新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

第24回麓ぼんぼら大会

2013年09月13日 | 集落
「第24回麓ぼんぼら大会」は9月8日開かれた。前日の夕方からの雨は夜通し降り続き当日会場準備中も降りやまず、いつもの開催場所からビニールハウスへ変更となった。
平成2年第一回大会が始まり、雨でビニールハウスで開くのは過去に第6回大会があり今回が二回目となった。「ぼんぼら」とは秋田の県南で通称「かぼちゃ」の呼び名だ。


昨年の第23回大会 2012.09.15

昭和61年、麓転作組合では集落の活性化のため農道と通学路へ花の栽培、その後転作地の田んぼへ「ひまわり」の栽培をしてきた。田んぼへ「ひまわり」は行政当局から転作の対象にはならない、との連絡が来たが麓転作組合は約50アールに作付をした。この地域の景観作物の第一号だった。
8月ひまわりが満開となって驚いた。地方紙「秋田魁新報」に5万本のひまわりの花を連絡したらカラーで報道。その日から県内からカメラマンが殺到した。秋田市はもちろん遠く県北十和田湖の近く鹿角市から写真を撮りに来た若者がいた。当時写真のことをほとんど知らなかった。その若者はひまわりの花、黄色は写真愛好者の最高の対象と答えにはビックリした思い出がある。当時「景観作物」という呼び名は存在していなかった。行政当局は種子(実)を収穫したら転作作物の対象になるというので、花の終わった秋には種を収穫し宮城県三本木町の加工センターで「ひまわり油」を製造加工し全戸配布した。

ひまわり栽培2年後、集落以外でひまわりに感動する多くの写真愛好者が県内から毎日のように稲川町麓に来てくれた。交通障害になるくらいだった。NHK秋田は現場から転作の一つの事例として全国中継した。

そのような経過の中で、イベントが他から人呼ぶことばかりではなく、集落内の和と悦びを作って行こうと「ぼんぼら大会」を企画したのが平成元年だった。

「ぼんぼら大会」は集落の一体になる行事をと対策を考えている中で、北海道滝川市で第一回「おおーいでっかいどうカボチャ大会」があることを知り開催資料に手にし、その延長に日本大会が香川県小豆島「日本一どてカボチャ大会」、世界大会がアメリカであることも知った。

平成元年は準備期間とし、北海道の「でっかいどうカボチャ大会」小豆島の「日本一どてカボチャ大会」の参考に地元のカボチャの呼び名「ぼんぼら大会」とした。
当時、ぼんぼら大会の話を鈴木元彦氏にしたらその後、「むら表現 秋田考」著者鈴木元彦 1992(無明舎)で男鹿地方にも「ボウブラ」の呼び名があり、ポルトガル語のabobia(アボボラ又はアボブラ)を語源とすると記された。平成5年ある集会で東京農大の某教授から鹿児島でも「ぼぼら」という地域があることを聞いた。

その後、秋田県教育委員会編「秋田のことば」(2000)によれば「ぼんぼら、秋田でも県南湯沢、横手地方の言葉だ。「ぼうふら」という形が江戸時代西日本一定に行われ、一時期江戸でも使われたが『物理称呼』(安永4年)の頃には「かぼちゃ」にとって替わられていた」と云う。
「南瓜」の呼び名も鈴木元彦氏がいう、ポルトガル語のabobiaという説は全国的な呼び名からして説得力ある。参考までに「秋田のことば」に各地で「かぼちゃ」の呼び名を「ぼーぶら」千葉、広島等21県、「ぼぶら」が富山、香川等10県、「ぼんぼら」は秋田県の他岩手、島根、山口県でも呼ばれていると云う。

「麓ぼんぼら大会」の名称はそんな背景から生まれた。今回が24回開催。ちなみに北海道の「でっかいどうカボチャ大会」は今年26回大会となっている。秋田大会は大潟村で麓より一年遅れの平成3年から始まっている。

カボチャの品種は「アトランティク・ジャイアント」という家畜の飼料用のカボチャで、食べれないものではないがほとんど味はない。「第一回ぼんぼら大会」で村の長老のリクエストで、このカボチャを焼いて焼き肉のタレをつけて食べてみたが、常に食するぼんぼらにはとてもおよぶ味ではなかった。



雨がないと看板の後ろに見える草地で開催となっていた。



大会のぼんぼらは参加農家から運ばれ計量、ゲーム等今年はほぼ全員参加の種とばしだった。雨にたたられ、雨の合間にゲームは集落の道路になってしまった。
時々の小雨の中、ハウスで重量コンクールの順位発表し1位から3位まで表彰。プロポーション賞、ブービー賞等初回大会から継続。その他全員参加のゲーム等、イモノコ汁、焼き肉等で懇親会を味わった。育苗ハウスへシートを張った中での大会もコンパクトで中身の濃いものになった。



この「ぼんぼら大会」が終わればいよいよ稲刈りの始まりとなる。今年の作業は雨続きで圃場が心配な稲刈りとなりそうだ。

川連村水害記

2013年09月03日 | 村の歴史

今年は全国的に異常気象だ。各地で最高気温の更新がある反面、豪雨の被害が激増している。一時間当たり50ミリとか100ミリの雨となれば被害はどこでも出る。秋田はこの夏近年では最悪の被害に見舞われた。秋田の中部、北部に被害が集中した。湯沢地方は一部稲が倒れた程度で被害は少なかった。


氾濫した米代川 8月9日午後3時1分 秋田県北秋田市で共同通信社(引用)

秋田魁新報は8月26日以下の報道した。

集中豪雨の被害総額、113億4532万円に 県が明らかに

県は26日、今月9日の集中豪雨の被害総額が113億4532万円に上ることを明らかにした。被災した住民の生活再建に向けた支援策も公表した。9月5日に臨時県議会を招集し、支援策の経費を盛り込んだ一般会計補正予算案を提出する。県議会は即日審議し採決する予定だ。
被害の内訳は、道路や河川といった公共土木施設関連35億2240万円、農作物や農地など農業関連78億2292万円。調査が進めば、被害額はさらに膨らむ見通し。県は、災害復旧関連予算を9月12日開会予定の9月県議会に提出する。

生活再建支援策では、仙北市田沢湖・供養佛(くようぶつ)集落の土石流で亡くなった6人の遺族に災害弔慰金、所有する住宅が全半壊または床上浸水した世帯に災害見舞金を支給する。農作物や農地に被害を受けた農家への助成、住宅や家財に被害が出た人への災害援護資金の貸し付けも行う。(2013/08/26 )秋田魁新報 (引用)

今から119年前の明治27年7月25日(新歴8月25日 1894)私の住む川連は未曽有の大水害にみまわれた。集落の内沢が豪雨でいたるところで土砂崩れ、数か所で沢がせき止められ決壊した。約200ha程の山地に豪雨が集中、決壊し一気に集落を襲った。沢川に一番近い集落の上流部の家屋が流された。不断の流れはわずかで想像さえ難しいが、水の深さが浅いところで一丈、深いところは二丈もあったと記録にある。3mから6~7mと云うのだからもの凄い流れだった。内沢川の氾濫で流失家屋11戸、死者5名を出す大惨事が起きたことが記録されている。

昭和54年8月4~7日にかけて当地区に集中豪雨があり内沢が一部氾濫、床下浸水が4戸ほど出た。幸い人的被害も少なく山の土砂くずれ、田んぼの冠水などが生じたが大きな被害がでなかった。内沢川で濁流をガラガラと鈍い音をたてて流れる石の音は今でも思い浮かべる。湯沢、東成瀬の降雨量は198mmが記録にされており、当地区はその中間点にあって同じような降雨量だったと思われる。
その後、昭和61年度から3ケ年計画で「川連内沢治山治水事業」がスタートし、集落内の水路の改修、内沢、相の沢へ土固工等工事が終了した後、明治27年大水害が話題となり、この「川連村水害記」を知ることになった。記録を残した故西成亀松氏は当時51歳、この水害で娘28歳を亡くした悲しみの記録である。


西成亀松「川連村水害記」明治27年7月25日(日付は旧暦 引用)

その一部は次のように記されている。
「頃は明治27年7月25日也 明治27年以前は20年あまり禄々たる豊年を得る能わば27年に至りて春より豊年の気候ありて夏に至り気候のすこぶるに宜敷。いかなる老人も今年こそは真の豊年なりと万歳を唱え豊年を歌い歓声巷に充満たり。然るに、思いも依らず此の前日24日寒風激しくしかも10月頃の冷気ありて午後6時頃より雨しきりに降り夜半にいたり雷雨益々甚だしく翌日25日に至ると雖も満天暗黒夜明けて明けざるがごとく。
、、、、、午前12時頃思依らざる村頭より大いに浹し濁水、材木、大石ニ丈も高く遮立ってどうガラガラ鳴り響き家屋をくだき宅地を荒らし、老若男女おし流されし。流人何十名、溺死人5名、傷を負うもの何十名後に残りし人々は四方を望めばこれ如何に今までありし家々、並びに五尺も廻りし大菓木、四五尺廻りし大桑木宅地の地までも如く押し流され、村内中の街道は大川となる。残るは廻り一丈余もありし大岩石、大木、小石、砂石、子木にて山林、田畑、宅地にいたるまで広き広き大河原となり久々大いに驚きただ茫然として夢かとおもうばかりなり、、、。」

「さてこの水害たるや我が川連のみならず、秋田県内より酒田県にいたるまで水害に遇ざる地こそなかりけり。而して山岸の地は固より地波なれば別して大害を受けたるもなり。こはいかなる故んと尋ねるに今までこの度よりも大雨は有るなれど地波に有らざるば、若し烈しきときならば沢川端低地を押し上げるのみにて河川うづめられて陸地の河となるす。河川浹路、、、無事故に山岸の住居、人民は水害等は更に心を止めざるに思い依らざる。
故に山岸住居人民は思い依らざる。我が県内人民の死傷並びに田畑家屋の水害を受けたる者の過半なり実に見るも聞くも哀れなりける。」


西成亀松「川連村水害記」部分

下記は当時、初めて富士通のワープロを手にした時で、マニアルを見ながら悪戦苦闘。ほぼ原文に忠実に清書した。勝手ながらカナ書きは読みにくかったのでひらがな書きに変えた。



被害の後内沢に数百か所崩れがあって一番大きな崩れは、内沢の最奥は通称大屋布(オヤシキ)ムジナ岩の西手と記録にある。

「内沢のつき落ちの第一大なるものムジナ岩の西手なり此所に雨乞石と云う大岩あり、此の大洪水にて「ドジョウ」滝の上まで流れ来たるなり、此の大石は昔は日かれの時は村民一同にて雨乞をしたと云う」

ムジナ岩の場所からドジョウ滝まで約500mはある。この大岩は高さ約3m横幅2.5m(推定)もある大岩だった。沢なりとはいえ500m位流されたとなればその水量はすごいことだった。残念なことにこの大岩は昭和61年から3ケ年「内沢治山治水事業」で林道の下に埋められてしまった。大きすぎて重機で林道側辺によせることが難しいということで、大岩の上部を削り林道とした。集落にとって貴重で歴史的な大岩。機会あるごとこの村の大洪水の象徴として発掘を、と呼びかけても賛同者少ない。

今年同様のゲリラ豪雨を彷彿させる明治27年水害。ゲリラ豪雨になれば広範な地域に影響を及ぼす。明治27年水害後の稲の収穫では大きな被害がなかったことが記録されている。今年はどうだろうか。まだまだ不安定な天気。20年前同様、梅雨明け宣言が確かだったろうかと思われる天気が続いている。

大きな災害があると比例するように大きな事件が起こる。明治27年(1894)8月1日、日本は清国に対して宣戦を布告し、日清戦争が始まった。
今年はどうだろうか。今後大きな事件がなければいいのだが、シリアでは連日キナクサイ状況が続いている。大量破壊兵器を口実にイラク戦争が思い出される。さらに消費税、TPP等国民にとって大きな関心ごとが目白押し、将来を左右しかねない分岐点が続く。