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二つの古絵図「川連村・大館村」 

2014年06月30日 | 村の歴史

いなかわ広報 昭和47年11月5日号の「町の歴史と文化」で関 喜内氏の記事がある。宝暦九年(1759)生まれで享和元年(1801)肝煎りに推され、文化三年(1806)に自ら福島の伊達に行き養蚕の研究をした。文政三年佐竹藩の藩内に養蚕を奨励されるように進言し、秋田藩の養蚕方の養蚕役所の支配人を命じられた。この記事に関家所有の川連村・大館村の「古絵図」があった。このほど「古絵図」の現物のコピーを手に入れることができた。解説するために現在地の名を張り合わたのが下記のものだ。(地名等挿入筆者)「古絵図」は関喜内氏が生まれる前の時代のもので、肝煎りになってから手にいれたのかもしれない。

川連村・大館村古絵図一部(川連集落)享保16年(1731)

下方の道路は現在の国道398号線。当時の小安街道は蛇行しているが現在の国道398号はまっすぐに昭和になってから改良された。平城は現湯沢市役所稲川支所。現在の国道13号線はかつて羽州街道と呼ばれ江戸時代の参勤交代のため整備されたといわれる。羽州街道は、奥州街道から岩代国の桑折宿(福島県伊達郡桑折町)で分かれ、小坂峠や奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県・秋田県)に入る。

横手市の「ふるさと栄会ホームページ」に「栄地区の東山道」(推定)の記事がある。東山道の起点は、近江の国(滋賀県)瀬多(瀬田)で、終点は宮城県の多賀城まで、のちにY字状に分かれた。―つは陸奥の国(岩手県)の胆沢から志波。もう一つは出羽の国(山形・秋田)の秋田城まで(推定)。距離にして1000㎞を超える。

多賀城から陸奥と出羽に分かれた東山道は、出羽(山形県)尾花沢(玉野)→舟形(避翼=さるはね)→金山(平戈=ひらほこ)→平戈山(一説には前神室山)→秋の宮→横堀→御返事→宇留院内→稲庭→川連→東福寺→大倉峠を越えて増田(真人)→沢口→亀田→明沢→馬鞍→楢沢→大屋沼→大屋寺内→大屋新町→美佐古(みさご)→婦気大堤→横手(一説には平城)まで推定されている。(引用)

上記の解説で江戸時代前の古道は現在の国道13号線沿いではなかったことがわかる。上記の記事から推定するまでもなく、旧稲川は約800年前の小野寺の居城の中心地でこの東山道が主要な街道だったと推定される。宇留院内から旧稲川町に稲庭→川連→東福寺→大倉峠を越えて増田(真人)に向かったとなれば、川連集落を通って東福寺に行ったことが推定される。

上記の絵図上で川連城へ通じる中央より右側の①の路はすぐ下にかつての三梨城があった。上記地図で左側の八幡神社と八幡館の間の「山田の坂」を通り仙道に出て東福寺から大倉に入れば牛形城があった。旧稲川町の城があった山沿いの東側が主要な街道と考えるのが自然なことだったと思われるが、上記の古絵図の約130年前の慶長2年(1597)稲庭城、三梨城、川連城は落城、この絵図に記載はない。

古絵図にある「妙音寺」は明治政府の廃仏毀釈で廃寺になり、「龍泉寺」は明治22年の火災で現在の野村地区に移っている。現在②に道路がある。昭和になって造られ、昭和50年ごろ舗装されているが舗装前には木の切り株などが見られた。この古絵図で④が気になっていた。かなり大きな湿地とみられる。川連集落は数千年にわたって内沢の扇状地として形成されてきた。集落、田んぼで約230ha程だろうか。近年だと明治27年(1894)の大水害で集落は瓦礫の山だったことが記されている。湿地が何回かの水害で埋られてきたのかもしれない。④の場所は現在宅地になっている。明治27年の水害の記録はブログ「川連水害記」2013-09-03(詳細)

近年この場所に住宅を改築した友人木村宅に、スウェーデン式サウンディング試験結果の報告書があり地質を知ることができた。スウェーデン式サウンディング試験とは「先端がキリ状になっているスクリューポイントを取り付けたロットに荷重をかけて、地面にねじ込み、 25センチねじ込むのに何回転させたかを測定」。直接土を採取することができないので、 土質の判定はロッドの回転する音に頼ることになる。換算N値(地盤の硬さを表す地耐力を示す数値)表される。

試験装置は「ジオカルテⅡ」で、調査の結果貫入1mの音がジャリジャリ、(軽打撃貫入、荷重100kN)換算N値が18.4、1.25mは無音、N値5.82mで軽打撃貫入、音がジャリジャリでN値が12.6.この場所が推定水位。その後はロッドが自沈、音は無音が続き深さ6.16mで音がジャリジャリ、ロッドが強反発し換算N値が20.0となって調査が終わっている。

この調査から推定して上記の古地図作成以降、内沢の土砂が流入され現在の宅地、畑になってきたことがわかる。そして古絵図上の新堰は④の下で蛇行しているが、藩政時代の新田開発で古地図上の③の位置まで水路が延長された。その結果④の湿地と思われる場所の排水が改善されたとも推論される。昭和49年の圃場整備事業で和堰が無くなり、かつての新堰が皆瀬川から五ケ村堰を通りほぼ昔の堰形を流れ、川連地区約100haの田んぼを潤している。

下記は古絵図に書かれていた部分の拡大したものだ。享保16年(1731)の書状で、境界が83年前の慶安元年(1648)と変わりがないと川連村、大館村の肝煎、長百姓連名で書かれている。上記の古絵図は今から366年前の集落の地図ということになる。  



「此度川連村之内大館村高被分置候ニ付、田地山境ニ御見分之上大館村分慶安元年書抜帳、面之通境限御朱引被成置申通、川連村大館村高入組無是候尤他郷境共ニ相印指上甲通、御絵図表相違無後座候、為其肝煎老百姓印判仕指上申候以上」

享保十六年 亥五月十日

川井権八殿          川連村肝煎  弥左衛門
戸橋造酒殿          同村同断   彦右衛門
永井久助殿          同村開肝煎  七郎右衛門
                   同村長百姓 市左衛門
                   同 断     新右衛門
                   大館村肝煎  円右衛門
                  同村長百姓  藤右衛門

下記の古絵図は上記より新しく藩政時代から明治5年頃のものと云われている。前の古絵図の約150年後と推定される。いなかわ広報「町の歴史と文化 大館村古絵図」で当時、秋田県は二十大区にわかれて、大館村は第十六大区の第二小区に属し、全県が七大区編成に改められる明治六年七月まで一年五ケ月続いた第二小区の取締所に差出した絵図。古い絵図よりもイラスト風の古絵図になっている。広報いなかわ(昭和56年4月25日)



道路ほぼ同じで明治の廃仏棄釈でなくなった「妙音寺」、古い絵図と現在まであった「平城」が記されていない。先の絵図④の湿地とみられる場所の記載は無くなっている。絵図に館山(川連城)、黒森山の境が東福寺山境になっているのは実際と違うようだ。村の大きさは一間が6尺5寸(197㎝)で測られ家の数131軒、借家16軒とある。大館村の内、現在の大館集落は本郷大館村家数95軒、麓は支郷根岸と呼ばれ家数36軒とある。現在の大館集落は約520軒、支郷根岸麓集落は54軒になっている。

この古絵図に「大館村支郷根岸」との記述がある。現在も川連集落を「根岸」と云う人は多い。「根岸」の地名や字名はどこにもない、山の麓の村か、城の麓の村から「根岸」と呼ばれたのか今のところわからない。いつごろから、どうして「根岸」と呼ばれるようになったのか知る人は村にはいないが、現在も「根岸」の呼び名は通用している。この古絵図で「根岸」の呼び名は藩政時代から使われていたことがわかった。東京都台東区の根岸の地名は多くの人に知られている。この地名の云われは「上野の崖の下にあり、かつて海が入り込んでいた頃、木の根のように岸辺がつづいていたためといわれる」。今も麓だけではなく「上野、川連、麓」三集落を通称の「根岸」とも呼ばれることがある。しかし、若い世代やこども達には通用していないようだ。


種差河岸「フナバラソウ」と「マルバダケブキ」

2014年06月26日 | 地域
平成26年「雄勝野草の会」の一泊観察会は、岩手山焼け走り溶岩流と三陸復興国立公園八戸種差海岸となった。昨年稲川自然観察会の種差海岸は、平成25年7月13日で岩山の「スカシユリ」に圧倒されたが、今年の「雄勝野草の会」観察会は6月22日で、昨年より20日ほど季節が早く、昨年感動の「スカシユリ」の開花はなかった。昨年は終わりに近づいていた「ニッコウキスゲ」が最盛期だった。種差海岸はヤマセがあり、北限植物と南限植物が混ざり合い、波打ち際に多くの高山植物が咲く。「ニッコウキスゲ」の群生をこの場所で観られる不思議さがある。


種差天然芝生地から淀の松原 2014.06.22

このブログで昨年に出合えなかった、「フナバラソウ」と「マルバダケブキ」を紹介したい。種差海岸で初めての高山植物「フナバラソウ」に出合った。地元ではどのような意味合いか「チドメ」と呼んでるそうだ。富山県薬剤師会ホームページの薬草資料館に「フナバラソウ」は「生薬はハクビ(白薇) 秋に掘取り、地上部を取り去り、水洗して陽乾する。成分 cynanchol、強心配糖体、精油等。効能に解熱、利尿薬として熱病の中・末期の発熱、卒中患者の四肢浮腫などの治療に応用する」とある。種差のチドメの名は薬草と関連からきた名だろうか。

フナバラソウ(舟腹草、学名:Vincetoxicum atratum)はキョウチクトウ科カモメヅル属の多年草。旧分類では、ガガイモ科に属する。真っ直ぐに立ち上がる草で、高さは40から80センチメートル程度、枝は出さない。葉は長さ8から10センチメートル、幅4から6センチメートルの卵形で対生する。1段または複数段に黒紫色の星型の花がかたまって球状につく。花期は6月頃。花が終わると緑色の、ガガイモ科特有の袋果(実)をつける。秋に袋果が割れ、種髪(毛束)をつけた種子がはじける。袋果の形が舟腹に似ることから名づけられたと云う。この花の黒紫色は独特で、チョコレート色のこのような花の野草は観たことはない。黒紫褐色の花に「クロユリ」がある。5年ほど前に月山で出合ったが、この花より濃い褐色が強い分珍しい。秋田県では絶滅危惧ⅠA類(CR)に指定されている。絶滅危惧ⅠA類(CR)とは、ごく近い将来における絶滅の危険性が極めて高い種と云われている。


フナバラソウ 葦毛崎展望台付近 2014.06.22

フナバラソウの反対側に同じような色の野草があった。初めての野草だ。黒紫色よりも赤みが強い「ホソバシュロソウ」と云うそうだ。和名の由来は葉が枯れて葉の付け根に残る葉鞘の繊維がシュロの毛に似ていることから、葉幅が3㎝以下と狭く葉が長い。秋田では駒ヶ岳に見られるというがなかなか出合うことが少ないと云われている。


ホソバシュロソウ 葦毛崎展望台付近 2014.06.22

マルバダケブキ(丸葉岳蕗) キク科 メタカラコウ属。茎の上部で枝分かれをし、その先に黄色い頭花をつける。花径は8センチから10センチくらいある。マルバダケブキは総苞が濃い紫褐色をしているのも特徴である。 葉の特徴 根際から生える葉は、長さも幅も20センチから40センチくらいある大きく丸い腎円形である。葉の表面には光沢があり、縁には粗いぎざぎざ(鋸歯)がある。


マルバダケブキ 淀の松原 2014.06.22

初めて接したとき「ツワブキ」の花に似ていると思った。
ツワブキはキク科ツワブキ属の多年草で 花は菊の花にそっくりで、 花言葉は「困難に傷つけられない」。「ツワブキ」は食べられるが 「マルバダケブキ」は蕗の葉に似ているが毒草で、近年増えてきた「日本鹿」は絶対に食べないので、各地に群落ができているらしい。昨年は開花が終わりに近く数株の開花だったが、今回は見事に咲き誇っていた。花言葉 は「純情」。光沢の濃い緑の葉と黄色の花、海と岩の景色に良く映える。

「藤祐」と「百姓往来豊年蔵」 100号

2014年06月20日 | 村の歴史
20年ほど前、土蔵から「再刊百姓往来豊年蔵」を見つけた。とても読みくだすこともできず、そのままにして置いた。今回偶然探し物をしていて改めて手にした。裏表紙に嘉永五年七月七日(1852)山仲藤祐求ムとある。「山仲藤祐」は安政6年(1859)頃、現在の横手市大家寺内村から我が家にきた。我家のルーツ現在から五代前になる。「藤祐」は天保10年(1839)頃生まれで、先代が亡くなって「藤祐」から「久七郎」に改名した。「染物家」を「久七郎」(藤祐)が創業したと語られていたが、近年「藤祐」が我家に来る前、先代「久七郎」(芳松)が書いた「染物秘技書」嘉永4年(1851)が出てきたので創業したのは「久七郎」(藤祐)ではないことがわかった。

先代染谷久七郎の書いた大福帳に弘化14年と書かれたものがある。弘化は元年(1844)から5年(1848)で終わり元号が嘉永になっている。嘉永の次の年号が安政となっている。実際弘化14年という年号はない。弘化元年から14年後は安政6年となっている。弘化元年は考明天皇から始まり慶應2年まで21年間勤め慶應3年に明治天皇と交代している。考明天皇在籍14年を弘化14年と呼んだと推察される。詳しい歴史はわからない。孝明天皇の時代に年号を変えた事情があったものと思われる。

「久七郎」(藤祐)は、明治10年40歳前後で若くして亡くなってしまった。染物屋は「久七郎」逝去後まもなく廃業したと伝えられていたが、「久七郎」(藤祐)の長男が引き継ぎ「染谷久治」の大福帳に明治24年(1889)のものもあり、取引範囲も平鹿、増田、湯沢、稲庭、皆瀬までのと取引の名がある。少なくとも40年近く「染物屋」をしていた。屋号がそれまでの「久七郎」から「そめや」と呼ばれるようになって約160年ほどになる。


天保15甲辰年11月再刊 錦森堂 森屋治郎兵衛板

当時横手で寺小屋か塾に通い読み書き、そろばんの他「百姓往来豊年蔵」を学んだことになる。嘉永五年は10歳前後と推定されるが「百姓往来豊年蔵」の裏表紙に書かれた漢字はとても子供の字とは思えない上手なものだ。親か寺子屋の塾長が書いてくれたものかもしれない。表紙の字はいたづら書きと思われる。表紙の字と裏表紙の字は明らかに違うようだ。大屋寺内在の時学んだ「再刊百姓往来豊年蔵」の教科書を大事に保管していたことに、並々ならぬ向学心を想う。

寺子屋は特に幕末の安政から慶応にかけて全国的に増え、明治に入り小学校教育の成立、・普及・充実で次第に初頭教育機関としての機能が喪失し、明治10年代にほとんど消滅したとされている。寺小屋で「いろは」の読み書きが最も多く、「百姓往来豊年蔵」のような往来を学んだのは極少なかったと云う。湯沢市旧稲川町で当時の寺子屋は駒形の八河塾、稲庭の早川塾等が「いなかわ広報」昭和48年7月25日号、「町の産業と文化」で紹介されている。 

寺子屋での教育方法は現在とは大きく異なり、読み書きを教えることが基本。その教科書には農民の子どもは農民に必要な知識を、商人の子どもは商人としての必要な知識を学ぶためのものを使った。寺子屋等で使われた教材を総称して「往来物」と云われている。

表紙裏から1~2ページ

「再刊百姓往来豊年蔵」のページの始めに「第十六代の仁徳天皇と申した方は、難波高津宮に遷都あそばれた」から始まり
   高きやに登りてみれば煙たつ
     民の竃は賑ひにけり
「高い建物に上がってみれば煙が立ち昇っているぞ。民家のかまどは大いにたかれ、食事のしたくでにぎわっているのだろう」に代表されているように仁と孝・弟・忠・信を説いた。2、3、4ページは図入りで「年中農家調㳒記」等で一年の農作業を解説している。


再刊百姓往来豊年蔵

本文は以下の文字から始まる。
「凡百姓取扱文字、農業耕作之道具者、先鋤・鍬・鎌・犂・馬把・钁・竹把、、、、等之加修理破損、毎日田畑見廻、指図肝要也」「扨又、、、、、」と続く。

「およそ百姓の取り扱う文字、農業耕作の道具は先ず鋤・鍬・鎌・犂・馬把・、、、、等」51個の道具の名がかかれている。そしてこれらの「道具が破損すれば修繕し、毎日田畑を見回り、仕事の指図をすることが大切である」と記されている。そして、「新田開発の御検地役人への対応や年貢米、口米とともに色つきのコメや青砕けまい、モミなど混ざらないように検査しておく」ことなど、そして「家を建てるときは釘や金物を用いてはいけない」等々きめ細かく、質素倹約の精神を説いている。

終わり以下のことを説いている。
「如此其道々弁知、猥不切山林之竹木不掠人之地不致隠田、正直第一之輩者終子孫永、成富貴繁盛之家門、平生仏神叶冥慮事、不可有疑。依而如件」

「このようにして、各々の道をわきまえて暮らす。勝手に山林の竹木を伐らず、人の土地をかすめ取らず、隠田をしないようにする。正直を第一に心がけて暮らす者の家は、しまいには子孫末永く、富み栄える名家となる。正直者に平生から神仏の御加護があることは、疑いのないことだ。以上」

現在使われていない道具、漢字等もあり、読みこなすのは難しい。往来物とは往復書簡(往来)の形式を採った文例集(消息集)に由来している云われている。寺小屋や塾は手紙の読み書きができることを柱にしていた。ひらがなの読み書きが中心で、その後そろばんに進んだと云われる。農民の子供で「百姓往来豊年蔵」など往来物の教材を学んだのは、極少なかったと云われている。

農村向けのものとしては農事暦の要素を織り込んだ『百姓往来』、都市の商人向けのものとしては『商売往来』等が代表的な往来物。日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、読み書きの識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったと、日本の教育史上高く評価されている。

今回「百姓往来豊年蔵」を20数年ぶりに再読しブログとした。「再刊百姓往来豊年蔵」の所蔵は特に珍しいことではないのかもしれない。私の集落の歴史は1000年以上、川連城が築かれたのは「御三年の役」の頃、約500年の城が落城したのが慶長2年(1597)。約950年の「神応寺」は城の落城と同時に焼失。現在地に移って417年、その後1700年前後に火災にあったと云われている。災害と火災によりすべてを焼失。その結果、我家の過去帳、ルーツは宝永2年(1705)以後からでその前は知ることができない。土蔵のどこかに祖先が調べた書類がないかと探してみたが今の所見当たらない。

今回五代前の「藤祐改め久七郎」が当時、寺小屋で「百姓往来豊年蔵」を学んだことを知り少なからず驚きがあった。この齢になって「再刊百姓往来豊年蔵」に巡りあったが、読みこなすのに悪戦苦闘した。当時十歳前後の子供たちが学んだことに驚きも倍加した。今回約150年前の教科書と巡り合えたことに感謝したい。

ブログ「新河鹿沢通信」は「暮らしの中から 足跡 集落 身辺雑記 跳躍」を主題にしている。主に1000年を超えている集落を中心にしている。ブログ今回100号のテーマをかつて寺小屋の教科書といわれた「百姓往来豊年蔵」とした。これは我家のルーツに深くかかわったていたからでもあった。





細谷昭雄さんを偲ぶ会

2014年06月14日 | 足跡
元社会党所属の衆議院議員で、全国出稼ぎ組合連合会会長を務めた細谷昭雄氏が、3月12日に脳出血で入院先の仙北組合総合病院で87歳の生涯を閉じた。「細谷昭雄さんを偲ぶ会」が、佐々木長秀元社民党県議や小山誠治、藤井春雄元大仙市議、栗林次美大仙市長等が呼びかけ人となって、5月11日午後2時から大仙市大曲エンパイヤホテルで開かれた。会場には約250名が各地から集まって細谷さんとお別れをした。

細谷氏は公立学校教員を20年勤務した後、71年に県議選に出馬して初当選。県議2期務めた後衆院議員2期、参院議員1期務め国政の場で農業問題、教育問題の専門家として活躍した。そして故・栗林三郎衆院議員から引き継いだ「出稼ぎ運動」 を中心とする「大衆に依拠した政治活動」に半生をささげ、出稼ぎ者の福祉向上と権利を守るための活動を展開、出稼ぎ者の組織化を図り、有給休暇、退職金制度を勝ち取るなど大きな功績を残した。平成元年(1989)全国出稼連合会会長を栗林三郎氏から受け継いだ。昭和45年から40年間続けたで出稼者訪問は1000カ所を超え、約8200人の出稼ぎ者と合い劣悪な飯場の改善、労災事件25件、賃金不払い事件40件等の解決に奔走した。平成7年7月再選を目指した参院選で惜敗し、政界を引退した。 (一部引用)

 
「安らかに眠るな この社会を糾弾せよ」 むのたけじ氏 大仙市大曲エンパイヤホテル 2014.5.11

あと半年後、2015.1月で100歳になる「むのたけじ」氏は、細谷氏の足跡をたたえつつも、右傾化著しいこの時代に「安らかに眠るな」と遺影を指さし細谷氏を送った。厳しい顔の「むのたけじ」氏は右傾化の時代に細谷昭雄氏を失った悲しみの中、多くの参加者に「現状に甘んじるな、行動を起こせ」と警鐘したものに違いない。会場にいた自分は「むのたけじ」氏のこの発言に思わず立ち上がり、自分への叱咤の意味を込めて手をたたいていた。

平成13年2月24日逝去した、栗林三郎氏の「栗林三郎さんとお別れする会」は平成13年3月11日大曲市フォーシーズンで開かれた。平成25年7月30日高橋良蔵氏が亡くなり、平成25年11月15日、「高橋良蔵さんを偲ぶ会」が湯沢市ロイヤルホテルで開かれた。


ハガキ「河鹿沢通信」58号(鹿河沢訂正)「栗林三郎氏逝く」 2001.03.25

細谷昭雄さんは7月30日の故高橋良蔵氏の葬儀、11月15日の「高橋良蔵さんを偲ぶ会」に参加し元気な姿を見せていた。ただ遺影に向かって「もうすぐ私もそちらに行く」と呼びかける細谷氏に異様な姿に見えた。激動の時代の同志との別れに一抹の寂しさがあったことは確かなことかも知れない。思わず細谷氏にかけより言葉を交わしたことが昨日のように思いだされる。


ひとすじの道 高橋良蔵さんを偲ぶ会 配布の小冊子 

かつて、鶴田知也氏は栗林三郎氏を陶淵明の「清風脱然到」という詩句で讃えた。高橋良蔵さんの偲ぶ会で参加者に配られた小冊子「ひとすじの道」だった。故高橋良蔵氏の生涯はまさしく農ひとすじ。農民の地位向上に地域の活性を創造していた。故栗林三郎氏のライフワークは「米と出稼ぎ」に代表される。これはそのまま故高橋良蔵氏、故細谷昭雄氏にも共通される。この偉大な三人の足跡は秋田の農民運動に大きな成果を残した。故細谷昭雄氏は誠実な方だった。教師の出身でありながら「出稼ぎ農民」の地位向上を生涯奮闘した姿勢に敬服する。「清風脱然到」と「ひとすじの道」を合わせ持った指導者だったと思う。

「偲ぶ会」で2011.8.6から9.10まで秋田魁新報の連載記事シリーズ 時代を語るで出版された「小さな石を拾うように」(一部修正)が配られた。前にネットで拝見していたが小冊子で拝読すると故細谷氏の誠実な姿と運動に頭が下がる。栗林三郎氏の後をついで国会議員になってからのつき合いだったが、この本で知らなかった細谷さんを知ることができた。

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「小さな石を拾うように」細谷昭雄 秋田魁新報社

現政権の首をかしげるような歴史認識と集団的自衛権、戦争ができる国の行く先はどこか。そして郵政民営化で味をしめた政権は大胆にもJAや農業委員会制度へも手をかけ出した。栗林三郎氏、高橋良蔵氏、細谷昭雄氏をつないだ「米と出稼ぎ」は、過去の時代になったようにも見えるが農村、農業は「米」で代表され、かつての「出稼ぎ」は「派遣」に名を変え、正社員とは雲泥の差のある劣悪な労働条件のなかにある。

「細谷昭雄氏の偲ぶ会」で、99歳「むのたけじ」氏の発言、「安らかに眠るな」のフレーズが忘れられない。