闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.2916~920
1)ヒュー・ウイルソン監督の「ポリスアカデミー」
1984年の第1作だが、その出たとこ勝負のアナーキーさがとても宜しい。娯楽映画はこれでいいのら。
2)イヴ・アレグレ監督の「美しい小さな浜辺」
題名はよろしいが、中身は悲惨1948年のおふらんす映画。ジェラール・フィリツプも下らない映画に出たものだ。
3)ゴダール監督の「決別」
原題は「Hélas pour moi」だから「決別」はナンセンスで、「可哀想なオラッチ」くらいでいいのではなかろうか?昔はゴダールという名を聞いただけで、凄い、素晴らしい、と反射的に賛嘆していたおらっちであるが、登場人物に言わせるゴダールの台詞に格別の意味を求めても所詮は詮無きことではないだろうか。映像もドパルデューがフリチンで出てきたりするが、所詮はゴダールの映画遊びの素材に過ぎず、退屈である。
4)ゴダール監督の「ゴダールの探偵」
映画というメディアを駆使して、映画と戯れながら、人間を、世界を、映画自体を考究していくのがゴダールの常套手段であるが、その回路と流儀は難解で、ゴダールその人は別に万人に分かってもらおうと思ってもいないようだ。
頭の良い人が、彼の映画の「意味」を解き明かすことが出来たと思っても、その当否はゴダール自身にも確言できないのは、彼が意味のある映画を作ろうとはしていないからだ。
世にいう「映画」のすべてを否定し、解体しながら、たえず更新しつつ再構築していくこと自体が彼の映画作法なので、それを観客が面白がるか否かは、ゴダールにとってはどうでもいいことになる。これは(も)、そういう意味を持った無意味な映画だ。
5)ゴダール監督の「メイド・イン・USA」
1966年のゴ監督の疑似犯罪喜劇政治なんでもかんでも映画だが、あまり機知も映像も冴えず、見どころは60年代末のカジュアル・ファッションくらいか。アンナ・カリーナの顔もアップになると鈍重ずら。
われわれの識字の力を信じない参院選のかな文字ポスター 蝶人