延喜式に、「天日隅宮」が、何処にも無いことを書いた。そして、宇摩郡の高台に、明治まで、「天日隅宮」が在った事も書いた。この時に、この本殿後の後ろに、最初の神主、「高下」氏の墓地があると書いたが、写真は載せなかった。
この頃は、まだ、写真が行方不明だったからだが、出てきたので、高下家と、次に神主になって、高下墓地より、後ろに造られた、守屋(守谷)墓地を載せておくことにしよう。
下の写真は先の写真より少し北から写したので、右の方に家屋が写っている。2番目の写真の家屋である。だから、この天日隅宮の、後ろに造られている。
物部守屋の系図を持つ、守屋家と、鎌足の系図を持つ、藤原家の話も先に書いているので、ここでは、その、写真だけを紹介する。
この写真が、守屋家の墓地で、20メーターほど後ろ(西)に造られている。
この後の、藤原墓地は、谷を渡った西側にあるが、高下家と、藤原家の墓地で充分だろう。また、氏子であった「伴野」の墓地は、本家かもう少し南の上にある。
伴野氏の他に、分家と思われる「岡崎家」は、元は、伴野と言い伝えるから、同じ出なのだろう。この二つの姓が、天日隅宮の氏子である。
氏子の墓は分散しているので、纏まった写真も撮ったのだが、今は行方不明だ。出てくれば載せる。
宇摩平野を見渡せる高台の、壷山に、象徴される、国津神の相談所を任されて、日頃は、与えられた家、田畑、海に遊べる各種の船などを使う日々だった。
最初の神主、高下氏は、古事記か、日本書記にあった、料理などをした、あの神であろうと、思っている。この家の系図は、明治に償却したらしい。
もったいないが、明治の歴史隠しで、消さされたと思う。
この頃は、まだ、写真が行方不明だったからだが、出てきたので、高下家と、次に神主になって、高下墓地より、後ろに造られた、守屋(守谷)墓地を載せておくことにしよう。
下の写真は先の写真より少し北から写したので、右の方に家屋が写っている。2番目の写真の家屋である。だから、この天日隅宮の、後ろに造られている。
物部守屋の系図を持つ、守屋家と、鎌足の系図を持つ、藤原家の話も先に書いているので、ここでは、その、写真だけを紹介する。
この写真が、守屋家の墓地で、20メーターほど後ろ(西)に造られている。
この後の、藤原墓地は、谷を渡った西側にあるが、高下家と、藤原家の墓地で充分だろう。また、氏子であった「伴野」の墓地は、本家かもう少し南の上にある。
伴野氏の他に、分家と思われる「岡崎家」は、元は、伴野と言い伝えるから、同じ出なのだろう。この二つの姓が、天日隅宮の氏子である。
氏子の墓は分散しているので、纏まった写真も撮ったのだが、今は行方不明だ。出てくれば載せる。
宇摩平野を見渡せる高台の、壷山に、象徴される、国津神の相談所を任されて、日頃は、与えられた家、田畑、海に遊べる各種の船などを使う日々だった。
最初の神主、高下氏は、古事記か、日本書記にあった、料理などをした、あの神であろうと、思っている。この家の系図は、明治に償却したらしい。
もったいないが、明治の歴史隠しで、消さされたと思う。