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50年後の道路再舗装

2024年01月14日 | 村の歴史

集落と国道398号線を結ぶ道路が約50年ぶりに舗装されることになった。8月の盆前、朝の「田めぐり」で知る。事前に広報等で発表されていたこととは思ったが見逃していた。看板を立てられた直後、担当になった業者があいさつに来た。道路側耕作者には直接、集落全体にはチラシで通知するという。

                                   

    道路舗装の看板と道路の状況 

この道路は昭和49年圃場整備事業で新しくなった。集落と国道398号線を結ぶ道は主要な道路で交通量も多く、子供たちが学校に通う通学路でもある。

旧道は、集落からやや北西に進んで隣集落に向かっていた。新しい道路は圃場整備事業で造成され、集落から真西に進んで隣集落へは途中で直角に曲がって入るようになった。新しい道路はすべて元は田んぼ、水路、土手の上となった。

整備の終わって間もなく道路は毎年のように穴ぼこになった。写真のように道路の表面は常に「亀甲」状態。幾度となく再舗装の要望を当局に出したていたが、穴あきが進むとその部分を補修工事で過ごしてきた。

平成17年合併で湯沢市が誕生。旧稲川町から広域合併で市町村が大きくなると住民の要望はなかなか当局には届かなかった。

             

   舗装前の道路は亀甲模様状態

春になると至る所にアスフャルトがめくれアナボコ状態が続いた。写真にみられるような道路表面の亀甲模様は、かなり早くから見え始めていた。写真の亀甲面に囲まれた真っ黒の面は今年補修された場所。軽自動車のタイヤは小さくこの穴ぼこの道の運転は常に要注意だった。穴ぼこが多いのでまっすぐに走行できなかった。さいわい大きな事故はなかった。

道路が新しくなったのは圃場整備事業によってできた。下記は昭和46年農家に配布された計画概要

上記の計画書が昭和46年に配布され、私の地域は稲川2区(五ケ村)に入り昭和48年に工事実施地域に入り工事始まった。大型のブルトーザーがうなり声をあげ工事の始まった田んぼは異様な光景に見えた。

              

  工事風景 現スーパーよねや付近 雄長子内岳 大館集落

にぎやかな重機の作業音は集落内をに響いていた一方で、集落内は大きな喧騒下にあった。喧噪の工事後の来年度作付けのために割り当てられる田んぼの「一時利用地」設定が大きな関心ごとで揺れていた。

「一時利用地」は工事終了後の「本換地」め前の作業だった。圃場整備事業に当たって作業後の耕作地の「本換地」に当たって、集落内では協議により。圃場前の農地の等級設定のための「評価員」、評価後の換地のための「換地員」が耕作者から選ばれ作業に当たっていた。作業が進むと「農地評価」、来年度作付けの「一時利用地」の設定不満が続出し、集落内は異様な空気に包まれていた。

一部から工事方法に不満が出ても土地改良区を中心に当局は「県営事業」だから問題ないと繰り返すのみだった。

喧噪の集落内で私はある日、ブルトーザー唸り声の田んぼを回って工事のやり方に驚いた。一角30アールの田んぼの畦畔、さらに道路、農道はほとんどが今まで耕作されていた表土、水路は水が流れてをそのままにブルトーザーに押し出された土で水しぶきが上がっていた。田んぼは「宅地造成方式」で造成されていた。積み上げられた表土中心の道はとフカフカの状態。仮に道路造成で転圧されても今まで耕作されていた表土の中心の地盤はに大きな不安が残った。

完成されたとする圃場は工事当時危惧した欠陥が露出した。面工事重視の圃場には想像されない欠陥が続出した。学習会を頻繁に開いていた私たちグループは、昭和49年8月前年工事地域を含めた稲川町17集落から170名が終結し、「稲川町圃場事業を良くする会」を結成した。活動の詳細は別の機会に回したい。       詳細は 講座/日本農民 1「現代の農民一揆」「官製欠陥田はゆるさない」たいまつ社刊編薄井清(1978.7)

2023年9月、49年ぶりの道路の再舗装が終わった。              

                  

  舗装された部分

出来上がった道路は市道「野村・川連線」1699.4ⅿ、幅5.72ⅿ中田んぼの部分約450ⅿにあたる。本格的な路床工事ではなく、元のアスファルトの除去した後の路盤を整地し、自走式の建設機械で整地、転圧した簡易的な工事にみえた。

穴ぼこ道路に辟易しながら数年たち、今回再舗装の知らせは明るいニュースには違いがなかったが、村の人々から大きな拍手があったわけではない。亀甲模様の穴ぼこ道に長年悩まされてきた姿から急激には脱却は出来ないでいる。

工事業者は公共工事の予算が少ないので比較的な改修工事という。村の評価は位置的でも改修工事を評価しつつも、亀甲「穴ぼこ」道路になるのも時間の問題だとの声も上がっている。

 


麓集落 戸数の減少

2023年01月26日 | 村の歴史

湯沢市川連町は川連、野村、大舘、久保の4地区で構成され、川連に麓、川連、上野の3集落が入っている。川連地区は川連城の城下町として形成されてきた。川連城が築かれたのは、寛治年間(1089~1093)といわれ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。菩提寺の神應寺は1050年頃から存在する古い集落。

現在全国的に空き家が急増している。総務省調査では空き家は全国に849万戸、長い間人の住んでいない空き家が349万戸と報道されている。

今回これらの状況の中で集落内の住居の動向を振り返ってみた。今回私の持っている資料と「人口ピラミットPlus」を参考にした。下記の表は私が調査し集計した年代ごと増えた戸数と減った戸数の一覧。

               

麓集落の戸数の推移(明治3年~令和5年)

手元の資料で麓集落戸数の一番古いもので明治3年(1870)36戸、これは古地図に記載されていた。詳細はブログ「二つの古地図 川連村・大舘村」(2014.06.30)。

大正14年(1925)は45戸、当時集落内で部落山林の所有権を巡る争いがあり集落全員の住所、戸主の名が書かれた資料があった。

平成12年(2000)に減った戸数と新たに加わった戸数を昭和20年(1945)中心にして分類した。集落に保管されていた総会議事録を精査。明治、大正、昭和30年前は不確かなものしかなかった。比較的整理された集落総会議事録は昭和30年以降(1955)でその議事録を参考とした。

その結果、昭和20年(1945)以前減った戸数8戸、増えた戸数9戸で計46戸。昭和20年(1945)以降平成12年までの55年間での増えた戸数16戸。減った戸数4戸で12戸増え集落戸数計58戸だった。一時的に集落戸数59戸の時期があったが詳細は不明だ。

戦後増えた戸数16戸の内、集落内からの分家等が9戸、他集落からの移入7戸。他集落は行政区を異にする隣集落が主。他の市町村からの移入はない。昭和から平成にかけて麓集落戸数57戸は定着していた。減少が見えてきた外の地区同様、バブル崩壊以降で近年加速されそうな傾向にある。

平成22年(2010)には53戸。現在令和5年(2023)は平成22年(2010)から3戸減り1戸増えたので51戸が集落の戸数。令和5年現在、集落には3戸の空き家がある。3戸は横手市、秋田市、長期入院となっている。2戸は確定される状態だが1戸は流動的だ。

集落内には長年解体されない「空き家」が一戸ある。昭和60年頃に千葉県へ移住したとされるが実態はわからない。崩壊の危険が危惧され、再三対応を行政機関に訴えても持ち主とも連絡が取れずに現在に至っている。

 崩壊した住居 K(H) 宅

平成12年以降集落から離れ、他地区へ移転し解体された住居を追ってみた。

空き家状態の2戸が令和4年(2022)の9月中旬から11月下旬まで、解体作業が連続して行われた。重機のウナリ音は集落内や取り囲む周囲の山に響き渡った。解体の重機の音はどことなくもの悲しさが漂う。2ケ月も連続しての住居の解体の音は在りし日の交流と惜別の哀しさの宣言にもみえた。

              

左 G(T)宅 右 T(M)宅

G宅は家主が住居を大仙市に移し、お盆等不定期に帰ってきていたが空き家状態が20数年続いていた。T(M)宅は6年前に湯沢市の移り空き家状態が続いていた。両宅は昨年秋9月から11月にかけて解体した。T(M)宅の写真は解体作業で重機搬入直前の状態。               

2010年以降、上記の2戸の解体前の住居6戸を、振り返ってみた。一部はgoogleマップから拝借した。

左 K(S)宅 右 T(M)宅

K(S)宅は10数年前から秋田へ移転、定期的に帰ってきていたが6年ほど前に解体。T(M)宅は玄関正面、6年ほど前湯沢市へ移転、昨年10月解体。

左 T(K)宅 右 G(T)宅

T(k)宅は20年ほど前に横手市へ移転、10年ほど前に解体。G(T)は平成に入ってから大仙市に移転、毎年のように盆等には帰ってきていたが昨年9月に解体。

左 I(A)宅  右 S(H)宅

I(A)宅は施設に入っていたが亡くなり4年前に解体。S(H)宅は施設に入っていて亡くなったという。10年前は車庫等残っていたが大雪のため倒壊し解体された。

現在集落内に空き家が3戸ある。その他、麓集落から他地区へ移転等で過去に解体された住宅地は2ヶ所。現在一か所は畑にもう一か所は市の管理地になっている。

現在集落内戸数48戸、1人世帯が8戸、2人が19戸、3人が9戸、4人が5戸、5人以上の戸数が7戸となっている。若い世代は生活拠点を他の地域に移して生活している。今後も麓集落内の住宅の減少は続く可能性は高い。

麓集落世帯人員 2023.1

全国的に長期間人の住んでいない空き家が349万戸、住宅の総数に占める割合は5.6%、特に高知、鹿児島、和歌山、島根では10%を超えが報道されている。

新築の場合、住宅ローン減税などの優遇措置が取られてきたが、住宅の「終活」への政策が圧倒的に少ない。現在家財道具の整理や住宅解体費用は平均的な住宅で200~300万、他の地域の旧家で500万の見積もりがあったので放置しているとの話もあった。

政府は空き家放置対策として、税制優遇の対象から外す範囲を広げることを検討している。倒壊の危険等の有害となるおそれのある「特定空き家」について、「空き家対策特別措置法」の対象外とする規定を設けている。実質増税策で平成27年5月に施行されたこの法律にどれほど効果があったのか実態調査を急ぐべきだ。

人口減少、空き家が増える経済状況の政策転換を確立すべきだ。その対策を希薄した状態での「空き家放置対策」は本末転倒と言える。 

朝日新聞は1月21、22の両日、世論調査を実施した。岸田首相の経済政策に「期待できる」は20%で、「期待できない」の73%が大半を占めた。少子化対策には「期待できる」が20%で、「期待できない」が73%にのぼった。

「政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです」等と1月23日の通常国会の施政方針で述べた。

重要政策を閣議決定で勝手に決め、いまさらながら何事もなかったかのようなふるまい。増税を前提とした軍拡、次世代原発の建て替えを含めた原発回帰にはやる気満々で、少子化対策は「次元の異なる少子化対策」と言い換えただけで、その具体策については何も語らない。

少子化は空き家の増加と衰退を加速させる。麓の戸数減少は今年令和5年(2023)で100年前の戸数45戸に近づき、数年後は150年前の明治初期の戸数36戸に向かっている。


川連 三大絵師・画人 3 知海

2021年02月15日 | 村の歴史

「知海」は本名「井上松治」。明治3年~昭和19年(1870~1944)川連生まれ、屋号は「宇吉」。「松治」は井上家十代当主、初代当主は「及左衛門」。

「松治」は明治17年(1884)14歳で秋田市の「神沢素堂」の私塾にはいり、3年間にわたって関学を学んだ。「素堂」の塾は当時秋田第一と言われ、多くの逸材を出したと「秋田の画人」昭和39年4月 秋田魁新報社刊にある。

さらに「秋田の画人」によれば「松治」は絵の才能を見せ、師に期待された。「素堂」も「平福穂庵」と交わり日本画(秋田蘭画)を描いていた。明治21年(1888)18歳で上京、勤王画家として名のあった「松本楓湖」について本格的に絵を学び歴史画を得意とした。明治23年(1890)20歳でに洋画に転じ、「小山正太郎」の不同社や白馬会研究所に通った。明治31年(1898)28歳で図画科の中学教員免状を得て福井中学、岩手遠野中等の教論となって赴任明治35年(1902)32歳、私立東京宏文学院教授となった。

明治38年(1905)35歳から6年間「黒田清輝」に師事した。東京文化財研究所によれば「黒田清輝」(1866~1924)は近代日本の美術に足跡を残した画家で、教育者で美術行政家「近代洋画の父」といわれた。「松治」が帝展に出品するのは明治44年(1911)41歳で京都師範に移ってからという。

下の画は帝国美術院第三回美術展覧会出品の「夏の夕日」アンテーク絵葉書。

                         夏の夕日

帝国美術院第三回美術展覧会は大正10年「松治」52歳。「夏の夕日」は湯沢市三梨町羽龍からの雄長子内岳、東鳥海山。羽龍集落には「松治」の長女が嫁いでいる。あきた県民文化芸術祭2015・参加事業、平成27年度 第3期コレクション展「横手・ゆざわの洋画家たち」に県立近代美術館の所蔵の「雨上がり」が展示された。「井上松治」は帝展洋画 大正十二年帝国絵画番付_807086と東京文化財研究所のデータベースにある。

                                雨 上がり

現在生家の地元で「井上松治」の洋画を知る人は少ない。数戸に所蔵されているのは「掛軸」雅号は「知海」。明治23年(1890)20歳で洋画に転じた後も日本画を描いていた。

下の軸は生家の床の間に飾られている「松治」の代表作品「雪の金閣寺」。

                             雪の金閣寺 

京都の学校では図書教育者として優れた功績をあげ、多くの表彰を受け昭和2年(1927)57歳に京都府視学となり、高等官六等に任じられたと「秋田の画人」にある。

次の軸は昭和12年(1937)67歳の時、本家十代当主「井上松治」が別家六代当主「井上周蔵」へ贈ったもの。享和3年(1803)本家及左衛門(現 宇吉)が別家助太郎(現 安兵衛)に「別家譲物覚」として残したことが記されている。本家と別家の関係書として珍しい。

                              別家譲物覚

 軸には本家十代「井上松治」が、別家六代「井上周蔵」の依頼で描いたとある。この軸には正七位とある。                                                                                    

下の軸は昭和18年(1943)「松治」73歳、激しさを増してきた太平洋戦争へ供出した安兵衛屋敷の「夫婦杉」。掛け軸「夫婦杉讃」。

                           夫婦杉の讃

昭和18年戦局は激しさを増し、アッツ島の日本軍玉砕学徒動員が発令。3月に金属回収にとどまらず国家的見地から、より価値の高い用途へと「特別回収」が食料や山林木、屋敷木等の供出令が発布された。「安兵衛家」では7代目の長男が出征中。親の六代目「井上周蔵」は屋敷の樹齢約140年、「夫婦杉」の供出に応じた。

伐採前に本家十代「井上松治」に依頼しできたのが「夫婦杉讃」の掛け軸。軸に文化10年(1813)双樹、百尺周8尺、供養」(柿葉庵)撰󠄀とある。「知海」の絵は「夫婦杉」伐採の一抹の哀しさと、明日への希望を与える豪快なタッチで描かれて、観る人に大きな感動を呼び起こす。そして軸を描いた翌年、昭和19年(1944)「知海」(井上松治)逝去。享年74歳。 「秋田の画人」引用

※ 

「川連 江戸の絵師」で以下の三絵師、画人を追跡した。掲載順序が調査時判明順なので正しくはなかった。三絵師、画人は以下。 

 滕亮昌   (日野亮昌)   貞享2年(1685)~安永3年(1774)?

 源光、源尚元(後藤彦四郎)? 天保11年(1840)~明治後期 ?

 知海    (井上松治)   明治3年(1870)~昭和19年(1944)

このシリーズはかねてから川連集落出身の「源光」さんの情報が少なく、神応寺や八坂神社の絵、自宅の掛け軸等からの調査から判明分の記録から始まった。

タイトル「川連 江戸の画人」として続けたが、調査で「源光」よりはるか以前に画人「滕亮昌」が狩野派との関わりが判明。その後明治生まれの「知海」を取り上げた。「知海」を「川連 江戸の絵師」とした違和感はあったがシリーズのタイトルだったのでそのままとした。

湯沢市川連町は川連、野村、久保、大舘の4つの集落から成り立っている。川連集落には麓、川連、上野の三行政区、一部には根岸川連ともいわれている。この「川連 江戸の絵師」は川連集落に限ったものだ。戸数三行政区合計140戸。比較的小さな集落で「滕亮昌」以降の「源尚元」、「知海」が活躍する。「滕亮昌」以降の画人、絵師にはその作風に影響があったことは想像できる。

「源尚元」から始まったのでシリーズ、「江戸から明治、大正、昭和」に活躍した絵師、画人も「川連 江戸の絵師」ではなく「江戸からの絵師」か「川連 三大画人」が適切かもしれないことを付記する。

※ 2021.2.19、タイトルを「川連 三大絵師・画人」に変えることにした。(2020.1.31 源尚元1、2020.2.11 続 源尚元 2020.3.7 3 滕亮昌も含む)


川連 三大絵師・画人 2 滕亮昌

2020年03月07日 | 村の歴史

川連の江戸の絵師「亮昌」は謎に包まれていた。昨年まで絵師「亮昌 」、「チセン」についての詳細はほとんど手がかりなしできた。2019年暮れ稲川文化財保護協会顧問T氏との懇談で「日野亮昌」の名が出てきた。「稲川町史」資料篇 第八集で松迺舎 佐藤信敏「稲庭古今事蹟誌」稲庭画工家ノ事、「佐藤信成ノ事」に「寛保3年(1744)生、宝暦10年(1757)14歳に川連村の人日野亮昌に隋て学ぶ」とあった。川連の「日野亮昌」の消息を尋ねられた。   

とっさに姓の「日野」ではなく「亮昌」の名にくぎ付けとなった。自家に「亮昌」の掛軸があったからだ。隣家「キエモン」(喜右衛門)宅で「鍾馗」の掛け軸が話題となり比較したことがあった。「キエモン」(喜右衛門)宅訪問は2015年春、豪雪で壊れた内沢の「山神社」の修復で募金活動していたら「山神社」の建立時の古文書が出てきた。その後慶長19年の「大舘村検地帳」、「妙音寺」の盛衰と聞き書きを「妙音寺を偲ぶ 1」(2015.12.19)2(2016.4.7)「400年前の大舘村の名請人」(2018.4.27)等、ぶろぐ「新河鹿沢通信」で報告してきた。

隣家は「キエモン」(喜右衛門)は慶長7年(1602)、水戸から佐竹一族と秋田にきて代々肝煎を務めてきた。肝煎の役柄一時経済的な困窮があった後、家を新しく建て替えたのが現在の住宅。今から2百数十年前、(宝暦?)、家を建て替えた時に村の絵師「チセン」が襖絵、掛軸等を描き、さらに作庭もしたという。見事な襖絵、掛軸等の中に「鐘馗」様があった。

                                                            鍾馗様 左 自家 滕亮昌行年63歳畫 右 キエモン 亮昌 

「キエモン」(喜右衛門)宅の「鍾馗」の掛軸と同じものが自家にあったことに気づき、帰宅後改めて比較してみると、「鍾馗」の絵に向きの違っていたが自家の「鍾馗」の軸に「滕亮昌行年六十三歳畫とあった。しかし、「キエモン」(喜右衛門)の当主がいう「チセン」ではなかったのでしばらく頓挫していた。

                                         襖4枚の絵 

話によれば襖絵、掛け軸は「チセン」は「カンノジョウ」(勘乃丞)の絵描きが書いたと話された。「カンノジョウ」は我家と同じ長里一族。現「カンノジョウ」の当主は先祖に絵師がいたことは聞いたことがないという。「キエモン」(喜右衛門)の鍾馗様軸と我家の軸は、図の向きが違うが同じ号名。「チセン」と「滕亮昌」は同一人物なのか詳細は判断できないでいた。

「キエモン」(喜右衛門)宅を再訪問調査で、自家と「キエモン」の鍾馗の軸で「滕亮昌」を再確認。「鷹」の軸に「寶十午滕亮昌行年七十六歳書」とあるものを見つけた。「寶十午」は宝暦10年(1761)76年歳、生年は貞享2年(1685)ということが判明。さらに「滕亮昌」、「滕北濱」、「チセン」は「日野亮昌」の号名であることが確認できた。

                                           鷹のかけ軸

稲川広報昭和54年3月10日号「城下町 川連(六)歴史散歩」に「カンノジョウ」(勘乃丞)の当主、熊太郎氏が森古の稲荷神社は「京都伏見稲荷神社から、寛政9年(1797)に分社として求められた」ことが書かれていた。「授与之状」に別当「日野孫左衛門」とあったこと手掛かりに「カンノジョウ」(勘乃丞)との対談したら次のような結果がわかってきた。

「チセン」は「カンノジョウ」説は日野の姓が判明したので急速に進展した。現「カンノジョウ」屋敷は元「日野孫左衛門」屋敷だった。「マゴザエモン」は「ニザエモン」(栗林)の分家。栗林家「ニザエモン」は日野「マゴザエモン」を分家とした。「マゴザエモン」屋敷、畑は約3反ほど分家屋敷としては広い。「ニザエモン」と「マゴザエモン」との関係は今のところ不明。

約200年前、隣家「ブエモン」(長里)が「マゴザエモン」屋敷の一部を習得。その土地に「ブエモン」が「カンノジョウ」を分家を置いた。「カンノジョウ」が「マゴザエモン」と懇意となり後に一体化したようだ。その後「日野孫左衛門」の名がわかったので菩提寺「神応寺」住職に過去帳調査を依頼した。

「日野孫左衛門」家の過去帳調査で文政12年(1829)「夢覚了中信士」が判明した。詳細は不明ながら、文政12年以降「マゴザエモン」屋敷は「カンノジョウ」屋敷になった。近年まで位牌を「カンノジョウ」が約200年近く管理していたことがわかった。さらに「マゴザエモン」の神応寺墓地は、本家「ニザエモン」(栗林)一族と一緒の場所にあった。そして「マゴザエモン」家がなくなった後の墓地所に現在「カンノジョウ」が入っている。「亮昌」、「チセン」は「カンノジョウ」の絵かきと「キエモン」の話はこのことに起因があったことが判明した。

さらに神応寺の調査で「日野孫左衛門」家の最後の人の戒名は、「夢覚了中信士」文政12年(1829)、その前が「智勝棟工信士」川連 孫十郎 安永3年(1774)没が確認された。屋号は先代亡き後その子がその屋号を名乗ったのは江戸時代多くあったことから、「日野孫左衛門」家は3代以上続いたと思われる。「日野亮昌」の生年は貞享2年(1685)であることから戒名「智勝棟工信士」、孫十郎が「日野亮昌」と同一人物なのかその子なのかは判断できない。

「ニザエモン」(栗林)宅でこの経過はついて知る人はいなかったが「日野亮昌」の軸が二点が現存していた。               

                       七福神 北濱75歳画                                                

                                                                  方位神 歳徳神 と八将神 亮昌

七福神は「キエモン」(喜右衛門)にも同じものがあった。方位神には歳徳神 と八将神(大歳神、歳破神、太陰神、豹尾神、黄幡神、歳殺神、歳刑神、大将軍)が描かれている。九星術で得られた方位の上を毎年十干や十二支に従って移動する神々のことで、吉神と凶神に分けられ、その年の方位神の位置は、市販の暦の初めの方のページにある「方位吉凶図」に書かれている。軸の絵に歳徳神 と八将神の名が朱で書かれていた。

下の軸に号名と年齢があり左に軸には「寶十午」宝暦10年(1761)があった。

                          亮昌 号名 滕亮昌 滕北濱 滕亮昌 年齢                                       左 宝暦10年(1760)76歳   中 宝暦3年(1754)74歳  右 延享4年(1747)63歳

日野亮昌」は江戸時代にしては長寿だった。80歳前後まで「キエモン」(喜右衛門)家に逗留して絵を描き、作庭もしたという。藩のおかかえ絵師ならともかく、一般的には地方の民間絵師は「一描一食」ともいわれ生活が苦しかった。そんな中で「チセン」、「滕亮昌」の有力なパトロンとして肝煎「キエモン」(喜右衛門)の存在が大きかったと推察される。

稲庭の佐藤信成14歳が「日野亮昌」に弟子入りしたとされる宝暦10年(1757)は「亮昌」76歳の高齢になっていた。「信成」26歳の「明和5年(1769)、江戸に出て狩野深信に学び、安永元年(1772)京都の円山応挙の門に遊し、晩年菅江真澄と交わる」と稲川町史資料集にある。調べてみると「佐藤信成」が江戸に出たころには狩野探信(守定)、(守道)はいなかった。狩野派に弟子入りは確実にしても資料集の記述は間違いかもしれない。       

江戸に「狩野探信」は二人いた。「狩野探信」(守定)は承応2年(1653)~享保3年(1718)江戸時代の中期に活躍した狩野派の絵師。「狩野探幽」の三男で江戸幕府御用絵師の「鍛冶橋狩野家」の2代目。「狩野探信」(守道)は天明5年(1785)~天保6年(1836)で江戸後期の狩野派の絵師。「鍛冶橋狩野家」の7代目。「信成」26歳の明和5年(1769)に「狩野探信」がいない。「佐藤信成」の入門は「狩野探幽」派門下の別の人物と思われる。        

江戸時代の身分制度で絵師になるには世襲制。武士の子であれば誰でも入門できたが、多くは狩野派の弟子続きの子弟。弟子続き以外は藩主の紹介が必要とされた。さらに入門にあたって当主や絵所弟子頭に貢物が必要されたという。このことから「日野亮昌」の弟子が江戸の狩野派の門下生になることができたのは「日野亮昌」が狩野派との深い繋がりを予測できる。

「狩野定信」は秋田狩野派の祖、二代秋田藩主佐竹義隆のおかかえ絵師で、藩内の画壇を支配した画家とされる。妻は現湯沢市雄勝町院内の出。その弟、子等に引き継がれ大舘、角館、横手、湯沢の支城に及んだとされる。「日野亮昌」はこれらのつながりが大きかったことが伺われる。 

今回「マゴザエモン」一族の聞き取り調査で絵師、大工説が有力な情報。「亮昌」が大工、絵師。その子または一族が大工だと以下の記述が成り立つようだ。年代順の記録に、宝暦10年(1761)稲庭の金華山神社に大舘村棟梁、日野孫〇〇、日野孫〇之進とある。明和6年(1769)神応寺本殿建立棟梁孫太郎(稲川郷土史資料編 第七集 町内曹洞宗八寺院)。寛政9年(1797)森古稲荷神社別当、日野孫左衛門等。

                        森古 稲荷神社     京都伏見稲荷本宮璽授与之状 

安永3年(1774)戒名「智勝棟工信士」孫十郎。神応寺本殿建立棟梁への敬意を込められているように思える。孫太郎、孫十郎の名前は違っているが間違いもあるかもしれない。大工説が正しければ、「日野孫左衛門」と「ニザエモン」(栗林)、「キエモン」(高橋)との濃密な関係が明らかになってくるが今のところ詳細は不明だ。        

 秋田魁新報社は昭和37年4月から38年12月まで、旧藩時代から明治までの「秋田の画人」を連載した。紹介された絵師、画人は約200名。昭和39年に本として出版された。「日野亮昌」の名はない。この本に旧稲川町から明治の画人として「井上松治、沓澤利瓶、東海林恒吉」の3人が紹介されている。その中で。「井上松治」は川連の出身、「井上松治」明治3年(1870)~昭和19年(1944)は明治21年上京し、勤王画家の「松本楓湖」に学び、23年(1890)に洋画に転じた。帝展に出品するのは明治44年(1907)京都師範に移ってからと「秋田の画人」にある。いずれ「井上松治」号名は「知海」を調べてみたい。隣家の出身で集落には多数「知海」の軸が残ってる。明治23年(1890)、洋画に移る前の日本画がほとんどと言われている

 

 


川連 三大絵師・画人 続 「源尚元」

2020年02月11日 | 村の歴史

源尚元 源光 後藤彦四郎? 天保11年~明治後期(1840~19--?)                    

江戸後期の絵師、源尚元の生没年は今までほとんどわからないできた。前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」の後、「ニザエモン」宅から新しい掛軸「十三仏」に「源尚元行歳六十一画」とあった。絵師が描いた絵に年齢を記しているのは少ない。この「十三仏」は私が拝見できた源尚元の絵の中で特筆すべき輝きに見えた。さらに自家から一点、発見できたので前回の「川連 江戸の絵師 1 源尚元」、「続 源尚元」として紹介してみる。

十三仏の軸の裏側に明治34年7月吉日とあった。換算してみると明治34年(1901)61歳の生年月日は天保11年(1840)であることが分かった。前回のブログで「後藤逸女」と「源尚元」の軸に逸女62歳とあり逸女の62歳は明治8年、源尚元36歳となる。

                          十三仏 源尚元 61歳 明治34年7月吉日

十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏、正確には(仏陀と菩薩)。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。十三仏とは、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏。(ウィキペディア引用)

十三仏は現在もお盆や年回法要等に使われている。

養蚕の作業図        

                                       養蚕作業

この軸はわが家の掛け軸。絵には猫が描かれている。この軸には源尚元の落款だけで号は書かれていない。養蚕農家は、実に大切に手をかけて蚕を飼育していた。そんな中で、ネズミに蚕を食い荒らさられる被害に悩まされた。天敵の猫を飼って防御にしたことから作業風景の軸に猫が描かれた。各地の養蚕神社には狛猫が鎮座している。この軸の猫はそのことをあらわしている。この軸は前回も見てきた軸と何か趣が違うに思える。

ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)は伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社のご祭神で豊穣の神として有名です。そんなお稲荷様とも ...ウカオノミタマノカミ(宇迦之御魂神)という神様は女神ともされる説が多くある。

前回ブログの画と、この2点の軸を比較して少し相違点があるように見える。源尚元の描画にはより緻密さが加わり、養蚕作業画には写実に近い。我が家では江戸後期から明治後期まで「染物」業をしていた。養蚕は昭和20年(1945)代まで続いていた。源尚元の掛軸は前回ブログ紹介の「養蚕大神」と今回の「養蚕作業」の二軸は大切にしてきた。「養蚕作業」画に号は無く落款だけ、イメージとしての源光(源尚元)描画と違うように見えていたので見逃していた。今回改めて落款を注視、かすかに「尚元」とあった。

源尚元は明治34年(1901)61歳「十三仏」の軸を描いたころは、日清戦争(1894)と日露戦争(1904)へと突っ込んでいった端境期である。日本は明治33年(1900)北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。さらに明治35年(1902)の「足尾台風」はこの地に甚大な被害をもたらした。そして日露戦争に突入した。日露戦争前後、源尚元は北海道に渡ったと思われる。その後の状況を知る人はいない。

前回のぶろぐ発表のあと二つの軸が見つかり源尚元の生年、天保11年(1840)が判明したので「川連 江戸の絵師 1 続「源尚元」とした。次回は「川連 江戸の絵師 2 滕亮昌」を予定だが「川連 江戸の絵師」のタイトルは、「川連 江戸期、明治の絵師」とすべきかもしれない。

次回の「滕亮昌」は貞享元年(1684)生まれ、源尚元より約156年前に生まれ、同じ集落で活躍し源尚元にも影響を与えた絵師。

 


川連 三大絵師・画人 1 「源尚元」 

2020年01月31日 | 村の歴史

川連には江戸時代に二人の絵師がいた。江戸時代後期から明治初期には「源尚元」通称源光。文政年間には「滕亮昌」がいた。「源尚元」は地元では「源光」さんでとおっている。描かれた絵に「源尚元」と号、落款に源光の印があるのもあった。号とは本名のほかに絵師などがつける雅名で有名な尾形光琳は11もの雅名があったという。その中で好んで使われた「光琳」が一般名として採用された。

源光の描いた神応寺の須弥壇の上両脇の狛犬はすばらしい。狛犬は神社や寺に奉納、設置された空想上の守護獣像。本来は「獅子・狛犬」といい、一般的には向かって右側が口を開いた角なしの「阿像」で獅子、左側が口を閉じた角ありの「吽像」で狛犬とされる。神応寺のもの「阿像」は口が開いているようには見えない。狩野派の絵師は好んで「獅子・狛犬」を描いたとされる「狛犬」像が多く、私は「狛犬」絵を神応寺以外では拝見したことはない。

神応寺狛犬 

産土の八坂神社、八幡神社にも大きな掲額がある。

                   八坂神社 石清水                                                                                                                                          

八坂神社の絵は寛治元年(1087)後三年の役で金沢の柵が八幡太郎義家によって落とされた。義家の軍勢が国見岳の麓を通った。水を求めて弓矢に祈願をこめて岩を窺ったら、不思議にもこんこんと清水が湧いて兵士も軍馬も勢を得た。岩清水という名は源義家が名付けた。絵はその様子を描いたものと伝えられている。八幡神社の掲額は義家の騎馬上の勇姿。

「源尚元」は地元では「源光」さんと呼んでいるが生い立ち等は多くの人は知らないできた。今回平成3年「稲川公民館」の調べを拝見することができた。この調査は川連上野の関亀吉さん(調査当時86歳)からの聞き取りで由緒、沿革、その他参考文項の欄に次の記述がある。

「画家尚元について聞いてみても何故かはっきりしたことがわからない。川連出身であり現在彦四郎屋敷というところがあり、其の處が尚元の生地という。何時の頃からか家も子ども達もわからなくなったと古老達はいう、北海道の親類を頼りに行ったようだと86歳の亀吉氏、彦四郎は尚元の家の名のようだ。今この家の墓は後藤元吉氏がまもっている。源光さんの軸は多く残っている。また神応寺須弥壇両脇の狛犬の絵は源光のものである」。

この度聞き取り調査で「後藤彦四郎」屋敷が少しわかってきた。その場所は川連町上野旧酒井〇〇家付近。隣地の「キロク」の本家と分かった。酒井家は明治中後期酒井孫右衛門から分家し、「後藤彦四郎」家が北海道に渡った屋敷に入ったものと思われる。旧酒井〇〇家がすべて彦四郎屋敷だったのかはハッキリしていない。現在は別の住人が住んでいる。平成に入って旧酒井〇〇家屋敷は人手に渡り、さらに不動産業者へ移転。旧酒井〇〇家の立派な池を配した庭園は庭石と共に埋められ更地状態になっている。もしかしたらあの日本庭園は「後藤彦四郎」屋敷当時からの遺産だったことも考えられる。詳しい事情を知る人は村にはいない。

下左の軸は「若歌三神図」を源光が描き、後藤逸女が柿本人麻呂(古今和歌集)の若歌を書いたもの。上野「ブザエモン」宅から見つかった。「ブザエモン」も後藤の姓で「後藤彦四郎屋敷」の側にある。彦四郎宅との直接の関係はないという。この軸は曽祖父が求めたらしいこと以外わからないという。曽祖父は歌を詠んでいたことから逸女の影響もあったのかもしれない。

                                     和歌三神と古今和歌集 逸女と源尚元                                                   後三年合戦

右の絵は麓の「カクザエモン」宅所有。八坂神社の掲額は烏帽子だったがこの額は兜をかぶっている。源義家後三年の役参戦を描いたものと思われる                                  

下は私宅「養蚕大神」の掛け軸。毎年新年を迎える年越しに床の間に飾る。我家ではこの軸を飾るのは長男の任務と教えられ中学生のころから私の担当になっている。私の子供のころ養蚕もしていたがやめた以後も農業の神様として現在も続いている。

養蚕大神(金色姫)は天竺に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたとの伝説。金色姫が右手に桑の木、左手に蚕種を持っている。

                                           養蚕大神

この軸のように「養蚕大神」に日の神、月の神が描かれたのは珍しいとされる。守護神は天照大神は太陽。太陽の方は一方を照らせば一方を陰にしてしまう昼は明るく照らすけれども、夜になるとかくれてしまう。大日如来さまは、どこもかしこも陰にすることなく明るく照らし、昼夜の区別なくいつでもその慈悲の力を発揮する点で、太陽よりはるかに優れていることから「大」とつけられた。軸の一つは月ではなく、夜も照らす太陽を表しているのだろうか。

江戸の絵師は絵には描かれた題材に大きなメッセージが読み取れる。そこには神仏、歴史、和歌等にも精通していた。多くの軸や掲額にふれると絵師の偉大な人物像が浮かび上がってくる。源尚元の軸は集落にまだ収納されているらしい。かつては大晦日に掛け軸を飾り、新年を迎えた。近年時代の移り変わりでこれらの行事はすたれてきた。団塊の以下の世代になると昔から家にあった掛軸等に関心は薄れてきている。源尚元(源光)の存在を知る人は年々少なくなってきている。

 

 


後藤逸女 教子 井上常松

2020年01月21日 | 村の歴史

2019年8月3日、今昔館がリニューアルオープンした。稲庭城(今昔館)30周年記念特別展として女流歌人「後藤逸女展」が主催 湯沢市観光物産協会、共催 稲川文化財保護協会、後援 湯沢市、秋田県等で8月7日から11月10日まで開催された。

今回の後藤逸女展に関して、私は川連地区で所蔵されている作品の一部をお借りし展示のお願いをした。西成家の「愛日蘆」、神應寺の掲額、井上家の逸女の教子常松に寄贈した掛け軸、栗林家の井上常松書の掛け軸等計9点。

「愛日蘆」

明治初年頃の逸女の家族は老女ハル、息子の与七郎、孫の宇一郎と直次郎の五人暮らし、老母は73歳で足腰がきかず、与七郎は発作やてんかんを起こし一人前の仕事ができなかった。逸女の孝養ぶりは近所に感動を与えていた。明治2年肝煎り高橋六之丞からお上に上申書をあげた。明治4年岩崎藩知事佐竹義理は親しくその家を訪ねて「愛日蘆」の軸と家族一人5合扶持の沙汰を与えた。

                                                   愛日蘆と逸女の肖像画(川連の画家後藤恵一の油絵)

慶応2年7月15日の日付、前句会で詠まれた歌を逸女が記録した。杉板に逸女特有の筆使いで書かれている。この額は昭和47年本堂工事の屋根工事で外された以外、他所に貸し出され外されたことがなかった。

                                              神應寺 本堂前句掲額

今回井上常松について少し私論を述べてみる。 

井上常松は逸女の書には教子と書かれている。教子とは日本語大辞典(講談社)によれば「教えをうけた人。生徒、弟子」とある。一般的には弟子と呼ぶことが多い。ちなみに弟子とは同じ日本語大辞典(講談社)に「教えをうける人、門人、門弟」とある。「教えをうけた人、教えをうける人」等教子、弟子という呼び方に微妙な違いがあるが地元で「井上常松」は逸女の弟子で通っている。

後藤逸女には多くの門人、弟子がいたことが多くの資料に書かれているが「井上常松」が弟子であったことを知る人は地元以外に少ない。集落では「柴田民也」も弟子だったとの説もある。

井上家には逸女の晩年、弟子の常松に送った書が掛け軸となって数多く残っている。特に有名なのは「若菜」、今でも井上家の床の間に飾られている。

                                                                                                              井上家の床の間 

六十八齢 逸女とある。逸女は明治16年に70歳で亡くなっているから68歳は、明治14年逸女晩年の書となる。変体かな文字を駆使して描かれた歌の解読には中々苦労する。

変体かなは、平仮名のの字体のうち、1900年(明治33年)の小学校令施行規則改正以降の学校教育で用いられていない。平仮名の字体の統一が進んだ結果、現在の日本では変体仮名はあまり使用されなくなった。看板や書道、地名、人名など限定的な場面では使われている。異体仮名とも呼ばれる。

いづれにしても短歌の世界に疎いものとしては別世界に見える。昭和44年11月、あきた(通巻90号)「人・その思想と生涯」に稲川公民館長、稲川文化財保護協会副会長、高橋克衛氏は逸女三千首 にこの「若菜」の歌が記されている。この記述に「一連の春の風物を詠んだ歌は、逸女自筆の歌集「酉とし詠藻」に載っている。

高橋克衛書「後藤逸女年譜」には昭和45年、稲川町史 資料集第六号に天保八年、逸女24歳の項に「酉とし詠藻」は湯沢市湯の原佐藤善助家の所蔵で、紙数49枚、歌の数550首の一冊、とあるが「若菜」は逸女24歳の時の歌とは言い切れない。「酉とし詠藻」中には「澄み切った老の心境をを読み上げた歌の数々がある」と高橋克衛氏は後半に記述がみられる。

若菜

を利多知(りたち)て いさ(ざ)やつ万ヽ(まま)し 者川王可奈(はつわかな)

浅澤水乃(あささわみずの) ぬるむあ多り耳(あたりに)

                        六十八齢 逸女

明治14年亡くなる2年前にこの「若菜」を書にして教子、井上常松に贈った背景が偲ばれる。「若菜」の書を逸女から譲りうけたのが明治14年、常松25歳前後と推定される。逸女がこの歌「若菜」を晩年も愛し、弟子の常松に託したようにも想える。明治16年の横手の沼田香雪にあてた手紙に

暁の風にまたたく灯のいつかいつかまで消え残るべき

がある。高橋克衛公民館長は、この歌を逸女の辞世の歌といえると「後藤逸女年譜」に記されている。

逸女が69歳の時に教子、常松に贈った「鶴、亀」は高橋克衛公民館長のいう辞世の歌とともに逸女の夢と常松に託した面影が偲ばれる。

「鶴、亀」の2軸   

                                                                     鶴亀二軸 後藤逸女展 今昔館

この2軸には教え子「井上常松」に贈ったことが示され、鶴亀に託して晩年の逸女の思いが込められてる。

教子井上常松 鶴の哥可(うたたか)きてよとあるのに

 春(す)みよしと む麗(れ)ゐて多つも 遊ぶらし                          

  家の可勢(かぜ)尓盤(には) なミ堂(た)ヽ(た)須(ず)して

                         六十九老 伊津女 

井上常松 亀乃(かめの)う多書天(たかきて)よと称(ね)支(ぎ)の万(まま)に〱(まに)

 よ呂(ろ)津代(づよ)耳(に) 満(ま)多予(たよ)ろ都(づ)世(よ)とい者(は)ふ也(なり)

 嘉(か)米(め)に子可免(こがめ)野(の) 歳(とし)をかさ年傳(ねて)

                                                          六十九老 伊津女

この二軸が離れ離れになったことがあった時、災いがあったのでその時以来井上家では「鶴亀」の軸として大切にしている。69老 伊津女署名、亡くなる前の年に、鶴の軸「、、、家の風には波たたづして」、亀の軸「、、、亀に子亀の年を重ねて」に弟子常松に託した想いが込められている。

逸女の晩年は順風ではなかった。明治11年母ハルが83歳で逝去後、同15年七山邦彦依嘱の「逸女史真筆」に

「、、、とし手のわななきて書たるは病悪しき日々らぬは少しよろしき日とり乱書きちらしたるは老て倦たるなりしかみそなはし給へかし七山邦彦君まゐらす六十九老逸女」

と「後藤逸女年譜」にある。上記の「若菜」と「鶴亀」の軸に微妙な違いを感じ取れる。六十九歳になって書いた軸が「伊津女 老」になっている。

教子「井上常松」は昭和7年74歳(?)前後で亡くなるまで逸女の弟子として活躍し、逸女の弟子「井上常松」の集落には定着していた。高橋克衛氏の「後藤逸女年譜」に明治7年(1874)逸女61歳の時の事項に弟子の井上常松の母にあてた手紙の中に「、、、そろばん習はせ度と母様、御中に御座候年内は道よしからす。正月中御出可然存候、、、」と逸女は歌の道だけでなく、その他の教育を教えたとの記述がある。川連に「年貴志学校」ができたのは明治9年9月、その前に「常松」の母が逸女に教えを頼んでいた。この背景か「井上常松」の誕生は明治初年と分かる。逸女の亡くなった明治16年は常松は25歳前後。69歳の逸女が鶴亀の署に託した背景の奥深さを感じてれる。

この手紙を「井上常松」の息子、栗林友次郎氏が掛け軸として所蔵と「後藤逸女年譜」に記されている。今回、栗林家を訪問したがこの軸は見つからなかった。栗林家には「井上常松」の軸が床の間にあったので今回の「後藤逸女展」にお借りした。

                                                                           井上常松の軸 (栗林家所蔵)後藤逸女展 今昔館

左の軸の 逸女教子井上常松70齢との名がある。逸女が亡くなった明治16年以降、逸女の弟子「井上常松」によって集落では後藤逸女の評価が広く伝わり、歌や書に親しむ人が多く出たといわれている。逸女や常松の軸を所持している家にその傾向が強いようだ。

                                                                                                                        井上家過去帳             

井上常松は昭和7年に74歳前後で亡くなった。菩提寺28世神應寺住職は戒名「逸学院常松翁書居士」を与えた。さらに住職は井上家の過去帳に「川連町野村孝婦後藤逸女教子井上常松」と添え書きしてある。逸女と常松の深い子弟関係は菩提寺も集落でも認知の関係だった。

新年になって故井上常松の軸が「安兵衛」宅から見つかった。栗林家の軸と同じものだった。まだほかにも集落では井上常松、後藤逸女の書や軸が眠っているようだ。

※井上常松の年齢は推定。                                               ※井上常松の年齢判明 昭和7年 74歳没  秋田魁新報「後藤逸女之伝記」 昭和4年12月 川連小学校長 佐々木栄治 に逸女の見習い弟子14、5人から30人、存命中の人井上常松(71)、樋渡尾上(76)、佐藤なつ(79)とある。(稲川町史 資料編 第五集) 令和5年3月追記


川連城址散策記

2019年09月11日 | 村の歴史

川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」のころ、寛治年間(1089~1093)野武士の一団が国見山の中腹に城を築き始めた。当時奥羽一円に威勢を張っていた清原武衡、家衡の一党「梶美作守」が首領。当時陸奥に乱をなす清原一族の平定のため、朝廷の命を受けて東征してきた源義家の大軍に国見の堅城といわれた「梶美作守」の砦(川連城)が無残に敗れた。

廃城となった川連城に長い年月が流れ稲庭城に小野寺氏が居城する頃に、小野寺道基が川連城に居館して築城したとされる。「稲川今昔記 いなかわのむかしっこ」平成12年11月15日刊 佐藤公二郎著引用 

稲川町史昭和59年(1984)3月31日刊によれば「川連城は嘉慶二年(1388)に小野寺左京蔵人道兼・黒滝に城を築いて隠居すと「大舘村創村記」などに見える」。とある。「大舘村創村記」は、享保十六年(1731)川連村より「大舘村分郷」の中に記された一部で、筆者は加藤政貞。(高橋喜右衛門所蔵) 

「戦乱の後、豊臣秀吉の天下統一で太閤検地が天正18年(1590)仙北地方に発せられ、越後の太守、上杉景勝を検地奉行とし、大谷刑部小輔吉継を副使として仙北三郡の検地を10月から開始された。六郷で農民、武士の一揆が起こり、増田、川連等小野寺家の武士、農民ら2千余人が一揆に起こし城に籠ったが上杉景勝一万二千人の軍を率いてこれを討った。一説には川連城主を大将として一揆を起こしたともある。戦いは上杉勢の圧勝で終わり、その後最上義光勢が雄勝郡内に進出、小野寺氏の滅亡ともに川連城に春のよみがえことはなかった」。 稲川町史 引用 

「城郭は三つの郭群の連郭式で、北に五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅五m、基底二mの空濠で遮断される。東に犬走、腰郭が認められる。主郭はこれに南接する東西三〇m、南北六〇mの平坦地で南東隅に二〇m四方の高台を持ち、神明社を祀る」。          

 川連城址城郭図(稲川町史引用) 文字注入筆者

この度、北側の通称「サンザェン(三左衛門)塔婆、マサエン(政右ヱ門)翁の記念碑、天神様のある場所から登る。

 

8月に途中のミズナラの「ナラ枯れ」被害木の伐採作業が行われ、比較的山道が登りやすい。

通称 穴門 

登り始めて間もなく地元で「穴門」と呼ばれているところにつく。古城址全体が約40度前後の山城。この場所は明らかに人の手でS字状に掘り下げられたものと分かる。この穴門は川連城への入り口とされている。

五段帯郭の北端

ミズナラ等の雑木林から間もなく、鬱蒼とした杉林に入ると三つの郭群からなる連郭式の城址、五段の帯郭にたどり着く。その上部の四段の帯郭、約600年前の全て人力作業の難儀さが伝わってくる。この帯郭の右側をさらに進むと約5m高さの四段の帯郭に着く。

 五段帯郭と四段帯郭

五段帯郭と四段帯郭の境目、写真の反対側が二mほど下がって「犬走り」が南側主郭の東側に続いている。ここから主郭まで道らしき姿が見えない。主郭の近くなのでまっすぐに進むこともできる。また四段の帯郭を進むことも可能だ。帯郭の段差はせいぜい二mに満たない。

主郭は東西三十m、南北六十mの平坦地、高さ約五mの南東隅に約二十m四方の高台があって現在神明社がまつられている。

 主郭 

神明社は昭和五十年代の周囲の杉が小さく、集落からもよく見えたが強風で東の呻沢に吹き飛ばされてしまった。現在の神明社は四〇数年前再建されたものだ。呻沢の水の流れは主郭、神明社の高台から約五〇m下にある。沢の上流、水源地付近の湧き水を川連城の主郭に水を持ってきていた。現在では周りの雑木が繁茂し、その水路の跡は見えないが40年ほど前だとはっきりと等高線沿いに水路の形跡は見られた。呻沢は四〇度近い急傾斜、斜面には城址特有のシャガがびっしりと群生している。シャガは川連城隆盛の時代からの植生かもしれない。

主郭から高台の南側に空掘りがある。千本杉の地名がありかつては南西の方角あった三梨城の方向まで道筋があった。享保一六年(1731)の川連村古図には城正面の西側の集落から急坂な道筋が見える。

呻沢は「うなりさわ」という。小野寺道高が戦死した際、その首がうなりを発して転々と沢に落ちていったというところからウナリ沢の地名が生まれたといわれる。国見岳と鍋釣山の間の沢は内沢といい、最深部は集落から3㌔ほどを「オヤシキ」、綱取に「エボシクラサワ」、中心部に「マンゲノコヤ」等呼び名の地名が残っている。この名からかすかに中世の趣が感じられる。

神明社とシャガの群生

神明社に狛狐、一般的には狛狐は稲荷神社が主ともいわれている。地元では川連城址の神社は稲荷大明神社との言い伝えもある。稲川広報の昭和54年3月10号、町の歴史と文化 城下町・川連㈥には通称森コの「明神様、稲荷神社と川連城址の明神様とはご姉妹」との説もある。

神明社 狛狐

神明と字が逆な明神は違いを調べてみると次のような解説があった。「日本の神道の神格一般を指す言葉だが、神明は特にその中でも天照大神をさす」。神明系(天照大神・豊受大神が主祭神)と明神系(神仏習合による仏教用語で神々に対する称号がはじまり。古代は「大神」)とあった。

稲荷神社の狛狐のくわえているものは五穀豊穣を願う稲穂、巻物は知恵の象徴、鍵は米蔵の鍵、玉は宝珠等の4種類といわれる。神明社の狛狐のくわえているものはこれらの⒋種類以外のものに見える。くわえているものを神社関係者等に聞いても今のところ分かっていない。 諸説はあるが川連城の落城は天正19年4月、その後江戸時代のいつ頃神明社が建立されたのか、狛狐のくわえものにこめられた大きな意味があるありはしないか等々興味が尽きない。

国土地理院の地理院地図によれば、川連城址内沢林道の入り口が標高176.7m、穴門付近が209m。五段の帯郭付近が280m、主郭の平らな場所は296m、高台が303mとなっている。住宅ある場所から高低差約120mで主郭部に着く。五段の帯郭、四段の帯郭部、さらに城郭を囲む急斜面は鬱蒼とした杉林になっている。帯郭付近にはびっしりと見事なミズが群生している。

この場所は湯沢市稲川庁舎から直線距離でせいぜい2kmほどの場所。住宅地に近いのだが訪れる人はほとんどいない。鬱蒼とした杉林に囲まれた城址はいつも静まりかえっている。あまりの静寂さに現実から超越した空間さを感じる。ネット検索してみたら秋田県のお薦め中世城郭二〇選に選んでいる方がいた。またユーチューブで平成17年5月10日作成、散策の川連城跡の動画の投稿があった。下記をクリックすると観られる。

https://www.youtube.com/watch?v=uxd-rAiezes

ミズナラ等の雑木林を抜け、杉林に入ると数年前から放置されていた倒木を今回チェンソーで払いのけながら進んだ。途中チェンソーのトラブルで主郭までの倒木整理はできなかった。五段の帯郭をすぎ四段の帯郭付近にはまだ倒木がある。主郭までの歩道の整備は次回の機会に終えたい。

※川連城の築城、小野寺の時代の構築に年月、城主名に資料によって異説がある。      

     


江戸の人々と外国人

2018年12月31日 | 村の歴史

江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。

「大辞林 第三版」に赤人(あかひと) 「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。 赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このことからしても文化4年北の黒船が松前国、エトロフ島に上陸当時で、赤人(あかひと)の呼称は定着していたことになる。 下田にペリー黒船来航(嘉永6年(1853)の45年前の出来事。

赤人(あかひと)については当時どのように見られていたかが気になっていた。約20年ほど前土蔵からでてきた「外国人の図譜」があったことを思い出した。あの書に赤人につながるものがないのかと気づいた。土蔵探索でやっとのことで発見、調べてもその書に「どじん赤人」と思われるものは描かれてはいなかった。

和紙に描かれている図譜は36国人。ネット検索で以下のものの写本であることを知った。「四十二国人物図説」は日本最初の人種図譜。長崎の人西川如見(1648-1724)が著し、刊行した世界民族図誌。享保5 (1720) 年刊。ヨーロッパ人のつくった原典を長崎の画家が写したものによったといわれている。 42の人物図に簡単な説明を付したもので,後世に大きな影響を与え,幕末にいたるまでこの種の人種図譜の基本とされていた。本書は、江戸期の人々が海外認識を深める上で大いに利用されたらしく写本でも流布している。天保 14 (1843) 年『萬国人物図』として再刊されている。 

ブリタニカ国際百科事典に 「42国の男女人物風俗を描いた絵図に、各国の地勢や風俗等に関する簡略な解説を付した書。漢字かな交じり。所収の国は、大明、大清、韃靼、朝鮮、兀良哈(おらんかい)、琉球、東京(とんきん)、答加沙谷(たかさご)、呂宋(ろそん・ろすん)、刺答蘭(らたらん)、呱哇(じやわ)、蘇門答刺(すまんだら・そもんだら)、暹羅(しやむらう)、羅烏(らう)、莫臥爾(もうる)、百児斉亞(はるしや)、亞爾黙尼亞(あるめにや)、亞媽港(あまかう・あまかん)、度爾格(とるこ)、馬加撒爾(まかざる)、槃朶(はんだ)、亞費利加(あびりか)、加払里(かふり)、為匿亞(ぎねいや)、比里太尼亞(ひりたにや)、莫斯哥米亞(むすこふびいや)、工答里亞(ごんたうりや)、太泥亞(たにや)、翁加里亞(おんかりや)、波羅尼亞(ぼろにや)、意太里亞(いたりや)、斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、払郎察(ふらんす)、阿蘭陀(おらんだ)、諳厄利亞(いんぎりや・ゑんげれす)、撒児木(ざるも)、阿勒恋(あろれん)、加拿林(かなりん)、亞瓦的革(あがれか)、伯刺西爾(はらじいる)、小人、長人」。 (ブリタニカ国際百科事典 小項目事典 引用)

わが家から見つかった「人物図譜」は42国ではなく36国の男女人物風俗。B5版より少し小さい、和紙で三か所紙よりで閉じている。以下描かれている図譜、コピーと説明文の一部。

韃靼(だったん)女

 

「韃靼は本名韃而靼といふ今は而の字を略す其の国東西黒白の二種有て属類甚多く国界四十八道に相分れて大国也 古の胡国といひ或は蒙古と云も此国の別號なり 南界は唐土に交接し北方は冰海に近く大寒地にて四季昼夜の長短大に他方と同しからさるの所々多し最富饒の国也といふ国人弓馬を好み勇強の風俗なり北極地を出る事四十三度より六十四度に至て南北に短く東西に長し」とある。

日本は1972年にモンゴル(当時のモンゴル人民共和国)と国交樹立以来、公文書においてモンゴルに対して「蒙古」あるいは「蒙」を使用しない。                                                                   世界大百科事典 第2版の解説は次のように記されている。                                        だったん「韃靼 」 「本来はモンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。タタール部は11~12世紀においてモンゴリアでは最も有力な集団の一つであり,またモンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため宋人はタタール部を韃靼と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。12世紀末~13世紀初め,モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し,モンゴル帝国が出現するに及んでタタール部の力は衰えた」。

琉球(りゅうきゅう)人

   

「琉球は南海中の島国なり古は龍宮とふ中古流求といひ末代に琉球とす暖地なり、北極地をいつる事十五六度」

琉球が古に「龍宮、流求」とあったことを知る。沖縄では各地に龍宮神がまつわれている。沖縄の海はサンゴ礁できた浅瀬の先に、急に現れる深い海の奥底に「リューグー」という世界があると信じられてきたとする。龍宮神の拝所では航海の安全や豊漁を祈願、農作物の害虫や害獣を払ったりする行事が続いてきた。「古の龍宮」はそこから呼ばれたのだろうか。又「琉求」は中国の史書「隋書」(636)東夷伝の中に「流求」と称する国の記事からとされる。(世界百科事典マイペディア 引用)

東京(とんきん)人

「東京は古より唐土に属する国にて中華の文字を用ゆ詞は尤別なり古唐土より交趾といひしは比国なり末代に至て両国にわかれ東邊を東京とひ南邊を廣南といへり今は廣南のみを交趾と後號す風俗相同しき故に別に交趾を圖さすいつれも煖国也 北極地を出る事凡十五六度」

唐土は昔日本から中国を指して読んだ語。トンキンは、紅河流域のベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイ(河内)の旧称である。「フリー百科事典 ウィキペディア」 引用

東京人は「北の京」と書いてぺきんと言うように「東の京」でとんきんと呼び、日本の東京ではない。

斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、拂郎察(ふらんす)

「斎爾瑪尼亞は阿蘭陀国に並たる国にて寒国の大国なり人物風俗阿蘭陀に相類す」

「拂郎察は阿蘭陀国に近し武勇軍法に長して近国是に併られ属国となるもの多し欧羅巴に於いて大国にて富饒の国也北極地を出る事五十餘度」

斎爾瑪尼亞はドイツ、オランダに並び寒国で大国、人物風俗はオランダに似ている。

拂郎察は(フランス)は武勇軍法に長して属国なるもの多しヨーロッパの大国とある。斎爾瑪尼亞、拂郎察を阿蘭陀を中心にして書かれている。

享保5年(1720)年長崎の「西川如見」 日本最初の人種図譜と云われ天保14年(1843)「萬国人物図」として再刊。写本もだされ江戸期に海外認識を深めるたために大いに利用されたという。国立国会図書館デジタルコレクションにある「四十二国人物図説」(出版年月日明31.11)とほとんど同じものだった。写本が流布されたとあったからその類のものと分かる。見つかった我が家の写本はいつの時代のものかはわからない。描かれている36国人図で男女が別のページまたは同じ図に描かれているのが16、子供と3人の図が3になっている。和紙にある人物絵は三十六国人で「四十二国人物図説」にある大明、大清、亞瓦的革、伯刺西爾、小人、長人が記されていない。 「四十二国人物図説」には大人3人図譜があるがわが家の図譜に3人図は入っていない。いずれ「四十二国人物図説」の写本に違いはないとみられるが、和紙の閉じ方等から見ても普及版に違いない。約300年前の図譜の写本、明治31年再刊もあることから見れば約120年ほど前のものだろうか。わが家の過去に、「誰がいつ頃」手に入れたのかを知りたいが今のところその手がかりはつかめない。 


お稲荷さんとキツネの闊歩

2018年12月27日 | 村の歴史

稲荷神社の稲荷は「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ばれている。稲荷神社は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神として商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰されている。

京都市伏見にある伏見稲荷大社が日本各所にある稲荷神社の総本宮。伏見稲荷大社では、キツネは稲荷神の神使とされる。朱の鳥居と神使の白いキツネがシンボルとなっている。

伏見稲荷神社の白いキツネ像 2018.10.17

平成2年秋田県が悠紀の国に選ばれた。秋田県神社庁は大嘗祭と同趣旨の新嘗祭に新穀を伊勢神宮、県内神社に奉納するために「新嘗祭献穀田」を設け、平成3年より県内13支部持ちまわりで実施している。平成最後の献穀田は湯沢市川連町が選定された。その主要な作業を川連集落と稲川有機米研究会・JAこまちが担当した。5月17日に田植祭、9月22日に抜穂祭。40名が収穫した新米をもって10月15日伊勢神宮で、全国から奉納された初穂を載せたお木曳車を神宮外宮へと曳き入れに参加した。午後から神宮内宮への正式参拝で献穀田事業で収穫したお米を奉納した。

伊勢神宮初穂曳終了後、稲の神様と慕われる京都伏見稲荷神社を正式参拝、神楽殿で御神楽を奉納してきた。稲荷神社は全国に32000社、日本全国の神社の総数は8万社と云われていることから日本の神社の3分の1が稲荷神社という説がある。

旧稲川町には15社の稲荷神社がある。他に内神様として屋敷内に祀われているお堂は多数ある。麓集落の稲荷神社は古舘山の旧川連城本丸と集落中心の通称森コに建つ稲荷神社がある。 二つの稲荷明神様は姉妹と言われている。ある記録に天正二年五月一三日造立の黒森神社稲荷大明神がある。現在「柴田〇」宅が管理している黒森の御堂と関係していると思われるが確認できていない。

歴史散歩 城下町・川連(6) 稲荷神社部分 稲川町広報 昭和54年3月10日 

稲川広報によれば、森コの稲荷神社は京都伏見稲荷神社から寛政九年(1797)に正式に分社として認められたとされている。管理している「長里〇〇」宅に「授与之状」が保存されている。その状には「正四位摂津守荷川宿弥信邦と署名の下に正官之印が押されている。稲荷明神ご本尊は明治26年旧9月1日祠堂権人講義、稲場高車の司祭により川連の四十二名が願主となって奉納された高さ1尺6寸の極彩色の女神像。稲荷神社の祭神は「宇賀之御魂命」五穀を司る農業生産の神様」とある。

「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないとされ、古くから女神とされてきた。 (引用)

キツネの闊歩

2014年3月15日ブログに「村の獣たち」を書いた。この記事は大雪の年、集落のある家の玄関にカモシカが現れたこと、アナグマが自宅の棲みついて日中堂々と集落の道路を闊歩する姿を中心に書いた。

今回は京都伏見稲荷神社参拝後、自宅を中心に出歩くキツネを題材とした。冬にスノーシュー散策でも毎年のようにキツネの足跡を確認していた。乳牛を飼っていた当時、草地の草刈乾燥作業をした後に数匹の子キツネが駆け回る姿は時々目にしていた。今回のように自宅周辺では初めてのことだ。この夏カモシカも日中自宅前を横切って隣地の屋敷に消えた。このカモシカも今回のキツネもどうしたことか痩せている。野生のキツネは肉食に近い雑食性と言われている。爬虫類や昆虫類が居なくなった冬には、ネズミが主な食べ物らしい。闊歩するキツネをなかなかカメラで撮る事が出来ないでいた。闊歩するキツネを見つけてから一週間もしてやっと撮えることができた。

約13ⅿ離れたカメラに反応した 平成30年12月4日

11月の始め野良猫が子ネコをつれて車庫の二階に棲みついた。子猫3匹は日中走りまわっていた。キツネが家の周りや、溜池の周りを出歩いていたのは11月の末頃からだった。キツネが出歩くようになったら車庫の二階の子ネコがいなくなった。今のところ危険を感じて親ネコと一緒に移動したのか、それともキツネにやられたのかはわからない。シャッターの隙間からキツネが出入りしていることは目撃している。驚いたことにキツネは木に登ると言われるから車庫の二階へアルミ梯子を上ることはことは簡単なことかもしれない。雪が降って毎朝除雪時にキツネの足跡は見れれる。

ただ、この痩せたように見えるキツネは痛々しい。一節には夏毛と冬毛との毛変わりの時期でやせて見えるらしい。健康状態は殆ど変らないとされる。11月から12月のキツネなら冬毛に変わっているとの思いがあるがどうだろうか。それとも今年の晩秋のように比較的暑い日が続いたので冬毛に変わるのが遅れていたのだろうか。

食べ物を見つけたらしい 平成30年12月4日

家の周りを歩くキツネは伏見稲荷神社参拝後だった。何か不思議なつながりにも思えた。果物をキツネは食べないとされるが今回車庫の二階に乾していた「干し柿」が無くなり食べかすが散らばっていた。空腹に耐えかねて食したとしか思えない。野良猫も姿を消してから一ヶ月近くになる。除雪前の猫の足跡もいつもの年より極端に少ない。時々キツネは道路から自宅に入り床下へ向う足跡がみえる。何時もの年より今年は野生動物が頻繁に集落の住宅地内を歩きまわっている。人の住む地内がより食べ物を得やすいに違いない。内沢の山神社の側には熊の出没の監視カメラが7月から11月末まで設置されたが何事もなかったらしい。PB030978.JPG


地震、大火、北の黒船と大館村

2018年12月21日 | 村の歴史

「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行 「稲川町史 史料集 第三集 小松久編」で紹介された。寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。

稲川町史 史料集 第三集 小松久編 「寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵」

象潟地震について

「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国他国大きそふとう(相当)なり、坂田志を越に而(しかも)人を死事数不知なり、同六月廿七日朝六つになり一天かけくもりらい(雷)なり大雨ふり、大水出るなり、雨の間には日之暑気なり同七月廿六日大風に而大きに萬物をからす、同年八月十五日御榊杉と申て太さ九ひろ三尺誠にまれなる大木なり、同十五日七ッ時より焼け始る十六日五ツ時焼け失なり」。

象潟地震は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評され、「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容。松尾芭蕉が象潟を訪れたのは象潟地震の115年前の元禄二年六月。

「由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した」。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覚書に「志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ」とある。調べてみると塩越は象潟の塩越村、潰屋389棟、死者69名と非常に大きな被害を受けた。羽黒山では灯籠が倒れ、「宝暦現来集」によれば蚶満寺は大寺であるが1丈余も震込んで砂に埋ったとある。

象潟地震前の塩越湊 蚶満寺(中央左) 象潟郷土資料館 ジオラマ  2018.12.21

 八月十五日焼けた御榊杉は八幡神社だろうか。九ひろ三尺の太さは巨大な大杉。ひとひろ 両手を伸ばし指先から指先までの長さ。通常は1尋=6尺。明治時代に1尺=(10/33)メートルとされたので1尋は約1.818メートルということになるので、御榊杉は胴回りが17メートル強の太さとなる。落雷があったのかその他の原因があったのか覚書には記されてはいない。

江戸の大火

文化三年(1806)の江戸の大火が記されている。文化の大火は江戸三大大火に数えられ芝で出火し浅草方面までを焼きつくしたと言われている。 

「文化三年 ひのえ寅年正月三日星をちるひなり、同三月江戸大きニ焼けるなり諸大名方之屋敷無残四里四方焼ける、人死壱萬三千人御仰被成候、 仍而 尾形様は六月御登被成候 同歳大館村山王様御堂建立致候、同五月八幡様うがい石惣に而寄進」

「人死壱萬三千人御仰被成候」と記されているが、調べてみると死者は1200人、焼失家屋12万6000戸と言われている。江戸に八カ所御救小屋を建て炊き出しを始め、約11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を奉行所が与えた。尾形様は6月に江戸に登ったとある。殿様の御登に相応の負担が課せられたものとおもわれる。大舘に山王様御堂建立、5月に八幡神社にうがい石寄進、手洗石のことだろうか。 

松前国(北海道)に北の黒船

「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候とて、秋田、仙台隣国大名衆外に会津様対陣大しやうと志る。御国横手湯沢御侍久保田迄ニ而も御話は横手杯之御侍具足、武具求候迄百姓迄大きニ難儀致候、其時百姓馬疋杯仰せ付られ迷惑至極致候。同年八月三日八幡宮末社まで焼け疾申候。就ハ四日より一五日限ニ建立致候、宝物迄多く焼申候、隣郷奉賀受」

文化四年の記述。1806年ロシア軍艦は9ヶ月間択捉島、樺太の各地を襲撃し日本人を連行し食料や水を強奪の海賊行為を行った。その残忍性を発揮拉致した日本人を陰惨な方法で虐殺して海に遺棄した。野蛮なロシア人を覚書には「どじん赤人」と記されている。松前藩が幕府へ北方四島を自藩領として申告したのは正保元年(1644)「正保御国絵図」にクナシリ、エトロフなどの島名を明記した。

「文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。1807年(文化4年)、ロシアの武装船が択捉島に上陸し、幕府の建物を焼き払い、物品を奪い、利尻島では幕府の船に火を放つ事件を起こした。急を聞いた幕府は久保田、仙台、津軽、南部の奥羽4藩に蝦夷地警備を命じました。久保田藩には5月24日、松前函館奉行所から「東蝦夷地の内エトロフ島へ異国の大船二艘来候」(以上原文のまま)国後島へも寄り着き、争乱を企てる形勢があるので加勢をお願いするとの急報が入った」。

現在、秋田県立図書館所蔵「松前御加勢日記」などによると、久保田藩は即時出陣の用意を整え、翌5月25日に、第一陣として、陣場奉行金易右衛門ほか369人が久保田を出発し、檜山、大館、碇ケ関を経て、津軽三廐から海を渡り6月10日函館に入った。  独立行政法人 北方領土問題対策協会ホームページ引用

江戸幕府はロシア帝国と戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。覚書には「横手湯沢の御侍久保田まで具足(甲冑や鎧・兜の別称)武具、馬疋杯仰せ付られ百姓まで難儀迷惑至極」とある。領土を守るためにこの地からも応分の負担したことが記されている。

覚書に同年八月八幡宮末社の火災、宝物が多く焼失したことが記されている。

この覚書には文化、文政、天保の記述が続く。特に天保二年から十一年までの異常天候、飢饉について大館村の状況が詳細に記録されている。次回以降紹介したい。現在と違って約二百年前情報機関は発達していなかった時代。各藩の末端まで情報が届き、村の肝煎を中心に対応をさせられた。特に文化四年の露人襲来へ難儀、迷惑すごくいたし候とあることは痛々しい。


400年前の大舘村の名請人

2018年04月27日 | 村の歴史
大館村は現在の湯沢市川連町大舘、合併前は稲川町大舘。大館村は江戸期から明治22年の村名。大舘は大字で麓と大館で構成されている。そして名請け人とは江戸時代、検地により田畑、屋敷の所持者として認定され、検地帳に記載された百姓。耕作する権利と義務があり年貢、諸役を負担した。

大館村の東に小野寺一族の川連城があり、天正18年(1590)豊臣の太閤検地に仙北地方(現在の雄平仙)と由利地方に検地反対の一揆が勃発した。この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。

太閤検地は織田信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉は従来の検地を組織・統一化して全国的に拡大させた。太閤検地では6尺3寸四方を1歩(坪)とし、300歩を1段とする統一的丈量単位で一筆ごとに実測し,土地を収穫量で表示する石高制を完成した。秀吉以後,江戸幕府は1歩を6尺1寸四方に改めた。農民には不利な検地となった。慶長検地は太閤検地への一揆、川連城の落城等で、多くの犠牲や耕作地の荒廃からの立ち上がり途上下のことになった。

約400年前の慶長19年(1614)大舘村検地帳は湯沢市指定古文書。「慶長19年大館村検地帳は、秋田藩が行った計3回の一斉検地のうち、慶長19年(1614)に実施した中竿の大舘村の検地帳である。舘又左衛門ほかによる検地帳の控えで、稲川地域に現存する最も古い検地帳である。

検地帳は、近世、年貢の徴収と農民支配を目的に、領主が行った土地の測量調査(検地)の結果(田畑の面積・等級・石高・名請人)を記したもので、年貢賦課の基礎となる台帳である。秋田藩では慶長8年(1603)佐竹が入部当初に行った先竿、慶長19年(1614)頃に行った中竿、正保4年(1647)から慶安元年(1648)にかけて実施された後竿と計3回の一斉検地を行っている」。(湯沢市指定古文書 個人所有)引用

大館村検地帳 慶長19年 大舘村 出羽国仙北雄勝郡川連の内 10月6日 舘又右衛門

大館村検地帳68戸の名請人の一覧がある(稲川町史資料集編 第二集には大館村検地帳百姓名子一覧とある)。当時記録には本百姓、小百姓、名子、下人等があり、本百姓は検地帳に登録され年貢と夫役を負担する階層。名子、下人と呼ばれるのは零細な耕地を持ち検地帳に登録され、年貢を負担しながら夫役を免除される下層農民と呼ばれた。その他に土地を持たない水呑百姓がいた。検地帳には田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地に緊縛されることになる。

検地帳の名請人以外に土地を持たない戸数は宗門人別改帳は見つかっていないので不明。江戸幕府が宗教統制の一環として檀家制度(寺請制度)、キリシタンではないことの証明として宗門人別改帳があった。現在の戸籍原簿、租税台帳で婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし移転先の改帳に記載された。

慶長19年(1614)年大館村検地帳に見られる名請人は以下の68人。
半内、四朗右衛門、左馬介、与九郎、形右衛門、市兵衛、権右衛門、三右衛門、重右衛門、弐助、掃部、甚右衛門、千介、介右衛門、惣右衛門、市右衛門、一右衛門、喜兵衛、四郎三郎右衛門、隼人、芦右衛門、甚介、宮内、住三、内近、孫六、囚獄、安平、佐助、和泉、三河、但馬、五郎右衛門、嘉右衛門、才次郎、民部、与助、孫七郎、左馬五郎、正介、孫五郎、助八、越中、兵部、九郎太郎、理右衛門、甚内、対馬、大次郎、惣介、弐右衛門、旭本、小石本、亥介、右馬蔵、加りん、次郎三郎、左馬助、左馬三郎、孫次郎、鍛冶、正三郎、寺、丹波、治郎兵衛、寺房、与惣右衛門。

目立つのは17人の〇右衛門が特徴的。右衛門、左衛門は百官名の一つ。律令制下では〇左衛門、〇右衛門の起源は兵役に就いた者が兵役終了後、その証として配属先の〇左衛門、〇右衛門府の名を名乗ったとされる。

武士の世の中になって、武士が自分の権威付けのために名目上このような名を欲しがった。また、一般庶民でも朝廷に金を払って〇左衛門、〇右衛門の名を買うことができた。 古来より日本では「左」の方が「右」より権威が上で朝廷から買う時差があったとも言われている。江戸時代になると頭に親族・兄弟関係を表す文字を比較的自由につけたとされる。

和泉(大阪)、三河(愛知)、但馬(兵庫)、越中(富山)、対馬(長崎)、丹波(京都)等一般的には出身国と思われる。かっこ内は現在の府県。

朝廷職の名等や職業を連想される名。掃部、宮内、民部、囚獄、兵部、かりん、鍛冶等の名請人の名前がある。掃部、民部、兵部は律令制下の八省の一つ。「掃部寮は、律令制において宮内庁に属する令外官。掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う」とある。掃部、民部、兵部その職を司ってきた末裔だろうか。

囚獄司は律令制において刑部省に属する機関に関係した名と思われる。大館村の囚獄は上、中、下の田んぼ5筆2反2畝8歩を耕作している。囚獄はしゅうごく、そのままの名の通りだと囚人を入れておく牢獄となる。単なる名請人の名とは思えない。

検地帳の集計で大館村で多くの田畑を持っているのは四郎右衛門の15筆1町4反1畝18歩。次が形右衛門の17筆9反8畝9歩になっている。他領からの転入と連想される和泉は7筆7反6畝23歩、対馬9筆7反1畝25歩、但馬7筆3反9畝18歩、三河1筆1反9畝18歩、丹波2筆28歩等。

大舘村集計田(上、中、下、下〃)24町5反2畝1歩、畠(上、中、下、下〃)4町5反5歩、屋敷1町3反2畝14歩、田畑屋敷合30町3反4畝20歩。ト米348石9斗8升5合。本田分239石3斗3升6合。その他に苗代5反1畝3歩、寺等屋敷1反7畝28歩計6反9畝1歩。ト米9石3升8合と記されている。

戦国時代が終わったばかりの江戸時代初期。各地において土地を捨て他国領に入る農民たちを「走り者」といい牢人と呼んだ。牢人には封禄を失った武士や百姓もいた。走りはより良い地を選んだものと推察される。江戸初期は各地に戦国時代の影響があり、荒れ地となった農地が結構あった。慶長19年検地帳の名請人にある他国領とみられる移入者は、太閤検地反対一揆、小野寺一族の滅亡で荒れた大館村の情報を知り駆けつけたとの推測もできる。

豊臣秀吉の身分統制令以来、幕府は士農工商の制度を設けて社会秩序を固定し封建社会を維持しようとしたが機能しなかったとされる。武士が百姓に、百姓が武士になったりした。大名の経済力基礎は土地から得られる収入が主力。他領国からの流入者が荒地を耕地に変えることには願ってもないこと。百姓は検地によって名請地として検地帳に載り所有地として認められることを望んだ。当時武士以外はほとんど百姓と呼ばれ大きな家族で住んでいた。百姓の規模の比較的少ないものに商業や物を作る工業的な業を営んでいた。走り者(牢人)を受け入れやすい背景もある。特に50万石の水戸から20万石の秋田に左遷された佐竹氏にとって農地の拡大は急務なことで自領からの逃散、走りは制限しつつ他藩から「走り者」には優遇はしたともいえる。

明治に入って古地図に家の数131軒、借家16軒とある。大館村の内、大館は本郷で家数95軒、麓は支郷根岸と呼ばれ家数36軒とある。412石6斗6升3合とある。慶長19年(1614)68軒から明治元年(1868)までの253年間で家数は約倍の131軒になっている。ちなみに明治以降現在までの150年間では麓54軒、大館520軒で計574軒。大舘が急激に増えたのは漆器業や仏壇産業が盛んになったことも大きな主因と思われる。

麓と上野の「観音講」

2018年03月08日 | 村の歴史

川連集落には麓と上野に二つの観音様があって、観音講行事は現在も続いている。麓は行政区が二つになっており麓の2地区の有志が中心になって構成されている。班編成で毎年5月上旬に開かれている。麓の観音講を「岩清水の観音様」と敬意を込めて呼ばれている。しかし現在の岩清水神社に祀られている本尊は観音像とは違うようだ。本尊は約30㎝程の石の像で右手に宝剣、左手の宝珠らしきもの持った立居姿の像になっている。前回のぶろぐ「麓の子安観音」考で「子安観音」は、この神社にあったものを何らかの事情でが移動されたと書いた。現在ある本尊はそのことと関係あるものと推察されるが詳細は不明だ。

昭和21年観音講の始まり申し合わせ

「岩清水」は歴史が古く、朝廷が源頼義・その息子義家の軍勢を送り込んで、奥羽を完全支配しようとした「前九年、後三年の役」の時代に、源義家によって発見されたと語り継がれている。その清水は1000年近く枯れるれこともなく湧き出ている。清水のすぐそばに神社が建てられ岩清水神社と呼ばれている。この小祠がいつの時代からあったのかは不明。現在のお堂の屋根改修は昭和33年、49年に行われている。

祭典当日朝の掃除、準備 平成22年5月5日

この清水は枯れなることがない。かつて下流の田んぼはこの水源を頼りにして耕作していた。
旧稲川町が現在地「平城」に役場庁舎を建てた昭和52年頃、この地の地下水は飲み水に適さず当局は「岩清水」の水を役場庁舎にとの計画があった。圃場整備が進んでいた時期だったが山際の田んぼは沢水が主流であったため、役場庁舎に集められた耕作者の賛同を得ることができなかった。今でも名水としての評価されている。

1000年近く枯れることのない「岩清水」は霊験豊かで「岩清水神社」は「乳神様」又「乳仏様」としても地域では崇められてきた。鬱蒼としたこの場所の杉は戦後伐採され、なだらかな傾斜面は冬季はスキーなどの遊び場になっていた。スキー等で怪我しないようにとこの場所に来ると安全を願って「岩清水神社」を拝礼することの決まりがあった。

この「岩清水神社」は神社の呼び名ではなく、古くから岩清水の「観音様」と呼ばれ「乳神」、「乳神観音」として定着していた。「乳神観音」としてのお堂には願祈成就の「おはたし」に、多くの布で作った乳房型を奉納されていた。かつて飢饉で食べ物が制限され栄養不足で多くの人が亡くなった時代から母乳の出が良くないことは乳児の死を意味した。お参には「母乳の出がよくなるように、あるいは安産を願い、あるいは乳の病気の平癒」を祈る形で多くの女性たちの参拝があり地元はもちろん雄勝、平鹿郡や遠く東京都と書い乳型が奉納されていた。

「観音様とは観音菩薩のこと、観音菩薩とは阿弥陀仏の慈悲を象徴する菩薩。「観音」とは「世の音を観る」ということで、衆生の苦悩の声を聞く」という意味。人々の憂い嘆きの声に耳を傾け、相手の苦しみに「わかる。わかる」と共感し、ただ聞くそれが「観音」という意味」とある。一般に「子安観音の信仰は、中国の慈母観音の影響を受けたといわれ、幼児を抱いた慈母の姿で、西日本に多く、堂または神社の形をとって祀られている。これに対して子安地蔵は路傍の石像が多く、東日本に多く見られる」という。(世界宗教大事典)

現在、岩清水の観音さんと呼ばれながらご本尊は観音像とは明らかに違っている。前回のブログで触れた「子安観音」(マリア観音)はかつてここにあったといわれているが、現在知っている人はいない。一般的に昔から神様の御神体は見てはならないとしてきた。見たら目がつぶれる、罰が当たる、御守の御利益がなくなってしまうというようにいわれてきた。このことから多くの人はご神体、ご本尊に関心を示さないできたことがもしかしたら背景にあるのだといえる。例えば京都の石清水八幡宮のご神体について『八幡愚童訓』「神躰事」は「右垂迹の実躰におきては、神道幽玄にして、凡夫不浄の眼にて奉見事なければ、伝書に不及」。とある。礼拝対象の仏像やキリストやマリア像が見えるように祀られているの教会等とは違っている。

現在も続けられている「麓の観音講」は昭和21年秋に企画され麓2組を中心に栗林雄一、後藤安太郎氏を世話人に選び20名で始った。昭和22年旧3月18に観音講として祀りが行われた。発起人は30,40歳代が中心でその上の世代の名は記録にはない。昭和36年度の講中加入者は32名の記録がある。「浜崎サンタ・マリア館長」の言うように長い年月の中で「子安観音」、「乳神様」又「乳仏様」として受け継がれて「マリア観音」は変容を繰り返しの中で埋没してしまったのかもしれない。

昭和21年敗戦後に始まった「観音講」は村づくりへの大きな支えだったに違いがない。講中参加者の変遷があり現在は20名で構成、二人一組交代で約70年「観音講」行事が続いている。現在の講の構成20名は昭和21年の開始時の2世、3世代に移って続けられている。さらに昭和50年ごろから、塔婆に鎮座している寛政6年(1794)建立の庚申塔、23夜塔、さらに関係者中心で祀っていた報徳記念碑等が合同で祀りが行われるようになった。

庚申供養塔他

昭和22年第一回から現在まで約70年の「観音講」行事は年番、開催日、参加者、祭典経費等記録した「岩清水神社祭典宿巡番帳」に詳しい。行事が終わると次年度の担当者へと引き継がれる。講の直会は近年生活様式の変化等で個人の家では対応が難しくなり、約10年前から集会所で行われている。



上野の「観音講」は毎年4月下旬に開かれている。主役は子供達。上野は対象が全戸の37戸が対象、当番の家を中心に講が続いている。講は一軒の家を中心に班で構成、37年で一回回ってくる決まりのようだ。
「子安観音」は集落から400m程離れ通称「鹿野滝沢」の岩の窪みに鎮座している。

上野 子安観音 写真は仙北市渓風小舎さんからの引用


麓の子安観音(マリア観音)考

2018年01月25日 | 村の歴史

平成29年12月22日秋田魁新報の文化欄に「秋田のキリシタン遺物」の掲載記事があった。
この記事によると「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」が2018年、世界文化遺産登録の審査を受ける。これに関連し2018年12月にかまくら春秋社から「潜伏キリシタン図譜」の出版を予定している。上智学院の高祖敏明理事長を発行人にして2016年12月に潜伏キリシタン図譜委員会が設立され、全国各地に地域に残るキリシタン遺物や史料等の情報提供が呼びかけた。秋田から「熊谷恭孝秋田キリシタン史研究会会長」に要請があり、熊谷氏は「秋田のキリシタン遺物として図譜に掲載されるのは9点」だという。①が「梅津政景日記」寛永元年(1624)の秋田藩内最初の大殉教を記した日記文。きりしたん衆32人火あぶり。②湯沢市東福寺雲岩寺所蔵のマリア観音像(石造秘宝、高さ52㌢)。③湯沢市川連町麓のマリア観音像(石造、高さ70㌢)。⑥湯沢市寺沢にある北向き観音像(石造)。寛永元年(1624)16人が久保田城外で斬罪。
秋田魁新報 平成29年12月22日 引用

熊谷恭孝氏が「潜伏キリシタン図譜」に提供する秋田のキリシタン遺物としての図譜、9点中3点は湯沢市が関係している。記事にあるマリア観音の写真は、麓の観音堂に熊谷氏が足を運び撮ったものらしい。今回この「マリア観音像」の背景を考察してみた。

麓の観音像は現在川連集落の三浦家で「子安観音」として管理、祀りが毎年11月の行われている。一般的に「観音様」といわれている。不思議なことにこのお堂には子安観音の他に本尊等4体がある。これらの仏像はほかのお堂や祠にあったものがまとめられたものと思われる。本尊の一つに首のないものがあること等から明治の廃仏毀釈の影響が考えられる。明治政府は明治元年神仏分離令を発布し仏堂、仏像等の破壊が各地で行われた。観音堂の他の仏像、本尊はこの破壊活動から逃れるために持ち出され、排斥運動鎮静化後まとめられたものと思われる。麓の「子安観音」は昭和40年から順次刊行された「稲川町史資料編」で紹介され、昭和63年稲庭城跡の今昔館に「マリア観音」としてレプリカが展示されてから注目されるようになった。

集落でこの「子安観音像」に深く関わっていたと思われるのは妙音寺。寺は明治政府の廃仏毀釈で廃寺となった。妙音寺の本家の高橋家によればかつて観音像は盗難にあい奪い返したとの逸話もある。又現在管理している三浦家の話によれば「約500m程離れた岩清水神社から村の某が背負って持ってきた」と言い伝えられている。どんな背景、経過があったのかは不明。

又稲川町史資料篇第三集(昭和42年3月)第六 切支丹宗に「東福寺村雲岩寺及び川連町根岸岩清水八幡の小祠にマリア観音石像がある。聖母マリアの胸に星形(暁の星)を彫み、幼児キリストがそれを指さしている。これは明らかにマリア観音で、子安観音とは違う」とある。編集者は郷土史家の茂木久栄氏。

この記述に観音像(マリア観音)が現在の麓の「子安観音堂」ではなく「岩清水神社」にあったことの証になる。移動は諸説から推定して茂木氏の記述の基点以後と考えられる。現在の観音堂は30年程前の昭和62年に再建され新しくなった。不思議なのは現在堂の正面の本尊は子安観音ではなくかなり古い木像の仏像。この仏像は「羅漢、権現像」にも似ている、他に「正塚婆」らしきもの、首の取れた観音像らしいのは明治初期の廃仏毀釈で破壊されたものだろうか。「子安観音堂」と呼ぶなら正面の本尊は「観音像」であるべきだが、現在堂の正座にある本尊は観音像ではない。観音像は向かって左端にある。このことからしても観音像の移動説が証明される。並び順について管理の三浦家に聞いてみてもわからないという。


麓 子安観音(マリア観音)

かつて肝煎で妙音寺の本家、高橋家の説に妙音寺が「隠れキリシタン」だったと語る。祈祷寺の妙音寺が信者を増やすためにキリシタンの教えも説いた。現世のしあわせを願う信者は地元ばかりはなく遠くからも妙音寺を訪ねてきた。信者が妙音寺に通う道を「キリシタン通り」と言ったことが語りつがれている。(ブログ「ニガコヤジ(赤子谷地)考2016.8.7)に詳細

キリシタン宗禁制の時代、多くの信者は仕事もせず信仰に走ったため貧困も進んだという。弾圧が激しかった時代、肝煎の高橋家は別家の妙音寺や集落の信者を弾圧から守るために奔走、説得等を繰り返した。その結果集落から犠牲者を出さなかったという。信仰のよりどころだった子安観音(マリア観音)は弾圧の状況下で安置場所を意図的に変えたとの推測もできる。

慶長7年(1602)、佐竹義宣は国替えで常陸から秋田に来た。「対馬家」(現高橋家)は佐竹と一緒に秋田にきて川連村麓に着任し肝煎となった。妙音寺は対馬家から分家して慶長19年(1614)12月に当地に開山した。開山時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。当初佐竹氏はキリシタン対策に温情があったとの説がある。詳細はブログ「妙音寺を偲ぶ」1 2015.12.19 「妙音寺を偲ぶ」2 2016.4.7  

明治4年は廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺住職黒滝源蔵の「観音社 山神社日記」によれば、正徳二辰年(1712)願主仙北雄勝郡杦宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺、川連 坂東27番「十一面観世音」が造立されている。ちなみに坂東27番は千葉の札所 坂東33観音で千葉県銚子市にある 飯沼山 円福寺(飯沼観音)本尊十一面観世音菩薩。

この堂は現在は特定できないが旧妙音寺内の敷地内、現在の「子安観音堂」と推定される。この本尊は「十一面観世音」だったのではと推測される。さらに観音堂に側に建っている「庚申塔」は明和五〇天(1768)と読める。年号は年ではなく天になっている。天年号の石造仏は隠れキリシタンと関係が深いとの説がある。

神仏習合から分離する明治新政府のの廃仏毀釈は各地のお堂、仏堂等の毀釈は激しいものだったと言われる。当時戊申戦争の混乱の中で慶長19年来続いた妙音寺は廃寺とされ、妙音寺の最後の住職黒滝源蔵氏は、天壌無窮を祈って関係した麓の観音堂、山神社等の本尊を入れ替えたとの説も否定できない。

さらに移設時期は特定できないが子安観音(マリア観音)は所説から、明治前後から終戦前と推測される。昭和21年、集落で村の3,40代が中心になり岩清水神社「観音講」が始まって現在もつづいている。この記録に「子安観音」(マリア観音)の記述をない。関係者に伺っても岩清水神社から観音像が移動されたことは知る人はいない。講の構成は名簿から明治35年以降大正10年生まれが中心。親、祖父の時代に「観音像」移動をあれば語り継がれることは自然なことと思われるがそれも確認できない。後日ブログで「観音講」を取り上げ予定。


観音堂正面の像 (木造)。

黒滝子安観音が「マリア観音」の石の像は「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。

キリスト禁教令は諸外国の激しい抗議と反発で明治6年(1873)キリスト教禁止令は解かれた。廃寺になった妙音寺のご本尊は見事な「十一面千手観音立像」、住職黒滝源蔵氏はこの像を本家に預けこの地を離れてから140年近くになる。明治大正昭和と時代を経過して各地と同様、キリシタンの名は地域から消えている。今の所集落でキリシタン信仰に関係した古文書は確認されてはいない。菩提寺の神應寺の墓地の古い墓石に、キリシタンだったことを示す隠れ文字や記号らしきもものがあると、このことに精通の研究家は言う。

天保10年(1839)生まれの高祖父が、曾祖父文久2年(1862)生まれに説いた書があった。明治5年(1872)当時曾祖父は10歳の時に人間としての教えを説いたと思われる。書の形式からみて高祖父33歳の頃。高祖父は明治10年(1877)40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢等がありその中に「切支丹御調條」が含まれていた。

 切支丹御調條の一部

「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。「秋田切支丹研究―雪と血とサンタクルス 」(1980年)翠楊社 武藤鉄城著に角館 佐竹家蔵に「起請文の事」がある。

明治新政府はキリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は長崎浦上村のキリシタンは全村民3414人流罪という決定を下し長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され激しい迫害を受け562人が死んだと記録にある。明治政府は、文明開化をめざしながらも近代的な人権思想に無で、新たな国家神道による思想統制をはかろうとしたがキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて明治6年(1873)禁教令を廃止した。徳川家康の慶長17年(1612)天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復した。高祖父は禁教令廃止の前年にこの文書を書いている。この時期は戊辰戦争や地租改正前後の騒然とした時代、高祖父が子供に伝えようとした背景になにがあったのだろう。

集落内にかつてキリシタン信仰があったことは知る人はいない。長い年月の中で風化され子安観音(マリア観音)が話題になることもほとんどない。この度の新聞掲載の「秋田のキリシタン遺物」の一つとの記事へ関心、反応は聞くこともなかった。しかし「マリア観音」の存在は、この地域で祖先がかつてこのキリシタンの教えを受け入れた歴史の証明に違いない。

※ 子安観音(マリア観音)のある祠を「黒滝子安観音堂」との説もあるが、地元の呼び名   「観音様」、「子安観音」で統一した。

※ 熊本県天草市にある「サンタ・マリア館」のホームページに「修験道の影響を強く受け家   の中には大黒様や天神様、若宮様などを祀り本来のキリスト教とはほど遠い、一種の  「キリスト教的民俗宗教」となってしまいました。いわゆる「キリシタンでないキリシ   タン」=「異宗」となってしまったのです。このようなキリシタンを「伝承キリシタン」
  と言っています。その代表的な遺物が「マリア観音」。本来のキリシタンであれば本質的  に違う観音様を拝むはずはありません」とある。


「トトロの森」と八坂神社

2017年07月20日 | 村の歴史

麓の鎮守の森、八坂神社を「麓のトトロの森」と私はよんでいる。
「トトロ」は宮崎駿監督の「となりのトトロ」はスタジオジブリの長編アニメーション映画。
昭和30年代前半の日本を舞台にしたファンタジーで、物語は、田舎へ引っ越してきた草壁一家のサツキ・メイ姉妹が、“もののけ”とよばれ、子どもの時にしか会えないと言われる不思議な生き物・トトロとの交流を描いていく物語。

ジブリの共同設立者のひとり高畑勲監督は「トトロ」について「宮崎駿のもたらした最大の恩恵はトトロだとわたしは思う。トトロは普通のアイドルキャラクターではない。...トトロは全国のこどもたちの心に住みつき、こどもたちは木々を見ればトトロがひそんでいることを感ずる。こんな素晴らしいことはめったにない。」と語っている。

2017.6.22
八坂神社の境内の樹木は杉とブナ。樹齢約300年と云われている。湯沢市川連町、湯沢市役所稲川支所の東方800mにある。季節の変わるごと多様な趣を醸し出される。宮崎駿監督のいう「トトロの森」を彷彿させる。遠くから眺めるとなにかしらトトロがひそんでいるような気がしてくる。田んぼの「あきたこまち」が日増しに緑が深くなってくると、ひときわ「トトロの森」が輝きを増してくる。
2017.7.15
森の中には樹齢約300年の杉約80本、樹齢がほぼ同じのブナの木10数本がある。
2017.7.15
境内内で一番太い杉の木とブナの木は並んで立っている。この場所はかつて長床の建っていたいた場所の側。

「かつてこの場所に長床があった。茅葺の建物は子ども達のよい遊び場になっていたが、昭和30年代頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められなくなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。」ブログ「八坂神社のお祭り」( 2014.8.4)引用

2017.4.2
今年の雪消えは例年より少し遅れた。4月2日の朝、朝霧で周りが見えず鎮守の森が浮き出たように見えた。お気に入りなのでこのブログのプロフィールに使っている。

2017.6.11
約800m離れた場所からの一枚。偶然森の真上から朝日。 

私は木ではなく鎮守の森、八坂神社の森をを「トトロの森」と呼んでいる。今年一月から毎週のように日曜日の朝自宅の田んぼ付近から、東西南北に国見岳と八坂神社の写真を撮り続けている。

八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。八坂神社はかつては現在地から約400mほど離れた所にあったと云われている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、移転した八坂神社に秋田佐竹藩主の臣で横手城の岡本代官が来村の際、「立派な社を造るように」と命じられ、社殿が再建されたと言い伝えがある。2011年豪雪で損傷した八坂神社。一部解体したら二つの「束」に墨で寛政12年(1800)の文字と川連村 大工棟梁虎吉の名があった。現在の八坂神社は再建されてから216年になる。

八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」、御神体は「祇園牛頭天王」の木像。鎌倉時代のもの説がある。祇園とは、京都の八坂神社の旧称。明治の神仏分離令までは祇園社と称した。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。八坂神社の御神紋は「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」である。唐花紋は別名「木瓜(もっこう)」ともいう。この五瓜に唐花紋がキュウリの断面に似ていることから、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾町の人びとは祇園祭の期間である7月一ケ月間はキュウリを食べないという。

八坂神社のある麓、川連の住民(氏子)はこの風習に従い、家々で自家栽培の「きゅうり」は八坂神社に奉納されたあとに食べる習わしがあった。「きゅうり」は当時春植えた「きゅうり」は旧暦の6月に入って食べられようになった。昭和40年代から「キュウリ」のハウス栽培が急速に進むと年中食べれるようになり、自家栽培の初ものの「キュウリ」を神社へ奉納する習慣は消えた。

2017.7.15
祭典はかつては旧暦の6月14.15日だったが現在は7月14.15日が祭典になっている

例年7月15日の例大祭が終わると「トトロの森」は静けさを取り戻す。木々に「トトロ」が棲みついているような雰囲気を漂わせる。だが住宅地のすぐ近くの森を訪れる子ども達はほとんどいなくなった。少子化と言われてから随分時間がたった。少ないといわれる現在の子供たちにも「トトロ」は潜んでいることに変わりがないはずだ。子ども達の限りない夢と創造性を育てていきたいものだ。