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先日7月20日の記事「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」の内容にご意見を戴いていたのを先程見つけました。いつも参考にさせていただいているトップ・ブロガーのkawakatu様の記事でした。どうもありがとうございます。( ^)o(^ )
アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説
2020年07月22日 09:01 民族学伝承ひろいあげ辞典
kawakatu様の日本書紀に対するご見解は、このブログを拝見すると基本的に刮目天と同じで、不比等(659 - 720年)の創作という正しいご理解のようです。しかし残念ながら、刮目天が主張する卑弥呼の死と247年3月24日の日蝕との関係を以下のとおり否定されているようです。
この247年の日食は、アフリカから対馬沖までは皆既で見られるが、日本列島のほとんどの土地では部分日蝕で、ほぼ完全な皆既日蝕は九州の一部では見られるが,東へ行くほど貧弱になり,近畿では半分くらいしか欠けない。つまり記紀が言うような世の中が暗闇になるような日蝕は北部九州にしかなかったわけであろう。
伊都国男王の北部九州だけでも深い食になれば十分だと思います(*^▽^*)
「卑弥呼の信仰も魏書は「鬼道」と記録しており、当然公孫氏、呉国と同じ神獣や西王母などを絵柄とした神獣鏡を用いたはずだ。ところが呉は魏に敗北し、公孫国家も滅ぼされたことで、卑弥呼の予知能力は完全に間違っていることになったわけだから、殺されて当たり前だった。なにも日蝕などなくても卑弥呼は殺されただろう。つまり日蝕など無関係に邪馬台国は一度滅ぶのであるし、その場所は皆既日蝕が見えずとも、どこでもよいのである。」
しかし、卑弥呼は縄文海人ムナカタ族の姫巫女ですから(注1)、魏志倭人伝で「鬼道」というのは民衆の間で流行った「五斗米道」のような道教の一派だけでなく、陳寿らにとって東夷の得体のしれない信仰という意味もあるのだと思います(注2)。
しかし、公孫氏は238年に魏に滅ぼされているので、ほぼ10年前の事件で卑弥呼が殺されなければならないというのはまったく理解できませんよ(;´Д`)
時間を少し戻して、公孫氏が204年に帯方郡を設置して半島の混乱が収束したので、伊都国を都とする倭国王が不弥国(うみこく、宗像市を中心とする海岸の地域)のムナカタ族(和邇氏の祖)を懐柔して、卑弥呼を女王に立て倭国の乱を収めたために、ヤマト側には鉄が供給されなくなりました。そこで、纏向に政治都市を建設し、東海・山陰・北陸などの勢力が集結しました。ようやく倭国討伐軍の派遣を決断し、その動きと同じタイミングでたまたま日食が発生したために卑弥呼が伊都国男王に殺されたと推理しています。この男王が卑弥呼の政治を補佐するという男弟であり、政治の実権を持つ倭国王だと推理しました。卑弥呼が殺された理由は、魏志倭人伝に記載される持衰(じさい)が殺される理由と同じでしょう。
日食と無関係に邪馬台国が滅んだとするご意見が、最後に書かれた部分でしょうか?
図説12枚でわかる「奴国王東遷」・紀元前奴国は大和へ動いた!その1~3で説明されているということのようです。一世紀にはすでに邪馬台国が奴国にあったと考えられているようですが、邪馬台国は元々卑弥呼と関係ないという聞いたことのない説になりますよ( ^)o(^ )
また、「奴国王東遷」はまあいいとしても正確には、「紀元前奴国は大和へ動いた!」ではありません。奴国王は57年に後漢光武帝から金印を貰っていますから紀元前には大和に遷都はしてません。奴国は二世紀前半にニギハヤヒ大王が吉備を都としています。その後、ニギハヤヒの直系の(狗)奴国王卑弥弓呼が纏向へ遷都したのが、卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭です。
時代が前後して申し訳ないですが、二世紀初頭に宮廷司祭の師升らのクーデターで最後の奴国王スサノヲが殺され、王族の一部(スサノヲの弟ニギハヤヒ、王子イタケルら)が出雲・米子付近のムナカタ族(スサノヲの母イザナミ姫の実家)に助けられたと推理しました(末尾の「ヤマト王権成立過程」と「弥生時代から古墳時代初頭の年表」参照)。
ニギハヤヒは吉備を平定し、ヤマト王権の基礎を築いた実在人物だと推理しています。倉敷市の楯築王墓は「宋史 王年代紀」にある第十九代王天照大神尊であり、「先代旧事本紀」の物部・尾張氏の祖であるニギハヤヒ大王のものだと突き止めました。後にヤマトの大王が天皇と呼ばれる理由が分かりました。楯築神社のご神体の亀石が人面蛇体の天皇伏羲と同じでした。日本は「新唐書」「宋史」に書かれた古の倭の奴(ナーガ=龍蛇神)国で間違いなかった(^_-)-☆。
イタケルの子孫は代々狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神)を襲名し、スサノヲの代からコネのある半島南部の鉄をニギハヤヒの旧奴国(狗奴国)王族らに供給し、旧奴国が勢力を盛り返したので、半島の混乱と連動して奴国を滅ぼした師升一族への復讐で倭国大乱が起こったと推理しています。
それで、日食の話に戻りますが、以下のように主張されています。
「この方はいささか早計に考えておられるようだが、まず
1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない
2 不比等自身が神社に出向いたり、社名を変えるのではなく、『日本書紀』以後に『日本書紀』記事に合わせさせる政治的動きは、神社自身からすすんで起こったのが当たり前
3 社名や祭神のアマテラス統一化は明治から敗戦前まで当然行われ、現在再びそうなっている。これは神社庁の時代錯誤した統一観念であろう。神社庁には自由主義も民主主義もないのである。
4 なんと言っても最大の理由はアマテラス=天皇家祖神という記紀イデオロギーが中心思想であり、卑弥呼、日蝕などはおまけでしかない。しかも神社庁や藤原家が意図したことではなく、江戸以来の民間学者が勝手にアマテラスと卑弥呼、神功皇后を結び付けた説が人気となって独り歩きしだしただけのこと。ほとんどデニケン的お騒がせ空想小説の世界である。」
「1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない」はそのとおりなので、不比等が691年に和邇氏が奉祭するムナカタの卑弥呼を祀った近江八幡市の日蝕(ひはえ)の杜(日牟禮八幡宮)を参拝して、日群れの杜に社名を変更するように迫ったと推理しました。
卑弥呼を祀る日触神社の存在は面白い?
ってありますが、面白くないですか?(^◇^)
古代氏族にとって祖霊であるはずの祭神やそれに因んだ神社名を変更するなど、簡単にできるものではないと断言できます。余程のことがあったということです。
明治政府は列強のアジア侵略に対抗するために国民統合を図る目的で「日本書紀」に基づく国家神道を創って国民教育まで行ったのです。これは革命政権の政策ですから、誰も逆らえるものではないでしょう。神宮寺と一体であったものをバッサリ切り離して祭神名も変えさせたところもあるようで、まったく酷い話でしたね。
686年に天武天皇が崩御した時の不比等も、幕末・維新の志士と同年代の27歳の若者でした。皇后鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで、皇太子だったと思われる大津皇子に謀反の汚名を着せる謀略で自殺に追い込みました。鵜野讃良の子草壁皇子を皇太子にしましたが、3年後に病死しました。
そこで690年、母が宗像氏なので天皇にはなれないとされていた高市皇子を抱き込み、鵜野讃良を持統天皇として即位させます。そして高市皇子を太政大臣に据えました。そういう物凄いやり口で、絶大な権力を手にした32歳の不比等です。その歌の下の句「ひむれの杜に なびく白雲」が神社名変更の恐喝を表していると解釈しても全然おかしくはないでしょう(;一_一)
恐らく、卑弥呼を祀る日蝕(ひはえ)神社を創建した和邇氏の祖の名前まで、日本書紀で日触使主(ひふれのおみ)と変えさせたのではないかと考えています。
それで、4のデニケン?の話ですが、247年3月24日の日蝕のために伊都国男王に殺された卑弥呼の伝承を、持統天皇の即位を正当化するために創作したアマテラス女神の岩戸隠れに結び付けたと推理しました。卑弥呼と岩戸神話が後世の人間が勝手に結び付けた話ではないことは、日本書紀完成までの不比等と宇佐八幡宮創建に関わる人々の比売大神卑弥呼を隠す動きから分かりますよ(詳細は近日公開の別稿でどうぞ)(*^▽^*)
不比等は和邇氏が日蝕神社で卑弥呼比売神(宗像女神イツキシマヒメ)を祀ってもらっては困るのです。藤原氏の権力維持のために日本建国で活躍した氏族の話は葬りたいということでした(卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)
なお、宇佐市安心院町に居た卑弥呼は248年9月5日の日蝕を見ることができません(谷川清隆・相馬充「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)図2参照)。
こんな藤原氏にとって都合の良いウソで固めた正史「日本書紀」を日本人に押し付け、千三百年後の現在まで創作した神話で日本国民を操っている不比等はトンデモナイ悪党です。さらに、不比等の子孫の近衛文麿がまた酷い奴だと林千勝先生の研究で判明しました。国際金融資本にまんまと操られた文麿や風見章ら共産主義者の大手マスメディアによって戦争に引きずり込まれて日本国民が地獄を見ることになったのは、きっと歴史から隠された卑弥呼や大国主久々遅彦や悲劇の女王台与の怨念でしょうね|д゚)
【関連記事】
邪馬台国と卑弥呼の日食の謎
卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!伊都国王が目撃した、海に沈みながら消えていくこの日没帯食が卑弥呼暗殺の動機でしょう(^_-)-☆
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)
<参考文献>
「247 年 3 月 24 日の日食について」相馬 充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典 国立天文台報 第 14 巻,15-34(2012)
「北九州市周辺は皆既になるが,福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ,いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる.日食の間中,あたりは暗くならないことを指摘しておく.
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.」
[12]安本美典:『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』,勉誠出版(2003).
ΔT=8500(上図)とΔT=8900(中図)の中間の値ΔT=8700を採用しましたが、ΔT=8700以上であれば邪馬台国(宇佐市安心院町三柱山の卑弥呼の居城を中心とし、宇佐平野など周辺地域一帯)を含む北部九州の広い地域で観測できるということです。
(注1)本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼は不弥国(うみこく)から野麻国(やまこく、和妙抄宇佐郡野麻郷=宇佐市安心院町)に疎開していたムナカタ族の姫巫女と推理しました。宇佐神宮のご祭神比売大神(宗像三女神)として不比等が隠しました。臺(台)は女王を意味しますから邪馬台国は女王が居城とする「やまこく」と言う意味で付けられた地名で、帯方郡太守劉夏と倭国大夫難升米(魏の正規軍の旗をもらった伊都国男王です)が談合して名付けたと突き止めました(ちなみに邪馬台国への行程も、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を大きく見せようとして、帯方郡から東南に万二千余里の呉を圧迫する位置に邪馬台国を置くために、倭国を全く知らない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで実際の行程を改変した記事ですから、二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しませんでした(^_-)-☆)。
倭国大乱の時期ですから海に面していて、いつ攻撃されるかわからない物騒な不弥国(うみこく)から要害堅固な山城に疎開したので、姫(院)の御心を安んじたというのが安心院の由来でしょう。宗像三女神の降臨伝説にある葦原中つ国の宇佐嶋という伝承にも合致します。安心院盆地は当時は葦の生い茂った広大な湿原でしたから、安心院町三柱山の三女(さんみょう)神社とその周辺一帯が卑弥呼の居城のあった宇佐嶋だったと考えています。昭和55-56年発掘調査された弥生終末期の宮ノ原遺跡は卑弥呼の侍女の居住域です(^_-)-☆
(注2)誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)
卑弥呼は、公孫氏が滅ぼされて、素早く魏に朝貢し、親魏倭王になって魏を後ろ盾として旧奴国(狗奴国ヤマト)に対立したと考えています。
卑弥呼は、もともと旧奴国(狗奴国ヤマト)側の勢力だったと見ています。不弥国を根拠地として沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を旧奴国(狗奴国)王族に供給していた太陽信仰のムナカタ海人族の姫巫女です。鏡は太陽神のお告げを伝えるための憑依の道具で、裏面の図柄は何か意味ありげなシナのものが好まれたということです。(^_-)-☆
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
ややこしい話に最後まで有難うございます。通説と違うので、いろいろと疑問点などご意見をお寄せください(^◇^)
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アマテラス=卑弥呼、日蝕=天岩屋戸、藤原不比等策謀に見事にはまった空想小説
2020年07月22日 09:01 民族学伝承ひろいあげ辞典
kawakatu様の日本書紀に対するご見解は、このブログを拝見すると基本的に刮目天と同じで、不比等(659 - 720年)の創作という正しいご理解のようです。しかし残念ながら、刮目天が主張する卑弥呼の死と247年3月24日の日蝕との関係を以下のとおり否定されているようです。
この247年の日食は、アフリカから対馬沖までは皆既で見られるが、日本列島のほとんどの土地では部分日蝕で、ほぼ完全な皆既日蝕は九州の一部では見られるが,東へ行くほど貧弱になり,近畿では半分くらいしか欠けない。つまり記紀が言うような世の中が暗闇になるような日蝕は北部九州にしかなかったわけであろう。
伊都国男王の北部九州だけでも深い食になれば十分だと思います(*^▽^*)
「卑弥呼の信仰も魏書は「鬼道」と記録しており、当然公孫氏、呉国と同じ神獣や西王母などを絵柄とした神獣鏡を用いたはずだ。ところが呉は魏に敗北し、公孫国家も滅ぼされたことで、卑弥呼の予知能力は完全に間違っていることになったわけだから、殺されて当たり前だった。なにも日蝕などなくても卑弥呼は殺されただろう。つまり日蝕など無関係に邪馬台国は一度滅ぶのであるし、その場所は皆既日蝕が見えずとも、どこでもよいのである。」
しかし、卑弥呼は縄文海人ムナカタ族の姫巫女ですから(注1)、魏志倭人伝で「鬼道」というのは民衆の間で流行った「五斗米道」のような道教の一派だけでなく、陳寿らにとって東夷の得体のしれない信仰という意味もあるのだと思います(注2)。
しかし、公孫氏は238年に魏に滅ぼされているので、ほぼ10年前の事件で卑弥呼が殺されなければならないというのはまったく理解できませんよ(;´Д`)
時間を少し戻して、公孫氏が204年に帯方郡を設置して半島の混乱が収束したので、伊都国を都とする倭国王が不弥国(うみこく、宗像市を中心とする海岸の地域)のムナカタ族(和邇氏の祖)を懐柔して、卑弥呼を女王に立て倭国の乱を収めたために、ヤマト側には鉄が供給されなくなりました。そこで、纏向に政治都市を建設し、東海・山陰・北陸などの勢力が集結しました。ようやく倭国討伐軍の派遣を決断し、その動きと同じタイミングでたまたま日食が発生したために卑弥呼が伊都国男王に殺されたと推理しています。この男王が卑弥呼の政治を補佐するという男弟であり、政治の実権を持つ倭国王だと推理しました。卑弥呼が殺された理由は、魏志倭人伝に記載される持衰(じさい)が殺される理由と同じでしょう。
日食と無関係に邪馬台国が滅んだとするご意見が、最後に書かれた部分でしょうか?
図説12枚でわかる「奴国王東遷」・紀元前奴国は大和へ動いた!その1~3で説明されているということのようです。一世紀にはすでに邪馬台国が奴国にあったと考えられているようですが、邪馬台国は元々卑弥呼と関係ないという聞いたことのない説になりますよ( ^)o(^ )
また、「奴国王東遷」はまあいいとしても正確には、「紀元前奴国は大和へ動いた!」ではありません。奴国王は57年に後漢光武帝から金印を貰っていますから紀元前には大和に遷都はしてません。奴国は二世紀前半にニギハヤヒ大王が吉備を都としています。その後、ニギハヤヒの直系の(狗)奴国王卑弥弓呼が纏向へ遷都したのが、卑弥呼が女王に共立された三世紀初頭です。
時代が前後して申し訳ないですが、二世紀初頭に宮廷司祭の師升らのクーデターで最後の奴国王スサノヲが殺され、王族の一部(スサノヲの弟ニギハヤヒ、王子イタケルら)が出雲・米子付近のムナカタ族(スサノヲの母イザナミ姫の実家)に助けられたと推理しました(末尾の「ヤマト王権成立過程」と「弥生時代から古墳時代初頭の年表」参照)。
ニギハヤヒは吉備を平定し、ヤマト王権の基礎を築いた実在人物だと推理しています。倉敷市の楯築王墓は「宋史 王年代紀」にある第十九代王天照大神尊であり、「先代旧事本紀」の物部・尾張氏の祖であるニギハヤヒ大王のものだと突き止めました。後にヤマトの大王が天皇と呼ばれる理由が分かりました。楯築神社のご神体の亀石が人面蛇体の天皇伏羲と同じでした。日本は「新唐書」「宋史」に書かれた古の倭の奴(ナーガ=龍蛇神)国で間違いなかった(^_-)-☆。
イタケルの子孫は代々狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神)を襲名し、スサノヲの代からコネのある半島南部の鉄をニギハヤヒの旧奴国(狗奴国)王族らに供給し、旧奴国が勢力を盛り返したので、半島の混乱と連動して奴国を滅ぼした師升一族への復讐で倭国大乱が起こったと推理しています。
それで、日食の話に戻りますが、以下のように主張されています。
「この方はいささか早計に考えておられるようだが、まず
1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない
2 不比等自身が神社に出向いたり、社名を変えるのではなく、『日本書紀』以後に『日本書紀』記事に合わせさせる政治的動きは、神社自身からすすんで起こったのが当たり前
3 社名や祭神のアマテラス統一化は明治から敗戦前まで当然行われ、現在再びそうなっている。これは神社庁の時代錯誤した統一観念であろう。神社庁には自由主義も民主主義もないのである。
4 なんと言っても最大の理由はアマテラス=天皇家祖神という記紀イデオロギーが中心思想であり、卑弥呼、日蝕などはおまけでしかない。しかも神社庁や藤原家が意図したことではなく、江戸以来の民間学者が勝手にアマテラスと卑弥呼、神功皇后を結び付けた説が人気となって独り歩きしだしただけのこと。ほとんどデニケン的お騒がせ空想小説の世界である。」
「1 滋賀県では3世紀の皆既日蝕は観られない」はそのとおりなので、不比等が691年に和邇氏が奉祭するムナカタの卑弥呼を祀った近江八幡市の日蝕(ひはえ)の杜(日牟禮八幡宮)を参拝して、日群れの杜に社名を変更するように迫ったと推理しました。
卑弥呼を祀る日触神社の存在は面白い?
ってありますが、面白くないですか?(^◇^)
古代氏族にとって祖霊であるはずの祭神やそれに因んだ神社名を変更するなど、簡単にできるものではないと断言できます。余程のことがあったということです。
明治政府は列強のアジア侵略に対抗するために国民統合を図る目的で「日本書紀」に基づく国家神道を創って国民教育まで行ったのです。これは革命政権の政策ですから、誰も逆らえるものではないでしょう。神宮寺と一体であったものをバッサリ切り離して祭神名も変えさせたところもあるようで、まったく酷い話でしたね。
686年に天武天皇が崩御した時の不比等も、幕末・維新の志士と同年代の27歳の若者でした。皇后鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで、皇太子だったと思われる大津皇子に謀反の汚名を着せる謀略で自殺に追い込みました。鵜野讃良の子草壁皇子を皇太子にしましたが、3年後に病死しました。
そこで690年、母が宗像氏なので天皇にはなれないとされていた高市皇子を抱き込み、鵜野讃良を持統天皇として即位させます。そして高市皇子を太政大臣に据えました。そういう物凄いやり口で、絶大な権力を手にした32歳の不比等です。その歌の下の句「ひむれの杜に なびく白雲」が神社名変更の恐喝を表していると解釈しても全然おかしくはないでしょう(;一_一)
恐らく、卑弥呼を祀る日蝕(ひはえ)神社を創建した和邇氏の祖の名前まで、日本書紀で日触使主(ひふれのおみ)と変えさせたのではないかと考えています。
それで、4のデニケン?の話ですが、247年3月24日の日蝕のために伊都国男王に殺された卑弥呼の伝承を、持統天皇の即位を正当化するために創作したアマテラス女神の岩戸隠れに結び付けたと推理しました。卑弥呼と岩戸神話が後世の人間が勝手に結び付けた話ではないことは、日本書紀完成までの不比等と宇佐八幡宮創建に関わる人々の比売大神卑弥呼を隠す動きから分かりますよ(詳細は近日公開の別稿でどうぞ)(*^▽^*)
不比等は和邇氏が日蝕神社で卑弥呼比売神(宗像女神イツキシマヒメ)を祀ってもらっては困るのです。藤原氏の権力維持のために日本建国で活躍した氏族の話は葬りたいということでした(卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)
なお、宇佐市安心院町に居た卑弥呼は248年9月5日の日蝕を見ることができません(谷川清隆・相馬充「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)図2参照)。
こんな藤原氏にとって都合の良いウソで固めた正史「日本書紀」を日本人に押し付け、千三百年後の現在まで創作した神話で日本国民を操っている不比等はトンデモナイ悪党です。さらに、不比等の子孫の近衛文麿がまた酷い奴だと林千勝先生の研究で判明しました。国際金融資本にまんまと操られた文麿や風見章ら共産主義者の大手マスメディアによって戦争に引きずり込まれて日本国民が地獄を見ることになったのは、きっと歴史から隠された卑弥呼や大国主久々遅彦や悲劇の女王台与の怨念でしょうね|д゚)
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<参考文献>
「247 年 3 月 24 日の日食について」相馬 充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典 国立天文台報 第 14 巻,15-34(2012)
「北九州市周辺は皆既になるが,福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ,いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる.日食の間中,あたりは暗くならないことを指摘しておく.
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.」
[12]安本美典:『倭王卑弥呼と天照大御神伝承』,勉誠出版(2003).
ΔT=8500(上図)とΔT=8900(中図)の中間の値ΔT=8700を採用しましたが、ΔT=8700以上であれば邪馬台国(宇佐市安心院町三柱山の卑弥呼の居城を中心とし、宇佐平野など周辺地域一帯)を含む北部九州の広い地域で観測できるということです。
(注1)本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)
卑弥呼は不弥国(うみこく)から野麻国(やまこく、和妙抄宇佐郡野麻郷=宇佐市安心院町)に疎開していたムナカタ族の姫巫女と推理しました。宇佐神宮のご祭神比売大神(宗像三女神)として不比等が隠しました。臺(台)は女王を意味しますから邪馬台国は女王が居城とする「やまこく」と言う意味で付けられた地名で、帯方郡太守劉夏と倭国大夫難升米(魏の正規軍の旗をもらった伊都国男王です)が談合して名付けたと突き止めました(ちなみに邪馬台国への行程も、西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を大きく見せようとして、帯方郡から東南に万二千余里の呉を圧迫する位置に邪馬台国を置くために、倭国を全く知らない魏の朝廷の人々が納得できる程度のつじつま合わせで実際の行程を改変した記事ですから、二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しませんでした(^_-)-☆)。
倭国大乱の時期ですから海に面していて、いつ攻撃されるかわからない物騒な不弥国(うみこく)から要害堅固な山城に疎開したので、姫(院)の御心を安んじたというのが安心院の由来でしょう。宗像三女神の降臨伝説にある葦原中つ国の宇佐嶋という伝承にも合致します。安心院盆地は当時は葦の生い茂った広大な湿原でしたから、安心院町三柱山の三女(さんみょう)神社とその周辺一帯が卑弥呼の居城のあった宇佐嶋だったと考えています。昭和55-56年発掘調査された弥生終末期の宮ノ原遺跡は卑弥呼の侍女の居住域です(^_-)-☆
(注2)誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)
卑弥呼は、公孫氏が滅ぼされて、素早く魏に朝貢し、親魏倭王になって魏を後ろ盾として旧奴国(狗奴国ヤマト)に対立したと考えています。
卑弥呼は、もともと旧奴国(狗奴国ヤマト)側の勢力だったと見ています。不弥国を根拠地として沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を旧奴国(狗奴国)王族に供給していた太陽信仰のムナカタ海人族の姫巫女です。鏡は太陽神のお告げを伝えるための憑依の道具で、裏面の図柄は何か意味ありげなシナのものが好まれたということです。(^_-)-☆
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
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