江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。
「大辞林 第三版」に赤人(あかひと) 「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。 赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このことからしても文化4年北の黒船が松前国、エトロフ島に上陸当時で、赤人(あかひと)の呼称は定着していたことになる。 下田にペリー黒船来航(嘉永6年(1853)の45年前の出来事。
赤人(あかひと)については当時どのように見られていたかが気になっていた。約20年ほど前土蔵からでてきた「外国人の図譜」があったことを思い出した。あの書に赤人につながるものがないのかと気づいた。土蔵探索でやっとのことで発見、調べてもその書に「どじん赤人」と思われるものは描かれてはいなかった。
和紙に描かれている図譜は36国人。ネット検索で以下のものの写本であることを知った。「四十二国人物図説」は日本最初の人種図譜。長崎の人西川如見(1648-1724)が著し、刊行した世界民族図誌。享保5 (1720) 年刊。ヨーロッパ人のつくった原典を長崎の画家が写したものによったといわれている。 42の人物図に簡単な説明を付したもので,後世に大きな影響を与え,幕末にいたるまでこの種の人種図譜の基本とされていた。本書は、江戸期の人々が海外認識を深める上で大いに利用されたらしく写本でも流布している。天保 14 (1843) 年『萬国人物図』として再刊されている。
ブリタニカ国際百科事典に 「42国の男女人物風俗を描いた絵図に、各国の地勢や風俗等に関する簡略な解説を付した書。漢字かな交じり。所収の国は、大明、大清、韃靼、朝鮮、兀良哈(おらんかい)、琉球、東京(とんきん)、答加沙谷(たかさご)、呂宋(ろそん・ろすん)、刺答蘭(らたらん)、呱哇(じやわ)、蘇門答刺(すまんだら・そもんだら)、暹羅(しやむらう)、羅烏(らう)、莫臥爾(もうる)、百児斉亞(はるしや)、亞爾黙尼亞(あるめにや)、亞媽港(あまかう・あまかん)、度爾格(とるこ)、馬加撒爾(まかざる)、槃朶(はんだ)、亞費利加(あびりか)、加払里(かふり)、為匿亞(ぎねいや)、比里太尼亞(ひりたにや)、莫斯哥米亞(むすこふびいや)、工答里亞(ごんたうりや)、太泥亞(たにや)、翁加里亞(おんかりや)、波羅尼亞(ぼろにや)、意太里亞(いたりや)、斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、払郎察(ふらんす)、阿蘭陀(おらんだ)、諳厄利亞(いんぎりや・ゑんげれす)、撒児木(ざるも)、阿勒恋(あろれん)、加拿林(かなりん)、亞瓦的革(あがれか)、伯刺西爾(はらじいる)、小人、長人」。 (ブリタニカ国際百科事典 小項目事典 引用)
わが家から見つかった「人物図譜」は42国ではなく36国の男女人物風俗。B5版より少し小さい、和紙で三か所紙よりで閉じている。以下描かれている図譜、コピーと説明文の一部。
韃靼(だったん)女
「韃靼は本名韃而靼といふ今は而の字を略す其の国東西黒白の二種有て属類甚多く国界四十八道に相分れて大国也 古の胡国といひ或は蒙古と云も此国の別號なり 南界は唐土に交接し北方は冰海に近く大寒地にて四季昼夜の長短大に他方と同しからさるの所々多し最富饒の国也といふ国人弓馬を好み勇強の風俗なり北極地を出る事四十三度より六十四度に至て南北に短く東西に長し」とある。
日本は1972年にモンゴル(当時のモンゴル人民共和国)と国交樹立以来、公文書においてモンゴルに対して「蒙古」あるいは「蒙」を使用しない。 世界大百科事典 第2版の解説は次のように記されている。 だったん「韃靼 」 「本来はモンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。タタール部は11~12世紀においてモンゴリアでは最も有力な集団の一つであり,またモンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため宋人はタタール部を韃靼と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。12世紀末~13世紀初め,モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し,モンゴル帝国が出現するに及んでタタール部の力は衰えた」。
琉球(りゅうきゅう)人
「琉球は南海中の島国なり古は龍宮とふ中古流求といひ末代に琉球とす暖地なり、北極地をいつる事十五六度」
琉球が古に「龍宮、流求」とあったことを知る。沖縄では各地に龍宮神がまつわれている。沖縄の海はサンゴ礁できた浅瀬の先に、急に現れる深い海の奥底に「リューグー」という世界があると信じられてきたとする。龍宮神の拝所では航海の安全や豊漁を祈願、農作物の害虫や害獣を払ったりする行事が続いてきた。「古の龍宮」はそこから呼ばれたのだろうか。又「琉求」は中国の史書「隋書」(636)東夷伝の中に「流求」と称する国の記事からとされる。(世界百科事典マイペディア 引用)
東京(とんきん)人
「東京は古より唐土に属する国にて中華の文字を用ゆ詞は尤別なり古唐土より交趾といひしは比国なり末代に至て両国にわかれ東邊を東京とひ南邊を廣南といへり今は廣南のみを交趾と後號す風俗相同しき故に別に交趾を圖さすいつれも煖国也 北極地を出る事凡十五六度」
唐土は昔日本から中国を指して読んだ語。トンキンは、紅河流域のベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイ(河内)の旧称である。「フリー百科事典 ウィキペディア」 引用
東京人は「北の京」と書いてぺきんと言うように「東の京」でとんきんと呼び、日本の東京ではない。
斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、拂郎察(ふらんす)
「斎爾瑪尼亞は阿蘭陀国に並たる国にて寒国の大国なり人物風俗阿蘭陀に相類す」
「拂郎察は阿蘭陀国に近し武勇軍法に長して近国是に併られ属国となるもの多し欧羅巴に於いて大国にて富饒の国也北極地を出る事五十餘度」
斎爾瑪尼亞はドイツ、オランダに並び寒国で大国、人物風俗はオランダに似ている。
拂郎察は(フランス)は武勇軍法に長して属国なるもの多しヨーロッパの大国とある。斎爾瑪尼亞、拂郎察を阿蘭陀を中心にして書かれている。
享保5年(1720)年長崎の「西川如見」 日本最初の人種図譜と云われ天保14年(1843)「萬国人物図」として再刊。写本もだされ江戸期に海外認識を深めるたために大いに利用されたという。国立国会図書館デジタルコレクションにある「四十二国人物図説」(出版年月日明31.11)とほとんど同じものだった。写本が流布されたとあったからその類のものと分かる。見つかった我が家の写本はいつの時代のものかはわからない。描かれている36国人図で男女が別のページまたは同じ図に描かれているのが16、子供と3人の図が3になっている。和紙にある人物絵は三十六国人で「四十二国人物図説」にある大明、大清、亞瓦的革、伯刺西爾、小人、長人が記されていない。 「四十二国人物図説」には大人3人図譜があるがわが家の図譜に3人図は入っていない。いずれ「四十二国人物図説」の写本に違いはないとみられるが、和紙の閉じ方等から見ても普及版に違いない。約300年前の図譜の写本、明治31年再刊もあることから見れば約120年ほど前のものだろうか。わが家の過去に、「誰がいつ頃」手に入れたのかを知りたいが今のところその手がかりはつかめない。