行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

習近平の父が守った伝統文化の価値(その2)

2017-11-04 10:02:10 | 日記
昨日、汕頭大学にいる広東省出身の教師とお茶を飲んでいて、習近平の父、習仲勲の文化保護についての話題を振ったら、興味深いエピソードを教えられた。広東省でよく知られた禅宗の南華寺でも、習仲勲の遺徳が語り継がれているという。その詳細は、中国仏教界の名士、佛源法師の口述記録に残っている。



南華寺は、中国広東省北部の韶関市曲江区にあり、南北朝時代の502年に創建された。中国禅宗の祖である達磨大師から数えて6番目の祖、慧能(638-713)が36年間、この寺で仏法を説き、潙仰、臨済、雲門、曹洞、法眼の五宗を広めた。うち臨済宗は日本に伝わって栄えたゆかりがある。慧能は、「本来無一物」と悟りの境地を詠んだ伝説でも知られる。



南華寺には慧能の像が残されているが、死後、全身を漆塗りにした仏像=真身で、中国に現存する最古のミイラと言われる。この仏像が、文化大革命時代、紅衛兵によって破壊され、あやうく消失の危機にさらされた。

雲門寺で方丈を務めた元広東省仏教協会副会長、佛源法師が1992年、南華寺の方丈に迎えられた際、以下のような口述を残している。

文革期、慧能の真身が紅衛兵の攻撃に遭い、「くそ野郎、偽物だ、人を騙すものだ」とののしられ、焼き払われそうになった。胸や背中の部分に穴があけられ、大仏殿に放り投げられた。肋骨や背骨が一面に散乱し、紅衛兵は「豚の骨だ」「犬の骨だ」と「偽物だ」とののしった。そのうえ、真身の頭に鉄の鉢をかぶせ、顔のところに「壊蛋(くそ野郎)」の二文字を書いた。

僧たちは見ることを許されなかったが、こっそり盗み見た佛源法師は、悲しくて涙を禁じ得なかった。ひそかに放り棄てられた六祖の遺骨を拾い集めたが、隠し場所に悩んだ。自分がいつ殺されるかもわからず、そうなれば永遠に失われてしまう。そこで佛源法師は、後人が見つけやすいように、箱に入れて裏山にある大木の下に埋めた。そして、香港にいる仲間に手紙を送り、こちらに来てカメラで現場を写し、混乱が収まってから取り出すよう頼んだ。

文革が終結した後、佛源法師は北京の仏教学院に行って教鞭をとった。そして1980年、仏教界の有力者にこの一大事を打ち明けた。まだ完全には仏教蔑視の風潮が抜け切れていない状況だった。有力者は当時、広東省のトップだった習仲勲に手紙を書き、南華寺の荒廃を復旧するよう陳情をした。

習仲勲は自らも冤罪によって16年に及ぶ迫害を受けた身であり、人情に厚く、開明的な姿勢はよく知られていた。習仲勲はさっそく人を派遣し、なお抵抗する勢力に対し、「あなたたちが同意しようがしまいが、必ず回復させる」と言って、復旧作業を受け入れさせた。土から取り出された慧能の骨は、湿気の多い南方の気候のため、損傷が著しかったが、炭を焼いて乾燥させ、ビャクダンの木に張り付けて真身に戻した。僧服を着せ、漆で塗り固めた。

慧能を師と仰ぐ佛源法師が、涙ながらに語る苦難の歴史である。佛源法師自身、1950年代後半の反右派闘争では投獄され、文革期には死さえも覚悟するほどの迫害を受けた。佛源法師を救ったのは、当時、北京にいて惨状の報告を受けた周恩来首相だった。周恩来が、広東省で影響力のある葉剣英元帥に連絡を取り、法師を救い出したのだ。

一方、習仲勲はすでに文革前、無実の罪を負わされ、監禁状態に置かれたが、彼を見舞い、励まし、特別に家族との面会をセットしてくれたのも周恩来だった。1972年のことだ。離散から再会まで、長男の習近平は12歳から19歳、次男の習遠平は9歳から16歳に成長し、白髪の目立ち始めた習仲勲はやせ衰え、長男と次男の区別もつかなかった。ちょうど習近平も陝西省の農村に送られ、慣れない農作業を経験しているころだった。

周恩来が亡くなった1976年1月、洛陽の耐火材料工場で働いていた習仲勲は、知らせを聞いて、部屋の外に聞こえるぐらい大きな声を上げて泣いた。名誉回復後の79年4月には、共産主義青年団機関誌『中国青年』に「永遠に忘れがたい旧情」と題する周恩来への追悼文を書き、『人民日報』(同月8日)にほぼ全文が転載された。

習ファミリーにとって、周恩来は習仲勲の冤罪を晴らした胡耀邦と並ぶ恩人である。いずれも異なる意見や宗教に寛容で、文化の価値を重んじた指導者だった。


習近平の父が守った伝統文化の価値

2017-11-04 08:34:31 | 日記
習近平総書記の父、習仲勲元副総理(1913-2002)は、政治闘争に巻き込まれ、生涯のうち30年近くを不遇のうちに過ごした。だが、自らは人を打倒したり、貶めたりすることに加担せず、異なる意見の発言を保護する法律の構想を語った。陝西省の片田舎に生まれ育ち、革命と戦争の時代でろくな学校教育を受けていないが、伝統文化の保護においてはいくつかのエピソードが残されている。日本と縁の深いものを紹介する。



2015年の幕開けに際し、習近平が執務室から新年メッセージを語った際の映像が話題を呼んだ。そのうちの一つが、後ろの書棚に置かれていた本『群書治要(ぐんしょちよう)』だった。署名は習仲勲が揮毫したもので、商魂たくましい出版社は早速、宣伝に利用した。





『群書治要』と習仲勲との関係に、彼の足跡が刻まれている。

同書は、唐朝の皇帝太宗が631年、それまでに伝わる諸子百家をはじめとする治世の書を編ませ、貞観の治の参考書として利用したとされる。計65巻あったとされるが散逸し、日本の遣唐使が持ち帰ったものが金沢文庫に伝えられ、江戸時代に写本が出された。中国から持ち帰った最初の写本は現在、宮内庁書陵部に所蔵されている。過去にも中国で失われた書、例えば足利学校所蔵の『論語義疏』など、が日本で発見され、コピーが里帰りするケースはしばしばあり、文化保護における日中の相互補完関係は無視できない。

さて、話は現代に移る。日中関係が緊密化した1990年代、皇室関係者が『群書治要』の写しを、元駐日大使の符浩氏にプレゼントした。符浩は陝西人である。早速、故郷の陝西省黄河文化経済発展研究会に託し、研究が始まった。この事業を積極的に支持し、力強い後ろ盾となったのが陝西省グループの重鎮、習仲勲である。機縁がもとで、2011年、正式に中国の団結出版社から出版される際、彼が生前に残した揮毫が用いられることになった。

思えば清朝時代、日本に駐在した清朝外交官は、中国で散逸した古書の収集も重要な任務であった。だが当時の両国関係を思えば、政治的な謀略でもない限り、皇室の財産が清朝にもたらされることは至難だっただろう。日中関係の改善によって初めて、『群書治要』は中国への里帰りが可能となった。この中国の伝統文化保存において、習仲勲は多大なる功績を残したと言える。

忘れてならないのは、習仲勲は1980年以降、当時の胡耀邦総書記のもとで、秘書役の党中央書記局書記などを務めたが、胡耀邦や趙紫陽など開明的な指導者を支持し続けたことで中央から排斥され、天安門事件後の90年には事実上の引退を強いられていたことだ。それでもなお、習仲勲が日本からの文化逆輸入にかかわり、伝統の保護に力を尽くしたことは、やはり日中蜜月時代を作った胡耀邦の薫陶を抜きには考えられない。

公式伝記である『習仲勲伝』には改革・開放後、オーストラリアや米国、スイス、デンマークなど欧米への訪問歴はあるが、訪日歴は見当たらない。抗日戦争期は陝西省の根拠地を守り抜いたため、敵は奥地まで入ってきた国民党軍であり、直接、日本軍と戦った経験はない。日本とのかかわりは唯一、習仲勲が党中央書記局書記として思想文化を担当していた1980年代、画家、范曾(北京大中国画法研究院院長)の日本での作品展について7行分だけ記載がある。

中国美術界に「范曾は中国を代表する画家ではない」と意見があり、関係部門が対応に苦慮して習仲勲に相談を持ちかけた。習仲勲は「日本人は中国画、中国の画家が好きなのだからいいじゃないか」と問題を複雑化させず、実現にこぎつけた。習仲勲は60年代、ある“反党的”小説の審査にかかわったとして冤罪を負わされ、16年間、政治的迫害を受けた。文化を名目にして打倒された老兵が、文化を政治問題にせず、「日本人が好きなのだから、いいことではないか」と残した言葉は重い。庶民の視線を生涯貫いた政治家だった。

習近平の書棚にある『群書治要』は、父親が保存にかかわった中国伝統文化の遺産であると同時に、習近平が語る「治国理政」、もっと言えば、いわゆる「習近平思想」の虎の巻である。こう考えれば、紅二代の血の濃さがより深く理解できる。中国で「黄河文化」、「中華文化」などの大仰な名前がつく半ば公式の団体は、革命世代の長老が創設し、その二代目が名誉職を継いでいるケースがしばしばある。

問題は、習近平がどこまで、『群書治要』が今日に残された意義を理解しているかどうかである。そこには国境も、政治的立場も、身分階級をも超えた、普遍的な価値がある。ただ単に虎の巻として引用するだけでは、伝統文化を継承していることにはならない。