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【邪馬台国論争】伊都国東遷説とは?(@_@)

2024-03-16 02:40:26 | 古代史
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#いつも勉強させていただいている岡上佑さんからまたまた好い話題の動画が出ましたので、早速以下のコメントしました。長文になったので残りを記事にしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


いつも興味深い話題を提供いただき有難うございます。
伊都国東遷説の考え方を整理していただいたのでとても助かります。
纏向遺跡は交易都市ではない、日本が建国された特別な大集落ですので、その外来土器は、政治色の強いものだと思います。
少し長くなったので、拙ブログ「刮目天の古代史 【邪馬台国論争】伊都国東遷説とは?」にアップしました。
よろしければご参照いただき、ご意見をください。 


岡上さんが上の図に示された①~④の論点に沿って以下に述べます(;^ω^)

①古墳時代のヤマトを成立させた力の源泉は九州伊都国であるというのは近いですが、少し異論があります。
ヤマト王権は初期の纏向型前方後円墳に特徴が表れています。一番大きな影響は特殊器台や弧文円板から吉備(瀬戸内)からだと分かります(詳細は「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」参照)。また、吉備の楯築王墓の棺の底に大量に敷き詰められた水銀朱は北部九州の首長霊祭祀の影響を受けていますので、北部九州の中に伊都国もありますが、奴国の方が歴史が古いのです。

初代奴国王は新唐書・宋史王年代紀に記載された天御中主です。これは江南出身の奴(ナーガ=龍蛇神)を信奉する海人族(江南系倭人アズミ族)の王という意味の名前です。地名も那珂、那賀、長柄、中山などがあり、これらはアズミ族が入植した土地につけられています。弧文はナーガを象ったものと考えられます。紀元前473年に呉が滅ぼされ王族が半島南部の倭人に助けられて生活していましたが、恐らく寒冷化の影響で紀元前4世紀ごろ福岡市吉武・高木遺跡に南下したと推理しています。列島最古の王墓が発見されています。三代の王と王族が埋葬されています。その後4代目の天彌聞尊(アメノニニギノミコト)から糸島平野と福岡平野を平定して春日市須玖岡本遺跡に王宮を遷したと考えています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。従って「日本は古の倭の奴国」という新唐書・宋史の記述が正しいと考えています。

②魏志倭人伝の時代、つまり卑弥呼の女王共立によって倭国大乱が終わったころに吉備を中心とする旧奴国勢力が纏向遺跡を造ったと考えています。つまり、107年に後漢安帝に160人もの生口を献上して朝貢した倭国王帥升(倭の伊都国王師升)によって奴国王が殺された事件があったと推理しています。最後の奴国王が宋史王年代紀第18代王素戔嗚尊(記紀神話の高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲ)です。師升は奴国宮廷祭祀の司祭で楽師と推理しています。物証のひとつが日本で最初に作られた金石文「室見川銘板」です(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。スサノヲの弟ニギハヤヒが奴国を脱出し、ムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、隆盛となり奴国を再興したと考えています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)

③伊都国の平原王墓出土の内行花文鏡などは卑弥呼が魏から贈られた鏡の可能性があると考えています。しかしその被葬者は卑弥呼の宗女台与と考えています。

二世紀末の倭国大乱は師升王の子孫の倭国と狗奴国(旧奴国)の戦争です。主戦場は弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました佐賀平野・筑紫平野です(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

本当の倭国王難(儺)升米が、三世紀初頭に日本海沿岸を根拠地とする縄文海人族ムナカタ族を束ねる王の日高彦を討ちました(狗奴国の官狗古智卑狗です。豊岡市久久比神社の祭神で木霊、久々遅彦は王の襲名、奴国を脱出した五十猛命の子孫)。日高彦の右腕で、玄界灘を支配するムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖、倭大夫伊聲耆)を懐柔して、その娘卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)を外交上女王に立てたと推理しています。難升米が政治を補佐する男弟とした伊都国男王で帥升の子孫です(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

247年頃の卑弥呼の死後に卑弥弓呼大王が送った倭国征討軍が北部九州に押し寄せてきました。卑弥呼の死を知った弟赤坂比古(記紀の日触使主)が戦意喪失したので難升米は半島に逃亡したと見ています。そこで男王に立ったのが狗奴国軍の大将の尾張王乎止与命(をとよのみこと)で、卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒの子孫です。これは纏向遺跡の外来土器の中で東海の者が約半数を占めることから推理しました。


(左クリックで拡大)

岡上さんは土器を政治と切り離して考えられていますが、交易都市ではない宗教色の強い纏向遺跡の外来土器は、狗奴国王卑弥弓呼が倭国の裏切り者たちに復讐するために各地に散った旧奴国勢を呼び寄せたそれぞれの国の土器ですから、政治色が強いものだと思います。纏向遺跡で重要な祭祀を行っているので、各地の特産品も持参したと思われますが、祭祀に使う高坏や壺などが出土していることからも分かります。

大和の考古学の第一人者石野博信先生が「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」(新泉社2019年pp.129-130)で「邪馬台国はどこにあるかは、外来系の土器、よそから来た土器がたくさん落ちている所を探せばいい」と述べています。

ところが纏向遺跡の外来土器の中には九州のものは1%以下なのです。石野先生が主張される九州の土器は勝山古墳で出土した高温鍛冶の羽口の一部などですが、卑弥呼の死後のものと考えています(詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」参照)。

纏向遺跡で行われた重要な祭祀に列島の数多くの地域の人々(しかも首長クラス)が参加していますが、北部九州の倭国の人々が参加していないので、纏向遺跡は倭国と敵対する狗奴国だと分かります。狗奴国という名称は、難升米が景初三年に帯方郡太守劉夏に書いて教えた旧奴国の蔑称「狗コロの奴国」と推理しました。

尾張王が男王に立ったことを不服として千人が殺し合ったと魏志倭人伝にありますが、その勝者が久久遅彦(戦死した日高彦の子高野御子)です。13歳の台与を卑弥呼の宗女として魏を後ろ盾にして狗奴国王を裏切って対立しました。半島南部はスサノヲの支配地だったので倭国へ供給する鉄のネットワークを再構築し、高温鍛冶技術を傘下に気前よく渡したようです。畿内と東海を除く大半の地域が久久遅彦の傘下になったので、記紀で大国主命と呼ばれたと考えています。狗奴国が大国主を討ってヤマト王権を成立させましたので、大国主の祟りを最も畏れています。


 
④銅鐸は元々奴国の祭祀で使われた楽師が音を鳴らす祭器です。福岡市で高さ10cm程度の小銅鐸が8個出土しています。いわゆる「聞く銅鐸」です。山陰や畿内で見られるものはそれよりも大型のものですが、銅鐸の表面や土器に描かれた絵画から縄文系人々の祖霊・穀霊などの祭祀に使われたと考えられます。しかし、二世紀後半に縄文系の人々は首長霊信仰に変えますので、銅鐸文化は東に移りながら衰退します。鉄の元締めの出雲・丹波王久久遅彦を頂点とした鉄のネットワークに参加する各地の部族長が、部族内で大きな権力を持つようになったと考えられます。それは大型四隅突出型墳丘墓の出現から分かります。二世紀末の倭国大乱という列島が初めて経験した大掛かりな戦争への準備過程であると考えられます(詳細は「弥生時代の戦争は倭国大乱から!」参照)。

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