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「トナンノココロタレカシルーーー。 ・・・ セキアンワラウサカシサヨー。」 |
[荘子:内篇の素読]
こんな歌声が聞こえてきたのはずいぶん古い話である。私の学生時代か、卒業して間もない頃だからなあ。う~ん。
この男声合唱団の歌声は、高校野球の勝利校を讃える「校歌斉唱」の声であることがわかった。どこかのラジオから聞こえてきたものらしい。
歌詞の詳細は忘れてしまったが、記憶に残っているのが、「トナンノココロタレカシル」、「セキアンワラウサカシサヨ」である。これは、明らかに「図南の心、誰か知る」、「斥鴳笑う賢しさよ」であり、まさしく「荘子」逍遥遊篇の「大鵬図南」のお話である。
校歌の一節に漢籍を引用する場合、通常は儒家系統の文献から引いてくることが多いと思われるが、この学校の校歌はめずらしく、「道家」を典拠としている。感銘深い。最後まで聴いた。
校歌とか校訓といえば、即物的な修身道徳の項目を提示するのが常であるが、この学校の校歌はきわめて哲学的であり深淵である。その上、その歌詞は、荘子:逍遥遊篇、冒頭の一番魅力的で味わい深い一節を祖述している。
折に触れて、この校歌を歌う高校生たちは、将来、何かの折に、この歌詞の意味を「じわーっ」と感じるときがあるに違いない。
このような魅力的な校歌をもつ学校は、どこの学校だったのだろうか。高校野球の出場校を検索してもわからないだろう。
この校歌をかみしめながら育った学生たちは、おおらかに大きくはばたいていったことだろう。
ところで「荘子」を「そうし」とよんだり、「そうじ」とよんだりする。
ある人は、人物名を呼ぶときは「そうし」とよみ、著書としての『荘子』を呼ぶときは「そうじ」とよむという。「荘子」といっても、そのさすところが人物のことなのか書物のことなのかが瞬時にわからないので、このような区別をするという。
また、ある人は、人物名も書名も、ともに「そうじ」とよむという。その理由は、孔子の弟子である「曾子(曾参)」との混同をさけるためであるという。なぜ「荘子」の方が儒家に遠慮しなければならないのか、釈然としないが、とにかく、「荘子」の呼び方一つにもいろいろと流儀があるようだ。(福永光司先生は、前記の人物名と書名を呼び分ける方式をとっている)
私は、大学時代のある先生が人物名・書名とも「そうじ」と言っていたので、両方ともそうよんでいる。
まあ、こんなに細かいことをいっていたら、小さな魚の卵が巨鳥に変身したり、節くれ立って曲がりくねった大木が最高の木になるような「荘子」の世界には入り込めないであろう。あの校歌で育った人たちに笑われてしまう。
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大砲雲に羽ばたけば
たちまちのぼる九万理
図南の心誰か知る
蓬が露にそぼぬれて
人目隠れに餌をあさる
斥鴳笑うさかしさよ
この校歌は私の母校、
久留米市立久留米商業高校の校歌です。
たしか昭和58年に夏の高校野球甲子園大会で準決勝で横浜高校に敗れました。その頃在学中でしたので夜行バスで応援に行きました。
斥鴳の意味がわからず検索をかけたらここに辿りつきました。
ありがとうございました。