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まんさくの花と鍋釣山

2013年03月26日 | 集落

鍋釣山(海抜444m)頂上から集落の写真だ。約12㎞西南西の方角には海抜777mの東鳥海山がある。444と777の揃う山があるところは全国的に珍しのではないか。例の世界では777は確変で444は超確変ありの数字とも言われている。
鍋釣山は地元では、地名から通称小坂山と云う。鍋釣の名の通り半円形した形の山で、正面は30度超すような急峻な山だ。このほどスノーシュー第三回目として、神應寺後ろ「相の沢」を通り東福寺山稜線沿いに約1時間半ほどかかって登頂した。

集落の海抜は150㍍前後だから、この写真とは標高差約300mとなる。
中央の道路境にして左側が「麓集落」、右が「川連集落」、写真にはないが川連のさらに右側が「上野集落」三つの集落は行政区に分かれているが、合同で川連大集落を形成している。

集落の生い立ちはとても古い。天喜5年(1057)上野集落に八幡神社、川連集落に康平年中(1058~1064)神應寺が建立され、その後麓集落へ長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)八坂神社、天正元年(1573)能恵姫伝説の龍泉寺が川連集落、麓集落妙音寺の先達は伊勢の世儀寺。文化、文政(1818~1829)年間のころは「権大僧都、密雲権月法印」が修験者。妙音寺最後の和尚は「黒滝賢瑞」といい、跡地の近くに「黒滝氏」歴代の墓地がある。

夏の鍋釣山(2012.8.24)と熊出没ののぼり

現在は145戸ほどの集落にかつて二つの神社、三つのお寺があった。龍泉寺は明治22年火災により約1㎞離れた野村集落へ移り、妙音寺は明治の廃仏棄釈(明治5年)で無くなった。
今は二つの神社と一つのお寺がある。
鍋釣山南南西の方角400mは川連城(別名黒滝城)があったところだ。麓の地名は「角川日本地名大辞典」よればお城の武家屋敷群といわれており集落内の道路、屋敷跡にその足跡がうかがわれる。約千年ほどになる神社、お寺から推察してもすでに集落が形成され、人々の暮らしがあった。阿弖流為の時代も想像される。

天正18年(1590)、秀吉の検地に反発して起きた川連一揆。川連城を中心に増田城、山田城(湯沢市山田の説もあるが、上野集落八幡神社東に八幡館、山田城があったとの説もある)川連一揆は川連地区を中心に2万人とも2万5千人が上杉(景勝)、大谷(吉継)の武力で約一ケ月で鎮圧された。一揆方の死者は300人と云われている(常陸志筑本堂家譜)が、他の説には一揆衆の首1,580を討ち取り、上杉、大谷勢にも討死200余、負傷500余の被害が生じる激しい戦闘となったとも云われている。一揆の主体は年貢に苦しむ百姓、土豪層だったことに変わりはない。

その後蔵入地代官として乗り込んだ、最上義光勢と小野寺一族は激しく対抗することになり、長引いた紛争などを契機として、慶長6年(1601)小野寺一族は全所領を没収され約400年この地に君臨してきた小野寺一族は滅び、佐竹氏の移封、支配の時代となった。この集落はこの戦いで神應寺を含めてことごとく焼き払われたと伝えられている。これは川連城の最後の出来事で、この後お城の復活は無かった。(川連城については2010.1.05ブログ 化け比べ背景(2)舘と平城にも記述)

今もこの地に住む人々の先祖が、約400年前の一揆と川連城の落城で犠牲になったことになる。しかしこの出来事の詳しい記録は地中深く埋め込まれていて知る人は今いない。

権力の強圧や不正に立ち上がる精神は、今も脈々として受け継がれている風土かもしれない。


約十年ぶりの鍋釣山の頂上、はるか西にはすそ野から見える鳥海山、西北には平鹿平野、稲川野の眺めは一望できる。田んぼや家の周りにはまだ雪は1m程、頂上は0.8m近い雪があったが、西斜面は地肌が見えてきて、春告げ花の「まんさく」が咲いていた。「まんさく」の花の後ろは松くい虫被害の枯れた赤松。花と枯れ木、意味深なコントラストだと一瞬おもった。

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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
めぐみです! (めぐみ)
2013-03-29 07:07:31
このあいだコメントしためぐみです!覚えてますか?覚えていてくれた嬉しいですw(* ̄▽ ̄*)ノ"せっかくなのでメールできませんか?私ブログとかやってないのでお話がしたいです、アドは megmeee88あっとyahoo.co.jpです、待ってますね!(*^^*)ポッ
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