行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・文化論】「美」は大きい羊である・・・美と食は不可分

2015-12-22 21:52:10 | 日記
先日、中国の友人と話していて、中国では「美」を表現するのにしばしば「食」と関連のある言葉が用いられるという話題になった。彼女がそのいい例だとして挙げたのは、「秀色可餐」だ。「秀」は文字通りすぐれていること、「色」は容姿、「餐」は本来、食べることだが総じて楽しむことを指す。みなで愛でるべき美女に送られる言葉である。

日本でも美食家と言うが、中国ではそのほか美食街(グルメ街)、美食城(フードコート)、美食節(食品展)などの言い方がある。美と食は不可分なのだ。法家の書『韓非子』(六反)にも「今、家人の産を治むるや、相忍ぶに飢寒をもってし、相い強うるに労苦をもってす。軍旅の難、飢饉の憂いを犯すといえども、温衣美食する者は、必ずこの家なり(今、家族が暮らしを立てていくのに、飢えや寒さをたがいにこらえ、苦労な仕事を励ましあっているとしよう。たとえ戦争の災難や飢饉の災害があっても、温かい着物を着てうまいものを食べておれるのは、きっとこうした家である)」(金谷治訳)とあるから、「美食」の歴史は2000年以上になる。

中国最古の部首別字書『説文解字』によると、「美は甘である。羊の大なるをいう」とあり、「甘は美である、口の一を含むをいう」とあるそうだ。美は甘(うまい)いに通じ、しかも大きな羊だという。言葉からも美は食と深い結びつきがある。このことを初めて知ったのは、李沢厚著『中国の伝統美学』(興膳宏・中純子・松家裕子訳)だった。中国思想史や美学史多大な貢献をした学者である。祭祀に際して羊の頭や角を使って演じられるトーテム舞踊が「美」と表現された、というのが李沢厚氏の説だった。

「人類の審美意識の歴史的発展から考えると、実用的な功利や道徳上の善とは異なる最初の美の認識は、味と音と色が引き起こす感覚器官の快感と不可分のものであった」とする李沢厚氏は、「飢えた人は、往々にして、食物の味がわからない。食物は彼(彼女)にとってただ腹を満たすためのものにすぎない。その人が食べ物の味に気を遣い、気に入った味を求めるようになってはじめて、ちょうど衣服の色あいやデザインに凝り、それを追求するのが、体を覆ったり、寒さを防ぐためではないのと同様に、生理的需要の満足という基礎の上にプラスαが芽生え始めたことをはっきり示すことになるのである」と指摘した。

原初的な感覚と社会性をもった巫術とがマッチしたものが「美」に凝縮されている。李氏はこういうのだが、なかなか難解で浅学の身にはつかみどころがない。

私はむしろ人間の自然な感覚を重んじたい。人類にとって食は、今でいうグルメといった贅沢なものではなく、生きるか死ぬか生存をかけた一大事だった。貴重な羊を神に捧げる儀式もまた、自然の脅威に対する畏れ、つまり切実な生への願望が表現されているとみるべきである。食欲は生きたいと願うことであり、生きることの象徴が食であり口だった。古人は、人が必死に生きようとする姿を見て「美」を感じたのではないだろうか。現代人が忘れてしまった美意識を持っていたと言うことはできまいか。とは言え、現代にまで美と食の関係が続いていることを思えば、潜在的にはまだわれわれも、生きることの根源的な美意識を忘れずにいるのかも知れない。

年末、暴飲暴食が続きがちだが、時には生の美を感じながら甘(うま)いものと甘(うま)い酒を楽しみたいものである。

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