株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

卑弥呼の謎を解く 天日隅宮の神主②

2006-12-11 00:29:35 | 古代史、卑弥呼、神輿太鼓、倭人伝
 延喜式に、「天日隅宮」が、何処にも無いことを書いた。そして、宇摩郡の高台に、明治まで、「天日隅宮」が在った事も書いた。この時に、この本殿後の後ろに、最初の神主、「高下」氏の墓地があると書いたが、写真は載せなかった。

 この頃は、まだ、写真が行方不明だったからだが、出てきたので、高下家と、次に神主になって、高下墓地より、後ろに造られた、守屋(守谷)墓地を載せておくことにしよう。

 下の写真は先の写真より少し北から写したので、右の方に家屋が写っている。2番目の写真の家屋である。だから、この天日隅宮の、後ろに造られている。






 物部守屋の系図を持つ、守屋家と、鎌足の系図を持つ、藤原家の話も先に書いているので、ここでは、その、写真だけを紹介する。



 この写真が、守屋家の墓地で、20メーターほど後ろ(西)に造られている。

 この後の、藤原墓地は、谷を渡った西側にあるが、高下家と、藤原家の墓地で充分だろう。また、氏子であった「伴野」の墓地は、本家かもう少し南の上にある。

 伴野氏の他に、分家と思われる「岡崎家」は、元は、伴野と言い伝えるから、同じ出なのだろう。この二つの姓が、天日隅宮の氏子である。

 氏子の墓は分散しているので、纏まった写真も撮ったのだが、今は行方不明だ。出てくれば載せる。

 宇摩平野を見渡せる高台の、壷山に、象徴される、国津神の相談所を任されて、日頃は、与えられた家、田畑、海に遊べる各種の船などを使う日々だった。

 最初の神主、高下氏は、古事記か、日本書記にあった、料理などをした、あの神であろうと、思っている。この家の系図は、明治に償却したらしい。

 もったいないが、明治の歴史隠しで、消さされたと思う。

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