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「ナラ枯れ」ゲリラがやってきた

2016年08月27日 | 集落
「ナラ枯れは秋田県では2008年にかほ市で確認されて以来9年になる。湯沢市では2009年に山形県境の院内で確認されていた。川連集落では今年の8月になって鍋釣山にナラ枯れが見られた。近年カシノナガキクイムシ(カシナガ)が媒介するナラ菌により、ミズナラ等が集団的に枯損する「ナラ枯れ」が北海道を除く都道府県に発生している。「カシノナガキクイムシ(Platypus quercivorus)とは、コウチュウ目・ナガキクイムシ科の昆虫である。広葉樹に被害を与える害虫。成虫の体長は5mm程度の円筒状であり、大径木の内部に穿孔して棲息する。穿孔された樹木は急速に衰える。葉が真っ赤に枯れ枯死してしまう」。(引用)

私が「ナラ枯れ」に初めて遭遇したのは2008年、山形県鶴岡市の友人を尋ねて国道47号線舟下りで有名な戸沢村走行中だった。最上川の対岸の山の所々が真夏なのに紅葉のような景観に戸惑った。山が茶褐色になる「松枯れ」は見慣れた光景だったが違った。「白糸の滝ドライブイン」に停車し、良く観察してみるとどうやら松の木ではなく広葉樹だった。当時「ナラ枯れ」等と云う名は知らなかった。

秋田県の発生は2006年由利地方で発生、2008年に湯沢地方に侵入していた。当時親戚の集まりで皆瀬地区の人たちと「ナラ枯れ」の話をしたが、見たことはない「ナラ枯れ」にそれほどの関心が示さなかった。湯沢市の東部旧稲川に進出してきたのは5年前の2011年、雄長子内嶽の南側の斜面に見られた。今年は6月の末頃から駒形地区大倉、東福寺。川連地区で確認されたのは8月に入ってからだった。

三梨町飯田 2016年8月27日

駒形町大倉 2016年8月27日
鍋釣山 遠矢の松付近 8月9日 自宅から望遠で

鍋釣山の通称、遠矢の松付近と小烏(コガラシ)に8月9日に確認。翌10日田んぼの見回り中南東の方角、国見嶽の麓に自家の山がある。字名は坪漆と云う。八坂神社奥の方に位置している。写真で中央より右側に赤茶けた木を見つけた。とっさに自家の山林のミズナラとわかった。

坪漆  2016年8月10日 田んぼから

根元の状況

根元にはカシナガに食害され根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉の混ざった「オカクズ」が散乱していた。このナラの木は樹齢100年程、ナラ枯れが進出してきたら一番最初だろうと数年前から想定していた。周囲を見渡すとさらに4本に被害があった。

2016年8月10日 川連町坪漆地内

現在集落から見える「ナラ枯れ」は上野から滝ノ沢3本、南沢3本、川連の鷹塒(タカトヤバ)3本、小鳥(コガラシ)2本、麓の鍋釣山3本、古舘1本、黒森1本、東天王1本、切崖1本の計18本。坪漆の4本は現場に行かなければ見えないので含まれていない。内沢に出向けばまだあるのかもしれない。

ナラ枯れ」は比較的高齢で大径の樹木が多い広葉樹二次林(旧薪炭林など)で発生することが多く特にミズナラが優占する森林で被害が激甚となりやすい。また、比較的低標高の森林での被害報告が多い。まだ詳細な検討はなされていないが、被害発生のピークはその年の気温や降水量によって変化すると思われる。また、高温小雨の年には被害量も多く、逆に低温多雨の年には被害量も少ない傾向がある。

「ナラ枯れの歴史は古く、文献で確認できる最古の被害は1930年代の宮崎、鹿児島両県の被害である。その後1980年代までの間、散発的に山形、新潟、福井、滋賀、兵庫、高知、宮崎、鹿児島の各県で被害が報告されている。この頃の被害は比較的短期間で終息することが多く、また地域的にも現在のように広域への拡大が生じることはなかった。現在のような被害の拡大が継続するようになったのは、1980年代末以降のことである」。(引用)

カシノナガキクイムシ通称カシナガは体長は4~5ミリ、移動範囲年間1キロにも及ぶ。直径1ミリ位の穴を開け侵入する。ナラの木を養分とし、食べつくし「ナラ菌を運ぶ」。 菌がカシナガに寄生し木の中いっぱいに菌糸を広げ増殖する。 虫が運んだ「ナラ菌」が木の中で
水を吸い上げる管を詰まらせる。その結果ナラの木は枯れる。

さらに枯れ木以外 全ての木に穴を開け虫が入り込む。その数は、多い木に数万匹との節もある。虫が入り込まれた木は、枝の葉が赤く枯れ根元に「フラス」と呼ばれる虫糞と切削粉ような「オガクズ」を散らかし拡散する。

秋田県の「ナラ枯れ」状況は下記の図、美の国あきたネットから引用させてもらった。秋田県にナラ枯れが侵入してから10年、仙北市から県北の内陸市町村は今のところ侵されてはいないが昨年県北の八峰町に進出されたことから見ると、秋田県は全地域に「ナラ枯れ」が進むことになりそうだ。

美の国あきたネット (引用)

秋田県の状況と対策については下記のアドレスに詳しい。
http://pref.akita.lg.jp/www/contents/1334040533194/files/1.pdf

今のところ「ナラ枯れ」に強い森林の育成、カシナガの生息に適した大径木(高齢木)を利用(伐採)し、萌芽更新させることで小径林化を図る方法」等。今のところ決定的な対策は乏しい。

わが家の「ナラ枯れ」は現在ミズナラ5本、この量で一年の薪ストーブ用材は間に合う。他の大径木を伐採し、小径林化を図るとなれば大事業だ。ナラ類は、伐採してもその伐根から萌芽する能力を持っているが、おおよそ樹齢40年が経過してしまうと萌芽できずに枯死する株が出ると云われる。わが家のミズナラ樹齢80~100年だと萌芽はほとんど期待できない。すべてのミズナラを伐採しなければならないのかもしれない。この場所は昭和30年代に雑木林を伐採し杉林にし、一部を燃料確保で残した所だ。ミズナラ以外の樹種はヤマモミジ、ホオノキ、ブナ等がある。ブナには「ウエツキブナハムシ」で「葉枯れ」を引き起すが木は枯れないと云われてきたが、標高160mでは珍しいと云う樹齢100年のブナもミズナラの変化に対応したのか生気がない。

「山の日」の一日 

2016年08月15日 | 地域
「山の日」は2014年平成26年)に制定され、2016年(平成28年)に施行された日本の国民の祝日の一つである。祝日法では、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨としている。第一回「山の日」記念全国大会が長野県松本市で開かれた。

祝日として「海の日があって「山の日」がないのはおかしい等の意見は前々からあった。2013年4月に山岳関係者や自然保護団体等からの意見を受け、超党派110名の議員連盟「山の日制定議員連盟」(会長:衛藤征士郎)が設立された。当時9党のが祝日法の改正案を衆議院第186回国会に提出し、賛成多数で可決され、参議院本会議でも可決され2016年から8月11日が「山の日」となった。

休日のない「米と牛飼い」には「国民の祝日」にはほとんど無関係に過ごしてきた。近年とってつけたように祝日が増えてくるとますます関心が薄れてきていた。牛飼いから離れて数年になるが「祝日」の感は依然として鈍い。盆前の8月11日の祝日が「山の日」であることを知ったのはカレンダーからだった。

8月11日朝、某君が急遽「山の日」だから山に行こうと車で玄関前に来た。慌てて車に乗り込んで、「どこの山」と聞いたら「駒ケ岳」と云う。山菜やキノコ採りにしか山に関心のなかった某君が、「山の日」だから山に行こうと云うのだから「山の日」の祝日は効果大だったのかもしれない。総勢5人で出かけた。

アルパこまくさ登山バス停

6月~10月のマイカー規制中は、アルパこまくさ登山バス停で乗り換え、アスパこまくさには大駐車場は満杯状態。 アルパこまくさから羽後交通バス「駒ヶ岳線」八合目登山口まで25分かかる。バス切符売り場で聞くと平日の倍以上の出足と云う。

バスは満席

車のナンバーからほとんどが県外客らしい。初めての「山の日」制定で子ども達も多い。
バスの終点八合目の休憩所で昼食。標高1305ⅿ地点。緩やかな風もあって心地よい。某君等は登山歴はない。ひっきりなしに下山客がくる。登山準備はほとんどなしで8合目まで来たついでに、日窒の硫黄鉱山跡まで足を延ばした。いきなり見事な「ミヤマアキノキリンソウ」と色鮮やかな「アカモノ」と出会う。

ミヤマアキノキリンソウ (もしかしたらハンゴンソウ?)

アカモノ

しばらく歩くと薄紫のきれいな花「オクトリカブト」と「オニアザミ」。全部毒のトリカブトの妖艶な花。「オニアザミ」の花はアザ最大と云われているが、この「オニアザミ」は先月始めて目にした「ハチマンタイアザミ」より花は少し小さく見える。

オクトリカブト
オニアザミ

早朝から縦走してきたと云う人と、地元のボランティアの人と硫黄鉱山跡でしばし懇談。ここから頂上までの標高差は310ⅿ。8合目のバス停で下山する。アルパこまくさ登山バス停まで25分程。

時間も早く、その足で八幡平に向かう。八幡平アスピーテライン頂上駐車場は満車状態。さらに黒谷地湿原バス停に駐車して木道を通って黒谷地湿原に向かう。熊の泉で冷たい水をごちそうになり、黒谷地湿原展望台で休憩。途中「シロバナトウウチソウ」の赤花、「ウメバチソウ」そして見事な「エゾオヤマリンドウ」に遭遇。

ウメバチソウ
シロバナトウウチソウのベニバナ

花は白色で、ときに紅色を帯びると云う。名前がシロバナトウウチソウで紅花の呼び名、何か面白い。和名が白花唐打草、唐打とは「16本の糸で組んであり、各糸は二本浮き、二本沈む組織をしていて、芯糸のない組み目の細かい組み紐」とある。中国から来た絹糸の組紐からきた呼び名。

エゾオヤマリンドウ

登山人口は近年700万~800万人とも云われている。「山の日}制定で登山人口がさらに増えるのだろうか。今回偶然に「山の日」で駒ケ岳、八幡平の山の雰囲気を味わった。駒ケ岳8合目硫黄鉱山跡、標高1350ⅿ。八幡平黒谷地湿原、標高1445mを散策。山に関心のなかった某君、登山道でのすれ違い時のあいさつ、「こんにちは」が新鮮だったらしい。

ニガコヤジ(赤子谷地)考

2016年08月07日 | 村の歴史

当地方では生まれたばかりの子供を「ニガコ(赤子)」と云った。ニガコヤジ(赤子谷地)は(子棄て沼)の事である。かつて、飢饉、疫病等で子供を遺棄しなければならない事情が各地にあったと云われている。例えば寛永の大飢饉(1642~50)で、会津藩(福島県)の被害は甚大で、餓死寸前に追い込まれた百姓は、田畑や家を捨て妻子を連れて隣国に逃散したと記録されている。その逃げ散りの様は大水の流れにも等しいものであった。その際、7才以下の幼児は、足手まといになるので、川沼に投げ込まれて溺死させられたという。

宮城県白石市内を流れる「児捨川」(こすてがわ)がある。その川にかかる国道4号線の橋「児捨川橋」(全長71m)があった。この名前の橋が「昨今の児童虐待などを連想させイメージが悪い」との市民の声が寄せられるようになったため、市長が橋を管理する国土交通省と協議し「白鳥橋」に名称変更されている。蔵王山麓を水源とする川の名「児捨川」は現在もある。「児捨川橋」の名称について、いくつかの伝説の中から以下のような記述があった。

「児捨川橋」から「白鳥橋」へ -国土交通省へ提言しました-,,,,,,。その伝説の一つは「蝦夷(えみし)征伐でこの地を訪れた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子を産んだ長者の娘が、夫から迎えがないのを嘆いて、『白鳥と化して大和の空に飛んでいく』ために、子を抱いて川に身を投じた」というものです。名称変更について、白石市文化財保護委員会へ諮問したところ、「説話に関する地名は保存すべきだが、伝説を補強する意味でも白鳥橋への改称が望ましい」との答申を受けました。市では、伝説は重んじつつも負のイメージにならないよう、白鳥になって飛んでいった伝承を生かし、「白鳥橋」という名称にしてはと11月6日、管理者の国土交通省に提言しました。現在、同省で名称変更の検討がされています。

※昭和57年に改良された国道の新しい橋の案内板の名称について提言したものであり、旧国道(現在市道)の児捨川橋の名称や、児捨川そのものの名称を変えようとするものではありません。なお、旧国道に架かる橋には伝説などを記した案内板の設置も併せて検討しています。「http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/uploaded/attachment/514.pdf」白石市の広報(平成13年12)引用


当地方で「ヤジ」とは湿地の事を云っている。川連地区は数千年の経過で生まれた内沢の流れの扇状地上に形成されてきた。人々は1000年以上前から住み、扇状地特有の瓦礫の地を開拓してきた。扇状地の山際に住居を構え、すそ地は田んぼに変えてきたと思える。

2014.6.30のブログ『二つの古絵図「川連村、大館村」』に享保16年(1731)の文章に古絵図は慶安元年(1648)と変わりがないと書かれている。この古絵図に現在集落の下の方、通称「宿」と呼ばれている付近に湿地が記されている。下記の地図で屋敷廻、天王の場所、この湿地は幕末から明治の古地図には見られない。この湿地通称「ヤジ」は、その後の内沢の土砂の押し流されと人々が手を加え湿地を乾地に変えてきたものと思われる。

古絵図 享保16年(1731)(地名編入筆者)

近年この場所に住宅が建てられた。スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」する。結果、N値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。湿地(ヤチ)の深さは約6mと記録されている。表土は乾地化されてはいるが地下数メートルには湿地の兆候が見られる。

黒森の「ニガコヤジ」はこの場所から直線距離で約600m離れ、標高155m程でこの地から約10mも高い位置にある。この通称「ニガコヤジ」を享保16年(1731)、明治初期の古絵図にも示されていない。古絵図では妙音寺、黒森山の麓の場所。

昭和になって麓集落に残った湿地(ヤジ)は、黒森にある「ニガコヤジ」だけだった。この「ヤジ」も住宅建設で残土等の埋め立てや、昭和52年の圃場整備事業で下方に排水路が出来その面影を無くなってしまった。現在「ニガコヤジ」を知っている人は団塊の世代以上で若い世代は名も場所も知らない。

ニガコヤチ跡 2015.12.3

私の記憶にある「ニガコヤジ」の大きさは約500平方ほどでヨシが茂っていた。ドジョウなどの棲みかだった。先達の話だと昭和30年代には鯉や鮒がいたといわれている、養蚕が盛んだった川連地区では養蚕の道具洗浄や未熟な「蚕」のさなぎや、食べ残しをこの「ヤジ」に運んだと云われている。そのたびに大きな鯉や鮒が寄ってきたそうだ。誰も魚を捕ることはなかった。ニガコ(赤子)の霊を守り供養を鯉や鮒に託していたのかもしれない。

長い戦国から争いが少なくなり、新田開発等で人口の増加した江戸時代、頻繁に起こる飢饉等自然災害、冒頭の会津藩同様、各地に飢饉や疫病から生き延びるために似たような事例があったといわれている。

江戸時代には頻繁に飢饉が起こった。東北地方は、天明・天保の飢饉に宝暦の飢饉を加えて三大飢饉と呼ぶ。宝暦の飢饉( 1753年~1757年)、天明の大飢饉」(1781~1789)、「天保の大飢饉」(1832~1839)。その他、元禄の飢饉(元禄年間 1691年~1695年)、延宝の飢饉(1674年~1675年)等東北地方の被害が大きかった。

秋田藩(出羽藩)で被害の大きかったのは「天保の大飢饉」(1832~1839)、数年に渡る冷害飢饉で人口の1/4の10万人が犠牲になったといわれている。江戸時代は全期を通じて寒冷な時代で凶作や飢饉が絶えなかった。食糧事情が悪く栄養不足で基礎体力がない子供の生存率は極めて低かった。飢饉や疫病等で乳幼児の死亡率は50%前後。異常な低さは当時の乳児(ゼロ歳児)と幼児(1~5歳)の死亡率が全死亡率の70%を占めていたことが全体の平均寿命を下げていた。江戸時代の子供は7歳(満6歳)までは神の子と云い、この世に定着していないと考え人別帳(戸籍)に載せていない。7歳にして「一人前」と考えられた。平均8~10人兄弟姉妹で子供が成人(当時は15歳)までに半数は亡くなった記録もある。

集落に30数年前まで存在した「ニガコヤジ」もそのような歴史があったと云われているが詳しいことはわからない。この場所はかつての妙音寺の引導場、歴代住職の墓地も近くにある。江戸時代当地の肝煎を務めた末裔高橋氏は、忘れ去られようとしている「ニガコヤジ」を後世に伝えようとして次のように書きとめた。

「慶長19年、対馬(㐂右衛門)の分家、川連山妙音寺というお寺があった。山伏修験寺で川連には神応寺と竜泉寺があって、新しくお寺では生活できないので切支丹を広めていった。遠く杉の宮(現羽後町)まで広めた。地元の川連には毎日のように大館、久保方面から続々と信者が集まり、今でもこの通り道を切支丹通りという名が残っている。承応年間((1652~1654)の切支丹弾圧に、川連では犠牲者を一人も出さなかった。肝煎の㐂右衛門は信者一人一人を説得してまわって(踏絵等)弾圧から逃れたことによる。

それでも妙音寺は信仰を続け信者を広めていった。仕事を休んでまで信仰していったので日増しに貧困の差を増していった。その結果、破産と口べらし(子棄て)が大いに出た。ニガコヤジ(赤子谷地)に朝な朝なに赤子の泣き声とお供えが上がっていたと伝えられている。現在ニガコヤチ(口ベラシ沼)はニザエモンの所有地になっていて沼の形はない。年代とともに消えゆくので書き留めておく」。 平成25年11月

神応寺、竜泉寺は「回向寺」。江戸時代の檀家制度でお寺の経済は保たれていたが、妙音寺は「祈祷寺」で檀家を持たなかった。そのためには信者を増やすことが寺自立の唯一の勤めだった。人々の現世のしあわせを求めて「妙音寺」に多くの人が出入りした。その中には切支丹信者も多くいたとされ、住職も信者説は高橋氏の覚書に詳しい。

各地には貧しさや飢饉から、「姥捨て山」等の記録は散見されるが「子棄て」の記録はあまり多くはない。有名は遠野物語には「昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふ」。デンデラ野「遠野物語」(111)、「遠野物語拾遺」(268)等に詳しい。比較して「子捨て」については「間引き」「遠野物語拾遺」(247)等がある。本当に捨てるのではないと記録されている。