朝鮮史の書評でこれだけの賛辞を受けた書を知らない。朝鮮哲学の研究者である小倉紀蔵による慎蒼宇『植民地朝鮮の警察と民衆世界 1894ー1919』(有志社、6200円)ー読売ーの評価である。筆者も植民地地統治下までの在日朝鮮人地域史を書いたことがあるが、小倉が本書で指摘するように「イデオロギー的関心」が強すぎて在日朝鮮人民衆史には程遠いものになったと反省しているのだが、それは本書で追求された点が欠けていたからだ。朝鮮人民衆が長い間育ててきた民衆の権力懐柔策というべき力強さが出ていなかったからだ。その核心部分は後述するが、権力懐柔とは概念が上滑りしてはいけないが、要するに民衆を庇護する権力構造を育てることだ。それを小倉は「徳治的」という用語で説明している。つまり儒教の仁政という概念を軸として植民地支配での武断的支配とは異なる「武力や厳しい統制をなるべく回避し、文治的な教導を柱にして、民衆の生活諸慣習に対して比較的寛容であった」という実際の中身であった。この視点を押さえて筆者の在日朝鮮人地域史を捉え直すと随分と風景が変わってきたに違いない。小倉がいうように日本の植民地支配は徳治的政治文化の破壊であったからだ。その日本に渡らざるをえなかった朝鮮人は驚いたであろう。日本警察や官吏の冷徹さを。弾圧を。そうした朝鮮史の組み直しが求められているともいえる。しかしどうして徳治警察の諸行を文献的に裏付けるのか。至難の技ではないか。民衆史により接近すればするほど困難が待ち受ける。本書を読んでいないので筆者にはわからないが、「イデオロギー的関心」をこえて朝鮮人の誇れる民衆文化、政治を発掘していく著者による記念碑的研究書にまずは慶事を述べたい。著者は三〇代後半の大学講師。
慎の書が民衆と権力というテーマであるとすれば、権力と諜報というテーマの本がティム・ワイナー『CIA秘録 上下』(文芸春秋社、各1875円)ー日経ーである。村田晃嗣が書評を書いている。本書の著者はニューヨク・タイムス記者。情報公開法に基ずく膨大な史料と10数人の元CIA長官ら300人以上の関係者のインタビューによるCIAのスパイ映画もどきの秘密のベールをはぎとっていくジャーナリストが結実させた権力監視の書といえる。評者村田は「CIAの秘密のベールが1枚ずつ剥ぎ取られていく」と書いている。日本の公安警察ではどうなのか。情報公開法は日本の場合、実に軟弱であり、とても本書のような書を書けないところに、ある意味では権力の脆弱さがあるのだが、本書により現れたCIAの姿を日本人が読める皮肉さにたじろがねばならないだろ
う。はたして日本はとの問いである。
皮肉さという意味では水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、一八〇〇円)ー日経ーが日本語の「位置」を全世界的視野の中で考察して非英語の奇跡をあぶりだす。帰国子女である著者は日本の近代文学を再発見した体験をもつ作家だが、本書ではモンゴル語、ポーランド語、フランス語の現状を語り、万葉仮名以来の日本語の書き言葉の歴史をたどる。評者リービ英雄は非英語として史上初めて誕生した漱石らの近代文学にたどりつく。著者水村によれば中国語に対峙して生まれた日本語がそれまで現地語であったのが、英語という普遍語に肩を並べる非英語世界である日本語の文学を生んだというのだ。国語生まれた変わった。漱石らの時代にはもう戻れない。インターネットにより英語の支配力は日本語の力はそがれていっている。非英語の奇跡の行方を自覚せよとのメッセージを本書から受け取った評者は「水村氏の『憂国』は英語を母語としない、実は人類の大多数の読み手と書き手通じるだろう」と結んでいる。
若宮啓文『闘う社説 朝日新聞論説委員室2000日の記録』(講談社、1500円)ー読売ーは少し手前みそ過ぎる感を受けたのだが。読売の渡辺恒雄主筆とのエール交換が本書に収められ、評者である政治学者の御厨貴が高く評価している点だ。たしかに若宮ー渡辺対談(「論座」)は歴史に残る読み物となるだろうが、一読者にとってはいくつもなぞが残るからだ。はたして言論の共闘がいいのかという疑問なのだ。言論の自由への弾圧、人権弾圧などで一斉に批判的報道が期せずしておこることはあるが、政治問題、宗教問題での論調違った新聞が共闘を一夜にしてなすというのはキツネに包まれた感が抜けないのだ。ただ本書でたどる言論の軌跡は他紙を意識して書かれたことがわかる。
慎の書が民衆と権力というテーマであるとすれば、権力と諜報というテーマの本がティム・ワイナー『CIA秘録 上下』(文芸春秋社、各1875円)ー日経ーである。村田晃嗣が書評を書いている。本書の著者はニューヨク・タイムス記者。情報公開法に基ずく膨大な史料と10数人の元CIA長官ら300人以上の関係者のインタビューによるCIAのスパイ映画もどきの秘密のベールをはぎとっていくジャーナリストが結実させた権力監視の書といえる。評者村田は「CIAの秘密のベールが1枚ずつ剥ぎ取られていく」と書いている。日本の公安警察ではどうなのか。情報公開法は日本の場合、実に軟弱であり、とても本書のような書を書けないところに、ある意味では権力の脆弱さがあるのだが、本書により現れたCIAの姿を日本人が読める皮肉さにたじろがねばならないだろ
う。はたして日本はとの問いである。
皮肉さという意味では水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、一八〇〇円)ー日経ーが日本語の「位置」を全世界的視野の中で考察して非英語の奇跡をあぶりだす。帰国子女である著者は日本の近代文学を再発見した体験をもつ作家だが、本書ではモンゴル語、ポーランド語、フランス語の現状を語り、万葉仮名以来の日本語の書き言葉の歴史をたどる。評者リービ英雄は非英語として史上初めて誕生した漱石らの近代文学にたどりつく。著者水村によれば中国語に対峙して生まれた日本語がそれまで現地語であったのが、英語という普遍語に肩を並べる非英語世界である日本語の文学を生んだというのだ。国語生まれた変わった。漱石らの時代にはもう戻れない。インターネットにより英語の支配力は日本語の力はそがれていっている。非英語の奇跡の行方を自覚せよとのメッセージを本書から受け取った評者は「水村氏の『憂国』は英語を母語としない、実は人類の大多数の読み手と書き手通じるだろう」と結んでいる。
若宮啓文『闘う社説 朝日新聞論説委員室2000日の記録』(講談社、1500円)ー読売ーは少し手前みそ過ぎる感を受けたのだが。読売の渡辺恒雄主筆とのエール交換が本書に収められ、評者である政治学者の御厨貴が高く評価している点だ。たしかに若宮ー渡辺対談(「論座」)は歴史に残る読み物となるだろうが、一読者にとってはいくつもなぞが残るからだ。はたして言論の共闘がいいのかという疑問なのだ。言論の自由への弾圧、人権弾圧などで一斉に批判的報道が期せずしておこることはあるが、政治問題、宗教問題での論調違った新聞が共闘を一夜にしてなすというのはキツネに包まれた感が抜けないのだ。ただ本書でたどる言論の軌跡は他紙を意識して書かれたことがわかる。