2018年8月8日は、ちょうど8が三つ並んだ縁起のよい日だった。思えば10年前の2008年8月8日は北京五輪の開幕日。中国語で「8」の音「バー(ba)」は「発(fa)」に通じ、「発展」「発財(商売繁盛)」につながると縁起を担ぐ。歳末のセールでも、値段は「88元」「888元」が好まれる。
そんなめでたい日、中国河南省安陽の中国文字博物館で日本の篆刻書道家、師村妙石さんの個展「漢字からひらがなへ」が開幕し、私も友人として式典に参加した。日中平和友好条約締結40周年の記念イベントでもあり、北京の日本大使館から大使代理も訪れた。日本の文化庁が後援したのも、個人のイベントとしては異例のことだ。私が夏休みの帰国中、わざわざ出かけたのにはわけがある。
昨年、中国人学生6人を引率して九州福岡へ取材ツアーに出かけた際、北九州市在住の氏と知り合った。学生たちが師村さんに関する記事や映像を発表したことが縁となって親交を深め、開幕式に招かれた。会場には学生の作成したドキュメンタリー映像も流され、見学者から「感動した」との感想も届いた。
師村さんについては、このブログでもたびたび取り上げてきたが、伝統的な毛筆書のほか、甲骨文字と現代アートを組み合わせた独自の作風で知られる。篆刻研究の最高権威である杭州・西冷印社の名誉社員でもあり、中国書道界で幅広く知られている。開幕式では、師村さんから「夢中華」の毛筆が寄贈された。
師村さんは日中国交正常化直後の1972年10月に訪中して以来、中国への渡航回数は今回が207回目を数えた。各地で30回近くも個展を重ねてきたが、漢字の源流を伝える安陽での開催については、開幕のスピーチで「長年の夢であり、望外の喜びだ」と語った。文字博物館で外国人が個展を開くのは初めてという快挙でもある。これまでの漢字を通じた中国との縁を考えれば、さぞ感慨深いものがあったに違いない。
今回は初めて、漢字からひらがなが生まれる過程を毛筆で描いた作品をメーンに据え、タイトルを「漢字からひらがな」とした。実は、これは日中の漢字文化交流にかかわる画期的な出来事である。
安陽は20世紀に入り、中国で最古の甲骨文字が発見されたことがきっかけとなって、殷(商)王朝の首都遺構であることが判明し、世界遺産に登録された殷墟がある。中国文明、漢字文化発祥の地であり、そこに2009年、建てられたのが中国文字博物館だ。
博物館には漢字の歴史のほか、アルファベットやアラビア語、ハングルなど世界の文字が収められているが、残念なことに日本のひらがな、カタカナは含まれていない。漢字から派生した亜流の文字だということなのか。それを知った師村さんは、出展作を同博物館にそのまま寄贈することで、ひらがなを世界の文字のショーウインドーに残そうと考えた。平安時代、漢字から生まれたひらがなが、千数百年を経て故郷に帰ったわけだ。
開幕式には、かな文字文化に詳しい名児耶明・五島美術館副館長も参加し、漢字の簡略化と日本人独特の美意識によってひらがなが生まれた歴史について簡単な紹介をした。また、地元の書道愛好家や中学生ら200人以上も集まり、師村妙石さんにサインをせがんで群がった。さすが漢字の故郷だと実感した。
師村さんにとって、8月8日は吉祥だけではない、深い思い入れがある。24歳の若さで他界した長男の名が「八(ひらく)」だった。
師村八さんは父親の影響で中国への関心を深め、12歳の時に父と一緒に中国を訪れ、高校卒業後、上海中医薬大学に留学した。その間、旧式の自転車で2004年6月から一か月以上をかけ、上海から蘇州や南京、合肥、鄭州、済南など23の都市をめぐる計4000キロの旅を敢行した。途中、安陽にも立ち寄っている。
ところが2006年、日本に戻ってサイクリングを続けたが、1月の厳寒期、岡山市の公園で野宿をした際、テントの中で使った暖房が原因でガス中毒死した。以来、妙石さんは毎日、命の尊さを願いながら「寿」の印を彫り続け、すでに3400以上になった。88歳になったときには1万個になるという。
八さんの遺品から、亡くなる前日までつけていた日記と写真が見つかり、妙石さんはそれを手にし、息子が自転車で通った道を車でたどった。息子が旅行中に出会った18人にも会い、生前の様子に耳を傾けた。そして、その日記を『駆け抜けたヒラク 人生の旅』のタイトルで出版した。
すでに中国語版の発行が決まり、八さんの弟で、やはり中国語の堪能な師村冠臣(かんじ)さんが翻訳作業を進めている。漢字文化の交流史に、師村さん家族は貴重な足跡を残したといえる。そんな感慨を残した夏休みの河南行であった。
(北京にて)
そんなめでたい日、中国河南省安陽の中国文字博物館で日本の篆刻書道家、師村妙石さんの個展「漢字からひらがなへ」が開幕し、私も友人として式典に参加した。日中平和友好条約締結40周年の記念イベントでもあり、北京の日本大使館から大使代理も訪れた。日本の文化庁が後援したのも、個人のイベントとしては異例のことだ。私が夏休みの帰国中、わざわざ出かけたのにはわけがある。
昨年、中国人学生6人を引率して九州福岡へ取材ツアーに出かけた際、北九州市在住の氏と知り合った。学生たちが師村さんに関する記事や映像を発表したことが縁となって親交を深め、開幕式に招かれた。会場には学生の作成したドキュメンタリー映像も流され、見学者から「感動した」との感想も届いた。
師村さんについては、このブログでもたびたび取り上げてきたが、伝統的な毛筆書のほか、甲骨文字と現代アートを組み合わせた独自の作風で知られる。篆刻研究の最高権威である杭州・西冷印社の名誉社員でもあり、中国書道界で幅広く知られている。開幕式では、師村さんから「夢中華」の毛筆が寄贈された。
師村さんは日中国交正常化直後の1972年10月に訪中して以来、中国への渡航回数は今回が207回目を数えた。各地で30回近くも個展を重ねてきたが、漢字の源流を伝える安陽での開催については、開幕のスピーチで「長年の夢であり、望外の喜びだ」と語った。文字博物館で外国人が個展を開くのは初めてという快挙でもある。これまでの漢字を通じた中国との縁を考えれば、さぞ感慨深いものがあったに違いない。
今回は初めて、漢字からひらがなが生まれる過程を毛筆で描いた作品をメーンに据え、タイトルを「漢字からひらがな」とした。実は、これは日中の漢字文化交流にかかわる画期的な出来事である。
安陽は20世紀に入り、中国で最古の甲骨文字が発見されたことがきっかけとなって、殷(商)王朝の首都遺構であることが判明し、世界遺産に登録された殷墟がある。中国文明、漢字文化発祥の地であり、そこに2009年、建てられたのが中国文字博物館だ。
博物館には漢字の歴史のほか、アルファベットやアラビア語、ハングルなど世界の文字が収められているが、残念なことに日本のひらがな、カタカナは含まれていない。漢字から派生した亜流の文字だということなのか。それを知った師村さんは、出展作を同博物館にそのまま寄贈することで、ひらがなを世界の文字のショーウインドーに残そうと考えた。平安時代、漢字から生まれたひらがなが、千数百年を経て故郷に帰ったわけだ。
開幕式には、かな文字文化に詳しい名児耶明・五島美術館副館長も参加し、漢字の簡略化と日本人独特の美意識によってひらがなが生まれた歴史について簡単な紹介をした。また、地元の書道愛好家や中学生ら200人以上も集まり、師村妙石さんにサインをせがんで群がった。さすが漢字の故郷だと実感した。
師村さんにとって、8月8日は吉祥だけではない、深い思い入れがある。24歳の若さで他界した長男の名が「八(ひらく)」だった。
師村八さんは父親の影響で中国への関心を深め、12歳の時に父と一緒に中国を訪れ、高校卒業後、上海中医薬大学に留学した。その間、旧式の自転車で2004年6月から一か月以上をかけ、上海から蘇州や南京、合肥、鄭州、済南など23の都市をめぐる計4000キロの旅を敢行した。途中、安陽にも立ち寄っている。
ところが2006年、日本に戻ってサイクリングを続けたが、1月の厳寒期、岡山市の公園で野宿をした際、テントの中で使った暖房が原因でガス中毒死した。以来、妙石さんは毎日、命の尊さを願いながら「寿」の印を彫り続け、すでに3400以上になった。88歳になったときには1万個になるという。
八さんの遺品から、亡くなる前日までつけていた日記と写真が見つかり、妙石さんはそれを手にし、息子が自転車で通った道を車でたどった。息子が旅行中に出会った18人にも会い、生前の様子に耳を傾けた。そして、その日記を『駆け抜けたヒラク 人生の旅』のタイトルで出版した。
すでに中国語版の発行が決まり、八さんの弟で、やはり中国語の堪能な師村冠臣(かんじ)さんが翻訳作業を進めている。漢字文化の交流史に、師村さん家族は貴重な足跡を残したといえる。そんな感慨を残した夏休みの河南行であった。
(北京にて)