刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】日本書紀、同じストーリー繰り返し!( `ー´)ノ

2023-12-16 00:00:03 | 古代史
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真相に近づくことができる考え方の良い動画を見つけましたので、コメントさせてもらいました。お付き合いください(;^ω^)


刮目天
おっしゃるとおり、現存する最古の正史「日本書紀」はある元ネタを使って同じような話を多用しています。何のためにそのような面倒なことをしたのかを解説されていましたが、倭国が唐・新羅連合軍と百済との戦いに参戦し、663年に白村江の戦いで敗戦したことで、纏向ヤマトの日本は敗戦した倭国とは別の国だと主張するためだと説明されています。
しかし、日本書紀の完成は720年です。その前に完成したとされる古事記は712年ですから、いずれも敗戦から半世紀近くたってから完成していますので、おかしくないでしょうか?
そして「日本書紀」編纂はやっつけ仕事だったと言いますが、天武天皇が編纂を命じたのですが、686年の崩御から34年後の720年に完成していますから、上のような理由で史実と異なる歴史書を創る理由は考えられません。

日本書紀の内容には虚偽があるというのは賛同していますが、その理由、そして日本建国の過程の仮説については全く異なります。
日本建国は3世紀後半だったことはヤマト王権の発祥した纏向遺跡の遺構や古墳などから判明しています。そして大和盆地の中では戦闘の痕跡もありませんし、3世紀初頭に造成された纏向遺跡自体に防御性が見られません。そして3世紀後半には各地で戦闘があった痕跡が見つかり、それが、崇神天皇の四道将軍、景行天皇の九州遠征・日本武尊の東海遠征のルート上で発見されていますので、日本書紀のこれらの話は3世紀後半の史実を約350年に引き延ばして創作したものだと分かるのです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。
そして国譲り神話もこの史実を誤魔化す目的で創作されたと考えています(詳細は「国譲り神話の史実は?」参照) 。大国主の葦原中つ国はヤマト(狗奴国)などを除く列島主要部のことです。大国主が最初に国造りしたのは宇佐市安心院町佐田地区だと分かりましたので、大国主の傘下となったすべての地域を葦原中つ国で代表させたのだと推理しています。中つ国は龍蛇神(ナーガ)大国主の支配する国という意味です(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。

誰が何の目的で日本書紀で歴史を捏造したのかを考えると、当時の権力者が藤原不比等だったことに気づきます。天皇の歴史書を装って、藤原氏の子孫が権力を握り続ける正統性を主張するためだと分かりました。そのために、史実は曲げられ、不都合な天皇を隠し、架空の天皇を何人も登場させています。これらはほぼ判明しています。先日、豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者は応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコで、宇治天皇に即位していましたが、372年にオオサザキ(仁徳天皇)に暗殺されたと推理しています。詳しくは「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)



@akb2301さん
いつも楽しみにしてます。
全て正しいとして見てるかと言えば別になるけど、人物設定の設定、物語の繰り返し、業績の付け替えなんかはどう考えてもあるし、同じ様な事、設定ありすぎ。 古代氏族はみんな仲良し親戚縁者でないのは天皇家の争いでもよく分かる。 武士政権同様姻戚関係を通じた関係性で結びついてはいるものの、親子、兄弟、親戚は今の様な関係性でなく争い奪い取る。そういうのが書いてない部分にも古代氏族連合にはあったと想像する。逆に武器が1人が1人を頑張って殺せる時代だっただけに日本においては兵士が中国の様に多くないから大規模戦闘な痕跡はこれからも見つからず、下がトップをトップが下を誅殺すると言う効率いいやり方ばかりだったはず。
古代氏族の和珥氏がどれくらい世の中に関与してたかは分からないが。
氏族連合共同体でその後古墳時代終焉までは後裔氏族達が権力を握っていたに違いないのは日本全国に散らばってるのみると分かる


刮目天
和邇氏に着目したのは素晴らしいです。日本建国の過程を調べると卑弥呼の正体が和邇氏の祖宗像女神イチキシマヒメだったことが分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。おっしゃるとおり、初期天皇家の殺し合いの原因は日本建国時代の仲間の裏切りによる確執だと分かりました。最終的に決着するのは光仁・桓武天皇の時代ですから400年以上かかっています。
日本書紀や続日本紀は徹底的に隠して、誤魔化していますから、多くの皆さんは正史に沿った話を仮説にして組み立てていますが、ほとんど見当違いです。
古代史の謎は文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果との不整合が原因です。ですから、事実から文献の虚偽の部分を見つけ、編纂者・著者の意図を推理して仮説を組み立てるのが科学的です。このような手法で日本建国の過程を解明しました。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」に考え方を説明していますので、よろしければご参照ください(^_-)-☆



@user-ot2fh5ie3yさん
すばらしいです。神武東征を応神東征と見抜きましたね。ご考察に賛同します。藤原不比等は実際のところ秦氏ですよね。倭国なんぞ別国と書いた国を守る対策は天才的だと思っています。藤原不比等が作った我が国最初の律令制度である大宝律令・養老律令は幕末まで使われた訳ですし、藤原不比等って我が国の英雄とされていないことの方が不思議です。実際は応神天皇・秦氏が国を乗っ取ってしまったと思うのですが、もし藤原不比等がいなかったら、今の日本は台湾に似た存在というか中国に乗っ取られていたかもしれないと思っています。

@user-ot2fh5ie3yさん、すばらしい!卓見です(^_-)-☆
不比等が将来にわたり藤原氏の権力の正統性を主張する目的で日本書紀を創作したと推理しています。先に成立したとされる古事記は、9世紀に日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出したものです。その前の正史には一切記録がなく、日本書紀で参照した痕跡もありませんから人長の創作だと分かるのですが、天皇の歴史書だと習っていますので、誰も偽書とまでは言いにくいのでしょう。でも、人長の目的を考えると、日本書紀で隠された史実を暴露するためです。藤原氏にそれが分からないようにいろいろと工夫をしていますので、この目的が分かると古事記と日本書紀の記事の違いに着目すれば、真相解明の暗号書として使えます。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください(^_-)-☆

【関連記事】
日本の古代史が謎な理由?
古代史の盲点はここだ(^_-)-☆(つづき)


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火の神カグツチの正体ってか?

2023-12-15 09:14:06 | 古代史
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2021-11-12 22:55:16に記事にしましたが、その後分かったことを入れて改訂します。よろしければお付き合いください(;^ω^)

突然ですが、記紀神話に登場するカグツチという火の神様を知っていますか?
「日本書紀」では以下のような話になっています。
「火の神・軻遇突智が生まれるとき、その母である伊奘冉尊(いざなみのみこと)は、身を焼かれてお隠れになった。そのとき、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が恨んで言われたのが、『ただこの一人の子のために、我が愛妻を犠牲にしてしまった』
そして、伊奘冉尊の頭や足のあたりを這いずり回って、泣き悲しみ、涙を流された。
その涙が落ちて神となった。これが丘の上の木の下に現れる神で、啼澤女命(なきさわめのみこと)という。

伊弉諾尊はついに、腰に下げた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、軻遇突智を三段に切った。
その各々が神となった。
また、剣の刃からしたたる血が、天の安河のほとりにあるたくさんの岩群となった。
これは経津主神(ふつぬしのかみ)の先祖である。

また、剣の鍔(つば)からしたたる血が注がれ、神になった。
その名を甕速日神(みかはやひのかみ)という。

次に熯速日神(ひのはやひのかみ)が生まれた。
その熯速日神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の先祖である。

または甕速日命(みかはやひのみこと)、次に熯速日命。
次に武甕槌神が生まれたとも言われる。」


「古事記」の方はイザナギが怒って十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で火之迦具土神の首を落して殺しました。十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて、甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)が生まれました。「日本書紀」の「または」とされた、これらの三神が同時に生まれる説と同じです。また、十拳剣の先端からカグツチの血が岩石に落ちて三柱の神が生まれましたが「日本書紀」では経津主神の祖先でした。さらに、十拳剣の柄から血が落ちて闇淤加美神(くらおかみのかみ)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)が生まれました。「古事記」ではさらにカグツチの死体の8カ所からそれぞれ神が生まれたとされました。

如何にも神話らしい話になっていますが、この火の神カグツチが日本建国時代の実在人物から創作されたということに気付きました。上の説明で記紀に登場する二柱の神タケミカズチとフツヌシが記紀神話の国譲り、つまり大国主命の葦原中国を平定する話に登場することから分かりました。

それぞれ、鹿島神宮と香取神宮の祭神とされる神ですが、フツヌシは物部氏の石上神宮の祭神布都御魂(フツノミタマ)のことです。神武天皇に尾張連(おわりのむらじ)の遠祖高倉下(かたかくらじ)より渡されたタケミカヅチの霊剣です。wiki「高倉下」によれば、「先代旧事本紀」巻5天孫本紀では、物部氏の祖神である饒速日命の子で尾張連らの祖天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に「天降り以後の名は手栗彦命または高倉下命である」としている。とあります。



狗奴国を裏切った尾張連(おわりのむらじ)の祖の尾張王乎止与命(おとよのみこと)の話が、記紀では仲哀天皇の熊襲征伐にされたと推理しました(注1)。仲哀天皇は香椎宮で神功皇后から住吉大神のお告げを聞きますが、それを疑ったために突然崩御されます。尾張王乎止与命が仲哀天皇(タラシナカツヒコ)、神功皇后が卑弥呼の後に女王とされた十三歳の台与、神功皇后の傍らに常に寄り添う武内宿禰が住吉大神(スサノヲですが、スサノヲの霊力を引き継いだ子孫も意味します)で、尾張王乎止与命を殺した久々遅彦(狗古智卑狗)に対応します。日本海沿岸部を支配していた久々遅彦が卑弥呼の倭国を版図に加えたので、大国主と呼ばれたわけです。



その大国主に殺された尾張王乎止与命の子が、高良山で大国主を殺し、恐らく伊都国で台与まで殺して、日本建国を行った人物だと推理しました。記紀では仲哀天皇の祖父に設定された景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)とされましたが、尾張連の祖建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮の祭神で、日本武尊のモデル)です。(「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」

さらに建稲種命を国譲り神話で大活躍したタケミカズチ(日本書紀:武甕槌神、古事記:建御雷之男神)とし、あろうことか藤原氏の祖神としてしまってますから驚きます。768年に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された春日大社で氏神として祀っています。第四殿に比売神を祀っており藤原氏・中臣氏の祖アメノコヤネの妻と言ってますが、正体は卑弥呼ですよ。フツヌシも物部氏の祖神ですが第二殿に祀っていますから、きっと崇りを畏れたので、史実を誤魔化してゴメンナサイということで、表向き氏神として丁重に祀ったのでしょう( ^)o(^ )

という長い経緯があって、タケミカズチの父が火の神カグツチですから、その正体は尾張王乎止与命(仲哀天皇)なのでしょう!

火の神カグツチを祀る神社で有名なのは世界遺産になっている熊野市花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)です。社殿がなく、御神体は磐座になっています。主祭神のイザナミが岩屋に祀られていますが、対面する巨岩がカグツチの墓所となっています。そして、その参道の横に小さな祠が二つあります。手前が稲荷神社で、奥が龍神神社です。お稲荷さんは豊受大神(台与)のことですから、龍神はカグツチを斬った第十七代奴国大王伊弉諾尊の血筋の大国主久々遅彦ということを表しているようです。


カグツチはまた、日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった浜松市秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)で祀られています(wiki「秋葉山本宮秋葉神社」)。

火伏せ・防火に霊験のある神社として知られている京都市右京区の愛宕神社は全国に約九百社ある愛宕神社の総本社です。祭神は本殿でイザナミを筆頭に豊受大神台与など五柱、若宮でカグツチなど三柱、奥宮で大黒主命(大国主命)以下十七柱となっています(wiki「愛宕神社」)。

やはり、カグツチのモデルである乎止与命(仲哀天皇)を殺した大国主久々遅彦(武内宿禰)と台与(豊受大神、稲荷大明神など)が一緒に祀られていますね。尾張王乎止与命を天皇扱いしたのは奴国第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の血筋だからですよ。龍蛇神を表すナカツヒコ(仲哀天皇の和風諡号)となっていますから分かります。

(注1)ヤマト王権成立過程については、何度も書いていますので、注にしました。初めての方は是非お読みください。
葦原中国は葦で覆われた中(ナーガ=龍蛇神)の国という意味です。大国主久々遅彦は奴国最後の大王スサノヲの子孫で、その大国主が国造りをしたのが宇佐市安心院町佐田地区だと突き止めています。卑弥呼の宮室が置かれていた安心院町三柱山三女神社の東約4キロの佐田神社に宮殿を置いて、米神山の西麓に佐田京石を置き、中腹にも巨石群を配置して、卑弥呼の死後の内戦に勝利して、大国主となったことを祖先神に感謝する祭祀を行ったようです。葦原を払って、一帯を稲穂がたわわに実る水田に変えたので、豊葦原の瑞穂の国と呼ばれました。(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v」

卑弥呼の死ですが、「魏志倭人伝」には死因が書いてはいませんが、以下のように推理しました。

纏向遺跡の狗奴国から倭国征討軍が派遣されましたが、丁度その情報を伊都国を王都とした倭国王難升米が耳にした時期に、北部九州一帯で日食がありました(247年3月24日の日没直前)。難升米王は、太陽神を祀る卑弥呼の霊力が、不謹慎で衰えたたために起こった不吉な前兆と考え、卑弥呼を部下に命じて殺したと推理しました。つまり、狗奴国ヤマトは直接殺したわけではないのですが、卑弥呼が祟るとしたら原因はヤマトにあると後の大和朝廷の人々は考えたようです。

狗奴国による倭国追討軍ですが、纏向遺跡で出土した外来土器の約半数が伊勢・東海の土器であることからから、主将は、狗奴国王卑弥弓呼の親族で有力者の尾張王だと推理しました。同様に山陰・北陸の土器が続きますので、副将は豊岡市久々比神社の祭神久々遅命(くくのちのみこと)である久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗)と推理しました。

すこし時代を遡りますが、日本海沿岸部で活発に活動していたムナカタ海人族の王となっていた先代狗古智卑狗が、二世紀後半から半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で列島に持ち込み、出雲・備後・丹後半島などの鍛冶工房で鉄製武器や農工具などの鉄製品を製造して、旧奴国勢に供給していました。奴国を滅ぼした恨みのある倭国に対しては、大分県の大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の集落を多数造り、菊池川流域に最前線基地を造って、佐賀平野、筑後平野などの倭国の集落を盛んに攻撃して難升米王を相当苦しめていたことが考古学的にも分かりました。これが倭国大乱です。

204年、遼東太守公孫氏が混乱していた半島を平定して帯方郡を置いたので、難升米王は軍事援助を要請して、勢いを取り戻し、前線基地を攻略して、先代狗古智卑狗を殺したと推理しました。これによって大活躍していた王を失って途方に暮れていた玄界灘を活動域とするムナカタ族の族長赤坂比古(アタカタスミを祖神とする宗像君・和邇臣の祖)が難升米王に懐柔され、卑弥呼(比売大神・宗像女神)による太陽神の神託によって倭国の政治運営を行うことで合意しました。女王に共立したという「魏志倭人伝」の記事は、下で述べる政治的な理由からの潤色だと考えています。これによって、対外交易が復活したので、赤坂比古傘下の九州中・南部・中国西部・四国西部などの勢力が倭国側に着き、狗奴国には鉄の供給が止まってしまい勢力が完全に逆転しました。

さらに238年、公孫氏が魏の太尉司馬懿に滅ぼされてしまったので、翌年の6月に難升米王が帯方郡に出かけ、太守劉夏と朝貢の件で打ち合わせます。司馬懿が魏の朝廷で権力を握るための談合です。つまり倭国を朝貢させた司馬懿の功績を朝廷の人々に大きく見せるために、倭国を帯方郡から東南万二千里も離れた、女王が統治するエキゾチックな東夷の大国であって、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略的に重要な位置に在るという設定で、大げさでデタラメな行程記事などを作ったと推理しました。倭人名や地名は難升米王が付けたと分かります。憎くたらしい狗奴国の狗古智卑狗は余りにも酷い名前ですよ。

さて、それで狗奴国側は倭国追討軍を送りましたが、到着した時に、卑弥呼が殺された赤坂比古勢は追討軍に投降したので、倭国王難升米は半島に逃亡したと考えています。ほとんど無傷で倭国を手に入れた尾張王は、狗奴国を裏切ってそのまま倭国王に立とうとしたことで、久々遅彦が率いるムナカタ海人族が反発し、内戦になりました。結局多くの兵士たちが倒れ、尾張王も戦死しました。墓は九州では珍しい、九州最古級の前方後方墳である鳥栖市赤坂古墳に埋葬されました。恐らく赤坂比古の領地でしたので、赤坂比古が直接、尾張王を討ち取ったものと推理できます。

赤坂比古は奈良県和邇座赤坂比古神社にイチキシマヒメ卑弥呼と共に祀られています。四世紀後半頃築造とされる東大寺山古墳に、公孫氏が難升米王の先代倭国王に与えた中平紀年銘大刀が副葬されていますので、被葬者は赤坂比古の子孫の日触使主(ひふれのおみ)と推理しています。実はこの名前は藤原不比等が強権で変えさせたもので、本当は日蝕使主(ひはえのおみ)の可能性が高いと思います。日食が原因で殺された卑弥呼に因む名前を貰ったのでしょう!(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆記紀神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )





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大谷さんは日高見国の王子だったの?!(@_@)?

2023-12-12 22:14:37 | 古代史
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この記事のタイトルですが、スポーツライター武田薫氏の「スポーツ時々放談 大谷翔平は「日高見の王子」だった?」(日刊ゲンダイ 2023/07/29)を読んだのか?このタイトルが頭の隅に残っていたようです(;^ω^)。

いくつか気づいたことを追加していますので、よろしければご参照ください(;^ω^)

大リーガー大谷翔平選手のドジャーズ移籍は世界中の話題になっています。契約金も史上最高ですが、彼の人格を称賛する声が日増しに高まっているようで、同じ日本人として、誇らしく、嬉しい限りです。伝統ある大リーグのやり方まで彼によって変えられ、低迷していた野球人気を盛り返すことができたので、多くのファンや関係者から賞賛の嵐のようです。ある解説では、これで人種差別が完全になくなったという話もあり、従来パワーでは日本人は白人に勝てないという見方があったのを完全に払しょくしたようです。来期は二刀流は無理のようですが、これからも、怪我のないように大いに活躍してもらって、毎年優勝を勝ち取って欲しいと思います。まだ早いですが、野球殿堂入りして野球神社の祭神になるでしょう!



さて、この記事のタイトルですが、日高見国というのは御存じでしょうか?

日高見国(ひたかみのくに/ひだかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。とwiki「日高見国」にあります。

また「日本歴史大辞典」によれば、「北上川という名前は、「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている」とあります。

大谷選手の出身校花巻東高校の東側2・3kmのところにその北上川が流れています。高校から約20km南の奥州市に日高神社があります。奥州市が大谷選手の出生地とありました。祭神は天御中主神ほか七柱とあり、別名「日高妙見」とありましたので、「お~!」と思わず声が出ました。また、後で述べます。社伝によると「創建は弘仁元年(810年)に第52代嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。この地の首魁であったアテルイが降服し、延暦21年(802年)に胆沢城が坂上田村麻呂によって造営されてから8年後の創建となり、日高見国の信仰を継承する形で中央政府の神々を祀る胆沢鎮守府の神社にされてきたと推測されている。」とあります。

日高見国が最初に登場する文献は「日本書紀」ですが、日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」景行天皇紀にも『二十七年春二月十二日、武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国の田舎の中に、日高見国(ひたかみのくに)があります。その国の人は、男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすベて蝦夷(えみし)といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」と言った。』とあり、また、四十年「冬十月二日、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は出発された。(中略)日本武尊は、上総から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷の支配地に入った。蝦夷の首領である島津神(シマツカミ)、国津神(クニツカミ)たちが、竹水門(たけのみなと)にたむろして防ごうとした。(中略)その首領を捕虜として、手下にされた。蝦夷を平定して日高見国から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになった。」とあるので、日高見国は陸奥国の竹水門あたりと言えます。竹水門が多賀湊という説があり、現在の塩釜市七ヶ浜町になります(注0)(2023.12.14 赤字追加)

しかし、石巻市桃生町に日高見神社があり、祭神は天日別尊、天照大神、日本武尊、武内宿禰尊の四柱です。日本武尊が入っていますが、日本書紀で本当の建国の主役である大国主を隠すために創作された悲劇の英雄です。「国譲り神話の史実?」で説明しましたが尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)をモデルにした架空の人物です。しかし実在人物の建稲種命は東国遠征の途中、駿河湾で溺死した伝承がありますが、考古学の成果から沼津市で在地の勢力との戦闘で流れ矢に当たって戦死したと推理して、古墳時代初頭の大型の前方後方墳高尾山古墳に埋葬されたと考えています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。ですのでこの地に来たのは建稲種命の跡を継いだ尾張王尾綱根命ではないかと考えています。そして、天照大神は伊勢神宮内宮の祭神ですが、別名天照皇太神ですから初代応神天皇の本当の父を意味し、その正体は武内宿禰と同じで大国主なのです(注1)。

そして主祭神天日別尊ですが、『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征に従って紀伊国熊野村から菟田下県に到って、天皇から東方の村を平らげるよう勅命を受けて到着すると伊勢津彦という神がいた。天日別命は「汝の国を天孫に献上するかと問うと、伊勢津彦は吾はこの国を求め居住して久しい。敢えて命令を聞かないと答えた。そこで、天日別命は兵を起こして伊勢津彦を殺そうとしたため、伊勢津彦は恐れて吾は国を悉く天孫に献上しよう。吾は敢えて居ることもないと言った。とwiki「天日別命」にあります。どこかで見たシーンですね。そうです、記紀の国譲り神話の場面を再現したものになっています。伊勢津彦が大国主、天日別命がタケミカズチ神こと尾張王建稲種命です。ということであれば、尾張勢がこの地の大国主の傘下を平らげた史実を示唆しています。

だとすると、この地の神社に大国主の傘下が祀っていた神様が居るはずです。日高見神社(石巻市桃生町)の宮司大和さんによると北上川の名前の元は「来神(きたかみ)川」だそうです。来た神というのはタケミカズチではなく、日高見国を支配する神です。海からやってきて北上川を上って来た神でしょう。

だったら河口に行ってみましょう!登米市北上川歴史公園で流れが二つに分かれます。現在は東側の流れが北上川、西側が旧北上川と呼ばれています。その旧北上川を下ると石巻市街を抜けて海に出ます。しかしその河口よりも海岸を約2km東に行ったところから約2km砂浜が続き万石浦の入り口に石巻市長浜町があり、小さな魚港があります。現在は渡波港(わたのはこう)ですが以前は長浜港の名前だったようです。砂浜は地図に長浜とありました。長浜海岸の北側の低湿地帯の浜曽根(はまそね)の先が黄金浜(こがねはま)という地名で、「古語で黄金は「くがね」、鉄は「くろがね」。砂鉄が多い砂浜「くろがねはま」が「こがねはま」に転化したと考えられる。(木村敏郎著『渡波以呂波歌留多』)」と「渡波(わたのは)事典」(p.3)にありました(;^ω^)(2023.12.14 青字追加)

その北側約200mに伊去波夜和氣命神社(いこはやわけ(わき)のみことじんじゃ)という神社があります。祭神は猿田彦神、武甕槌神、経津主神、天照皇大神、倉稲魂命(豊受大神)の五柱を祀る。これらの神々の総称が『伊去波夜和氣命』だという。猿田彦神と天照皇大神は大国主で、倉稲魂命(豊受大神)は大国主の妃台与、残りの二柱武甕槌神、経津主神は日高見神社と同じ国譲りさせた神ですが、これらの祭神は、寛政八年(1897年)に、ここから約6km北側の石巻市水沼の同名の神社から遷座したようです。



ここは古くは「浜大明神」と呼ばれており、現在も通称は明神社です。そして境内に祭神を素戔嗚尊とする八雲神社がありますから、ここが長浜大明神、つまり国引き神話の八束水臣津奴野命、略称八束命で神仏習合して妙見菩薩、正体は海神豊玉彦、を祀っていたのだと思います(詳細は「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?(;´Д`)」参照)。先ほどの奥州市の日高神社も別名日高妙見でした。北上川を溯って来た神が八束命で、主に北上川流域が日高見国でいいと思います。実際に宮城県登米地区を含め北上山地では砂金の鉱脈や含金石英脈鉱床があります(注2)。八束命が部下の江南系の白水郎(あま)アズミ族を連れて、金鉱脈に伴う辰砂を採掘していたのかも知れません(注3)。

奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した常陸国風土記では茨城県信太郡(しだぐん)を日高見国と呼んだとあるようですが、上で見たとおり、藤原氏が必死で八束命隠ぺい工作を行っていますから、日本書紀の後に作成された常陸国風土記でも誤魔化すように作られたと考えていいと思います。

穂高見命を豊玉彦(八束命)の子としていますが、漢字を与える前の呼び名ですので、「ほだかみ(穂高見)」と「ひだかみ(日高見)」とは同一人物と考えていいと思います。また「」は霊あるいは魂という意味と考えると、日高や穂高の霊魂ということになり、さらにこれらは飛騨、日田に調子をそろえるための接尾語の「か」を加えたものだと考えることができます(注4)。あるいは単に、「ひだ、ひた、ほた、ほだ」に「かみ(神)」を付け加えたものかもしれません。つまり、「ひだ、ひた、ほた、ほだ」が八束命(豊玉彦)の呼び名だったのではないかと考えられます。八束命は木の霊五十猛命(イタケル)の子ですので、親の霊力を引き継ぐと考えて、意味的には『ほた 【榾】:たきぎにする木の切れ端。そだ。「ほだ」とも。[季語] 冬。』のことなのかも知れません。

そして豊玉彦の子を古事記では宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)としていますので、日本書紀で隠された史実を藤原氏に気付かれないように暴露するという古事記編さんの目的を考えると、穂高見命と豊玉彦が同一であることを暗に示していると考えられますね(注5)(^_-)-☆。

刮目天の仮説から日高見国の謎を解くことができました。次はあっと驚く、タメゴロ~じゃないですが、今年最後の、古代史のさらに大きな謎を解く予定ですので、現在準備中です!ここまで疑問点があるかと思いますので、遠慮なくコメントしてください!どうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)

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(注0)竹水門(たけのみなと)は高野の湊のことでしょう。高野(たかの)は高野御子と呼ばれた大国主のことだと突き止めています。弘法大師空海が修行場として高野山を開きますが、その縁起に登場します。大国主に因む地名を隠すために高野を変えた豊岡市竹野町と丹後半島の京丹後市竹野神社や竹野川があります。地元の大国主ゆかりの方たちが藤原政権に反発したのだと思いますが、現在も「たかの」と呼んでいるようです。ですから竹水門はやはり大国主の祖父八束命に因む長浜の湊、つまり現在の渡波(わたのは)港のことだと考えられます。(2023.12.14 追加)

(注1)Web歴史街道「天照大神は、本当は「男神」だった?…天皇家の最高神をすり替えた『日本書記』」関裕二(2022年06月23日 更新)および「武内宿禰はユダヤ人なのか?」(2023-02-02 10:46:25)参照

(注2)滝沢文教他3名「登米地域の地質」 地域地質研究報告 秋田(6)第79号 地質調査所 平成2年、p.102

(注3)「5萬分の1地質図幅説明書 人首」秋田― 第 43号 地質調査所昭和29年、p.29
蛭子館鉱山 18),50) 長野川西側の夕日山南東麓にある。古くから水銀を製錬したものらしい。昭和 18 年,関島吉が鉱業権者となったが実績はない。
鉱床は登米粘板岩層の粘板岩中に胚胎する含金石英脈で,金のほかに辰砂を含み,東北唯一の水銀鉱山であった。


(注4)かの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
接尾語:物の性質・状態を表す語などに付いて、形容動詞の語幹を作る。「しづか」「さやか」

(注5)ただ、古事記では八束命を淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とし、その子で大国主の父、先代久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)を天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)としています。「ほた、ほだ」が冬の季語になっており、ひょっとしたら古事記の暗示というのは間違いで、穂高見命・日高見命は大国主の父のことなのかも知れません。その場合でも父王の霊魂を継承しているので長浜明神と表示することもあり得ます。丁度上の明神社の境内社八雲神社の祭神を八束命ではなくスサノヲにしたことと考え方は同じです。首長霊継承の意味に気づくまでは、親子や祖先であっても別々の人格と思い込みましたので、いろいろと悩みました。今回は取り合えず、日高・日高見を八束命豊玉彦のことと考えておきます(#^.^#)


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最先端の分子生物学も歴史学の代用にはならない!(^_-)-☆

2023-12-11 20:15:32 | 古代史
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この動画で紹介された優れた研究によって、日本人の起源史が明らかになりつつあります。これは素晴らしいことですので、事実に基づき考えねばならない歴史学という立場からのコメントをさせていただきました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


歴史とは分子生物学や考古学だけでは分からない世界です。

つまり、誰が、いつ何をしたという記述がないと歴史にはなりません。

ですから斎藤先生のDNA研究は歴史学の科学的な根拠を与えるもののひとつなのです。

歴史学とはこれらの客観的な事実に加えて、文献学や民俗学も考慮した推論ということです。

そういう観点で、歴史を探求して、3世紀のヤマト王権の成立過程を事実から推理し、蓋然性の高い仮説が得られています。ちなみに邪馬台国の場所や卑弥呼の正体も分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。よろしければ刮目天の古代史をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )

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国譲り神話の史実は?(^_-)-☆

2023-12-09 05:46:42 | 古代史
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2023-12-08 22:18:46に記事にしましたが、丁度国譲り神話をテーマにした動画を見つけましたので概要をコメントしました。後ほどご覧ください。また、応神天皇の即位年について文末近くで紫字で追加しました。よろしくお願いします。

2021-02-18 14:24:49に記事にしましたが、その後いくつもの発見をして内容を少し改訂しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

前回のブログから藤原氏が氏神とする春日大社の四柱の春日神の正体を見ていってます。もう一度述べますが、天児屋根命 (アメノコヤネ)が中臣氏・藤原氏の祖神で、比売神が天児屋根命の妻ということになっています。春日大社の創建については下のとおりです。

奈良・平城京に遷都された和銅3年(西暦710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]とする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(西暦768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命(タケミカズチ)、香取の経津主命(フツヌシ)と、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)に祀られていた天児屋根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

卑弥呼の霊がこの比売神こそ宇佐八幡の比売大神卑弥呼だと伝えてくれていました。考えてみれば、アメノコヤネは、『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神に岩戸から出てもらう働きをし、ニニギの天孫降臨に際しても随伴したと書かれていますからヤマト建国の功労者です。その妻も祀るのであれば、彼女にも立派な業績があったと書かれるはずです。その妻の名前も出さないのですから、名前を出せない誰か別の重要な女性を隠して妻として祀ったと分かりますね(;一_一)

それで本題ですが、高天原は大国主に何度も国譲りをするように働きかけていたのですが、すべて失敗に終わりました。そこで、日本書紀では高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、最初、フツヌシを派遣すべきだという意見があったのですが、タケミカズチが自ら志願しました。以下、日本書紀にある大国主(大己貴神)の国譲りの場面を日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」より引用します、ルビの部分など若干変更しています。



二柱の神は、出雲の国の五十田狭(いたき)の小汀(おはま)に降りられて、十握(とつか)の剣を抜いて、逆さに大地に突き立てた。そして、その先に膝を立てて座り、大己貴神(おおなむちのみこと)に尋ねた。

「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」

そのとき大己貴神は、「私の子どもに相談して、御返事いたしましょう」と答えた。

このとき、その子である事代主神(ことしろぬしのかみ)は、出雲の美保の崎(みほのさき)にいて、釣りを楽しんでいた。あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。

そこで、熊野の諸手船(もろたぶね)に、使者として稲背脛(いなせはぎ、諾否を問う係)を乗せて向かわせた。
そして、高皇産霊尊の言葉を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。

そのとき、事代主神は使者に対し、「今回の天つ神(あまつかみ)の言葉には、父上は抵抗しない方が良いでしよう。私も仰せに逆う ことは致しません」と言った。そして、波の上に幾重もの青柴垣(あおふがき)をつくり、船の側板を踏んで、 海中に退去してしまわれた。使者は急ぎ帰って、これを報告した。

大己貴神は、その御子の言葉を二柱の神に告げ、「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。

そこで国を平定したときに用いられた広矛を、二柱の神に奉り、「私はこの矛をもって、事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界(ゆうかい、死後の世界のこと)に参ります」と言い、言い終ると共に隐れてしまわれた。


ところが古事記では、大国主の子は事代主の他に力自慢の建御名方神(タケミナカタ、「先代旧事本紀」では事代主の弟)が出てきてタケミカズチに勝負を挑みます。しかし、タケミカズチに敵わず、諏訪の地に逃げて、そこから出ない約束で許されたとあります。タケミナカタが諏訪大社の祭神ですが、この話は別の記事でします。そして大国主は「私の子供の二柱の申すとおりに、私は背きません。この葦原中国(あしはらなかつくに)は、仰せの通りに、ことごとく献上致しましょう。ただし、私の住む所は、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように、地底の磐石(ばんじゃく)に宮柱を太く立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた神殿をお造り下さい。そうすれば、私は遠い遠い幽界に隠退しましょう。また、私の子供の百八十神(ももやそかみ)たちは、八重事代主(やえことしろぬし)が、神々の前後に立ってお仕え申したならば、背むく神はありません」と言った。とあります(古事記・現代語訳「上巻」葦原中国の平定より引用)。

出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、平成12年・13年の発掘調査で出土した直系1.4mの宇豆柱を3本を金輪で束ねていたようで、社伝どおりの建物が存在したことが分かりました(笹生衛「出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る」國學院大學メディア2018年2月28日更新)。ということは、国譲り神話は実際に起こった史実をもとに創作されたことが証明されたということです。これ以外にも、三輪山大物主大神の祭祀や天照大御神を皇居から伊勢神宮に遷す話などを考えても大国主が実在人物で、大国主の支配した国がヤマトに奪われた話は史実だと分かります。

魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだ247年の後に、女王に替わって男王が立ったが、国中が従わず、千人くらいが殺されるまで戦った結果、卑弥呼の宗女の台与を立ててようやく国が収まったとあります。これが史実であることは卑弥呼の死の前後の考古学の成果から推理できました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

少し時代を戻しますが、狗奴国の大王卑弥弓呼は、奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊(スサノヲ)が殺されましたが、滅亡した奴国を吉備で再興し、ヤマト政権の基礎を築いた人物がスサノヲの弟ニギハヤヒだと推理しています。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)ですので、宋史王年代紀第19代王天照大神尊と推理しました。倭国王難升米は師升王の一族で、倭国大乱で大活躍していた狗奴国の官狗古智卑狗が戦死して、玄界灘を活動域として半島南部の鉄を狗奴国勢に供給していたムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)を懐柔し、狗奴国と対立していました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

狗奴国王は鉄の供給を止められて劣勢になり、勢力を盛り返すために各地に散っていた旧奴国の勢力を纏向に王宮を造り呼び寄せて、祈祷などを行い、倭国打倒の計画を練りました。倭国征討軍の主将と推理した尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)はニギハヤヒを祖とする一族で、岡山市の伊福部連(尾張連の一族)の居住地と言われる場所に尾針神社があります。纏向遺跡で発掘された外来土器の半分ほどが東海地方のものですので、尾張王が狗奴国側の有力者だったと考えられます。



また、スサノヲの王子イタケルの子孫の出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久久比神社の祭神、棟上げ式の祭神でイタケルと同じ木霊)は代々、日本海沿岸を主な根拠地とする縄文系ムナカタ海人族などを配下にして、半島南部の鉄素材を仕入れて、出雲や丹後半島などで鉄製品を作り狗奴国側に供給し、ニギハヤヒ直系の狗奴国(旧奴国)の大王を助けた人物です。魏志倭人伝では王よりも前に登場する狗奴国の官狗古智卑狗です。纏向遺跡の外来土器では東海地方の次に多いのが山陰・北陸のものなのです。



狗奴国による倭国討伐軍の史実が、記紀神話では仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。神の神託を疑い突然崩御した仲哀天皇が倭国追討軍の主将で、尾張王乎止与命をモデルにしたのです。神功皇后は近江・北陸を支配下にしていた縄文海人ムナカタ族の族長息長宿禰王(大国主の国造りのパートナー少彦名、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺墓の被葬者と推定)の娘で13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)です。姫巫女として従軍していた模様です。そして、神功皇后の傍らで寄り添っていた白髪の老人武内宿禰が久々遅彦だと推理しました。武内宿禰が三百歳を超えるということは、久々遅彦が代々出雲・丹波を治める王の襲名だったということです。これは偉大な祖先の名前を首長が引き継ぐことにより祖霊と霊的に一体になって偉業を達成できるという首長霊信仰によるものです。

記紀では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子としていますが、本当の父は大国主久々遅彦(倭国大乱で戦死した先代狗古智卑狗の子)だと推理しています。日本書紀の仲哀天皇は、その父ヤマトタケルが亡くなって38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話と分かります。つまり、仲哀天皇もヤマトタケルも、どちらも架空の人物なのです。ヤマトタケルは大国主久々遅彦が日本建国の真の主役であることを隠すために登場させた架空の英雄だったのです。

そして仲哀天皇の祖父でヤマトタケルの父の景行天皇についても、本当は仲哀天皇の後の話だと突き止めています。三世紀後半のヤマト政権が大国主と台与を殺して倭国を奪った際のヤマト勢の進軍ルートが、景行天皇の九州征伐の伝承に一致することが分かりました。これを裏付けるように景行天皇のルートから鉄鏃・銅鏃が出土しています(注)。つまり、景行天皇は仲哀天皇の祖父ではなく、史実を誤魔化すために登場させた仲哀天皇と同様、架空の天皇なのです。そしてその正体は尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)だったのです。父乎止与命の仇討ちで九州遠征を行い、苦難の末に成功させたのです。(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。建稲種命は平定した九州を卑弥弓呼大王の配下の物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋します。大王は直ぐに、建稲種命に大国主の傘下を鎮撫する命令を出します。建稲種命は東海遠征の途中で戦死して沼津市高尾山古墳に葬られました(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。後を継いだ尾張王がほとんどの地域を平定し、ヤマトが列島を統一してヤマト政権が生まれました。




これらの事件は倭女王が西晋に朝貢した266年から西晋によって呉が滅ぼされた280年までの話です。この日本建国の戦いは、記紀では崇神天皇の四道将軍や景行天皇の九州遠征、仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后による応神天皇即位までの約350年の話として引き延ばして誤魔化していたのです。ただし、大国主と台与の子ホムダワケ(崇神記の大田田根子)は大国主の祟りによってヤマト(纏向遺跡)に呼ばれ、両親の祭祀王とされました。従って、初代応神天皇の即位年は、古事記の崩年干支の記述から推理すると293年となります(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」参照)。(2023.12.9 青字追加)



藤原不比等はこの日本建国の史実が不都合なので、これを隠すために国譲り神話を創作したのです。神話の英雄タケミカズチが尾張王建稲種命です。尾張王の史実を隠すために、大国主に殺された乎止与命の話は、イザナミが火の神カグツチを生んだために死んだのでイザナギに斬られる神話としました。秋葉神社の祭神ですので、愛知県や静岡県西部に数多く見られます。尾張王の史実は徹底的に隠されていますが建稲種命の仇討ちの話は、子供向けの民話で現代まで語り継がれています(詳細は、「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

ですから、日本建国の過程について、記紀の話でそのまま仮説を作っても、事実、つまり考古学の成果とは合致しないのです。

ということで話が長くなりましたが、国譲り神話で藤原氏の祖神たちの活躍は尾張氏(建稲種命)・物部氏(フツノミタマ)のものを、言葉は悪いですが、ちゃっかりと盗んだのです。でも、申し訳ないということで二柱の神(タケミカズチ・フツヌシ)を藤原氏の氏神としてしっかりと祀っているのだと分かります。ご苦労様です(;^ω^)





(注)この時代の銅鏃は、鉄鏃が普及していない東海地方に見られるものですから景行天皇も尾張王だと推理できます。愛知県長久手市には景行天皇社がありますから多分この尾張王建稲種命を祀ったものでしょう。豊田市にある猿投神社(さなげじんじゃ)も元の祭神がサルタヒコだっとwikiにあり、社名もサルタヒコを投げたということから、大国主サルタヒコを尾張王建稲種命(景行天皇)が討った史実を示唆するものでしょう。

また、福岡県東部から銅鏃が出土していないことから鉄鏃を使う別動隊が倭国中枢部の奴国(福岡市)・伊都国(糸島市)を襲った模様です。主力の尾張王建稲種命は、先に高良山に立て籠もった大国主を攻めて殺した後に、奴国・伊都国へ向かったと思われます。大国主の墓は久留米市祇園山古墳と比定しています。景行天皇は浮羽からヤマトに帰国していますが、別動隊と合流して台与を伊都国で追い詰めて殺したのかも知れません。台与は剣を持って立ち向かったので、男勝りの女傑神功皇后のモデルとされ、糸島市平原王墓の石棺の上に素環頭太刀が置かれたのです。この戦いの後に、物部氏が宗像周辺や筑紫平野を占領し続けた模様で物部系の地名が残っています。別動隊は物部勢でしょう。ですから、尾張勢はヤマトに凱旋し、その後故郷に帰ったものと考えられます。


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