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国譲り神話の史実は?(^_-)-☆

2023-12-09 05:46:42 | 古代史
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2023-12-08 22:18:46に記事にしましたが、丁度国譲り神話をテーマにした動画を見つけましたので概要をコメントしました。後ほどご覧ください。また、応神天皇の即位年について文末近くで紫字で追加しました。よろしくお願いします。

2021-02-18 14:24:49に記事にしましたが、その後いくつもの発見をして内容を少し改訂しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

前回のブログから藤原氏が氏神とする春日大社の四柱の春日神の正体を見ていってます。もう一度述べますが、天児屋根命 (アメノコヤネ)が中臣氏・藤原氏の祖神で、比売神が天児屋根命の妻ということになっています。春日大社の創建については下のとおりです。

奈良・平城京に遷都された和銅3年(西暦710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]とする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(西暦768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命(タケミカズチ)、香取の経津主命(フツヌシ)と、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)に祀られていた天児屋根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

卑弥呼の霊がこの比売神こそ宇佐八幡の比売大神卑弥呼だと伝えてくれていました。考えてみれば、アメノコヤネは、『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神に岩戸から出てもらう働きをし、ニニギの天孫降臨に際しても随伴したと書かれていますからヤマト建国の功労者です。その妻も祀るのであれば、彼女にも立派な業績があったと書かれるはずです。その妻の名前も出さないのですから、名前を出せない誰か別の重要な女性を隠して妻として祀ったと分かりますね(;一_一)

それで本題ですが、高天原は大国主に何度も国譲りをするように働きかけていたのですが、すべて失敗に終わりました。そこで、日本書紀では高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、最初、フツヌシを派遣すべきだという意見があったのですが、タケミカズチが自ら志願しました。以下、日本書紀にある大国主(大己貴神)の国譲りの場面を日本書紀・日本語訳「第二巻:神代・下」より引用します、ルビの部分など若干変更しています。



二柱の神は、出雲の国の五十田狭(いたき)の小汀(おはま)に降りられて、十握(とつか)の剣を抜いて、逆さに大地に突き立てた。そして、その先に膝を立てて座り、大己貴神(おおなむちのみこと)に尋ねた。

「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。そこで、我ら二人を平定に遣わされた。 お前の心はどうか、お譲りするか、否か」

そのとき大己貴神は、「私の子どもに相談して、御返事いたしましょう」と答えた。

このとき、その子である事代主神(ことしろぬしのかみ)は、出雲の美保の崎(みほのさき)にいて、釣りを楽しんでいた。あるいは鳥を射ちに行っていたともいう。

そこで、熊野の諸手船(もろたぶね)に、使者として稲背脛(いなせはぎ、諾否を問う係)を乗せて向かわせた。
そして、高皇産霊尊の言葉を事代主神に伝え、その返事を尋ねた。

そのとき、事代主神は使者に対し、「今回の天つ神(あまつかみ)の言葉には、父上は抵抗しない方が良いでしよう。私も仰せに逆う ことは致しません」と言った。そして、波の上に幾重もの青柴垣(あおふがき)をつくり、船の側板を踏んで、 海中に退去してしまわれた。使者は急ぎ帰って、これを報告した。

大己貴神は、その御子の言葉を二柱の神に告げ、「私が頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましよう。もし私が抵抗したら、国内の諸神もきっと同じように戦うでしよう。今、私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」と言われた。

そこで国を平定したときに用いられた広矛を、二柱の神に奉り、「私はこの矛をもって、事を成し遂げました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私は幽界(ゆうかい、死後の世界のこと)に参ります」と言い、言い終ると共に隐れてしまわれた。


ところが古事記では、大国主の子は事代主の他に力自慢の建御名方神(タケミナカタ、「先代旧事本紀」では事代主の弟)が出てきてタケミカズチに勝負を挑みます。しかし、タケミカズチに敵わず、諏訪の地に逃げて、そこから出ない約束で許されたとあります。タケミナカタが諏訪大社の祭神ですが、この話は別の記事でします。そして大国主は「私の子供の二柱の申すとおりに、私は背きません。この葦原中国(あしはらなかつくに)は、仰せの通りに、ことごとく献上致しましょう。ただし、私の住む所は、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように、地底の磐石(ばんじゃく)に宮柱を太く立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた神殿をお造り下さい。そうすれば、私は遠い遠い幽界に隠退しましょう。また、私の子供の百八十神(ももやそかみ)たちは、八重事代主(やえことしろぬし)が、神々の前後に立ってお仕え申したならば、背むく神はありません」と言った。とあります(古事記・現代語訳「上巻」葦原中国の平定より引用)。

出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、平成12年・13年の発掘調査で出土した直系1.4mの宇豆柱を3本を金輪で束ねていたようで、社伝どおりの建物が存在したことが分かりました(笹生衛「出雲大社の謎 古代に存在した巨大神殿のルーツに迫る」國學院大學メディア2018年2月28日更新)。ということは、国譲り神話は実際に起こった史実をもとに創作されたことが証明されたということです。これ以外にも、三輪山大物主大神の祭祀や天照大御神を皇居から伊勢神宮に遷す話などを考えても大国主が実在人物で、大国主の支配した国がヤマトに奪われた話は史実だと分かります。

魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだ247年の後に、女王に替わって男王が立ったが、国中が従わず、千人くらいが殺されるまで戦った結果、卑弥呼の宗女の台与を立ててようやく国が収まったとあります。これが史実であることは卑弥呼の死の前後の考古学の成果から推理できました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

少し時代を戻しますが、狗奴国の大王卑弥弓呼は、奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊(スサノヲ)が殺されましたが、滅亡した奴国を吉備で再興し、ヤマト政権の基礎を築いた人物がスサノヲの弟ニギハヤヒだと推理しています。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)ですので、宋史王年代紀第19代王天照大神尊と推理しました。倭国王難升米は師升王の一族で、倭国大乱で大活躍していた狗奴国の官狗古智卑狗が戦死して、玄界灘を活動域として半島南部の鉄を狗奴国勢に供給していたムナカタ海人族赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)を懐柔し、狗奴国と対立していました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

狗奴国王は鉄の供給を止められて劣勢になり、勢力を盛り返すために各地に散っていた旧奴国の勢力を纏向に王宮を造り呼び寄せて、祈祷などを行い、倭国打倒の計画を練りました。倭国征討軍の主将と推理した尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)はニギハヤヒを祖とする一族で、岡山市の伊福部連(尾張連の一族)の居住地と言われる場所に尾針神社があります。纏向遺跡で発掘された外来土器の半分ほどが東海地方のものですので、尾張王が狗奴国側の有力者だったと考えられます。



また、スサノヲの王子イタケルの子孫の出雲・丹波王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久久比神社の祭神、棟上げ式の祭神でイタケルと同じ木霊)は代々、日本海沿岸を主な根拠地とする縄文系ムナカタ海人族などを配下にして、半島南部の鉄素材を仕入れて、出雲や丹後半島などで鉄製品を作り狗奴国側に供給し、ニギハヤヒ直系の狗奴国(旧奴国)の大王を助けた人物です。魏志倭人伝では王よりも前に登場する狗奴国の官狗古智卑狗です。纏向遺跡の外来土器では東海地方の次に多いのが山陰・北陸のものなのです。



狗奴国による倭国討伐軍の史実が、記紀神話では仲哀天皇の熊襲征伐の話になっています。神の神託を疑い突然崩御した仲哀天皇が倭国追討軍の主将で、尾張王乎止与命をモデルにしたのです。神功皇后は近江・北陸を支配下にしていた縄文海人ムナカタ族の族長息長宿禰王(大国主の国造りのパートナー少彦名、吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺墓の被葬者と推定)の娘で13歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)です。姫巫女として従軍していた模様です。そして、神功皇后の傍らで寄り添っていた白髪の老人武内宿禰が久々遅彦だと推理しました。武内宿禰が三百歳を超えるということは、久々遅彦が代々出雲・丹波を治める王の襲名だったということです。これは偉大な祖先の名前を首長が引き継ぐことにより祖霊と霊的に一体になって偉業を達成できるという首長霊信仰によるものです。

記紀では応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子としていますが、本当の父は大国主久々遅彦(倭国大乱で戦死した先代狗古智卑狗の子)だと推理しています。日本書紀の仲哀天皇は、その父ヤマトタケルが亡くなって38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話と分かります。つまり、仲哀天皇もヤマトタケルも、どちらも架空の人物なのです。ヤマトタケルは大国主久々遅彦が日本建国の真の主役であることを隠すために登場させた架空の英雄だったのです。

そして仲哀天皇の祖父でヤマトタケルの父の景行天皇についても、本当は仲哀天皇の後の話だと突き止めています。三世紀後半のヤマト政権が大国主と台与を殺して倭国を奪った際のヤマト勢の進軍ルートが、景行天皇の九州征伐の伝承に一致することが分かりました。これを裏付けるように景行天皇のルートから鉄鏃・銅鏃が出土しています(注)。つまり、景行天皇は仲哀天皇の祖父ではなく、史実を誤魔化すために登場させた仲哀天皇と同様、架空の天皇なのです。そしてその正体は尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)だったのです。父乎止与命の仇討ちで九州遠征を行い、苦難の末に成功させたのです。(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」参照)。建稲種命は平定した九州を卑弥弓呼大王の配下の物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋します。大王は直ぐに、建稲種命に大国主の傘下を鎮撫する命令を出します。建稲種命は東海遠征の途中で戦死して沼津市高尾山古墳に葬られました(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。後を継いだ尾張王がほとんどの地域を平定し、ヤマトが列島を統一してヤマト政権が生まれました。




これらの事件は倭女王が西晋に朝貢した266年から西晋によって呉が滅ぼされた280年までの話です。この日本建国の戦いは、記紀では崇神天皇の四道将軍や景行天皇の九州遠征、仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后による応神天皇即位までの約350年の話として引き延ばして誤魔化していたのです。ただし、大国主と台与の子ホムダワケ(崇神記の大田田根子)は大国主の祟りによってヤマト(纏向遺跡)に呼ばれ、両親の祭祀王とされました。従って、初代応神天皇の即位年は、古事記の崩年干支の記述から推理すると293年となります(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」参照)。(2023.12.9 青字追加)



藤原不比等はこの日本建国の史実が不都合なので、これを隠すために国譲り神話を創作したのです。神話の英雄タケミカズチが尾張王建稲種命です。尾張王の史実を隠すために、大国主に殺された乎止与命の話は、イザナミが火の神カグツチを生んだために死んだのでイザナギに斬られる神話としました。秋葉神社の祭神ですので、愛知県や静岡県西部に数多く見られます。尾張王の史実は徹底的に隠されていますが建稲種命の仇討ちの話は、子供向けの民話で現代まで語り継がれています(詳細は、「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

ですから、日本建国の過程について、記紀の話でそのまま仮説を作っても、事実、つまり考古学の成果とは合致しないのです。

ということで話が長くなりましたが、国譲り神話で藤原氏の祖神たちの活躍は尾張氏(建稲種命)・物部氏(フツノミタマ)のものを、言葉は悪いですが、ちゃっかりと盗んだのです。でも、申し訳ないということで二柱の神(タケミカズチ・フツヌシ)を藤原氏の氏神としてしっかりと祀っているのだと分かります。ご苦労様です(;^ω^)





(注)この時代の銅鏃は、鉄鏃が普及していない東海地方に見られるものですから景行天皇も尾張王だと推理できます。愛知県長久手市には景行天皇社がありますから多分この尾張王建稲種命を祀ったものでしょう。豊田市にある猿投神社(さなげじんじゃ)も元の祭神がサルタヒコだっとwikiにあり、社名もサルタヒコを投げたということから、大国主サルタヒコを尾張王建稲種命(景行天皇)が討った史実を示唆するものでしょう。

また、福岡県東部から銅鏃が出土していないことから鉄鏃を使う別動隊が倭国中枢部の奴国(福岡市)・伊都国(糸島市)を襲った模様です。主力の尾張王建稲種命は、先に高良山に立て籠もった大国主を攻めて殺した後に、奴国・伊都国へ向かったと思われます。大国主の墓は久留米市祇園山古墳と比定しています。景行天皇は浮羽からヤマトに帰国していますが、別動隊と合流して台与を伊都国で追い詰めて殺したのかも知れません。台与は剣を持って立ち向かったので、男勝りの女傑神功皇后のモデルとされ、糸島市平原王墓の石棺の上に素環頭太刀が置かれたのです。この戦いの後に、物部氏が宗像周辺や筑紫平野を占領し続けた模様で物部系の地名が残っています。別動隊は物部勢でしょう。ですから、尾張勢はヤマトに凱旋し、その後故郷に帰ったものと考えられます。


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