行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「謝謝」と「ありがとう」について

2018-02-18 11:35:25 | 日記
5月末から6月にかけ、中国の学生を連れて北海道取材ツアーに行くことになった。昨年の九州環境保護ツアーに続く日本企画である。日中多くの方の支援と協力で予想をはるかに上回る成果を上げることができ、第二弾が実現した。日本関連の行事は、授業を含め大人気だ。希望者が多いため、冬休み期間を利用し、書類審査をしている。

映像や画像の撮影技術が問われるので、メンバーにはラジオ・テレビ学科の学生を加えなければならない。私の専門外なので、担当の先生に候補学生の評価を尋ねた。するとすぐに詳しく、的確なメッセージを送ってくれた。休暇中にもかかわらず対応してくれたことに対し、私が「謝謝!」と感謝を伝えると、「加藤先生は遠慮し過ぎだ(加藤老師太客気了)!」と返事が届いた。中国の友人と話をしていて、実はこう言われることが多い。

彼とはふだんから酒を飲んだり、記録フィルムの評価を論じ合ったりする関係だ。彼に言わせると、友人間の「謝謝」は、あまりにも杓子定規で、逆に関係が疎遠な感じを与えるのだ。友人を助けるのは当たり前。いちいち感謝する必要もない。お互いに助け合うのに、余計な気遣いは不要じゃないか。何かのたびに「謝謝」と言っていたら、煩わしくてしょうがない。逆に「謝謝」と言わずとも、気持ちがすでに通じ合っている。友人とはそういうものじゃないのか。

彼の本音を言えばこういうことなのだと思う。他の中国の友人も同じように思っている。ささいなことで「謝謝」と言うと、「何を言っているんだお前は」とせせら笑われるのがオチだ。もっと言えば、友人関係というのは言葉で表すものではなく、態度で示すものだ、とみなが受け止めている。だから、「あの時、お前は来てくれた」といったことを、いつまでも覚えていて、繰り返し語り続ける。

「すみません」「どうも」「サンキュー」「ありがとう」を連発する日本人にしてみると、親しい中にも礼儀ありという感覚が先行する。「ありがとうを言わずに済む関係」はなかなか想像しにくい。ただ、本当に「ありがとう」という言葉の重みを感じながら使っているのか、と自問すると、それも怪しくなる。形式に流れ、心が伴っていないのではないか、と。

「ありがとう」は文字通り、「有る」ことが「難い」から生まれた言葉だ。枕草子には「ありがたきもの」が書き連ねてあるが、世の中に望むべくもないこと、めったにお目にかかれないことを指している。だからこそ感謝しなければならない。当たり前のことなどない。むしろ、有ること自体が僥倖なのだ。だからこそ、感謝しなければならない。大切に思わなければならない。惜しまなければならない。全うしなければならない。

中国語で言えば、「難得(nande ナンダー)」、つまり、「得ることが難い」となる。もちろん、当たり前だから「謝謝」と言うまでもないような関係、言葉ではなく態度で示す友情は、「難得」である。

当然だと思うからこそあえて言わない「謝謝」、そして、当たり前などないと深く感ずるところから発する「ありがとう」。全く正反対のロジックだが、心の表し方は異なっても、心そのもの、そして、心のありかは同じである。

昨日、がんを告知された友人と会った。私が人生の道に迷い、淵に追いやられているとき、そばで付き添ってくれた友人である。先のことを気遣う友人に、私は、一日一日をありがたいと思う、今の自分の生き方を話した。そして中国の友人間で使われない「謝謝」の意味と一緒に、あの時、私のそばにいてくれたことに「ありがとう」との言葉を伝えた。

ノンアルコールのビールもどきを飲む友人を前に、日本酒を飲み過ぎた。

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