行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論㉕】月刊誌の苦境と週刊誌の健闘

2016-06-30 17:24:47 | 日記
先日、メディア業界の人たちと話をしていて日本の総合月刊誌に関する話題になった。

日本の新聞にはいわゆる啓蒙的な作用を持つクオリティー・ペーパーは存在せず、戦後、その代わりを果たしてきたのが日本特有の「総合雑誌」=月刊誌であると言われてきた。だが現在は『文藝春秋』の独り勝ちで、他紙の凋落ぶりが際立っている。『文藝春秋』にしても読者の高齢化は将来の不安材料である。全般的に月刊誌がセンセーショナルな内容を競って取り上げる「週刊誌化」ともいえる現象もみられる。安保闘争を頂点に、世論をリードしてきた総合月刊誌は今や見る影もない状態だ。

一方、甘利明大臣の賄賂疑惑などのスクープで注目され、部数を伸ばしている『週刊文春』がある。新聞が官僚化し、報道の力が衰えている間隙をついているのだ。月刊誌が週刊誌化し、週刊誌が新聞化し、架空の「不偏不党」を標榜する新聞はますます無色透明化し、存在感を失っていく・・・一般的に価値の下がった商品は市場の原理によって値下げが行われるが、新聞業界の横並び主義にによる独占体制がそれを許さない。「公共性」という錦の御旗もそう長持ちするわけではない。

だいたいこんな流れの話だったかと思う。

それに触発され、清水幾太郎が書いた論文「総合雑誌」(1960年)を読み返してみた。同氏については反動的な思想家との批判もあるが、メディアに関する鋭い洞察は学ぶべき点が多い。同論文は日本特有の総合月刊誌について論じたものだが、むしろ新聞に対する批判が目立つ。たとえば、「総合雑誌は、新聞とは違った平面においてであるが、明確な主張、歴史的文脈、節操、四つの権力や他のメディアへの批判によって、日本の新聞が作った穴を埋めているのである」といった風に。

そこで引用されているのが、1960年6月17日の朝刊で、主要新聞7社(朝日・毎日・読売・東京・日本経済・産経・東京タイムズ)が同時に掲載した共同宣言「暴力を排し議会主義を守れ」だ。日米安保闘争のデモで東京大学の女子学生、樺美智子(かんば・みちこ)が同月15日死亡した事件を受け、それまで岸首相の退陣を迫るなど強硬論を吐いていた新聞が突如、安保反対の声を非難する側に転向した。戦後新聞史の汚点と呼んでもよい出来事だった。清水幾太郎は、「新聞はメロドラマを盛り上げながら、両成敗を繰り返しながら、世論をニヒリズムへ、政党一般の否認へ、ファシズムへ流していく」と手厳しい。

にもかかわらず7社共同宣言は新聞社の研修でも教えてくれず、、新聞記者でさえ知らない人が多いので、以下に全文を紹介する。



「六月十五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以は別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもったことはない。民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許さるべきではない。一たび暴力を是認するが如き社会風潮が一般化すれば、民主主義は死滅し、日本の国家的存立を危うくする重大事態になるものと信ずる。
 よって何よりも当面の重大責任をもつ政府が、早急に全力を傾けて事態収拾の実をあげるべきことは言うをまたない。政府はこの点で国民の良識に応える決意を表明すべきである。同時にまた、目下の混乱せる事態の一半の原因が国会機能の停止にもあることに思いを致し、社会民社の両党においても、この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる。
ここにわれわれは、政府与党と野党が国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである」

「国民の望むところ」「今日国民が抱く常ならざる憂慮」などと恥ずかしげもなく書ける記者の精神はいかなるものか。今でも日本の新聞の社説にはこうした発想が底流に流れ、無意識のうちすでに文章のスタイルになっている。言語に思考が縛られているのである。



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