行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

屋台を引いて本を売り、詩を朗読する若者

2017-04-17 01:24:27 | 日記
昨晩は、得難い経験をした。星空のきれいな夜だった。午後9時から、かえるの合唱が響くダムの湖畔で、小さな詩の朗読会が開かれた。主催した学生はリヤカーを引きながら本を売る商売を始めた男子だ。彼に呼ばれ、足を運んだ。

ジャーナリズム学部の学生で、前学期、私の課目を履修していた。メディア人を要請する専門的な授業には興味が沸かない。「大学は技術を習得する場ではなく、思想を学ぶ場だ」。現代中国の大学体制に対する彼の批判に共感し、私も折に触れ、酒を飲みながら議論をしてきた。将来は美術展の展示をコーディネートする仕事をしたいと夢を語る。読書会も主宰し、主に芸術学部の学生たちと交流している。



自分の姓をとって「劉書店」と名付けた。鉄の廃材を集め、自家製の本棚を作った。車輪をつけたので自由に移動できる。重さが数百キロあり、遠くには行けないが、学内を巡回するには十分だ。夜に備えて、首の長いスタンドライトを取り付けた。



集まった学生は十数人。なじみの仲間もいれば、ネットの案内で知った学生、夕涼みをする通りすがりの者もいる。街頭がないのであたりは真っ暗だ。周囲には学生のアベックも何組か点在している。遠くからフルートの練習をする音が届く。



書棚の上にはヴァルター・ベンヤミン『生産者としての作家』の中国語訳本などと一緒に、三島由紀夫の『反貞女大学』の中国語本が置かれている。ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を授業で取り上げた際、彼が敏感に反応したことを思い出した。既成概念との挑戦に向き合い、自分の道を探そうともがいている青年を感じた。



驚いたことに、書棚には日本の文庫版で、三島の『豊饒の海』シリーズや『葉隠入門』、太宰治の『人間失格』『斜陽』『新ハムレット』が並んでいる。仲間に三島ファンがいて、日本人の死生観について議論することもあるという。





詩の朗読が始まった。この日は、現代中国詩を代表する一人、張棗(ジャン・ザオ)の作品。彼は1962年湖南省長沙の生まれ。四川外語学院に学び、ドイツ留学の経験がある。2010年、肺がんで早世した。学生たちは最初と最後の朗読に、代表作の『鏡中』を選んだ。



《镜中》—— 张枣

只要想起一生中后悔的事         生涯の後悔を思い出せばいつも

梅花便落了下来             梅の花が散り落ちる
 
比如看她游泳到河的另一岸        もう一つの岸へ泳いでいくように

比如登上一株松木梯子          松の木のはしごを上るように

危险的事固然美丽            危険なことはもとより美しい

不如看她骑马归来            願わくば、馬に乗って戻っておいで
  
面颊温暖                やさしい面持ちで

羞涩。低下头,回答着皇帝         はにかみながら、下を向いて、皇帝に答える

一面镜子永远等候她           鏡はずっと待っている

让她坐到镜中常坐的地方         鏡の中に思い出の居場所をつくり

望着窗外,只要想起一生中后悔的事    窓の外をながめ、生涯の後悔を思い出せばいつも

梅花便落满了南山            梅の花が散り落ちる


拙訳だが、感傷の中に慰撫を求める心境は伝わるだろうか。暗闇にライトを照らし、時には演ずるように、時には談笑しながら、そして輪唱、合唱のごとく、詩の朗読が続いた。

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