刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

大谷さんは日高見国の王子だったの?!(@_@)?

2023-12-12 22:14:37 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

この記事のタイトルですが、スポーツライター武田薫氏の「スポーツ時々放談 大谷翔平は「日高見の王子」だった?」(日刊ゲンダイ 2023/07/29)を読んだのか?このタイトルが頭の隅に残っていたようです(;^ω^)。

いくつか気づいたことを追加していますので、よろしければご参照ください(;^ω^)

大リーガー大谷翔平選手のドジャーズ移籍は世界中の話題になっています。契約金も史上最高ですが、彼の人格を称賛する声が日増しに高まっているようで、同じ日本人として、誇らしく、嬉しい限りです。伝統ある大リーグのやり方まで彼によって変えられ、低迷していた野球人気を盛り返すことができたので、多くのファンや関係者から賞賛の嵐のようです。ある解説では、これで人種差別が完全になくなったという話もあり、従来パワーでは日本人は白人に勝てないという見方があったのを完全に払しょくしたようです。来期は二刀流は無理のようですが、これからも、怪我のないように大いに活躍してもらって、毎年優勝を勝ち取って欲しいと思います。まだ早いですが、野球殿堂入りして野球神社の祭神になるでしょう!



さて、この記事のタイトルですが、日高見国というのは御存じでしょうか?

日高見国(ひたかみのくに/ひだかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。とwiki「日高見国」にあります。

また「日本歴史大辞典」によれば、「北上川という名前は、「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている」とあります。

大谷選手の出身校花巻東高校の東側2・3kmのところにその北上川が流れています。高校から約20km南の奥州市に日高神社があります。奥州市が大谷選手の出生地とありました。祭神は天御中主神ほか七柱とあり、別名「日高妙見」とありましたので、「お~!」と思わず声が出ました。また、後で述べます。社伝によると「創建は弘仁元年(810年)に第52代嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。この地の首魁であったアテルイが降服し、延暦21年(802年)に胆沢城が坂上田村麻呂によって造営されてから8年後の創建となり、日高見国の信仰を継承する形で中央政府の神々を祀る胆沢鎮守府の神社にされてきたと推測されている。」とあります。

日高見国が最初に登場する文献は「日本書紀」ですが、日本書紀・日本語訳「第七巻:景行天皇 成務天皇」景行天皇紀にも『二十七年春二月十二日、武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国の田舎の中に、日高見国(ひたかみのくに)があります。その国の人は、男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすベて蝦夷(えみし)といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」と言った。』とあり、また、四十年「冬十月二日、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は出発された。(中略)日本武尊は、上総から移って陸奥国(みちのくのくに)に入られた。そのとき、大きな鏡を船に掲げて、海路から葦浦(あしうら)に回った。玉浦(たまのうら)を横切って蝦夷の支配地に入った。蝦夷の首領である島津神(シマツカミ)、国津神(クニツカミ)たちが、竹水門(たけのみなと)にたむろして防ごうとした。(中略)その首領を捕虜として、手下にされた。蝦夷を平定して日高見国から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐国(かいのくに)に至り、酒折宮(さかおりのみや)にお出でになった。」とあるので、日高見国は陸奥国の竹水門あたりと言えます。竹水門が多賀湊という説があり、現在の塩釜市七ヶ浜町になります(注0)(2023.12.14 赤字追加)

しかし、石巻市桃生町に日高見神社があり、祭神は天日別尊、天照大神、日本武尊、武内宿禰尊の四柱です。日本武尊が入っていますが、日本書紀で本当の建国の主役である大国主を隠すために創作された悲劇の英雄です。「国譲り神話の史実?」で説明しましたが尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)をモデルにした架空の人物です。しかし実在人物の建稲種命は東国遠征の途中、駿河湾で溺死した伝承がありますが、考古学の成果から沼津市で在地の勢力との戦闘で流れ矢に当たって戦死したと推理して、古墳時代初頭の大型の前方後方墳高尾山古墳に埋葬されたと考えています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。ですのでこの地に来たのは建稲種命の跡を継いだ尾張王尾綱根命ではないかと考えています。そして、天照大神は伊勢神宮内宮の祭神ですが、別名天照皇太神ですから初代応神天皇の本当の父を意味し、その正体は武内宿禰と同じで大国主なのです(注1)。

そして主祭神天日別尊ですが、『伊勢国風土記』逸文によると、神武東征に従って紀伊国熊野村から菟田下県に到って、天皇から東方の村を平らげるよう勅命を受けて到着すると伊勢津彦という神がいた。天日別命は「汝の国を天孫に献上するかと問うと、伊勢津彦は吾はこの国を求め居住して久しい。敢えて命令を聞かないと答えた。そこで、天日別命は兵を起こして伊勢津彦を殺そうとしたため、伊勢津彦は恐れて吾は国を悉く天孫に献上しよう。吾は敢えて居ることもないと言った。とwiki「天日別命」にあります。どこかで見たシーンですね。そうです、記紀の国譲り神話の場面を再現したものになっています。伊勢津彦が大国主、天日別命がタケミカズチ神こと尾張王建稲種命です。ということであれば、尾張勢がこの地の大国主の傘下を平らげた史実を示唆しています。

だとすると、この地の神社に大国主の傘下が祀っていた神様が居るはずです。日高見神社(石巻市桃生町)の宮司大和さんによると北上川の名前の元は「来神(きたかみ)川」だそうです。来た神というのはタケミカズチではなく、日高見国を支配する神です。海からやってきて北上川を上って来た神でしょう。

だったら河口に行ってみましょう!登米市北上川歴史公園で流れが二つに分かれます。現在は東側の流れが北上川、西側が旧北上川と呼ばれています。その旧北上川を下ると石巻市街を抜けて海に出ます。しかしその河口よりも海岸を約2km東に行ったところから約2km砂浜が続き万石浦の入り口に石巻市長浜町があり、小さな魚港があります。現在は渡波港(わたのはこう)ですが以前は長浜港の名前だったようです。砂浜は地図に長浜とありました。長浜海岸の北側の低湿地帯の浜曽根(はまそね)の先が黄金浜(こがねはま)という地名で、「古語で黄金は「くがね」、鉄は「くろがね」。砂鉄が多い砂浜「くろがねはま」が「こがねはま」に転化したと考えられる。(木村敏郎著『渡波以呂波歌留多』)」と「渡波(わたのは)事典」(p.3)にありました(;^ω^)(2023.12.14 青字追加)

その北側約200mに伊去波夜和氣命神社(いこはやわけ(わき)のみことじんじゃ)という神社があります。祭神は猿田彦神、武甕槌神、経津主神、天照皇大神、倉稲魂命(豊受大神)の五柱を祀る。これらの神々の総称が『伊去波夜和氣命』だという。猿田彦神と天照皇大神は大国主で、倉稲魂命(豊受大神)は大国主の妃台与、残りの二柱武甕槌神、経津主神は日高見神社と同じ国譲りさせた神ですが、これらの祭神は、寛政八年(1897年)に、ここから約6km北側の石巻市水沼の同名の神社から遷座したようです。



ここは古くは「浜大明神」と呼ばれており、現在も通称は明神社です。そして境内に祭神を素戔嗚尊とする八雲神社がありますから、ここが長浜大明神、つまり国引き神話の八束水臣津奴野命、略称八束命で神仏習合して妙見菩薩、正体は海神豊玉彦、を祀っていたのだと思います(詳細は「国引き神話は史実だった?(その4)徹底的に隠された神だった?(;´Д`)」参照)。先ほどの奥州市の日高神社も別名日高妙見でした。北上川を溯って来た神が八束命で、主に北上川流域が日高見国でいいと思います。実際に宮城県登米地区を含め北上山地では砂金の鉱脈や含金石英脈鉱床があります(注2)。八束命が部下の江南系の白水郎(あま)アズミ族を連れて、金鉱脈に伴う辰砂を採掘していたのかも知れません(注3)。

奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した常陸国風土記では茨城県信太郡(しだぐん)を日高見国と呼んだとあるようですが、上で見たとおり、藤原氏が必死で八束命隠ぺい工作を行っていますから、日本書紀の後に作成された常陸国風土記でも誤魔化すように作られたと考えていいと思います。

穂高見命を豊玉彦(八束命)の子としていますが、漢字を与える前の呼び名ですので、「ほだかみ(穂高見)」と「ひだかみ(日高見)」とは同一人物と考えていいと思います。また「」は霊あるいは魂という意味と考えると、日高や穂高の霊魂ということになり、さらにこれらは飛騨、日田に調子をそろえるための接尾語の「か」を加えたものだと考えることができます(注4)。あるいは単に、「ひだ、ひた、ほた、ほだ」に「かみ(神)」を付け加えたものかもしれません。つまり、「ひだ、ひた、ほた、ほだ」が八束命(豊玉彦)の呼び名だったのではないかと考えられます。八束命は木の霊五十猛命(イタケル)の子ですので、親の霊力を引き継ぐと考えて、意味的には『ほた 【榾】:たきぎにする木の切れ端。そだ。「ほだ」とも。[季語] 冬。』のことなのかも知れません。

そして豊玉彦の子を古事記では宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)としていますので、日本書紀で隠された史実を藤原氏に気付かれないように暴露するという古事記編さんの目的を考えると、穂高見命と豊玉彦が同一であることを暗に示していると考えられますね(注5)(^_-)-☆。

刮目天の仮説から日高見国の謎を解くことができました。次はあっと驚く、タメゴロ~じゃないですが、今年最後の、古代史のさらに大きな謎を解く予定ですので、現在準備中です!ここまで疑問点があるかと思いますので、遠慮なくコメントしてください!どうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)

【関連記事】
【検証19】日本建国のための戦いだ!

(左クリックでMyMapにJUMPします)

(注0)竹水門(たけのみなと)は高野の湊のことでしょう。高野(たかの)は高野御子と呼ばれた大国主のことだと突き止めています。弘法大師空海が修行場として高野山を開きますが、その縁起に登場します。大国主に因む地名を隠すために高野を変えた豊岡市竹野町と丹後半島の京丹後市竹野神社や竹野川があります。地元の大国主ゆかりの方たちが藤原政権に反発したのだと思いますが、現在も「たかの」と呼んでいるようです。ですから竹水門はやはり大国主の祖父八束命に因む長浜の湊、つまり現在の渡波(わたのは)港のことだと考えられます。(2023.12.14 追加)

(注1)Web歴史街道「天照大神は、本当は「男神」だった?…天皇家の最高神をすり替えた『日本書記』」関裕二(2022年06月23日 更新)および「武内宿禰はユダヤ人なのか?」(2023-02-02 10:46:25)参照

(注2)滝沢文教他3名「登米地域の地質」 地域地質研究報告 秋田(6)第79号 地質調査所 平成2年、p.102

(注3)「5萬分の1地質図幅説明書 人首」秋田― 第 43号 地質調査所昭和29年、p.29
蛭子館鉱山 18),50) 長野川西側の夕日山南東麓にある。古くから水銀を製錬したものらしい。昭和 18 年,関島吉が鉱業権者となったが実績はない。
鉱床は登米粘板岩層の粘板岩中に胚胎する含金石英脈で,金のほかに辰砂を含み,東北唯一の水銀鉱山であった。


(注4)かの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典
接尾語:物の性質・状態を表す語などに付いて、形容動詞の語幹を作る。「しづか」「さやか」

(注5)ただ、古事記では八束命を淤美豆奴神(おみづぬのかみ)とし、その子で大国主の父、先代久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)を天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)としています。「ほた、ほだ」が冬の季語になっており、ひょっとしたら古事記の暗示というのは間違いで、穂高見命・日高見命は大国主の父のことなのかも知れません。その場合でも父王の霊魂を継承しているので長浜明神と表示することもあり得ます。丁度上の明神社の境内社八雲神社の祭神を八束命ではなくスサノヲにしたことと考え方は同じです。首長霊継承の意味に気づくまでは、親子や祖先であっても別々の人格と思い込みましたので、いろいろと悩みました。今回は取り合えず、日高・日高見を八束命豊玉彦のことと考えておきます(#^.^#)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。