行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

ブログ開設1年・・・独立記者としての気持ちを新たに「柳暗花明又一村」

2016-07-05 22:14:14 | 日記
気が付けば早いもので、このブログを開設して1年が経過した。日記とコラムの中間に位置するような文章を書き続けた。筆墨をいたずらに費やすこともしばしばだったが、真実を語るという大原則を曲げたことはない。世間に迎合する言説を振りまくことも慎んできた。正直な自分に向き合うことを心掛けてきた。

1年前、7月1日の最初の一文には次の言葉がある。

「新聞記者には新聞がある。その場を失った私は、別の形で伝えようと思う。記者魂は死なない」

フリー・ジャーナリストという。だが私は「独立記者」の肩書を名刺に刻んだ。絶対的な自由はない。自由は相対的なものである。時や場所によって七変化する。言論の自由も黙っていて与えられるものではなく、日々、勝ち取る責任を負っている。形式ばかりの自由に安住し、責任を回避する人々をたくさん見てきた。錦の御旗のように自由を振りかざす人を見て、嫌悪感を抱いてきた。どうも自由という言葉に胡散臭いものを感じる。それならば、と「独立」を選んだ。

どういうわけか日本では「独立」という言葉がなじまない。世界では「independent journalist」は当たり前の呼称であるし、中国では権力と距離を置き、多大なるリスクを払いながら発言を続ける尊敬すべき「独立学者」がいる。日本は組織を重んじ、組織の名においてしか関係を築きにくい社会である。実際、新聞記者の肩書を失ったとたん、私との距離を置いた人たちも少なくなかった。だからこそ独立記者にこだわった。

うれしいことにようやくこの肩書が認められた。7月28日、日中関係学会で講演をするのだが、その案内にちゃんと私が申告した肩書が使われている。この1年間で初めてのことだ。よき理解者の心遣いである。
(日中関係学会HP)http://www.mmjp.or.jp/nichu-kankei/kenkyuukaiichirann/160728kennkyuukaiannnai.pdf

中国で多くの友に恵まれた。彼らは組織を離れた私を、いや組織を離れた私だからこそ、以前にも増して大切にしてくれた。私は中国を離れる際、「必ず帰ってくる」と約束した。その約束も、彼らの助けによって果たすことが出来るかもしれない。そんな予感が強まっている。

猛暑続きだったせいか、今日は涼しい1日に感じられた。見慣れた周囲の光景も、どこか優しく感じられた。今日7月5日は記念すべき日になるのかも知れない。いやそうするよう努めるという態度でなければ、独立記者にはふさわしくない。

陸游によく知られた『遊山西村』の詩がある。

莫笑農家臘酒渾  笑う莫(な)かれ農家の臘酒(ろうしゅ)の渾(にご)れるを

豊年留客足鶏豚  豊年 客を留むるに鶏豚足れり

山重水複疑無路  山重水複 路(みち)無きかと疑い

柳暗花明又一村  柳暗花明 又た一村

簫鼓追随春社近  簫鼓(しょうこ)追随して 春社近く

衣冠簡朴古風存  衣冠簡朴(かんぼく)にして 古風存す

従今若許閑乗月  今より若(も)し閑(しず)かに月に乗ずるを許さば

拄杖無時夜叩門  杖を拄(つ)き 時無くして夜門を叩(たた)かん

笑わないでくださいな。農家が正月に飲む酒はどぶろくなのかなどと。昨年は豊作で、お客さんをもてなす鶏や豚はたっぷりありますからご心配なく。農民の飾らない言葉は常に温かい。
山が重なり合って、間を流れる川がくれぬように流れ、道はもう行き止まりかと不安に思っていると、柳が茂ってほの暗い奥に、桃の花がくっきりと明かりを放つように見える。また新しい村が続いているのだとホッとする。開けた視界の先に、人の営みがあると実感できるのは幸せなことだ。
笛や太鼓の音が追いかけっこをするように鳴り響いて、春の祭典も間もなくだ。村人の服装は質素で素朴で、長く引き継がれてきた生活の伝統が感じられる。名利を追うことにあくせくしている町の生活とはまったく違う。
これから先、月が出た折にまたのんびりと遊びに来てもいいと誘ってもらえるのであれば、杖をつき、時間も決めずに、夜の門をたたくことにしましょうか。やっぱりどんな時も優しく、温かく迎えてくれる農村はいい。

「柳暗花明 又一村」・・・そんな先が見えてきた。

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