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小沼神社 仁王門

2014年11月25日 | 地域
このほど大仙市豊岡の小沼神社、仁王門の金剛力士像が新しくなった。彫刻家皆川嘉左エ門氏が製作と11月7日にテレビニュースで報道された。小沼集落出身で湯沢市在の山中さんが製作依頼し、このほど完成し安置された。11月8日に入魂式が行われたという。

仁王像の製作を依頼され、製作に取りかかっていることは昨年から知っていた。アトリエに出向き製作現場に立ち会いたい等と思いながら、果たせないでいた。旧知の皆川氏は平成12年横手市大雄の重福寺の仁王像も製作している。重福寺の仁王像をアトリエで初めて見たときは、その大きさに度肝を抜かされた。九州産の楠、高さ約3.6mの巨像、平成11年4月から作業を始め平成13年4月完成。重福寺に収めるられる前に開いた展示会に述べ1000人以上の参観者があったという。重福寺に運ばれる前日、梱包作業に入る直前に出合った。

今回新しくなった小沼神社の仁王像、仁王門に安置された姿を尋ねてみた。大仙市豊岡までは自宅から約50k。広域農道「みずほの里ロード」でドライブ。この道路は、仙北市から横手市まで連絡する全延長39.7kmの農免農道で、平成2年度着工され平成19年度完成した道路。さらに広域農道(雄平東部地区、横手市から湯沢市川連町)に近接し接続されている。約一時間で小沼集落に着いた。


小沼神社 仁王門 2014.11.13

ネットで小沼神社は、「みちのく秋田探訪記:神社建築編」によれば次のように紹介されている。

『小沼神社概要 案内板によると「小沼神社は小沼観音堂とも呼ばれ、ここ小沼山の山頂にあります。昔は、神社前の沼に中島があり、それに6尺(1.8m)幅の反橋が架けられ、ここを渡ってお参りしたと言われています。養老2年(718)の草創と言われるこの神社は、平安時代の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」の2体が安置されています。いずれも欅の一本造りで、等身大の量感あふれる作品で、当時の仏教芸術の極地を見る事ができます。

このほか、室町時代の作と言われる彫刻「僧等首」があり、いづれも県の重要文化財に指定されています。また、中にある厨子は唐風造りで、総採色の上神殿には二体の獅子頭が保存されています。山頂には白山神社、諏訪神社、長床跡のほか、地名の由来ともなった峰の小沼は現在も耐えることなく清水が湧き出ています。文政11年(1827)、菅江真澄はここを訪れ、古老の言い伝え交え神社の、由来を詳しく書き残しています。」とあります。参道の途中には神社山門があり、仁王門と呼ばれています。左右には金剛力士像が神社を守っています。小沼神社は熊野信仰とも深い繋がりがあり、近くにある金峰神社にも山門があることから、ある種のスタイルのようなものがあるのかもしれません』。


小沼神社 鳥居 2014.11.13

小沼神社の鳥居の左側に「菅江真澄の道」小沼山観音の標柱がある。標柱には文政十一年(1828)小沼山を記録月の出羽路仙北郡 平成3年11月 中仙町菅江真澄研究会とある。

新しい仁王像を運ぶために整備されていたので、仁王門までの参道は登りにもかかわらず歩きやすかった。鬱蒼とした杉木立の左側には仁王門近くまで墓地が続いた。山門から仁王門まで近かった。鎮座したばかりの真新しい仁王像はことのほか力強いものだった。当然のことだが仁王像はアトリエでの姿と、仁王門に安置された姿ではその趣は全然違う。重厚な姿は重福寺でも輝いていた。今回の小沼神社の仁王像、安置された姿にある種の感動を覚えた。鬱蒼とした木立の神秘的な風景に調和していた。


小沼神社 仁王像(金剛力士像) 2014.11.13 (11.17編集)

左右に安置される二体一具なので二王とも称されたという。外敵を払い、仏法守護神として寺院や神社の門等の左右に安置されている。手に金剛杵をとり、忿怒相に表現される。開口像を阿形 、閉口像を吽形 といわれている。左側(向かって右側)には阿形像、右側(向かって左側)には吽形像を安置するのが通例となっている。上の写真は仁王門の阿形、吽形を別々に撮って一枚に収めた。

仁王門の拝観後、急峻な参道をひたすら小沼神社をめがけて歩く。鬱蒼とした杉林の参道。丸太で階段状に整備されてはいる。廻りの草木は刈り払われ管理されて見えるが、多くの人が歩いたそうには見えない。途中で気付いた。斜面を掘り割りされたようだ。人工的に整備された参道らしい。

久しぶりの急坂、何回か曲がりくねって進むと右斜面が深く谷側で、けたたまし威嚇する声がした。視線を移すと親子ずれのカモシカだった。しばし、立ち止まると向かい側の杉林に消えた。 さらに歩き続ける、杉の木立にイチョウの木があり、足元は実が落ち臭いがきつい。今にもクマが出そうな気配を一瞬閃いた。冬眠前のクマはイチョウの実は好物だと何かの本で読んだことがある。なにせこの参道急峻で掘り割りの中を歩く状態に曲りくねっているので数歩先が見えない。もう少し、もう少しと反復しながら曲がり終えてもその先がまだまだ続く参道だとわかる。何回か繰り返して進むとやっと神社が見え、その前に小さな沼のところに着いた。

杉林の中に忽然と現れた小沼。絶えず清水が湧き出て、約10aの広さといわれている。その奥に佇む神社が小沼神社。鏡のような沼の面に神社が映し出されていた。杉林と沼とのすばらしい環境の佇まい、幻想的な光景。社殿には神仏習合の観音像、「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」が佇立しているという。普段は秘仏として開扉されることはなく、夏と正月の例大祭のときに限り、開帳されるという。この時期は冬囲いのビニールシートで覆われて、静寂さがより強調されていた。もうすぐ雪の季節だ。


小沼越しの小沼神社 2014.11.13

文政11年(1828)この地を訪れた菅江真澄の記は以下となっている。「十一面観音、小沼山という所に鎮座している。別当は角館の真言宗成就院である。この山は四十四代元正天皇(680ー748)の御世の草創であるとされ、霊験あらたかなのは衆目のところである。昔は小沼山源東寺と言い、古い真言宗であったらしい。観音山の麓を小沼村と言う。急な参道を登るを仁王門がある。この門を入ると山神の社がある。

この下の山沢に雷天清水があり、昔雷を祀ったものであろうか。観音堂は南向きで、前に小沼という湧水の池がある。直径十間ばかりに丸い池である。魚は鮒のみで、ここの鮒をとって喰う者は、たちまち祟りがあるを聞く。この沼に祈願する人たちは、そのお礼として鮒を放って奉ると言う」。「菅江真澄」遊覧記 月の出羽路仙北郡3 引用


菅江真澄の描いた小沼 文政11年(1828)

神道において「鈴」は、参拝時に神社の拝殿で振り鳴らして用いられる。神社の拝殿には、鈴緒とよばれる縄の上のほうに大型の鈴が取り付けられており、参拝する時は鈴緒の下のほうを手で振り動かして鈴を鳴らし、神様へ呼びかける。

参拝した後も大きな鈴に目が行く。ほぼ同じ大きさの二つの鈴。二つあっても形が大小等違うのが多く見受けられるが、小沼神社の鈴はほとんど同じ大きさだった。御神体の「十一面観音菩薩立像」、「聖観音菩薩立像」との関連はあるのだろうか。御神体から沼はどう見えるのだろうか等閃いて、神社側の鈴の間から今にも雨になりそうな杉木立と小沼を見渡すと、不思議な感動に陥った。帰りに再度二人で二つの鈴を同時に鳴らし神社を離れた。

近くに平成11年度「林業空間整備事業」の説明版があり枝打ちや間伐、天然林整備等がなされたことが書かれていた。林道が整備されていて、神社の冬囲いに訪れたのか車のタイヤ跡があった。参道に標識があり山城十六沢城跡は1kとあった。10世紀に築いたとされる山城十六沢城は、戦国時代に白岩氏が角館城主戸沢氏の支配下に組み込まれると、戸沢氏の属城となった後に廃城となったとある。 現在は「いこいの森」公園となっていて、城跡展望台から仙北平野を望めるということなので向かったが、晩秋の曇り模様の天候はとうとう雨になった。雨が激しくなり途中から退散した。汗と雨に濡れたが、素晴らし場所に佇む小沼神社を探索できて満足な一日となった。

後に仁王像を制作した皆川氏と懇談した。今回はケヤキ材で約1tの重さがあったという。重福寺のように平場と異なり、今回の仁王門は急峻な山の中、現場まで運ぶのが大変だったらしい。急な登りの参道、狭い仁王門へ安置されるまで時間がかかったことがみてとれる。今回も製作に約1年半かかったという。阿形、吽形像は仁王門に安置でその役目が果たされる。








冬支度

2014年11月20日 | 地域
11月にもなるとどこの家でも冬囲いが始まる。ここ4年連続の大雪で庭木はもちろんのこと、住宅も被害が大きかった。大方の手順は住宅から始まる。近年家が新しくなり、アルミサッシの窓、雨戸等になり組み立て方式の冬囲いが増えてきた。かつての住居には縁側があったが、今は古い家しかない。近年の住宅は窓中心の家になり、雪囲いもほんの少しで終わる。


冬囲い風景 西側と北側 201.11.17

築100年経過した我家では在来の方式の冬囲いとなる。囲い骨組みの木、長木、稲杭の他、板、古戸等材料もかなりの量になる。

今年は比較的天候も良いので住宅の囲い前に、「ため池」の泥上げに挑戦した。住居東側の池はこの地に住宅を建てたころからで200年、以上前になるのだろうか。自前で運搬車、チェンブロックで20年ほど前、昔からの池に200~300k前後の山石で縁取りした広さ2.5坪、深さが1m程の小さな池だ。15年もほったらかしのため池には60㎝程の泥で埋まっていた。初めにポンプで水を吐きだし、泥は肥料袋に入れ、運ぶことにした。ため池の側は狭く泥を寄せる場所が無く、この方法しか案が浮かばなかった。ひたすら肥料の空袋に泥を詰める、その数70袋ほど時間にして二人で約4時間。泥まぶれの作業は好天でなければできない。翌日肥料袋の泥を一輪車にて西側の新たな坪庭に運び広げる。庭木や山野草の栄養となるだろう。


ため池泥上げ

住宅の囲いを終えて、いよいよ坪木の囲いに入る。大雪で各屋で庭木の被害が大きかったが、ほとんどの家で囲いは欠かせない。屋敷内の建物や塀などで囲まれたごく小さな庭園、家の周りの空間を昔から「坪庭」と云った。だから庭木などとは言わず坪木と当地方では言われている。1000年以上の古い村、城下町と言われた集落の生い立ちにあるののだろうか。新興住宅街は庭かも知れないが、当地方ではほとんど坪庭ではなくただ坪と言われている。

冬囲い前に全体の暴れ枝の整理、伐った枝等は軽トラ一台となった。1k程離れた雑木林ミズナラ、ヤマモミジの下に広げる。毎年の作業で、周りの紅葉をしばし眺める。新緑とは違う散り始めの紅葉も見事なものに見える。


里山紅葉  川連町外坪漆 2014.11.10

我家の気ままな新しい坪「ミニサンクチャアリ」に、自己流で沢石を配置した。30年ほど前の沢の改修工事で出た石を運んでおいたものを今回当てた。トラクターのローダーで200m離れた畑から運んだ。ローダーではせいぜい300k程の石を動かすことしかできない。造園の知識の乏しい我流の配置で専門家からみたらNGものかもしれない。


ミニミニサンクチャアリ 庭石配置

今年の囲いは比較的好天に恵まれ捗った。家の東側は屋根からの雪で囲いは見えなくなってしまう。北側は道路からの排雪、西側は毎日の玄関前の排雪と屋根からの雪ですべての坪木は埋まってしまう。除雪機の排雪で6m程の雪山になる。坪庭で雪の耐えられるのは樹齢200年程の栃の木だけだ。オンコもそれに近い樹齢と思われるが昭和45年道路拡張工事で道路が宅地に入り込み、道路ギリギリでこらえている。毎年5.6mの長木で囲っている。近年の大雪で枝欠け等があり、坪木としては貧弱だが冬囲いは欠かせない。

囲いの日数は一週間前後になってしまう。囲い作業しながら雪の少ない地方がうらやましく思える。雪囲いや屋根からの雪下ろし等必要はない。何よりも「坪木」が雪害に合うこともないから枝ぶりも見事になる。雪国の住宅は被害が増大、坪木は大雪で無残な姿をさらけだしているものもある。若い世代は坪木等はジャマだとの声も出てきている。いづれ坪庭はなくなるのだろうか。

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アホノミクス、消費税8%と便乗値上げ、円安で物価上昇の中、政権は庶民ばなれの大臣のスキャンダル隠しと、アホノミクスの失敗の隠ぺいのために、700億円ものお金をかけて総選挙へ向かうという。



新米の季節、暴落概算価格の各地で

2014年11月15日 | 農業
「農業者は困惑しているが、その陰で、にんまりと、ほくそ笑んでいる人たちがいる。米価の引き下げを主張している一部の評論家と、それに惑わされている政府と一部の政治家である。その背後に、極端な自由貿易を主張する財界がある。米価は下がったのではなく、彼らが下げたのである。彼らは、米価を下げ、農業者を追い出し、農外資本で米を作り、コストを下げて、国際競争に立ち向かう、という。そうすれば、TPPなどの自由貿易体制に耐えられる、と考えている。そして、この考えを、ひた隠しにかくしている。 しかし、そんなことが出来る筈がない。農協に結集している農業者は、追い出されるほど非力ではないし、資本では米作りはできない」。農業協同組合新聞 2014.10.5

これは立正大学経済学部の森島賢教授が、JAの農業協同組合新聞(2014.10.5)のコラム「正義派の農政論」での発言だ。概算金暴落の中で適宜な記事なので引用した。

私的機関の「産業競争力会議」、経済評論家の佐高信氏はそのものズバリ「経済格差拡大会議」は、米の値段を60k9,000円を目標とする案を今春発表した。今年の米の概算金暴落は、この格差拡大会議の思惑に沿ったものとなった。生産者も消費者もいない私的機関の会議が、当然かのように提言等と傲慢な振る舞いに目を覆いたくなる。森島教授の指摘どおり、「にんまりほくそ笑んでいる」輩(やから)は農業者を追い出し、農外資本、株式会社化で食糧の支配を現実化しつつある。

農水省や穀物データバンク、米の先物市場関係者やマスコミを使い、TPP交渉で米国産をはじめとする外米の輸入を増大させることで利益を得ようとする、日米の独占大資本がかかわった米価暴落の仕掛けが背後に動いている。米の生産量が大幅に増えたわけではない。前回ブログで表したように作況指数のとり方に問題がある。消費量に大きく変動は示されてはいない。公益社団法人「米穀安定供給確保支援機構」の調査で明らだ。農水省は平成24年度からふるい目別で10a当たり収量及び収穫量を公表している。それによれば平成26年度はふるい目1.7ミリで10a536k、収穫量843.8トン。ほとんどの農家の使用ふるい目1.9ミリで10a499k、収穫量は785.6万トンと公表され10aで37k、収穫量で58.2万トンの差になっている。

農水省やマスコミが先頭に立って「コメ過剰」を煽り、商社や大不透明な経済情勢の中で大手米卸が買い叩きに走っている。朝日新聞は9月14日に一面記事に「農協が農家から買い取る新米の価格は、昨年より1割以上も下がった。高齢化と人口減でコメを食べる量も人も減っていく時代、13年産米が多く余っていることも響く」。と実態を調査もせず報道した。米の消費が減ってきたのは外食産業だった。消耗戦を繰り広げ、シュア拡大を測るデフレ経済を象徴する外食産業から客層が離れたからだ。家庭消費がそれほど減っていないことは前々回のブログで紹介した。JA組織は生産を抑えていながら、これらの陰謀になすすべがなかったのではないのか。

多くの農業者を代弁していると思われていたJA組織もなめられたものだ。前回ブログでもJA組織の崩壊の序曲と示唆したが、森島教授も指摘している。農業者はそれほど非力ではないはずだが、JA組織は大型合併で多くの組合員から遠い組織になった。今回の暴落概算金でさらに組合員離れが加速されそうだ。JA組織は本来の組合原則を再確認し、農家組合員と一体でこの矛盾からの脱却を提案して欲しいものだ。

今年の新米が出回った今回9月末から11月半ばまで、26年産米概算価格暴落の中で各地の道の駅、農産物直売所を回ってみた。道の駅や直売所は農家自ら値段を決めて販売している。


宮城 あ・ら・伊達な道の駅

宮城大崎市のあ・ら・伊達な道の駅では30K玄米価格税共ササニシキ、ひとめぼれが7980円。スッキリと8000円でも良いはずなのに7000円代を強調する値で割安感をねらったのか。昨年は30k10000円だった。


岩手 奥州市 産直

イオンの産直でひとめぼれ、コシヒカリ30k9800円。写真つきで栽培情報があった。


秋田 道の駅「雁の里せんなん」

「雁の里せんなん」は30k玄米8500と9000円が離れて並べられていた。あきたこまちの主要な生産地にとしての自己主張を強く思えた。昨年とほとんど変わらない。 


宮城県加美町やくらい土産センター

ひとめぼれ30k7600円 つや姫8500円、つや姫は山形の品種。宮城にも種子が回っていた。宮城の「ひとめぼれ」との価格差はなにから来るのだろうか。日本の農民という範疇から見れば米の品種を一つ県に限定するのも理解に苦しむ。かつて「あきたこまち」という品種名に違和感を感じていた。あれから30年心配をよそに、現在「あきたこまち」は九州、四国等全国に広まり作付されている。


大仙市 道の駅なかせん こめこめプラザ

さくらファームは特別栽培米として30k11000円、同じくSさんの減農薬、減化学肥料栽培も11000円の価格で並んでいた。肥料に昆布、カニ殻、菜種粕等の有機資材に農減薬栽培で農薬成分回数は9回と表示されていた。

以下の道の駅等では玄米30k袋は見れれなかった。

新潟 村上 イヨボヤ会館前 岩船米

岩船米コシヒカリ5㌔が2370円、特別栽培米コシヒカリが1㌔720円、5㌔3250円が注目される。


山形 小国道の駅「白い森おぐに」

あきたこまち、はえぬき3kが1400円、つや姫2kが1000円。持ちやすく1000円前後の価格を強調しているかに見える陳列と価格表示が印象に残る。


横手市 道の駅十文字「まめでらが~」

10k3500~3800円 5k1800円 陳列に工夫が欲しい。

このように比較してみると地域性が見られる。かつての米の売買は一升単位。5k、10k単位になってすでに30年以上になるのだろうか。かつて米の生産者が店頭で小売りの米を見ることは少なかった。生産者が都会の消費地に行くことなどほとんどなかった。平成7年11月1日食糧庁は新食糧法を施行、米流通自由化を開始して劇的な変化が生まれてきた。各地に道の駅、農産物直売所ができ、生産者が直接値段をつけるようになり30Kの玄米の側で5k、10k単位の包装から1K~5kへと変わってきている。今回の山形 小国の道の駅の3k包装を重点にしているように見えた。

各地の道の駅中心の玄米30K7980円から11000円で概算価格の約二倍の価格設定。農家は概算価格では実態価格に即していないとみているし、自ら設定した価格こそ再生産価格としている現れだ。それでも全体としては昨年より10~15%安い価格になるようだ。4月の消費税アップは結果として便乗値上げを誘発。前年対比で安い新米価格が目立つようになった。

驕り高く不遜な政権は突如大義なき総選挙に突入した。さらに複雑な世相へと向かいつつある。未来に向かうためにますます庶民はサイフの紐を締めることになる。

農の祭典「第137回秋田県種苗交換会」

2014年11月11日 | 足跡
第137回県種苗交換会が男鹿市で開かれた。恒例の如く農機会社の招待で出向いた。高速道路の湯沢から横手道から秋田道で昭和・男鹿半島インターで降り、開催地の男鹿市の会場まで約2時間半のマイクロバス。

秋田県内はもとより、岩手、宮城、山形、遠く新潟ナンバーのマイクロバスが並ぶ農機具展示会場。海のない内陸から海端での農機具展示会場へ、「農機と海」の珍しい風景。米の概算金暴落の中でもトラクター、コンバイン、田植機の実演等にいつもと変わらない人だかり。精一杯説明を聞きながらも「今年の米の値段では手が出ない」と自嘲気味の言葉を吐く参加者の象徴される交換会農機具会場だった。主会場で農産物が出品展示されている男鹿市総合体育館までシャトルバスで約30分かかるという。ごった返す観客で帰途の時間まで十分な時間がなく今回はあきらめた。


海の側の農機具会場 2014.11.1 男鹿市

種苗交換会の柱は「農産物の出品・審査」と「談話会」といわれている。今から19年前の平成7年第118回種苗交換会は横手市で開かれたときのテーマは「転換期に対応する水田農業の確立」だった。全県から10名参加で工藤東北大助教授の司会で意見交換した。JA稲川有機米研究会として参加したことは忘れられない。まだ有機の呼び名が市民権を得てない時代だった。

秋田県種苗交換会史が「明治編」・「大正・昭和編」・「昭和編(2)・百年の歴史」・「昭和編(3)・平成編」がある。平成9年(1997)の第120回まで記録されている、「昭和編(3)・平成編」は800ページにもなる大作で、各年度の農産物の受賞者や談話会の記録が記録されている。

10月30日から一週間に渡って開かれた今年の第137回県種苗交換会に85万人が足を運んだという。毎年この時期に開かれる種苗交換会は秋田の風物詩、交換会が終わると冬が到来する。

参考文献として種苗交換会の歴史がJA秋田中央会より刊行されている。貴重な文献なので以下に引用し紹介する。

『明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開催された。

当時県庁職員であった石川理紀之助翁は、その会議の推進役となり第2回目からは幹事に就任している。 この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎か『種子交換会の趣意の見込書』が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

同15年からは、技術・経営情報の交換を主とする勧業会議(勧業談会・現在の談話会の前身)と種子交換会を合体して、名実ともに「秋田県種苗交換会」と呼称された。この間、明治12年、県は地域指導に当たった4老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業ご用係に任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず。・・・」の趣意で始まる歴観農話連が設立され石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。

明治19・20年は、県主催による開催があやぶまれ、また22年も休会となるところを、歴観農話連が後援し、同連の会員が各々私費を投じて交換会を存続させている。こうした結果、種苗交換会は日清・日露・太平洋戦争中といえども一度も休会することなく136回目を数えるに至っているのである。

この継続の精神こそ、秋田の「農の心と技」を、「話し合い・ふれあい・助けあい」の3心によって広めようとする熱意に他ならない。

思いおこしてみても、数里先の隣村、農家同士の交流もない閉鎖社会というのが、明治初期の県内農村の実情であった。これをお互い公開し、話し合い、見せあうことを強く進めたのが石川理紀之助翁、森川源三郎翁で、歴観農話連の同志もこれをバックアップしたのだった。
明治33年(1900年)、県農会が法定設立され、種苗交換会の主催者は全面的に、県から県農会へ移管されることになった。交換会会頭は、小西文之進、小山巳熊、と代わり、同41年から斉藤宇一郎翁に引き継がれた。談話会員からの要望を入れて、地方開催に踏み切ったのは、明治42年からのことである。

これが現在まで忠実に順を逐って開催される端緒となり、このあと池田亀治、佐藤維一郎に次いで片野重脩が会頭となり、新穀感謝祭がとり行われている。時代は下って、太平洋戦争後の混乱期に農業団体の再編とその育成に尽力した武田謙三は、種苗交換会の継続にも意を注いだ。やがて、民主化された県内農協の新生・再建への礎を築いた長谷山行毅会頭の下で、農業(事)功労者表彰、交換会史の編纂がなされている。

こうして主催者は、県及び農話連から明治34年に県農会、昭和19年に県農業会、昭和23年に県生産農協連、同29年からは県農協中央会とかわり、開催地も秋田市~北秋田~平鹿~山本~仙北~鹿角~南秋田~雄勝~由利とほぼ10年ごとにめぐってくるようになったわけである。

種苗交換会では、明治13年からの審査を加えて農産物の展示・交換が、今日にまで延々と継続されている。水稲・畑作物・及び工芸作物・果樹・野菜・花き・農林園芸加工品・畜産品及び飼料・林産品の区分で出品、選賞を行っている。また主要行事である談話会は、県内農家の実践者で構成され、その体験や意見発表を通し、本県農業の振興や農家生活の向上、農協運動の発展に大きく寄与してきた。例年、新穀感謝農民祭とともに開幕し、農業功労者の表彰と農産物の審査発表が行われる。会期末には交換会関係者(談話会員,JA役職員)の物故者追悼会が営まれて、最終日の褒賞授与式によって閉幕している。

歴史と伝統を誇る種苗交換会を語るとき忘れてならないのが、石川理紀之助翁と森川源三郎翁、斉藤宇一郎翁の3大人である。種苗交換会の開催にあたり、私達は先人の偉業を讃え、これを現代に生かさなければならない。

交換会のサブタイトルになっている「先人に学び農業の未来をひらく」という言葉は、ここからきているのである』。

長文を引用した。秋田の農民はこの種苗交換会で一年の農の作業終了を迎える。当然畜産は毎日の作業、りんごの収穫は最盛期、ハウスの作業は続くので一年の終わりとは言えないが、稲作中心にみれば作業はほとんど終わりとなり雪の季節に向かう。4月の消費税導入から雲行きが怪しい経済情勢の中で、衝撃的な米の暴落概算価格で顔色がさえない晩秋となった。今日知人の来宅があった。話の中で「来年から稲作を他の人に委託することにした」という。

田圃からリタイヤが広まっている。このままで進めば国産の食べ物は一部の人にしか手に入らなくなるのかもしれない。農家は自分が食べる分は可能な限り作りつづける。