新河鹿沢通信   

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人形送りと鹿島様

2019年03月31日 | 地域

2010年5月2日に「人形送り」を次のように書いた。「岩手県西和賀町左草地区の「左草人形送り」。 ネットで調べたら下記の記事であった。 「ショウキサマ」と呼んで、昭和28年頃まで続けられていたようですが、何らかの事情で中断されました。そして昭和62年から再開し、今年で24回目となりました。男女2体のわら人形には、病がソバに寄らないようにとして、ソバ粉で作った団子を持たせます。その他に穴の開いたお金を持たせ村はずれまで、送って道端の木に結わえて無病息災をお祈りします」。

通りすがり初めての対面。ミズナラの木高さ4㍍程にワラ人形二体。地域の伝統行事に何かしら新鮮な感動を覚えた。

岩手県西和賀町左草 2010.5.2

その後も西和賀町の左草地区を通る度にミズナラの木の人形を思い浮かべていた。今回鮮やかな晴天に久しぶりのドライブ。コースは西和賀、沢内から雫石、田沢湖を設定。西和賀の左草の近くを走っていて、再び「ワラ人形」に会いたくなった。国道106号線のバイパスで横手、盛岡線で沢内へ向かう。106号線からバイパスを通ると間もなく左側に左草地区の入り口が目につく。バイパスからせいぜい3キロほどで「ワラ人形」がある場所にたどり着く。

岩手県西和賀町左草 2019.3.20

今回3月26日のFBに次のように書いた。

「岩手県西和賀町左草地区では今年も2月11日に「人形送り」の行事が行われたという。 当日公民館で2体のワラ人形を作り、病が「ソバ」に寄らないようにとソバ粉の団子と、しっかり身に付けて守ってもらうようにと穴の開いたお金を持たせ、地区のはずれまで送って道端の木に結わえて無病息災を祈る行事。

約10年ぶり再び「ワラ人形」に会いに行ってきた。西和賀町では他の地区でも伝統の「人形送り」の行事が継続されているという。地区によって「ワラ人形」の形は違うようだ」。

今年の「人形送り」は2月11日に行われて約40日経過でイナワラが新しい。2010年の「ワラ人形」は5月の写真だったのでワラ人形がやや風化し色合いが出ていた。さらに約10年の月日で制作者も変わったのだろうか。2010年の時の「ワラ人形」になにかしら厳かさを覚えるのはなぜだろうか。

秋田県にある巨大ワラ人形。湯沢市岩崎地区のものは約4ⅿはある。2018年9月30日のブログ「追想 米を作る若者 と皆川嘉左エ門」を書いた。岩崎の緑町の「鹿島様」は骨組みと面以外は稲ワラで作られている。面の製作は彫刻家の皆川嘉左エ門だ。村々の疾病・災厄退散と五穀の実りを祈願した。さらに周辺地域独特の守護神像がある。

旧稲川町の飯田地区に4体の「鹿島様」(ニンギョ様)がある。他に御岳堂、岩城にもある。この地区の鹿島様は他とは違っている。1m程度の石碑にワラで作った兜のようなものを被り、腰にまわしのようにワラで作ったものを巻いている。小さいながらも脇差をして力強い。このような形は全国的にも珍しいといわれている。このタイプは飯田地区の他、御岳堂、岩城、皆瀬の若畑にもある。

飯田地区の一部では男神と女神が一緒に鎮座する双体道祖神のような形をとっています。又、道切りと呼ばれる注連縄を集落境に張り込み、その下で小さな人形道祖神が睨みを効かせて子孫繁栄、安産などの性神としても捉えている。春、秋にニンギョ様のワラの着せ替えをしている。今年は4月10日に着替しお祀りが行われる。

湯沢市三梨町飯田の鹿島様(ニンギョ様)   2019.3.28

文化十一年(1814)江戸時代後期の旅行家、「菅江真澄」がこの地を訪れた。菅江真澄全集 第五巻に「雪の出羽路」雄勝郡二 稲庭ノ郷 新町に鹿島様の記述がある。

「郷堺に藁をつかねて五尺に余る芻霊人(くさひとがた)を作りて、横刀を帯せ剣を持たせておしたてり、こは春秋これを造りたて、又をりとしてすりを加ふ事あり、こや疫神を避け逐ふの祭りと云えり、秋田路にもいと多かるもの也。又家々の門の柱にささやかのわら人形を作り左右の方にゆひ添へ、あるは串にさしても立り茅もて制り金銀鉄泥なんども以て人像を作りてはらうにひとしかるべし。此大なる境人形を草二玉といひ、また牛頭天王なんどいえり。此稲庭は草二王を造るよしといえり。」とある。

 現在稲庭地区でかつて人形を作ったことが語り継がれ、明治の廃仏毀釈当時にその歴史は絶えたともいわれれる。

左  菅江真澄全集 第六巻 雪の出羽路 平鹿郡11   右  湯沢市三ツ村の鹿島様

菅江真澄全集第六巻 「雪の出羽路」に横手市下樋口村に「芻霊」の図がある。稲庭新町の記述とほぼ同じように記されているが、秋田県内最大といわれる岩崎や雄勝地区の「鹿島様」について記述は見られない。 


陽が当たらなかった「春蘭」

2019年03月26日 | 地域の山野草

「陽の当たらない春蘭」は自家の雑木林から移植したものだ。この場所は集落のすぐ傍で毎年9月の第二日曜日に「麓ぼんぼら大会」の会場になっている。我が家の持地になった記録として「山分け証文」がある。持ち主麓村 掃部、武右衛門、立会川連村、兵左衛門 宝暦3年(1753)8月8日とある。

現在の字名は「東天王」になっているが古文書には「天王社外杦雑木立」川上治衛、黒沢治右衛門の「御先分」となっている。天王社は八坂神社のこと、神社の境内、社地以外の山林をいう。現在は天王山といい、ほとんどが杉林、一部にミズナラ、クリ等の雑木林になっている。地目、東天王は神社社地の東部に当たる。

当時から我が家の持地になっていて、文政5年(1822)に「極立杦」等300本植栽の「書上覚」を肝煎当てに出している。「極立杦」とあるのは普通の植樹と違って意味合いのある特別な杦の植樹と思われるが仔細はわからない。

 

ここの面積は山林として約3200㎡。300本の杦植樹の他はミズナラ、クリ、ブナ等の林だった。我が家は大正初期(1912)火災にあいこの場所から材木を切り出し住宅を新しくしたと伝えられている。現在の住宅の主要な柱にはクリ材が多く使われている。文政5年の「書上覚」から90年、「極立杦」の一部は現在の住宅に使われているものと思っている。

昭和48年この場所の雑木、主にミズナラ、クリ、ブナ等をすべて伐採した。一部は親類の住宅の土台や大黒柱に使われている。そして林の中央上部に樹齢100年以上の直径80㎝もある大きな杉の木があった。当時伐採し牛舎拡大に活用した。巨木だったが比較的伸びの少ない杉の木だった。用木としての価値は低く大正の始めの伐採時から免れたと思われる。現在ふり返って、あの杉の木は文政5年(1822)の「極立杦」と関係があったのかもしれないなどと思えてならない。

私は昭和52年この雑木林を採草地に造成した。雑木林の下方は畑と田圃。併せて65aの草地造成。国の助成事業を活用した。総事業費が320万円。面積の半分以上は傾斜が30度近かった。大型のブルトーザーはスリップしてバックで上る作業ができなかった。上部の切り下げは約5ⅿもあった。その結果隣地との間に2ⅿから5ⅿの段差ができた。昭和45年から始まった「減反政策」で、田んぼで米を作ることができない状態は年々減反面積が拡大されてきた。著名な農民運動家は私の草地造成に「水田転作」が有効だとから無駄(?)との助言らしきものがあった。当時私にはこの助言にどうしても同意できなかった。補助事業で採択され、補助残は近代化資金を活用。返済期間は確か3年据え置き18年償還だった。

 

 造成された草地の段差斜面は年月を経過するごとに少しづつ崩れた、斜面にも雑木が生えるようになってその崩れもいつの間にか収まった。大型トラクターで草地の草刈りは年2回、乾燥しタイトベールで梱包作業。当時は現在のようなロールベールの作業体系ではなかった。

草地の周囲は年数回草刈り作業して全体を管理していた。写真の側面に「春蘭」の大株があることに気づいていた。当時「春蘭」は格別珍しいものではなかった。私が「春蘭」に興味を持ったのは昭和60年前後、函館に住む叔父が来宅するたびに「春蘭」を欲しがり、自宅の山に案内してからだった。函館近くにはほとんどないといい、持ち帰った。その結果我が家の雑木林に「春蘭」は絶滅してしまった。絶滅と思っていた「春蘭」が5.6年前からみられるようになったきた。このことを「いとこ」に話したら一部函館から送られ里帰りの「春蘭」の株が育っている。

約40年続いた牛飼いから撤退し、草地の管理をやめてから15年も経過してしまうと「春蘭」の大株のことはすっかり忘れていた。写真のように雑木が段差を覆い春蘭が見えなくなって長い年月が経過した。「春蘭」と再会したのは4年前。段差にあるミズナラ、クリ等の雑木が大雪で枝が欠け、一部根元から倒れた。この雪折れ雑木を整理した時「春蘭」の大株に再会した。この株は直径25㎝程。「春蘭」は多く見てきたがこんなに大きい株は見たことがなかった。

 段差の場所に雑木が被さり、さらに笹竹が忍び寄っていた。この「春蘭」に晩秋の雑木の落葉期、春先の雑木の新葉時も笹竹が覆いかぶさり陽が当たらることがなかった。さらに大株の下部の1/3は斜面の土が崩れて根がむき出し状態。株の直径が25㎝もある大株に花芽がなかった。陽の当たらなかったこの「春蘭」は数年なのか数十年の間花が咲かなかったと思われる。

この状態に再会して「春蘭」の大株をこの場所から移植をすることにした。大株を自宅に持ち帰り、空の木桶に植えて置いた。「春蘭」異変に気付いたのは梅雨の時期。木の桶の底に穴を開けていなかったので根腐れが起きてきた。慌てて地植えにした。

地植2年ほどで回復。昨年鉢植えにし、この冬居間に飾っておいたら見事な花が咲いた。花の数20本ほどの見事な「春蘭」の大株。根腐れで当初の大きさから大分小さくなった。この「春蘭」春になったらまた地植えし、より自然な状態に返そうと思っている。 

宝暦3年から我が家の持地になった場所。草地造成前は直径60㎝のブナ、ミズナラ、クリ等の雑木林。ヤマツバキやササダケが密生。3200㎡ほどの面積を隈なく回ることは少なかった。それほど山野草に関心もなかったし「春蘭」の大株が生えたいたことも知らないできた。どれほどの時間が経過して、直径が25㎝もある「春蘭」になったのか想像できない。

生えていた場所が自宅のすぐ近く、宝暦3年(1754)から我が家の持地になった歴史ある山林。草地造成で山の形を大きく変えてから40数年になる。もしかしたら草地造成当時から生えていたのではないかと思っている。山野草に興味を持ち、雄勝野草の会に入って10数年。各地の散策をくり返してきたがこんな大株の「春蘭」にあったことはまだない。