新河鹿沢通信   

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バスで行く 「はるかな尾瀬」

2015年07月31日 | 地域
夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径
水芭蕉(の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

尾瀬に訪れたことがなくとも誰でも知っている歌、「夏の思い出」は1949年NHKで放送された歌。作曲は『ちいさい秋みつけた』、『めだかの学校』などを手掛けた中田 喜直(なかだ よしなお/1923-2000)。作詞は、新潟県上越市生まれの詩人・江間 章子(えま しょうこ/1913-2005)。

尾瀬には7月16~18日、雄勝野草の会事務局佐々木夫婦と私たち4人で訪れた。それは偶然のことだった。「雄勝野草の会」一泊研修の反省会で佐々木さんが「尾瀬」行きの話をした。どなたか一緒にいかないかと誘った。詳細を聞いて読売観光へメールしたら余裕があるとの連絡で実現した。

横手駅前発8時、秋田から10名、横手から4名、北上から5名計19名のツアー。ガイドから事前に知らされていた日程の説明。気になるのはと台風11号の動き。四国に直撃されるらしい。雨雲が関東まで達している。ましてや尾瀬は群馬、福島県境にある山岳地帯、明日の尾瀬散策の天気が気になる。東北自動車道、国見SAで昼食。大内宿の「高遠ねぎそば」がメーンだったので軽い食事とした。大内宿着午後2時13分。早速三沢屋で高遠そばを注文。大きなお椀にそば、上に鰹節、大根おろしがのり長ネギが添えられて出てきた。箸の代わりの長ネギで食べるソバも話のタネとばかり食してみた。薬味がわりのネギをかじりながらソバの味。ほとんどの客はネギを残していた。大内宿は江戸時代に下野街道の一宿場として栄え、明治以降交通路の変化で開発を免れ、昔の面影を現在にとどめている。形成されたのが承応3年(1654)の頃といわれ、江戸時代は会津と江戸を結ぶ主要な街道の宿場だった。定番の子安観世音堂の急な石段の駆け上がり見晴台から眺める街並みは壮観だった。

大内宿 2015.7.16

その後天然記念物に指定されている巨大な奇岩怪石の「塔のへつり」を訪れ宿泊の会津高原ホテルに着いたのは小雨の夕方5時30分頃だった。

会津たかつえ温泉 会津高原ホテル 2015.7.16

翌朝8時ホテルを出発し、尾瀬高原に向かう。バスの中でガイドから尾瀬の歴史、1890年(明治23年)平野長蔵氏が尾瀬沼岬に行人小屋を建てたことをもって尾瀬開山と言われ古くから尾瀬には、上州(群馬県)と会津(福島県)を結ぶ交易路が通っており、尾瀬沼のほとりには交易所が設けられていたこと、地名のいわれには平家落人伝説と関係がある等のレクチャを受ける。ホテルから1時間半で御池と到着、そこからシャトルバスで沼山峠に向かう。心配された台風11号はほとんど風もなかったが、今にも雨になりそうな曇天。木道周りの山野草を目にしながら1時間20分ほどで大江湿原に到着した。

大江湿原から尾瀬沼方面 2015.7.17

「レンゲツツジ」もすでに終わり、「ニッコウキスゲ」は咲きだしたばかり、湿原を覆うように咲き乱れる姿には少し早かった。

尾瀬沼から燧ケ岳方面 2015.7.17

あいにくの天候で燧ケ岳は見えない。長蔵小屋の前で「ヒメサユリ」を見つけた。ガイドに「なぜ海抜1600mの地にこの花があるのか」と尋ねたら「長蔵小屋」を建てたとき、持ってきて植えたと言われているという。会津固有の「ヒメサユリ」は25年程前に有機栽培の先進地研修で「熱塩加納村」(現喜多方市)へ行ったとき飯豊連峰、吾妻山、守門岳周辺等にだけ分布する貴重な植物で、野生種は環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に指定されていることを聞いていた。ガイド氏に喜多方で有機米栽培をしていたグループは、「ヒメサユリ米」の名で栽培し販売していることを話した。可憐な「ヒメサユリ」なのだが人口的に栽培されたとなれば少々違和感はあった。

沼の周りを散策して大きな「ベニバナイチヤクソウ」を見つけた。現在使われていないという「元長蔵小屋」の裏手。昨年志賀高原で見たものより倍の大きさにも見える。尾瀬で唯一タダの水を飲むおいしかったが、周りには何故か「トリカブト」がいっぱい。飲み水と「トリカブト」の組み合わせが何となく可笑しい。「トリカブト」は花の前だからか多くの人は気がつかないらしい。

ベニバナイチヤクソウ 元長蔵小屋裏 2015.7.17 

その後ガイドを先頭に尾瀬沼周辺を散策。群馬県側まで足を延ばし帰途についた。団体旅行のツアーだったが「雄勝野草の会」の習性なのか山野草を探し、名前とカメラで確認のため歩くのはいつも遅れ気味。大江湿原から高低差200mの沼山峠までは雨にたたられてしまった。台風直撃の時期だったが満足な尾瀬散策だった。

沼山峠から尾瀬沼往復の出会った山野草は以下

ヒコダイ、ハグマノキ、コメツツジ、オオコメツツジ、ダイコンソウ、ミヤコシャジン、ムシャリンオウ、ヌルデ、クサレダマ、ノハナショウブ、カキラン、サボンソウ、ハチフーロ、タムシバ、アカモノ、ドクウツギ、キンコウカ、ヤマブキショウマ、ヤマハハコ、ヤナギラン、カンゾウ、トビシマカンゾウ、ハナイカダ、ウツボグサ、ノリウツギ、キリンソウ、トリカブト、ナツハゼ、チダケサシ、ミヤアカスミグサ、キタマムシグサ、ヤブレカサ、ツノハシガミ、ツリバナ、キンギンボク、メタカラソウ、カラマギカエデ、エゾノヨロイグサ、ニッコウキスゲ、ヒメシャクナゲ、ギョウザニンニク、トンボソウ、ヒメサユリ、ベニバナイチヤクソウ等

多くは花の終わりと咲きはじめたばかり、今回は花山峠から尾瀬沼往復だったが次回は尾瀬ケ原方面まで足を延ばしたいものだ。


「蝉語の夏」と安保法案

2015年07月20日 | 足跡
7月16日、衆議院本会議で与党の賛成多数で可決され、衆院を通過したとマスコミは報道した。15日衆院特別委員会で、与党は安全保障関連法案を強行採決で可決した。この模様を「皆様のNHK」は中継しなかった。ネットでYouTubeはリアルタイムで報道した。締めくくり総括質疑でまともに応えられない総理、あげくに「残念ながら、まだ国民の理解が進んでいる状況ではない」と認めつつ強行採決に臨み、さらに翌日の16日衆院本会議で野党欠席の中で衆院通過させた。

この状況で詩人小坂太郎氏の「蝉語の夏」を思い出した。「蝉語の夏」は「北の民話」民話伝承館 1998.11月刊に収められている。「蝉語の夏」の初出一覧は、冬の伝説1990.10月叢園148号とある。1998年5月から7月まで朝日新聞日曜版の連載された24編、北の大地から庶民の生きざまを鋭く描く詩編。

前回のブログでスモモの思い出に浸っていて、その延長上にあったのかもしれない。青いスモモと蝉の鳴く季節。7月15日頃からハルゼミとヒグラシが鳴き始めた。「蝉語の夏」が到来した。

蝉語の夏 詩集 北の民話 小坂太郎

蝉語の夏

青い李の実に 掌の塩をつけて
がりっと噛めば 酸っぱい海がふくらんでくる

腹いっぱいに陽の光を吸った
濃い葉群れのおしゃべり
季節が着物だった 少年時代

どこまでも道は走り その行きつく果ては
空につながっていた

日がな蝉語を聴いてたから
蝉語を話すことができた
なきたいときは木に登って
たっぷり蝉語でないた

(オナゴはみんな唖蝉だから、、、、)

黄土の風吹く大陸では
戦争がはじまっていて
蝉の脱殻のように
ぬけ出していったまま
還ってこない
タマシイのことなどをしらずに

7月15日衆院特別委員会「安全保障関連法案」審議から16日の衆院本会議まで皆様のNHKの報道にはあきれてしまった。国会周辺や全国でやむことのない「戦争法案反対」、「9条守れ」の多くの国民の声を無視した。16日は台風11号情報一色、17日は新国立競技場の建設計画を「国民の声に耳を傾けた結果、計画を白紙に戻しゼロベースで見直す」との報道。明らかに安保法案から国民の目をそらせる展開。バカげたとしか言いようのない「新国立競技場」建設計画ゼロベース見直し。混乱の責任は誰も取りそうもない。内閣の支持率の急減の中でとった目くらまし策。

60年安保以来といわれる学生の蜂起、高校生や中学生まで抗議の中で「私は全共闘世代」、「国民の命、国を守る責任は私」等にやけ顔。憲法学者の違憲を無視し「粛々」、「刹那的な世論」等傲慢な政権は極度になった。「新国立競技場」建設計画白紙を宣伝することで「安全保障関連法案」だけではなく、TPP,辺野古基地、原発再開から国民の目をそらそうとした政権の思惑は破綻寸前になってきた。

国会前に集まって反対の意思表示をしている若者、政治に無関心と云われた若者が立ち上がった。将来身に降りかかってくる可能性が大きいからデモに参加している。「刹那的な世論」等といわれたら叛骨のエネルギーが倍増する。傲慢な政権の安保法案を廃案まで追い込まねばならない。

金子兜太氏 2015.07.17 埼玉新聞 引用

金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - )は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。2015年7月に全国で掲げられた「アベ政治を許さない」のプラカードの文を、澤地久枝氏の依頼を受けて揮毫。このプラカードを全国の若者が掲げて抗議する。95歳と若者とのコラボ。ネット社会では誰でも専用ホームページ登録でコンビニから手にすることが出来る。金子氏は朝日新聞(7.19)に『自分の文字が揺れるデモの光景をテレビで目にし、「反対」の声はじわじわ効いてくるくるはず』と感じているという。
、、、、、、、。

小坂太郎「蝉語の夏」が脳裏を横ぎっていた。前回の「夏の贈り物」の時代とクロスしたのかもしれない。小坂氏の想いとのズレがあるかもしれないが、安保法案審議と全国に燎原の火の如く広まった反対デモのあらしの中で、小坂太郎氏の「蝉語の夏」を引用させてもらった。

「蝉の脱殻のように ぬけ出していったまま 還ってこない」時代を繰り返さないために。

夏の贈り物

2015年07月15日 | 足跡
「夏の贈り物」、食べれる「夏の木の実」を意識したのは3年前、房総への旅で再会した友人との話からだった。友人の柴崎君は小学の時から親しい関係。彼は地元に就職後間もなく東京へ出て行った。昭和30年代高度経済成長へ向かう時代だった。当時帰省の度に尋ねてきた。地元に残った者にとって都会のニュースはある種の新鮮な響きがあった。

以来時代は変遷、再会は還暦の後一度だけで。古稀を通過し彼が退職したことを知り、房総行きを企画した。早春の3月、東京湾を望むある街の寿司屋で実現した。中卒以来の出来事を振り返ると話題などつきない。「夏の木の実」はその時の主要なキーワードだった。

戦後の混乱していた時代は小学生。食糧が乏しいのは日常。学校給食などはない世代にはあまり思い出したくない時間。それでも米や野菜を作っている農家にはいくらか食べ物はあった。腹が減るとこの時期にはキュウリ、トマトに茹でたジャガイモ。何にもなければ残りごはんの「焼味噌つけおにぎり」が最高のおやつだった。

友人は川連漆器の生産地。小学生の時に「根岸(川連集落)に行くのが楽しみだった」と云う。6月から7月にかけて「夏の木の実」の季節。房総の新鮮な寿司にサシミと地酒、あの頃を話題にすると時間はアッと云う間に過ぎてしまった。

6月の「シャゴミ」(ナツグミ)木に登りよく食べた。我家の坪庭に「シャゴミ」の木があった。あまり大きい木ではなかったが30数年前には伐ってしまった。生命力が強いのか根元から側枝が出てきて今も実をつける。大粒の「シャゴミ」の木は他の友達の家にあり、何人かで食べ歩くのが楽しみな出来事だった。柴崎君との話を思い浮かべて、一粒食してみたが渋い味だった。ナツグミを「シャゴミ」と呼ぶのは秋田、岩手、山形周辺だけだろうか。

シャゴミ(ナツグミ)2015.6.15 自宅

当時最も美味いは「クワノミ」だった。当地域で「カンゴ」とも言った。桑の実を桑の子から音変化しカンゴになった。当時はまだ養蚕が盛んで村には相当の桑の木があり、「桑の実」は豊富だった。当地方は文政9年(1826)秋田藩に養蚕方が置かれ、養蚕役所の支配に命じられた「関喜内」の出身地だ。文化3年(1806)肝煎りの「関喜内」は自費で現在の福島県伊達郡に養蚕の研究に行き、地域に広めた人物で当時桑、漆、杉などの苗木等を分け与え奨励したと云われている。そのような背景の川連集落は畑や山にもたくさんの桑の木が植えられていた。

6月から桑の実は食べ放題。あまりにも口に運ぶものだから、食べた全員が口元が赤紫色に染まってしまった。なつかしい想いに染まる。現在は集落に桑の木をほとんどない。養蚕が廃れると同時に切り倒されてしまった。わずかに残っている老木も多くは実をつけない。ここ数年「クワノミ」を見たことがなかった。このたび「雄勝野草の会」の研修で訪れた、山形市野草園で見事な「クワノミ」に出合った。


 クワノミ 2015.6.10 山形市野草園

一粒食べてみた。当時の味がほのかに蘇って懐かしくなった。

キイチゴ 2015.7,10 川連町坪漆

「キイチゴ」(木苺)は赤い実と黄色の実(黄苺)のものがあってどちらも似たような味、黄色の実の「キイチゴ」の葉がモミジに似ていることから「モミジイチゴ」等と云った。クマの大好物とも云われる。少々枝に棘があり、腕を血に染めたりしたが忘れられない味だった。

「クワノミ」や「キイチゴ」と並んで屋敷周りには「スグリ」の季節になる。少し渋みの味のものとビー玉ほどの大きさになるものとがあったが、この頃少なくなったしまった。我家の坪庭の当時の「スグリ」が残っている。樹齢150年以上にもなる栃の木の根元、雪椿と一緒の所で日陰になり、あまり多くの実はつけない。友人木村宅に見事な「スグリ」に再会した。

スグリ 2015.7.2 湯沢市川連町屋布廻

「スグリ」は一般的にジャムやシロップなどに加工されている。ビタミンが豊富に含まれ、「アントシアニン」など「ポリフェノール」が多いので健康食品の材料に使用されている。「アカスグリ」より「クロスグリ」の方に「アントシアニン」が多く含まれていると云われいる。目の疲れや視力の改善に有効な効能をもつ果実としてひろく知られている。木村宅からこの見事な「スグリ」を譲り受けて「スグリ酒」をつくることにした。容器にホワイトリカーと氷砂糖と一緒に入れるだけだから比較的簡単な作業だ。

「スグリ」酒はきれいな赤色になる。熟成するにしたがって色が変わっていく。最低3ケ月後の楽しみなのだが、来年又「スグリ」の実のつくころまで熟成させれば見事な「スグリ酒」ができあがるはずだ。

さらに屋敷や畑に「オットウ」(サクランボ)、「ウメ」、「スモモ」と続いた。特に「スモモ」の種類は多く、赤いから「アカスモモ」、中が赤いので「スイカスモモ」などを名をつけて呼んでいた。その後「ソルダム」、「サンタ・ローザ」、「フームサー」、「ハダンキョウ」(巴旦杏)等スモモの名前を親父から聞いて知った。スモモの木は結構太くて大きいので、枝さきの実は長い竹竿でたたいて落とした。明治時代の曽祖父の時代から植えられていたらしい。当時スモモ(李、酢桃)のカタカナの名前が珍しかった。「スモモ」の原産は中国で、世界各地で栽培され品種改良され日本に入ってきたと云われている。各家に様々な品種が植えられており仲間の家を食べ歩いた。「スモモ」のそれぞれ独特の味は今でも忘れられない。

当時「スモモ」等には消毒はしなかったので虫がつく前に先に食べるしかなかった。自家の坪庭の一角を占めていた特に虫には弱かった「ハダンキョウ」。熟れたこの味は「スモモ」第一だった。今振り返ってみると食べるのが先で、完熟前の実を食べていた。それでもおいしさは格別。「ハダンキョウ」を取り忘れ、さらに虫の被害から免れた「スモモ」が完熟した。この味が忘れられず探し回ったあの日は懐かしい。「ハダンキョウ」は古くから日本に伝わっており、和歌などにも詠まれる。「スモモ」は自分の花粉では結実しにくい自家不和合性なので、ほとんどの品種で受粉樹が必要であることから、さまざまな品種が植えられていた。現在集落で「スモモ」の木を見ることはほとんどない。

夏の贈り物「木の実」の物語。

「坪池」のトンボ

2015年07月07日 | 地域
7月に入ると田んぼでは一斉に「アカトンボ」が生まれる。4日に確認したがまだ始まったばかりだ。「アカトンボ」は通常はトンボ科アカネ属(アカトンボ属、Sympetrum属)に属するトンボを総称して呼ぶ。羽化直後は未成熟で体色は橙色をしている。これらのトンボは近くの山に飛び立ち、稲刈り頃になると繁殖のために田んぼに戻ってくる。

アカトンボ 2015.7.4 川連町清水屋敷

このブログは田んぼのトンボは主ではなく、ここ一ケ月間の「坪庭」の小さな池に繰り広げられるトンボ達の記録。「坪池」とは私の造語。当地では屋敷内にある小さな庭を古くから「坪」(坪庭)と云っている。坪にある池を「坪池」とした。前々回の6月12日のブログ、「金魚とイトトンボとアメンボ」でのカワトンボの正しい名は旧の名「ヒガシカワトンボ」、現在は「ニホンカワトンボ」と呼ばれていることを(財)日本自然保護協会 自然観察指導員の羽後町の「大日向」氏から教わった。翅に赤い斑点があるのは♂だと云う。


ニホンカワトンボ(透明型)♂ 2015.6.11 東の坪池 

「ニホンカワトンボ」は、透明な翅をしたタイプと橙色の翅をしたタイプの二つの型がある。「♂は橙色形と透明型の2型に分かれ、一般に橙色型がなわばりをはり、♀にも優位性があると言われている。♀は透明型のみである。平地から山地にいたる清流に生息し、4月下旬から7月中旬に現れる。腹は緑光沢で美しいが成熟すると白い粉を吹く」(引用)先日雄勝野草の会の研修で、同行の大日向氏が山形市野草園を散策中に橙色の翅をしたニホンカワトンボ(ヒガシカワトンボ)を見つけた。羽化したばかりなのか「ヒメクロサナエ」と一緒の葉に止まっていた。

ニホンカワトンボ(橙色型)とヒメクロサナエ 2015-06-10 山形市野草園

7月に入って我家の北の「坪池」周辺に次々にトンボがやってくる。この池を中心に約50m周辺に、池が自宅の二つの池の他に隣家のため池が三つの計五つある。一番新しい池が我家の「坪池」で平成9年造成、他は100年以上前から存在し、野生生物が生息するビオトープが形成されている。

我家の北の「坪池」は適度に日あたりも良く、周りのトチの木やイチイの木が池の周りを囲みトンボの居場所に適しているように思われる。

 ハラビロトンボ? 2015.7.2 坪池

羽後町の大日向氏は「ハラビロトンボ」かもしれないという。「シオカラトンボ」の♀か。大日向氏は♂、♀の尾部付属器の形で識別されるという。この写真では不鮮明、なかなかすばやくてデジカメに収まりにくかった。穏やかな日で石の上がお気に入りのようだ。近づく気配で屋根越して飛んでしまった。

 オオイトトンボ?(スイレンとキンギョ)2015.7.3 坪池 

「坪池」のスイレンが開花した。イトトンボは「オオイトトンボ」か、スイレンの葉が指定席らしい。デジカメで覗いていたらキンギョが横ぎった。


シオカラトンボ 2015.7,4 坪池

「シオカラトンボ」、精悍な姿はこの「坪池」の主役だ。トンボで以下の解説がある。「トンボの頭には大きな目があり、頭の大部分を目が占めています。トンボは飛びながら、えさとなる小さな昆虫を捕まえるため、昆虫の仲間で一番よい視力を持っています。トンボの頭には、大きな 1対の複眼と 3個の単眼があります。複眼は、小さな目が 1万から 2万 5千個も集まって出来ています。複眼は、ものの形や色をとらえ、単眼は光の強さをはかって複眼のはたらきを助けています。トンボの複眼の色は、青色、緑色、茶色、赤色などと種類や成熟度によっても違います」。引用 「シオカラトンボ」の二つの目はくっつき「イトトンボ」の二つの目は離れている。

ノシメトンボ 2015.7.5 坪池

田圃から飛んできたのか。この池で羽化したのかはわからない。「ノシメトンボ」は「アキアカネ」と並んでよく見られるアカネ属の普通種。6日の午後、いきなり飛んできたトンボは「ダビトサナエ」らしかった。「ダビトサナエ」は良く目にする「オニヤンマ」を小型にしたようなトンボだ。池の水面に急降下して尾を水面にたたきつけること3回繰り返して、隣家のため池の方に飛んで行った。このトンボの産卵を初めて目撃する。素早い一瞬のことでデジカメに収めることはできなかった。

これらのトンボは曇天だとほとんど見当たらない。晴天だと毎日のように目にする。不思議なことに日替わりで現れる。北の坪池はトンボにとって最良の場所なのか、先着がいると他のトンボはその場所を避けるのか、いつも一種類しか見当たらない。先着がいると他の池周辺を回っているのかもしれない。今日になって「オオイトトンボ」が2匹いることに気づいた。このトンボも他のトンボが来たときは目につかなかった。唯一この坪池で羽化したのだろうか。このトンボは比較的水面に近いところを縄張りとしている。

2014.7.29に『帰ってきたスズメと「サンクチュアリ」モドキ』で、スズメ等の野鳥との共生について私案を書いた。今回はトンボ等野生の生きものが息づく空間、我家の「坪池」でのトンボの目撃情報を紹介した。

「ビオトープ」とは野生の生きものが生息する空間を指すドイツ語の造語。近年自治体等が自然の再生や保全を目指して「ビオトープ」造りを推進している。「ビオトープ」の普及啓発に「日本生態系協会」(1992)が設立されている。地域には昔から屋敷内に「堰」が流れ、ため池があったが近年荒れてきているが野生の生きものが根付いている。これらのため池、堰(水路)等は「ビオトープ」と呼ばれても違和感はない。しかし、これらのため池も多少人の手を加えなければ荒れてしまい、トンボもホタルも棲めなくなってしまうかもしれない。