新河鹿沢通信   

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川連 三大絵師・画人 1 「源尚元」 

2020年01月31日 | 村の歴史

川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。

源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く、私は「狛犬」絵を神応寺以外では拝見したことはない。

神応寺狛犬 

産土の八坂神社、八幡神社にも大きな掲額がある。

                   八坂神社 石清水                                                                                                                                          

八坂神社の絵は寛治元年(1087)後三年の役で金沢の柵が八幡太郎義家によって落とされた。義家の軍勢が国見岳の麓を通った。水を求めて弓矢に祈願をこめて岩を窺ったら、不思議にもこんこんと清水が湧いて兵士も軍馬も勢を得た。岩清水という名は源義家が名付けた。絵はその様子を描いたものと伝えられている。八幡神社の掲額は義家の騎馬上の勇姿。

「源尚元」は地元では「源光」さんと呼んでいるが生い立ち等は多くの人は知らないできた。今回平成3年「稲川公民館」の調べを拝見することができた。この調査は川連上野の関亀吉さん(調査当時86歳)からの聞き取りで由緒、沿革、その他参考文項の欄に次の記述がある。

「画家尚元について聞いてみても何故かはっきりしたことがわからない。川連出身であり現在彦四郎屋敷というところがあり、其の處が尚元の生地という。何時の頃からか家も子ども達もわからなくなったと古老達はいう、北海道の親類を頼りに行ったようだと86歳の亀吉氏、彦四郎は尚元の家の名のようだ。今この家の墓は後藤元吉氏がまもっている。源光さんの軸は多く残っている。また神応寺須弥壇両脇の狛犬の絵は源光のものである」。

この度聞き取り調査で「後藤彦四郎」屋敷が少しわかってきた。その場所は川連町上野旧酒井〇〇家付近。隣地の「キロク」の本家と分かった。酒井家は明治中後期酒井孫右衛門から分家し、「後藤彦四郎」家が北海道に渡った屋敷に入ったものと思われる。旧酒井〇〇家がすべて彦四郎屋敷だったのかはハッキリしていない。現在は別の住人が住んでいる。平成に入って旧酒井〇〇家屋敷は人手に渡り、さらに不動産業者へ移転。旧酒井〇〇家の立派な池を配した庭園は庭石と共に埋められ更地状態になっている。もしかしたらあの日本庭園は「後藤彦四郎」屋敷当時からの遺産だったことも考えられる。詳しい事情を知る人は村にはいない。

下左の軸は「若歌三神図」を源光が描き、後藤逸女が柿本人麻呂(古今和歌集)の若歌を書いたもの。上野「ブザエモン」宅から見つかった。「ブザエモン」も後藤の姓で「後藤彦四郎屋敷」の側にある。彦四郎宅との直接の関係はないという。この軸は曽祖父が求めたらしいこと以外わからないという。曽祖父は歌を詠んでいたことから逸女の影響もあったのかもしれない。

                                     和歌三神と古今和歌集 逸女と源尚元                                                   後三年合戦

右の絵は麓の「カクザエモン」宅所有。八坂神社の掲額は烏帽子だったがこの額は兜をかぶっている。源義家後三年の役参戦を描いたものと思われる                                  

下は私宅「養蚕大神」の掛け軸。毎年新年を迎える年越しに床の間に飾る。我家ではこの軸を飾るのは長男の任務と教えられ中学生のころから私の担当になっている。私の子供のころ養蚕もしていたがやめた以後も農業の神様として現在も続いている。

養蚕大神(金色姫)は天竺に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたとの伝説。金色姫が右手に桑の木、左手に蚕種を持っている。

                                           養蚕大神

この軸のように「養蚕大神」に日の神、月の神が描かれたのは珍しいとされる。守護神は天照大神は太陽。太陽の方は一方を照らせば一方を陰にしてしまう昼は明るく照らすけれども、夜になるとかくれてしまう。大日如来さまは、どこもかしこも陰にすることなく明るく照らし、昼夜の区別なくいつでもその慈悲の力を発揮する点で、太陽よりはるかに優れていることから「大」とつけられた。軸の一つは月ではなく、夜も照らす太陽を表しているのだろうか。

江戸の絵師は絵には描かれた題材に大きなメッセージが読み取れる。そこには神仏、歴史、和歌等にも精通していた。多くの軸や掲額にふれると絵師の偉大な人物像が浮かび上がってくる。源尚元の軸は集落にまだ収納されているらしい。かつては大晦日に掛け軸を飾り、新年を迎えた。近年時代の移り変わりでこれらの行事はすたれてきた。団塊の以下の世代になると昔から家にあった掛軸等に関心は薄れてきている。源尚元(源光)の存在を知る人は年々少なくなってきている。

 

 


後藤逸女 教子 井上常松

2020年01月21日 | 村の歴史

2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催 湯沢市観光物産協会、共催 稲川文化財保護協会、後援 湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。

今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。

「愛日蘆」

明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹義理は親しくその家を訪ねて「愛日蘆」の軸と家族一人5合扶持の沙汰を与えた。

                                                   愛日蘆と逸女の肖像画(川連の画家後藤恵一の油絵)

慶応2年7月15日の日付、前句会で詠まれた歌を逸女が記録した。杉板に逸女特有の筆使いで書かれている。この額は昭和47年本堂工事の屋根工事で外された以外、他所に貸し出され外されたことがなかった。

                                              神應寺 本堂前句掲額

今回井上常松について少し私論を述べてみる。 

井上常松は逸女の書には教子と書かれている。教子とは日本語大辞典(講談社)によれば「教えをうけた人。生徒、弟子」とある。一般的には弟子と呼ぶことが多い。ちなみに弟子とは同じ日本語大辞典(講談社)に「教えをうける人、門人、門弟」とある。「教えをうけた人、教えをうける人」等教子、弟子という呼び方に微妙な違いがあるが地元で「井上常松」は逸女の弟子で通っている。

後藤逸女には多くの門人、弟子がいたことが多くの資料に書かれているが「井上常松」が弟子であったことを知る人は地元以外に少ない。集落では「柴田民也」も弟子だったとの説もある。

井上家には逸女の晩年、弟子の常松に送った書が掛け軸となって数多く残っている。特に有名なのは「若菜」、今でも井上家の床の間に飾られている。

                                                                                                              井上家の床の間 

六十八齢 逸女とある。逸女は明治16年に70歳で亡くなっているから68歳は、明治14年逸女晩年の書となる。変体かな文字を駆使して描かれた歌の解読には中々苦労する。

変体かなは、平仮名のの字体のうち、1900年(明治33年)の小学校令施行規則改正以降の学校教育で用いられていない。平仮名の字体の統一が進んだ結果、現在の日本では変体仮名はあまり使用されなくなった。看板や書道、地名、人名など限定的な場面では使われている。異体仮名とも呼ばれる。

いづれにしても短歌の世界に疎いものとしては別世界に見える。昭和44年11月、あきた(通巻90号)「人・その思想と生涯」に稲川公民館長、稲川文化財保護協会副会長、高橋克衛氏は逸女三千首 にこの「若菜」の歌が記されている。この記述に「一連の春の風物を詠んだ歌は、逸女自筆の歌集「酉とし詠藻」に載っている。

高橋克衛書「後藤逸女年譜」には昭和45年、稲川町史 資料集第六号に天保八年、逸女24歳の項に「酉とし詠藻」は湯沢市湯の原佐藤善助家の所蔵で、紙数49枚、歌の数550首の一冊、とあるが「若菜」は逸女24歳の時の歌とは言い切れない。「酉とし詠藻」中には「澄み切った老の心境をを読み上げた歌の数々がある」と高橋克衛氏は後半に記述がみられる。

若菜

を利多知(りたち)て いさ(ざ)やつ万ヽ(まま)し 者川王可奈(はつわかな)

浅澤水乃(あささわみずの) ぬるむあ多り耳(あたりに)

                        六十八齢 逸女

明治14年亡くなる2年前にこの「若菜」を書にして教子、井上常松に贈った背景が偲ばれる。「若菜」の書を逸女から譲りうけたのが明治14年、常松25歳前後と推定される。逸女がこの歌「若菜」を晩年も愛し、弟子の常松に託したようにも想える。明治16年の横手の沼田香雪にあてた手紙に

暁の風にまたたく灯のいつかいつかまで消え残るべき

がある。高橋克衛公民館長は、この歌を逸女の辞世の歌といえると「後藤逸女年譜」に記されている。

逸女が69歳の時に教子、常松に贈った「鶴、亀」は高橋克衛公民館長のいう辞世の歌とともに逸女の夢と常松に託した面影が偲ばれる。

「鶴、亀」の2軸   

                                                                     鶴亀二軸 後藤逸女展 今昔館

この2軸には教え子「井上常松」に贈ったことが示され、鶴亀に託して晩年の逸女の思いが込められてる。

教子井上常松 鶴の哥可(うたたか)きてよとあるのに

 春(す)みよしと む麗(れ)ゐて多つも 遊ぶらし                          

  家の可勢(かぜ)尓盤(には) なミ堂(た)ヽ(た)須(ず)して

                         六十九老 伊津女 

井上常松 亀乃(かめの)う多書天(たかきて)よと称(ね)支(ぎ)の万(まま)に〱(まに)

 よ呂(ろ)津代(づよ)耳(に) 満(ま)多予(たよ)ろ都(づ)世(よ)とい者(は)ふ也(なり)

 嘉(か)米(め)に子可免(こがめ)野(の) 歳(とし)をかさ年傳(ねて)

                                                          六十九老 伊津女

この二軸が離れ離れになったことがあった時、災いがあったのでその時以来井上家では「鶴亀」の軸として大切にしている。69老 伊津女署名、亡くなる前の年に、鶴の軸「、、、家の風には波たたづして」、亀の軸「、、、亀に子亀の年を重ねて」に弟子常松に託した想いが込められている。

逸女の晩年は順風ではなかった。明治11年母ハルが83歳で逝去後、同15年七山邦彦依嘱の「逸女史真筆」に

「、、、とし手のわななきて書たるは病悪しき日々らぬは少しよろしき日とり乱書きちらしたるは老て倦たるなりしかみそなはし給へかし七山邦彦君まゐらす六十九老逸女」

と「後藤逸女年譜」にある。上記の「若菜」と「鶴亀」の軸に微妙な違いを感じ取れる。六十九歳になって書いた軸が「伊津女 老」になっている。

教子「井上常松」は昭和7年74歳(?)前後で亡くなるまで逸女の弟子として活躍し、逸女の弟子「井上常松」の集落には定着していた。高橋克衛氏の「後藤逸女年譜」に明治7年(1874)逸女61歳の時の事項に弟子の井上常松の母にあてた手紙の中に「、、、そろばん習はせ度と母様、御中に御座候年内は道よしからす。正月中御出可然存候、、、」と逸女は歌の道だけでなく、その他の教育を教えたとの記述がある。川連に「年貴志学校」ができたのは明治9年9月、その前に「常松」の母が逸女に教えを頼んでいた。この背景か「井上常松」の誕生は明治初年と分かる。逸女の亡くなった明治16年は常松は25歳前後。69歳の逸女が鶴亀の署に託した背景の奥深さを感じてれる。

この手紙を「井上常松」の息子、栗林友次郎氏が掛け軸として所蔵と「後藤逸女年譜」に記されている。今回、栗林家を訪問したがこの軸は見つからなかった。栗林家には「井上常松」の軸が床の間にあったので今回の「後藤逸女展」にお借りした。

                                                                           井上常松の軸 (栗林家所蔵)後藤逸女展 今昔館

左の軸の 逸女教子井上常松70齢との名がある。逸女が亡くなった明治16年以降、逸女の弟子「井上常松」によって集落では後藤逸女の評価が広く伝わり、歌や書に親しむ人が多く出たといわれている。逸女や常松の軸を所持している家にその傾向が強いようだ。

                                                                                                                        井上家過去帳             

井上常松は昭和7年に74歳前後で亡くなった。菩提寺28世神應寺住職は戒名「逸学院常松翁書居士」を与えた。さらに住職は井上家の過去帳に「川連町野村孝婦後藤逸女教子井上常松」と添え書きしてある。逸女と常松の深い子弟関係は菩提寺も集落でも認知の関係だった。

新年になって故井上常松の軸が「安兵衛」宅から見つかった。栗林家の軸と同じものだった。まだほかにも集落では井上常松、後藤逸女の書や軸が眠っているようだ。

※井上常松の年齢は推定。                                               ※井上常松の年齢判明 昭和7年 74歳没  秋田魁新報「後藤逸女之伝記」 昭和4年12月 川連小学校長 佐々木栄治 に逸女の見習い弟子14、5人から30人、存命中の人井上常松(71)、樋渡尾上(76)、佐藤なつ(79)とある。(稲川町史 資料編 第五集) 令和5年3月追記