから生じるなんだかんだじゃないんだよ、
みたいなクラークのSF作家としての自負と矜持が感じられます。はい。
「白鹿亭奇譚」の方はちょっと趣向が違いまして、SFほら話といいますか、本人の序曰く、
「SFとユーモアは両立しないとのたまってる批評家どもをぎゃふんと言わせるために書いた(意訳)」そうです。
でも「宇宙のランデブー」にもユーモア効いてるんですよ。すばらしい最後の一文……!
クラークを説明するのに「国際人」という言葉が解説に出て来て、コスモポリタンの訳だと思うんですが、
アイザック・アシモフやH・G・ウェルズにもそういう形容がなされてたかな、、、
今でいうグローバルとはちっとニュアンスが違って、とにかくその当時言われていたコスモポリタンという言葉には、
「(こまかな違いはあれ大筋では)普遍的な倫理観を共有している人たち」という含意があって、
しかもそこに重きを置いていたように私は受け止めていました。
この人たちの本読んでると「それ(普遍的な倫理観)」がどういうものであるか、
また作品を書く上での前提としてしっかり踏まえられていることが、なんとなくわかるんです。
「それ」はあくまでたてまえで、ほぼ幻想のような理想にすぎないと一蹴されてしまうかも知れないけれど(今は特に)、
でも、WWⅡから冷戦という、けしてしゃれにならない危機が水面すぐ下にあった時代を通して、
たしかに「それ」はあるんだ、そういうものが本当に普遍的になる世界を自分たちはつくっていかなければいけないんだ、
という気持ちをくさらずに持ち続けて、東のはしっこの島国まで届く本を書き続けていたっていうのは、
今考えるとすごく胸に来るものがあります。
SF作家のような人たちだからこそ、現実からは遠すぎる夢物語と目の前から払いのけなかったのかも知れませんね。
テクノロジーの飛躍的な進歩よりも、全体的な「それ」の底上げの方が、今ははるかに難しく思えますし。
今は世界的に「それ」が、クラークやアシモフ在命時よりも、ちっと退行しちゃってる感じはあるけれど、
これも大きく見れば過渡期のゆりもどしのようなものであればいいなと思います。
わりと「それ」が当たり前の感覚だと信じて育った私自身も、311以降、普遍の逆へのゆりもどしみたいなことを経験しました。
寄り道や回り道、ふりだしに戻るみたいなことなんですけれど、個人的にはまだ取り返しのつく内でよかったと思います。
そして、それが私にとっては当たり前の感覚である「ふりだし」をつくってくれたのが、
クラークやアシモフ(多分クリスティーやチェスタトンも)といった人たちだったんだと今になって思い当たりました。
森のなかまのお父さんはクラシック音楽が好きで、以前アルフレッド・コルトーというピアニストのCDを貸してくれた時に、
「コルトーの演奏は戦前と戦後で違うから、よーく聞いてごらん」と言われました。
くわしくは知りませんが、コルトーはフランス人だけれどドイツのワグナーが好きでオペラの指揮をしたりと、
結果的にナチスの宣伝、協力をするような形になったらしいんですね。
CD聞いても私には、戦後のが戦前のより音が悪い(レコードのノイズがひどい)としかわかりませんでしたけど。。。
(録音時期が1940年代辺りは多分物がなかったんだと思います。逆に1920年代の方が音質はいい。)
うん、でも、コルトー自身の音の変化、きっとわかる人にはわかるんだよね。
・・・ええと、Kindleからずいぶん飛んだ上長くなったな。。。
写真、Kindleのそばにひかえておるのは、ずいぶん前に浅草の仲見世通りで買った招き猫です。
名前は上げてる手(足)にちなんで右ちゃんと左ちゃん。
買った直後に森のなかまが忘年会のビンゴで二万円当てて来ました。
きっちり一匹一万円ずつひっぱってきてくれた律儀な招き猫です。