新河鹿沢通信   

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江戸の人々と外国人

2018年12月31日 | 村の歴史

江戸時代の人々は外国人をどう見ていたのだろう。そのように思いめぐらしたのは前回のブログ「地震、大火、北の黒船」を書いた時からだった。今から約200年前、文化4年(1807)大館村の肝煎高橋喜右ヱ門の覚書、「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候」にあった。

「大辞林 第三版」に赤人(あかひと) 「江戸後期、蝦夷(えぞ)の択捉(えとろふ)・得撫(うるつぷ)などに来航したロシア人を、日本人が呼んだ呼称。赤蝦夷(あかえぞ)。 赤ら顔、あるいは赤い服を着ていたからという」と書かれている。肝煎高橋喜右ヱ門は松前国に赤人が押し寄せ、秋田藩の要請に「横手湯沢のお侍久保田まで具足、武具、馬疋杯仰せつけられ百姓まで難儀迷惑至極」とあった。帝国ロシアの松前藩侵入に大舘村の侍、百姓が大きな犠牲を払ったことがしるされている。このことからしても文化4年北の黒船が松前国、エトロフ島に上陸当時で、赤人(あかひと)の呼称は定着していたことになる。 下田にペリー黒船来航(嘉永6年(1853)の45年前の出来事。

赤人(あかひと)については当時どのように見られていたかが気になっていた。約20年ほど前土蔵からでてきた「外国人の図譜」があったことを思い出した。あの書に赤人につながるものがないのかと気づいた。土蔵探索でやっとのことで発見、調べてもその書に「どじん赤人」と思われるものは描かれてはいなかった。

和紙に描かれている図譜は36国人。ネット検索で以下のものの写本であることを知った。「四十二国人物図説」は日本最初の人種図譜。長崎の人西川如見(1648-1724)が著し、刊行した世界民族図誌。享保5 (1720) 年刊。ヨーロッパ人のつくった原典を長崎の画家が写したものによったといわれている。 42の人物図に簡単な説明を付したもので,後世に大きな影響を与え,幕末にいたるまでこの種の人種図譜の基本とされていた。本書は、江戸期の人々が海外認識を深める上で大いに利用されたらしく写本でも流布している。天保 14 (1843) 年『萬国人物図』として再刊されている。 

ブリタニカ国際百科事典に 「42国の男女人物風俗を描いた絵図に、各国の地勢や風俗等に関する簡略な解説を付した書。漢字かな交じり。所収の国は、大明、大清、韃靼、朝鮮、兀良哈(おらんかい)、琉球、東京(とんきん)、答加沙谷(たかさご)、呂宋(ろそん・ろすん)、刺答蘭(らたらん)、呱哇(じやわ)、蘇門答刺(すまんだら・そもんだら)、暹羅(しやむらう)、羅烏(らう)、莫臥爾(もうる)、百児斉亞(はるしや)、亞爾黙尼亞(あるめにや)、亞媽港(あまかう・あまかん)、度爾格(とるこ)、馬加撒爾(まかざる)、槃朶(はんだ)、亞費利加(あびりか)、加払里(かふり)、為匿亞(ぎねいや)、比里太尼亞(ひりたにや)、莫斯哥米亞(むすこふびいや)、工答里亞(ごんたうりや)、太泥亞(たにや)、翁加里亞(おんかりや)、波羅尼亞(ぼろにや)、意太里亞(いたりや)、斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、払郎察(ふらんす)、阿蘭陀(おらんだ)、諳厄利亞(いんぎりや・ゑんげれす)、撒児木(ざるも)、阿勒恋(あろれん)、加拿林(かなりん)、亞瓦的革(あがれか)、伯刺西爾(はらじいる)、小人、長人」。 (ブリタニカ国際百科事典 小項目事典 引用)

わが家から見つかった「人物図譜」は42国ではなく36国の男女人物風俗。B5版より少し小さい、和紙で三か所紙よりで閉じている。以下描かれている図譜、コピーと説明文の一部。

韃靼(だったん)女

 

「韃靼は本名韃而靼といふ今は而の字を略す其の国東西黒白の二種有て属類甚多く国界四十八道に相分れて大国也 古の胡国といひ或は蒙古と云も此国の別號なり 南界は唐土に交接し北方は冰海に近く大寒地にて四季昼夜の長短大に他方と同しからさるの所々多し最富饒の国也といふ国人弓馬を好み勇強の風俗なり北極地を出る事四十三度より六十四度に至て南北に短く東西に長し」とある。

日本は1972年にモンゴル(当時のモンゴル人民共和国)と国交樹立以来、公文書においてモンゴルに対して「蒙古」あるいは「蒙」を使用しない。                                                                   世界大百科事典 第2版の解説は次のように記されている。                                        だったん「韃靼 」 「本来はモンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。タタール部は11~12世紀においてモンゴリアでは最も有力な集団の一つであり,またモンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため宋人はタタール部を韃靼と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。12世紀末~13世紀初め,モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し,モンゴル帝国が出現するに及んでタタール部の力は衰えた」。

琉球(りゅうきゅう)人

   

「琉球は南海中の島国なり古は龍宮とふ中古流求といひ末代に琉球とす暖地なり、北極地をいつる事十五六度」

琉球が古に「龍宮、流求」とあったことを知る。沖縄では各地に龍宮神がまつわれている。沖縄の海はサンゴ礁できた浅瀬の先に、急に現れる深い海の奥底に「リューグー」という世界があると信じられてきたとする。龍宮神の拝所では航海の安全や豊漁を祈願、農作物の害虫や害獣を払ったりする行事が続いてきた。「古の龍宮」はそこから呼ばれたのだろうか。又「琉求」は中国の史書「隋書」(636)東夷伝の中に「流求」と称する国の記事からとされる。(世界百科事典マイペディア 引用)

東京(とんきん)人

「東京は古より唐土に属する国にて中華の文字を用ゆ詞は尤別なり古唐土より交趾といひしは比国なり末代に至て両国にわかれ東邊を東京とひ南邊を廣南といへり今は廣南のみを交趾と後號す風俗相同しき故に別に交趾を圖さすいつれも煖国也 北極地を出る事凡十五六度」

唐土は昔日本から中国を指して読んだ語。トンキンは、紅河流域のベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイ(河内)の旧称である。「フリー百科事典 ウィキペディア」 引用

東京人は「北の京」と書いてぺきんと言うように「東の京」でとんきんと呼び、日本の東京ではない。

斎爾瑪尼亞(ぜるまにや)、拂郎察(ふらんす)

「斎爾瑪尼亞は阿蘭陀国に並たる国にて寒国の大国なり人物風俗阿蘭陀に相類す」

「拂郎察は阿蘭陀国に近し武勇軍法に長して近国是に併られ属国となるもの多し欧羅巴に於いて大国にて富饒の国也北極地を出る事五十餘度」

斎爾瑪尼亞はドイツ、オランダに並び寒国で大国、人物風俗はオランダに似ている。

拂郎察は(フランス)は武勇軍法に長して属国なるもの多しヨーロッパの大国とある。斎爾瑪尼亞、拂郎察を阿蘭陀を中心にして書かれている。

享保5年(1720)年長崎の「西川如見」 日本最初の人種図譜と云われ天保14年(1843)「萬国人物図」として再刊。写本もだされ江戸期に海外認識を深めるたために大いに利用されたという。国立国会図書館デジタルコレクションにある「四十二国人物図説」(出版年月日明31.11)とほとんど同じものだった。写本が流布されたとあったからその類のものと分かる。見つかった我が家の写本はいつの時代のものかはわからない。描かれている36国人図で男女が別のページまたは同じ図に描かれているのが16、子供と3人の図が3になっている。和紙にある人物絵は三十六国人で「四十二国人物図説」にある大明、大清、亞瓦的革、伯刺西爾、小人、長人が記されていない。 「四十二国人物図説」には大人3人図譜があるがわが家の図譜に3人図は入っていない。いずれ「四十二国人物図説」の写本に違いはないとみられるが、和紙の閉じ方等から見ても普及版に違いない。約300年前の図譜の写本、明治31年再刊もあることから見れば約120年ほど前のものだろうか。わが家の過去に、「誰がいつ頃」手に入れたのかを知りたいが今のところその手がかりはつかめない。 


お稲荷さんとキツネの闊歩

2018年12月27日 | 村の歴史

稲荷神社の稲荷は「稲成り」の意味だったものが、稲を荷なう神像の姿から後に「稲荷」の字が当てられたとされる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼ばれている。稲荷神社は穀物・農業の神だが、現在は商工業を含め産業全体の神として商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神として信仰されている。

京都市伏見にある伏見稲荷大社が日本各所にある稲荷神社の総本宮。伏見稲荷大社では、キツネは稲荷神の神使とされる。朱の鳥居と神使の白いキツネがシンボルとなっている。

伏見稲荷神社の白いキツネ像 2018.10.17

平成2年秋田県が悠紀の国に選ばれた。秋田県神社庁は大嘗祭と同趣旨の新嘗祭に新穀を伊勢神宮、県内神社に奉納するために「新嘗祭献穀田」を設け、平成3年より県内13支部持ちまわりで実施している。平成最後の献穀田は湯沢市川連町が選定された。その主要な作業を川連集落と稲川有機米研究会・JAこまちが担当した。5月17日に田植祭、9月22日に抜穂祭。40名が収穫した新米をもって10月15日伊勢神宮で、全国から奉納された初穂を載せたお木曳車を神宮外宮へと曳き入れに参加した。午後から神宮内宮への正式参拝で献穀田事業で収穫したお米を奉納した。

伊勢神宮初穂曳終了後、稲の神様と慕われる京都伏見稲荷神社を正式参拝、神楽殿で御神楽を奉納してきた。稲荷神社は全国に32000社、日本全国の神社の総数は8万社と云われていることから日本の神社の3分の1が稲荷神社という説がある。

旧稲川町には15社の稲荷神社がある。他に内神様として屋敷内に祀われているお堂は多数ある。麓集落の稲荷神社は古舘山の旧川連城本丸と集落中心の通称森コに建つ稲荷神社がある。 二つの稲荷明神様は姉妹と言われている。ある記録に天正二年五月一三日造立の黒森神社稲荷大明神がある。現在「柴田〇」宅が管理している黒森の御堂と関係していると思われるが確認できていない。

歴史散歩 城下町・川連(6) 稲荷神社部分 稲川町広報 昭和54年3月10日 

稲川広報によれば、森コの稲荷神社は京都伏見稲荷神社から寛政九年(1797)に正式に分社として認められたとされている。管理している「長里〇〇」宅に「授与之状」が保存されている。その状には「正四位摂津守荷川宿弥信邦と署名の下に正官之印が押されている。稲荷明神ご本尊は明治26年旧9月1日祠堂権人講義、稲場高車の司祭により川連の四十二名が願主となって奉納された高さ1尺6寸の極彩色の女神像。稲荷神社の祭神は「宇賀之御魂命」五穀を司る農業生産の神様」とある。

「古事記」では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、「日本書紀」では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないとされ、古くから女神とされてきた。 (引用)

キツネの闊歩

2014年3月15日ブログに「村の獣たち」を書いた。この記事は大雪の年、集落のある家の玄関にカモシカが現れたこと、アナグマが自宅の棲みついて日中堂々と集落の道路を闊歩する姿を中心に書いた。

今回は京都伏見稲荷神社参拝後、自宅を中心に出歩くキツネを題材とした。冬にスノーシュー散策でも毎年のようにキツネの足跡を確認していた。乳牛を飼っていた当時、草地の草刈乾燥作業をした後に数匹の子キツネが駆け回る姿は時々目にしていた。今回のように自宅周辺では初めてのことだ。この夏カモシカも日中自宅前を横切って隣地の屋敷に消えた。このカモシカも今回のキツネもどうしたことか痩せている。野生のキツネは肉食に近い雑食性と言われている。爬虫類や昆虫類が居なくなった冬には、ネズミが主な食べ物らしい。闊歩するキツネをなかなかカメラで撮る事が出来ないでいた。闊歩するキツネを見つけてから一週間もしてやっと撮えることができた。

約13ⅿ離れたカメラに反応した 平成30年12月4日

11月の始め野良猫が子ネコをつれて車庫の二階に棲みついた。子猫3匹は日中走りまわっていた。キツネが家の周りや、溜池の周りを出歩いていたのは11月の末頃からだった。キツネが出歩くようになったら車庫の二階の子ネコがいなくなった。今のところ危険を感じて親ネコと一緒に移動したのか、それともキツネにやられたのかはわからない。シャッターの隙間からキツネが出入りしていることは目撃している。驚いたことにキツネは木に登ると言われるから車庫の二階へアルミ梯子を上ることはことは簡単なことかもしれない。雪が降って毎朝除雪時にキツネの足跡は見れれる。

ただ、この痩せたように見えるキツネは痛々しい。一節には夏毛と冬毛との毛変わりの時期でやせて見えるらしい。健康状態は殆ど変らないとされる。11月から12月のキツネなら冬毛に変わっているとの思いがあるがどうだろうか。それとも今年の晩秋のように比較的暑い日が続いたので冬毛に変わるのが遅れていたのだろうか。

食べ物を見つけたらしい 平成30年12月4日

家の周りを歩くキツネは伏見稲荷神社参拝後だった。何か不思議なつながりにも思えた。果物をキツネは食べないとされるが今回車庫の二階に乾していた「干し柿」が無くなり食べかすが散らばっていた。空腹に耐えかねて食したとしか思えない。野良猫も姿を消してから一ヶ月近くになる。除雪前の猫の足跡もいつもの年より極端に少ない。時々キツネは道路から自宅に入り床下へ向う足跡がみえる。何時もの年より今年は野生動物が頻繁に集落の住宅地内を歩きまわっている。人の住む地内がより食べ物を得やすいに違いない。内沢の山神社の側には熊の出没の監視カメラが7月から11月末まで設置されたが何事もなかったらしい。PB030978.JPG


地震、大火、北の黒船と大館村

2018年12月21日 | 村の歴史

「象潟地震、江戸の大火、北の黒船と大館村」は、寛政拾年(1798)二月から天保十一年(1840)二月までの大館村麓、肝煎喜右ヱ門の記録(覚書)。昭和42年3月発行 「稲川町史 史料集 第三集 小松久編」で紹介された。寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵とある。その覚書から象潟地震、江戸の大火、松前藩択捉島ヘロシア帝国侵入を追ってみた。

稲川町史 史料集 第三集 小松久編 「寛政拾年以降 (一)覚書 川連 高橋喜右ヱ門氏蔵」

象潟地震について

「文化元年甲子年より中だんひるなり、同元年子年六月四日よる4ツ半頃に大地震なり、五日には暮六つには地震、六日には朝六つには地震。三日之間〇〇やめずにゆるなり、近国大きに家蔵揺り崩れ、庄内三百と坂田(酒田)家蔵大きにひきつぶれ、志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ、かた(潟)も島もゆれ候、近国他国大きそふとう(相当)なり、坂田志を越に而(しかも)人を死事数不知なり、同六月廿七日朝六つになり一天かけくもりらい(雷)なり大雨ふり、大水出るなり、雨の間には日之暑気なり同七月廿六日大風に而大きに萬物をからす、同年八月十五日御榊杉と申て太さ九ひろ三尺誠にまれなる大木なり、同十五日七ッ時より焼け始る十六日五ツ時焼け失なり」。

象潟地震は、江戸時代後期、文化元年6月4日夜四ツ時(1804年7月10日22時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震である。松尾芭蕉らにより「東の松島 西の象潟」と評され、「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり。」と形容。松尾芭蕉が象潟を訪れたのは象潟地震の115年前の元禄二年六月。

「由利郡、飽海郡、田川郡で特に被害が著しく、本荘城では櫓、門、塀、石垣が大破し、本荘藩、庄内藩領内周辺では潰家5500軒余(内本荘領1770軒、庄内領2826軒)、死者366人(内本荘領161人、庄内領150人)の被害となり、幕府は本荘藩主六郷政速に金2千両を貸与した(『文化日記』)。象潟(現・にかほ市象潟地区)、遊佐(現・遊佐町)、酒田などでは地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が70%に達した」。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覚書に「志を越(塩越)かんまん寺大寺もひきつぶれ」とある。調べてみると塩越は象潟の塩越村、潰屋389棟、死者69名と非常に大きな被害を受けた。羽黒山では灯籠が倒れ、「宝暦現来集」によれば蚶満寺は大寺であるが1丈余も震込んで砂に埋ったとある。

象潟地震前の塩越湊 蚶満寺(中央左) 象潟郷土資料館 ジオラマ  2018.12.21

 八月十五日焼けた御榊杉は八幡神社だろうか。九ひろ三尺の太さは巨大な大杉。ひとひろ 両手を伸ばし指先から指先までの長さ。通常は1尋=6尺。明治時代に1尺=(10/33)メートルとされたので1尋は約1.818メートルということになるので、御榊杉は胴回りが17メートル強の太さとなる。落雷があったのかその他の原因があったのか覚書には記されてはいない。

江戸の大火

文化三年(1806)の江戸の大火が記されている。文化の大火は江戸三大大火に数えられ芝で出火し浅草方面までを焼きつくしたと言われている。 

「文化三年 ひのえ寅年正月三日星をちるひなり、同三月江戸大きニ焼けるなり諸大名方之屋敷無残四里四方焼ける、人死壱萬三千人御仰被成候、 仍而 尾形様は六月御登被成候 同歳大館村山王様御堂建立致候、同五月八幡様うがい石惣に而寄進」

「人死壱萬三千人御仰被成候」と記されているが、調べてみると死者は1200人、焼失家屋12万6000戸と言われている。江戸に八カ所御救小屋を建て炊き出しを始め、約11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を奉行所が与えた。尾形様は6月に江戸に登ったとある。殿様の御登に相応の負担が課せられたものとおもわれる。大舘に山王様御堂建立、5月に八幡神社にうがい石寄進、手洗石のことだろうか。 

松前国(北海道)に北の黒船

「文化四年卯年五月松前国へどじん赤人陳舟移多見へ候とて、秋田、仙台隣国大名衆外に会津様対陣大しやうと志る。御国横手湯沢御侍久保田迄ニ而も御話は横手杯之御侍具足、武具求候迄百姓迄大きニ難儀致候、其時百姓馬疋杯仰せ付られ迷惑至極致候。同年八月三日八幡宮末社まで焼け疾申候。就ハ四日より一五日限ニ建立致候、宝物迄多く焼申候、隣郷奉賀受」

文化四年の記述。1806年ロシア軍艦は9ヶ月間択捉島、樺太の各地を襲撃し日本人を連行し食料や水を強奪の海賊行為を行った。その残忍性を発揮拉致した日本人を陰惨な方法で虐殺して海に遺棄した。野蛮なロシア人を覚書には「どじん赤人」と記されている。松前藩が幕府へ北方四島を自藩領として申告したのは正保元年(1644)「正保御国絵図」にクナシリ、エトロフなどの島名を明記した。

「文化露寇(ぶんかろこう)は、文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節だったニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方の拠点を攻撃させた事件。1807年(文化4年)、ロシアの武装船が択捉島に上陸し、幕府の建物を焼き払い、物品を奪い、利尻島では幕府の船に火を放つ事件を起こした。急を聞いた幕府は久保田、仙台、津軽、南部の奥羽4藩に蝦夷地警備を命じました。久保田藩には5月24日、松前函館奉行所から「東蝦夷地の内エトロフ島へ異国の大船二艘来候」(以上原文のまま)国後島へも寄り着き、争乱を企てる形勢があるので加勢をお願いするとの急報が入った」。

現在、秋田県立図書館所蔵「松前御加勢日記」などによると、久保田藩は即時出陣の用意を整え、翌5月25日に、第一陣として、陣場奉行金易右衛門ほか369人が久保田を出発し、檜山、大館、碇ケ関を経て、津軽三廐から海を渡り6月10日函館に入った。  独立行政法人 北方領土問題対策協会ホームページ引用

江戸幕府はロシア帝国と戦争覚悟で、武力を用いて北方領土を死守した。覚書には「横手湯沢の御侍久保田まで具足(甲冑や鎧・兜の別称)武具、馬疋杯仰せ付られ百姓まで難儀迷惑至極」とある。領土を守るためにこの地からも応分の負担したことが記されている。

覚書に同年八月八幡宮末社の火災、宝物が多く焼失したことが記されている。

この覚書には文化、文政、天保の記述が続く。特に天保二年から十一年までの異常天候、飢饉について大館村の状況が詳細に記録されている。次回以降紹介したい。現在と違って約二百年前情報機関は発達していなかった時代。各藩の末端まで情報が届き、村の肝煎を中心に対応をさせられた。特に文化四年の露人襲来へ難儀、迷惑すごくいたし候とあることは痛々しい。