昨日、汕頭大学にいる広東省出身の教師とお茶を飲んでいて、習近平の父、習仲勲の文化保護についての話題を振ったら、興味深いエピソードを教えられた。広東省でよく知られた禅宗の南華寺でも、習仲勲の遺徳が語り継がれているという。その詳細は、中国仏教界の名士、佛源法師の口述記録に残っている。
南華寺は、中国広東省北部の韶関市曲江区にあり、南北朝時代の502年に創建された。中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6番目の祖、慧能(638-713)が36年間、この寺で仏法を説き、潙仰、臨済、雲門、曹洞、法眼の五宗を広めた。うち臨済宗は日本に伝わって栄えたゆかりがある。慧能は、「本来無一物」と悟りの境地を詠んだ伝説でも知られる。
南華寺には慧能の像が残されているが、死後、全身を漆塗りにした仏像=真身で、中国に現存する最古のミイラと言われる。この仏像が、文化大革命時代、紅衛兵によって破壊され、あやうく消失の危機にさらされた。
雲門寺で方丈を務めた元広東省仏教協会副会長、佛源法師が1992年、南華寺の方丈に迎えられた際、以下のような口述を残している。
文革期、慧能の真身が紅衛兵の攻撃に遭い、「くそ野郎、偽物だ、人を騙すものだ」とののしられ、焼き払われそうになった。胸や背中の部分に穴があけられ、大仏殿に放り投げられた。肋骨や背骨が一面に散乱し、紅衛兵は「豚の骨だ」「犬の骨だ」と「偽物だ」とののしった。そのうえ、真身の頭に鉄の鉢をかぶせ、顔のところに「壊蛋(くそ野郎)」の二文字を書いた。
僧たちは見ることを許されなかったが、こっそり盗み見た佛源法師は、悲しくて涙を禁じ得なかった。ひそかに放り棄てられた六祖の遺骨を拾い集めたが、隠し場所に悩んだ。自分がいつ殺されるかもわからず、そうなれば永遠に失われてしまう。そこで佛源法師は、後人が見つけやすいように、箱に入れて裏山にある大木の下に埋めた。そして、香港にいる仲間に手紙を送り、こちらに来てカメラで現場を写し、混乱が収まってから取り出すよう頼んだ。
文革が終結した後、佛源法師は北京の仏教学院に行って教鞭をとった。そして1980年、仏教界の有力者にこの一大事を打ち明けた。まだ完全には仏教蔑視の風潮が抜け切れていない状況だった。有力者は当時、広東省のトップだった習仲勲に手紙を書き、南華寺の荒廃を復旧するよう陳情をした。
習仲勲は自らも冤罪によって16年に及ぶ迫害を受けた身であり、人情に厚く、開明的な姿勢はよく知られていた。習仲勲はさっそく人を派遣し、なお抵抗する勢力に対し、「あなたたちが同意しようがしまいが、必ず回復させる」と言って、復旧作業を受け入れさせた。土から取り出された慧能の骨は、湿気の多い南方の気候のため、損傷が著しかったが、炭を焼いて乾燥させ、ビャクダンの木に張り付けて真身に戻した。僧服を着せ、漆で塗り固めた。
慧能を師と仰ぐ佛源法師が、涙ながらに語る苦難の歴史である。佛源法師自身、1950年代後半の反右派闘争では投獄され、文革期には死さえも覚悟するほどの迫害を受けた。佛源法師を救ったのは、当時、北京にいて惨状の報告を受けた周恩来首相だった。周恩来が、広東省で影響力のある葉剣英元帥に連絡を取り、法師を救い出したのだ。
一方、習仲勲はすでに文革前、無実の罪を負わされ、監禁状態に置かれたが、彼を見舞い、励まし、特別に家族との面会をセットしてくれたのも周恩来だった。1972年のことだ。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長し、白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。ちょうど習近平も陝西省の農村に送られ、慣れない農作業を経験しているころだった。
周恩来が亡くなった1976年1月、洛陽の耐火材料工場で働いていた習仲勲は、知らせを聞いて、部屋の外に聞こえるぐらい大きな声を上げて泣いた。名誉回復後の79年4月には、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(同月8日)にほぼ全文が転載された。
習ファミリーにとって、周恩来は習仲勲の冤罪を晴らした胡耀邦と並ぶ恩人である。いずれも異なる意見や宗教に寛容で、文化の価値を重んじた指導者だった。
南華寺は、中国広東省北部の韶関市曲江区にあり、南北朝時代の502年に創建された。中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6番目の祖、慧能(638-713)が36年間、この寺で仏法を説き、潙仰、臨済、雲門、曹洞、法眼の五宗を広めた。うち臨済宗は日本に伝わって栄えたゆかりがある。慧能は、「本来無一物」と悟りの境地を詠んだ伝説でも知られる。
南華寺には慧能の像が残されているが、死後、全身を漆塗りにした仏像=真身で、中国に現存する最古のミイラと言われる。この仏像が、文化大革命時代、紅衛兵によって破壊され、あやうく消失の危機にさらされた。
雲門寺で方丈を務めた元広東省仏教協会副会長、佛源法師が1992年、南華寺の方丈に迎えられた際、以下のような口述を残している。
文革期、慧能の真身が紅衛兵の攻撃に遭い、「くそ野郎、偽物だ、人を騙すものだ」とののしられ、焼き払われそうになった。胸や背中の部分に穴があけられ、大仏殿に放り投げられた。肋骨や背骨が一面に散乱し、紅衛兵は「豚の骨だ」「犬の骨だ」と「偽物だ」とののしった。そのうえ、真身の頭に鉄の鉢をかぶせ、顔のところに「壊蛋(くそ野郎)」の二文字を書いた。
僧たちは見ることを許されなかったが、こっそり盗み見た佛源法師は、悲しくて涙を禁じ得なかった。ひそかに放り棄てられた六祖の遺骨を拾い集めたが、隠し場所に悩んだ。自分がいつ殺されるかもわからず、そうなれば永遠に失われてしまう。そこで佛源法師は、後人が見つけやすいように、箱に入れて裏山にある大木の下に埋めた。そして、香港にいる仲間に手紙を送り、こちらに来てカメラで現場を写し、混乱が収まってから取り出すよう頼んだ。
文革が終結した後、佛源法師は北京の仏教学院に行って教鞭をとった。そして1980年、仏教界の有力者にこの一大事を打ち明けた。まだ完全には仏教蔑視の風潮が抜け切れていない状況だった。有力者は当時、広東省のトップだった習仲勲に手紙を書き、南華寺の荒廃を復旧するよう陳情をした。
習仲勲は自らも冤罪によって16年に及ぶ迫害を受けた身であり、人情に厚く、開明的な姿勢はよく知られていた。習仲勲はさっそく人を派遣し、なお抵抗する勢力に対し、「あなたたちが同意しようがしまいが、必ず回復させる」と言って、復旧作業を受け入れさせた。土から取り出された慧能の骨は、湿気の多い南方の気候のため、損傷が著しかったが、炭を焼いて乾燥させ、ビャクダンの木に張り付けて真身に戻した。僧服を着せ、漆で塗り固めた。
慧能を師と仰ぐ佛源法師が、涙ながらに語る苦難の歴史である。佛源法師自身、1950年代後半の反右派闘争では投獄され、文革期には死さえも覚悟するほどの迫害を受けた。佛源法師を救ったのは、当時、北京にいて惨状の報告を受けた周恩来首相だった。周恩来が、広東省で影響力のある葉剣英元帥に連絡を取り、法師を救い出したのだ。
一方、習仲勲はすでに文革前、無実の罪を負わされ、監禁状態に置かれたが、彼を見舞い、励まし、特別に家族との面会をセットしてくれたのも周恩来だった。1972年のことだ。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長し、白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。ちょうど習近平も陝西省の農村に送られ、慣れない農作業を経験しているころだった。
周恩来が亡くなった1976年1月、洛陽の耐火材料工場で働いていた習仲勲は、知らせを聞いて、部屋の外に聞こえるぐらい大きな声を上げて泣いた。名誉回復後の79年4月には、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(同月8日)にほぼ全文が転載された。
習ファミリーにとって、周恩来は習仲勲の冤罪を晴らした胡耀邦と並ぶ恩人である。いずれも異なる意見や宗教に寛容で、文化の価値を重んじた指導者だった。