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麓の子安観音(マリア観音)考

2018年01月25日 | 村の歴史

平成29年12月22日秋田魁新報の文化欄に「秋田のキリシタン遺物」の掲載記事があった。
この記事によると「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」が2018年、世界文化遺産登録の審査を受ける。これに関連し2018年12月にかまくら春秋社から「潜伏キリシタン図譜」の出版を予定している。上智学院の高祖敏明理事長を発行人にして2016年12月に潜伏キリシタン図譜委員会が設立され、全国各地に地域に残るキリシタン遺物や史料等の情報提供が呼びかけた。秋田から「熊谷恭孝秋田キリシタン史研究会会長」に要請があり、熊谷氏は「秋田のキリシタン遺物として図譜に掲載されるのは9点」だという。①が「梅津政景日記」寛永元年(1624)の秋田藩内最初の大殉教を記した日記文。きりしたん衆32人火あぶり。②湯沢市東福寺雲岩寺所蔵のマリア観音像(石造秘宝、高さ52㌢)。③湯沢市川連町麓のマリア観音像(石造、高さ70㌢)。⑥湯沢市寺沢にある北向き観音像(石造)。寛永元年(1624)16人が久保田城外で斬罪。
秋田魁新報 平成29年12月22日 引用

熊谷恭孝氏が「潜伏キリシタン図譜」に提供する秋田のキリシタン遺物としての図譜、9点中3点は湯沢市が関係している。記事にあるマリア観音の写真は、麓の観音堂に熊谷氏が足を運び撮ったものらしい。今回この「マリア観音像」の背景を考察してみた。

麓の観音像は現在川連集落の三浦家で「子安観音」として管理、祀りが毎年11月の行われている。一般的に「観音様」といわれている。不思議なことにこのお堂には子安観音の他に本尊等4体がある。これらの仏像はほかのお堂や祠にあったものがまとめられたものと思われる。本尊の一つに首のないものがあること等から明治の廃仏毀釈の影響が考えられる。明治政府は明治元年神仏分離令を発布し仏堂、仏像等の破壊が各地で行われた。観音堂の他の仏像、本尊はこの破壊活動から逃れるために持ち出され、排斥運動鎮静化後まとめられたものと思われる。麓の「子安観音」は昭和40年から順次刊行された「稲川町史資料編」で紹介され、昭和63年稲庭城跡の今昔館に「マリア観音」としてレプリカが展示されてから注目されるようになった。

集落でこの「子安観音像」に深く関わっていたと思われるのは妙音寺。寺は明治政府の廃仏毀釈で廃寺となった。妙音寺の本家の高橋家によればかつて観音像は盗難にあい奪い返したとの逸話もある。又現在管理している三浦家の話によれば「約500m程離れた岩清水神社から村の某が背負って持ってきた」と言い伝えられている。どんな背景、経過があったのかは不明。

又稲川町史資料篇第三集(昭和42年3月)第六 切支丹宗に「東福寺村雲岩寺及び川連町根岸岩清水八幡の小祠にマリア観音石像がある。聖母マリアの胸に星形(暁の星)を彫み、幼児キリストがそれを指さしている。これは明らかにマリア観音で、子安観音とは違う」とある。編集者は郷土史家の茂木久栄氏。

この記述に観音像(マリア観音)が現在の麓の「子安観音堂」ではなく「岩清水神社」にあったことの証になる。移動は諸説から推定して茂木氏の記述の基点以後と考えられる。現在の観音堂は30年程前の昭和62年に再建され新しくなった。不思議なのは現在堂の正面の本尊は子安観音ではなくかなり古い木像の仏像。この仏像は「羅漢、権現像」にも似ている、他に「正塚婆」らしきもの、首の取れた観音像らしいのは明治初期の廃仏毀釈で破壊されたものだろうか。「子安観音堂」と呼ぶなら正面の本尊は「観音像」であるべきだが、現在堂の正座にある本尊は観音像ではない。観音像は向かって左端にある。このことからしても観音像の移動説が証明される。並び順について管理の三浦家に聞いてみてもわからないという。


麓 子安観音(マリア観音)

かつて肝煎で妙音寺の本家、高橋家の説に妙音寺が「隠れキリシタン」だったと語る。祈祷寺の妙音寺が信者を増やすためにキリシタンの教えも説いた。現世のしあわせを願う信者は地元ばかりはなく遠くからも妙音寺を訪ねてきた。信者が妙音寺に通う道を「キリシタン通り」と言ったことが語りつがれている。(ブログ「ニガコヤジ(赤子谷地)考2016.8.7)に詳細

キリシタン宗禁制の時代、多くの信者は仕事もせず信仰に走ったため貧困も進んだという。弾圧が激しかった時代、肝煎の高橋家は別家の妙音寺や集落の信者を弾圧から守るために奔走、説得等を繰り返した。その結果集落から犠牲者を出さなかったという。信仰のよりどころだった子安観音(マリア観音)は弾圧の状況下で安置場所を意図的に変えたとの推測もできる。

慶長7年(1602)、佐竹義宣は国替えで常陸から秋田に来た。「対馬家」(現高橋家)は佐竹と一緒に秋田にきて川連村麓に着任し肝煎となった。妙音寺は対馬家から分家して慶長19年(1614)12月に当地に開山した。開山時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。当初佐竹氏はキリシタン対策に温情があったとの説がある。詳細はブログ「妙音寺を偲ぶ」1 2015.12.19 「妙音寺を偲ぶ」2 2016.4.7  

明治4年は廃仏毀釈で廃寺となった妙音寺住職黒滝源蔵の「観音社 山神社日記」によれば、正徳二辰年(1712)願主仙北雄勝郡杦宮 吉祥院住快傕門 寺号川連村相模寺、川連 坂東27番「十一面観世音」が造立されている。ちなみに坂東27番は千葉の札所 坂東33観音で千葉県銚子市にある 飯沼山 円福寺(飯沼観音)本尊十一面観世音菩薩。

この堂は現在は特定できないが旧妙音寺内の敷地内、現在の「子安観音堂」と推定される。この本尊は「十一面観世音」だったのではと推測される。さらに観音堂に側に建っている「庚申塔」は明和五〇天(1768)と読める。年号は年ではなく天になっている。天年号の石造仏は隠れキリシタンと関係が深いとの説がある。

神仏習合から分離する明治新政府のの廃仏毀釈は各地のお堂、仏堂等の毀釈は激しいものだったと言われる。当時戊申戦争の混乱の中で慶長19年来続いた妙音寺は廃寺とされ、妙音寺の最後の住職黒滝源蔵氏は、天壌無窮を祈って関係した麓の観音堂、山神社等の本尊を入れ替えたとの説も否定できない。

さらに移設時期は特定できないが子安観音(マリア観音)は所説から、明治前後から終戦前と推測される。昭和21年、集落で村の3,40代が中心になり岩清水神社「観音講」が始まって現在もつづいている。この記録に「子安観音」(マリア観音)の記述をない。関係者に伺っても岩清水神社から観音像が移動されたことは知る人はいない。講の構成は名簿から明治35年以降大正10年生まれが中心。親、祖父の時代に「観音像」移動をあれば語り継がれることは自然なことと思われるがそれも確認できない。後日ブログで「観音講」を取り上げ予定。


観音堂正面の像 (木造)。

黒滝子安観音が「マリア観音」の石の像は「ゆざわジオパーク」のジオサイト案内書に「白っぽい細粒の花崗岩~花崗閃緑岩を加工した石像で、湯沢市神室山や役内川に分布する花崗岩類とは岩石が異なる。観音像の花崗岩は、帯磁率8以上と比較的高い値を示している。これは、湯沢市付近にある帯磁率の低い阿武隈帯の花崗岩ではなく、むしろ北上山地の磁鉄鉱をしっかり含む花崗岩類の特徴です。雲岩寺のマリア観音像は、藩政時代にキリシタンが坑夫として潜伏(大倉、白沢鉱山)していたこと、および南部藩水沢地方と交流していたことを示唆している」とある。

キリスト禁教令は諸外国の激しい抗議と反発で明治6年(1873)キリスト教禁止令は解かれた。廃寺になった妙音寺のご本尊は見事な「十一面千手観音立像」、住職黒滝源蔵氏はこの像を本家に預けこの地を離れてから140年近くになる。明治大正昭和と時代を経過して各地と同様、キリシタンの名は地域から消えている。今の所集落でキリシタン信仰に関係した古文書は確認されてはいない。菩提寺の神應寺の墓地の古い墓石に、キリシタンだったことを示す隠れ文字や記号らしきもものがあると、このことに精通の研究家は言う。

天保10年(1839)生まれの高祖父が、曾祖父文久2年(1862)生まれに説いた書があった。明治5年(1872)当時曾祖父は10歳の時に人間としての教えを説いたと思われる。書の形式からみて高祖父33歳の頃。高祖父は明治10年(1877)40歳で亡くなっている。書は往来文形式で1年の出来事、法事や祭り親戚とのつき合い方の他に田地調、年貢等がありその中に「切支丹御調條」が含まれていた。

 切支丹御調條の一部

「此度切支丹宗旨御調ニ付五人組引替色々御穿鑿被成候得共御法度宗旨之者男女共一人無御座候、、、、、、」となっている。各地の庄屋、肝煎にこれらの「起請文の事」が送られていたものと思われる。「秋田切支丹研究―雪と血とサンタクルス 」(1980年)翠楊社 武藤鉄城著に角館 佐竹家蔵に「起請文の事」がある。

明治新政府はキリスト教禁止の幕府政策を継続した。明治政府は長崎浦上村のキリシタンは全村民3414人流罪という決定を下し長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され激しい迫害を受け562人が死んだと記録にある。明治政府は、文明開化をめざしながらも近代的な人権思想に無で、新たな国家神道による思想統制をはかろうとしたがキリスト教徒弾圧は外国使節団の激しい抗議を受けて明治6年(1873)禁教令を廃止した。徳川家康の慶長17年(1612)天領禁教令から262年ぶりに日本におけるキリスト教信仰の自由が回復した。高祖父は禁教令廃止の前年にこの文書を書いている。この時期は戊辰戦争や地租改正前後の騒然とした時代、高祖父が子供に伝えようとした背景になにがあったのだろう。

集落内にかつてキリシタン信仰があったことは知る人はいない。長い年月の中で風化され子安観音(マリア観音)が話題になることもほとんどない。この度の新聞掲載の「秋田のキリシタン遺物」の一つとの記事へ関心、反応は聞くこともなかった。しかし「マリア観音」の存在は、この地域で祖先がかつてこのキリシタンの教えを受け入れた歴史の証明に違いない。

※ 子安観音(マリア観音)のある祠を「黒滝子安観音堂」との説もあるが、地元の呼び名   「観音様」、「子安観音」で統一した。

※ 熊本県天草市にある「サンタ・マリア館」のホームページに「修験道の影響を強く受け家   の中には大黒様や天神様、若宮様などを祀り本来のキリスト教とはほど遠い、一種の  「キリスト教的民俗宗教」となってしまいました。いわゆる「キリシタンでないキリシ   タン」=「異宗」となってしまったのです。このようなキリシタンを「伝承キリシタン」
  と言っています。その代表的な遺物が「マリア観音」。本来のキリシタンであれば本質的  に違う観音様を拝むはずはありません」とある。