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【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?(;´Д`)

2023-12-07 11:45:54 | 古代史
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前回の動画に続き、とてもいい内容の動画が出てきましたので、早速コメントしました。別の方からも動画にコメントがありましたので、議論しました。よろしければ、どうぞ(#^.^#)


刮目天
いい解説をありがとうございます。前回の動画にもコメントしましたが、これだけ長い間、多くの人が邪馬台国を見つけようとしても確定していないということは、魏志倭人伝の内容に何らかの誤魔化しがあると考えてもいいと思います。そのヒントはこの動画でも指摘されていました。

帯方郡から東南万二千里に女王が都とする邪馬台国があるという記述です。洛陽から大月氏国の首都カーピシーまで万六千三百七十余里で、その戸数十万戸と分かっています。そこで、邪馬台国が、洛陽から楽浪郡まで五千余里を加えて、万七千余里にあれば、司馬懿が合計十五万余戸の倭国の女王を朝貢させたその功績は曹真のものを越えられます。しかも魏のライバルの呉を東方海上から挟み撃ちできる位置としたので、邪馬台国は戦略的にも同等以上に重要な国になります。

曹真は直ぐに病死してその跡を継いだ曹爽が大将軍として魏の最大の実力者でしたが、司馬懿はそれと並ぶことができ、謀略で曹爽を追い落として魏の実権を握ったのです。

西晋の史官陳寿は西晋の基礎を築いた宣帝司馬懿を称揚するために魏志倭人伝を書いたのです。
陳寿は著作郎ですが、勝手に文章は作らないと考えていいと思います。目的に合う文章を宮廷の書庫から探して撰定し史書を編纂するのが仕事です。ですから、魏志倭人伝には司馬懿が書かせた卑弥呼を絶賛する詔書をほぼ全文書いています。司馬懿は少帝曹芳の太傅(後見人)で録尚書事に就き、詔勅や人事まで口出しできる立場になっていました。

司馬懿は明帝が帯方郡太守にした劉昕に替えて、部下の劉夏を太守にしました。劉夏は、倭国王に朝貢を促しました。景初三年(239年)6月に大夫難升米が朝貢のために派遣されましたが、難升米は約半年帯方郡に滞在しましたから、その間に劉夏と談合して司馬懿に都合の好い邪馬台国への行程記事などを創ったと考えられます。しかも、倭国を女王が支配する大国としたものと考えると、邪馬台国問題の謎が解けます。

卑弥呼は人前に出ませんから、政治を補佐する男弟がいたとされていますので、男弟が二人の魏使と面会しています。しかも、二人目の張政は難升米に詔書を直接渡し、魏の正規軍の軍旗「黄憧」まで渡しているので、難升米が男弟とされた本当の倭国王だと分かります。ですから、二人の魏使は伊都国に居た倭国王難升米に面会すれば任務完了なのです。

ということで、劉夏が書かせた行程記事の内容が記録された最初の魏使梯儁の報告書を陳寿が見つけて行程記事などを書いたのだと分かります。

そこで倭国が、女王が統治する国というのも創作ですが、すべて創作とするのは考えにくいです。卑弥呼という漢字は難升米が書いたものですが、姫巫女あるいはヒメゴで実在人物と考えています。卑弥呼が居た場所が邪馬台国とされた場所です。これは卑弥呼が登場する前の倭国大乱の痕跡を発見して推理できます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。倭国大乱がなぜ起こり、卑弥呼の正体についても推理できます。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください(;^ω^)

@nnkk8888
15 時間前
魏志倭人伝の内容が信頼ができないのならば、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国があったともなかったとも、どこでも強弁できるようになるので議論そのものが無意味だと思います。
あと、畿内説の場合、魏志倭人伝の文章は信頼できず書いてある事はほぼ間違いだとするのに、墓の大きさの径百歩だけは正しいとするのが不思議です。


 @noel8446
しかも、あの記述なら円墳と考えるのが自然なのに
前方後円墳の円部分の事を言ってるんだ、と強引すぎ😂


 @user-nh4yb8zd6g
だから、議論そのものが無意味って事なんですよ。
アカデミズムの世界では考古学的アプローチで鉄器文化の研究を進める手法が主流で、魏志倭人伝はかなり前から問題にされてないです。
邪馬台国〇〇説は素人やテレビしか興味無いテーマで、ぶっちゃけどうでもいいんです。


 刮目天
すべてウソを書く理由があるのなら別ですが、この場合考えにくいです。書物には書き残す目的があり、書かれた内容を事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証すれば、誤魔化した部分が推理できますよ。詳しくは【刮目天の古代史】古代史を推理するをご参照ください(;^ω^)

 @hir-pk9fo
その通りで一応信じてるだけで卑弥呼は居なかったかもしれないとも思ってます


 刮目天
@hir-pk9fo さん 千人の侍女に囲まれて多くの兵士によって厳重に護衛されて大集落に居る倭国の女王は現在までの考古学の成果からは見つかりません。でも女王卑弥呼のモデルとなる人物はいたかもしれません。

纏向遺跡の箸墓は4世紀築造ですから卑弥呼のものではないです。ヤマトトビモモソヒメの伝承も卑弥呼に合致しません。

北部九州説では糸島市平原遺跡の女王墓が超豪華な副葬品から卑弥呼の墓の候補ですが、径百余歩の円墳ではないし、大規模な集落ではないので該当しません。

吉野ヶ里遺跡には卑弥呼の墓とよべるものがありません。

朝倉説の長田大塚古墳は魏志倭人伝にある規模の円墳ですが、これも三段築で時間をかけて作った4世紀から6世紀築造のものです。古墳の上にカグツチを祀る秋葉社がありますので、卑弥呼ではないです。

卑弥呼の墓に該当する日本最大の直径約150ⅿの巨大円墳「三柱山古墳」が宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の近くで見つかっています。宗像三女伸の降臨伝承地三女神社があります。不思議なことに二の鳥居の神額に二女神社とあるのです。地元では「さんみょうじんじゃ」と呼ばれています。「三は妙だ!女は少ない!」という謎かけだと分かりました。宇佐神宮の比売大神は宗像女神イチキシマヒメです。
ムナカタ海人族は倭国大乱期に沖ノ島経由で半島南部の鉄を出雲地方から狗奴国側に供給した人たちです(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)から(その5)を参照」。

イチキシマヒメは族長赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の姫巫女で太陽神のお告げによって重要な判断をしていたようです。「三柱山古墳」の周囲にはいろいろと卑弥呼に関わる遺跡や伝承がありますから、最有力の候補ですよ。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」を参照してください(;^ω^)

【参考記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
倭国大乱から日本建国の戦いまでの痕跡を発見しています。
ヤマト王権成立過程はこれらの事実から推理しました(^_-)-☆

【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
邪馬台国問題解明の哲学・考え方はこちらでどうぞ!


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