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妙音寺を偲ぶ 1

2015年12月19日 | 村の歴史

私の村の菩提寺神應寺は創建から約960年になる。集落の形成は寺創建以前、1000年以上前から形成されていた古い村。現在140戸の村だが江戸後期には大きな神社が二つ、お寺が三つあった。二つの神社の一つは「八幡神社」、天喜5年(1059)八幡太郎源義家が京都八幡大神を勧請して祀った。八坂神社は長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)川連城の領主の保護を受け再興されている。その後宝暦6年(1756)に現在地に建立、現在の神社は寛政12年(1800)に再建された。

三つのお寺の一つは神応寺、康平年中(1058~1066)に八幡神社の社務人が開山したといわれている。神応寺は川連城の北の登り口あたりにあって、文禄元年(1600)川連城が最上義光の軍に攻められ落城したあと現在地に移った。佐藤久治著「秋田の密教寺院」によれば「真言宗、八幡山、神応寺」として稲庭の「真言宗、金米山、長楽寺、地蔵院」、三梨の「真言宗,仏喜山、観音寺」が稲川の「真言、密教寺院」三寺院と記されている。

竜泉寺は天正元年(1573)川連城主の嫡男桂之助と、岩崎城主の息女能恵姫の祝儀の途中皆瀬川で竜神にさらわれ、菩提を弔う為に建てられたといわれている。明治22年の火災後約1k離れた野村地区に移った。明治時代に二つのお寺が無くなり、現在は神社二つとお寺が一つが集落にある。

小さな村に二つの大きなお寺があった所に,妙音寺が慶長19年(1614)に開山された。妙音寺は祈祷寺といわれているが、隠れ切支丹のよりどころだったとの説もある。慶長19年(1614)の開山から明治2年(1870)の廃物希釈で廃寺になるまで256年続いたお寺だ。

今回「妙音寺」の歴代の墓地を尋ねた。墓地は集落の近くで住宅からせいぜい100mほどしか離れていないが、ほとんど訪れる人はいない。近くに黒滝明神の祠がある。かつての銀杏は樹齢1000年と云われていたが伐採されてしまい、現在二代目の木で直径1ⅿは超える太さの雄で近くの黒滝子安観音にある銀杏は雌、あわせて「夫婦の木」と言われている。

黒滝明神の祠と大銀杏 お堂は約20年前に新しく建て替えられた 旧お堂も側にある

墓地はこのこの祠から50mほどの所にある。今回数年ぶりで訪れたら墓石が倒れていた。倒れていた墓石を元の位置に立て直したが苔で覆われ文字は見られなかった。

 倒れている妙音寺歴代墓地

五つある墓石の一つに延享2年とあった

湯沢市と合併前の稲川町広報「広報いなかわ」No682(平成5年10月10日)に佐藤公二郎氏の「いなかわのむかしっこ」に「川連山妙音寺廃寺の昔をしのぶ」がある。この文に『佐藤久治著「秋田の山伏修験」によれば、川連山妙音寺の文政8年(1825)の僧構成は、鑁隨実乗(ばんずいじつじょう)年齢32歳、先達は伊勢の世儀寺とある。

このほどわかった妙音寺歴代和尚の系図には、開山が慶長19年(1614)12月8日「源養房圓秀」で、鑁隨実乗は11世「源養院鑁隨」と思われる。10世「法教院實峯」が文政4年(1821)巳亥正月15日に亡くなっている。鑁隨実乗28歳の時となる。

佐竹義宣は慶長7年(1602)徳川家康から国替えの命を伏見で受け、水戸城家老の和田昭為に指示を出した。「秋田への随員は一門・重臣の他93騎」と制限した。93騎とは譜代93家、93の軍団を編成していた。「佐竹国替記」には331家、茨城歴史地理の会代表の江原忠明氏のよれば、系図が残っているケースだけで587家に上った。さらに常陸から移住する人が後を絶たず、3年後に院内峠に採用しない旨の立札が立てられたといわれる。引用(秋田魁新報平成2年1月から連載「時の旅-佐竹氏入部400年」から

妙音寺は常陸から佐竹義宣の国替えと一緒に来た「対馬」家(現高橋)から分かれて慶長19年(1614)12月に開山。佐竹氏が常陸から移転した天徳寺は寛永元年(1624)金照寺山の山麓に移したが、火災で焼失し寛永5年(1628)に現在地に再建されている。佐竹氏の国替えと一緒に来た系図に残っているといわれる587家は、地域に定着するまで緊密な関係にあったことは想像される。妙音寺の開山した「源養房圓秀」は、度々天徳寺の関係者を訪れ教えを被っていたといわれている。

先の広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に「妙音寺最後の和尚さんを黒滝賢瑞といい、その父は黒滝一曜である」とある。明治4年(1604)、歴代和尚を記録し本家に預けてこの地を去ったのは黒滝源造氏である。そして父の黒滝一曜は、13世智覧一曄和尚ではないのだろうか。字は違っているが「一曜と一曄」同じ人物のようだ。

九世源養院宥教 寛政九年(1797)没が寛政元年に源養院から妙音寺に名をかえている(御許容 )。10世法教院實峯 文政4年(1821)巳年正月15日と記された以降、廃仏毀釈の明治2年(1969)まで48年の間、11世 源養院鑁隨 凶父、12世黒滝禅滝和尚 卯年正月4日、13世智覧一曄和尚はこの地を離れる時は健在だったのだろうか。世源養院鑁隨 凶父と記されている背景は一体どのような状況だったかは今のところわからない。



村にあった神応寺と竜泉寺は回向寺、妙音寺は檀家を持たない祈祷寺。回向寺は先祖回向を行う寺という意味で、一般的には自分が行った善行を、他者の利益として差し向けることと言う意味で、良いことは回って戻ってくるという言葉でもある。江戸時代は檀家制度が確立され、檀家が寺院を経済的に支えるという関係性のある寺となっていた。

祈祷寺は多くは将軍や大名などが先祖供養の回向寺とは別に、利益祈願や一族の繁栄、戦の無事などを目的に建立した。庶民も江戸時代には、先祖の墓を設置し先祖供養を行った回向寺とは別に、無病息災、家内安全、商売繁盛などの個人利益をお願いしに行く祈祷寺は需要な関係にあった。江戸時代は、厳しい寺請け制度の元で厳格に管理されていたものの、二つの寺院へ出入りはそれほど規制はなく自由だったと云われている。

広報いなかわの№682「いなかわのむかしっこ」に幕末、文化、文政(1818~1829)年間の頃は「権大僧都、蜜雲権月法印」が妙音寺の修験者(山伏)であったとある。修験道は、古来、山々を神として崇拝した山岳信仰をもとに、神道・仏教・道教が融合して生まれた宗教で、険しい山にこもって難行苦行することにより、特異な法力や呪力、験力を獲得できるとされています。

広報いなかわ昭和48年7月10日号「町の歴史と文化」に「山伏・修験」に「山伏が、どれだけ秋田の文化を高めてきたかは民俗芸能や、古文書でわかる。読み書きができる山伏たちは地域社会の良き教師であり、京都との往復修業によって、地域文化の担い手となった。一般の人は、山伏は単なる宗教家、呪術使いといったイメージでとらえているが、そうではない。彼らは経を読み、祈願をし、占いをする一方、医術と教育に通じ著述と、農作業のリーダーだった。修験道を実践する行者でありながら、片方では中世文化の推進役、«生活総合コンサルタント»だった。山伏文化、修験文化を無視して歴史を語ることはできない」と「秋田の山伏・修験」の著者、佐藤久治氏の談が載っている。

妙音寺は開山の時は源養院、正徳2年(1712)の「十一面観世音」造立には川連山相模寺の名号もある。そして寛政元年(1789)に妙音寺に名を変えている。

妙音寺には遠く湯沢や羽後町からも信者が出入りしたとされる。修験者(山伏)となって各地で修業し現世の利益を庶民に説き支持されたから、慶長19年創建から明治の廃仏毀釈まで約256年間続いたものと思える。ご本尊は佐竹氏の国替えの時、常陸から一緒に持ってきた約70cmの「千手観音像」。黒滝源造氏がこの地を離れるときに本家に預けた。この像と歴代墓地に接すると「妙音寺」の栄華がしのばれる。

黒滝の子安観音 

妙音寺の近くには黒滝の子安観音のお堂がある。キリシタン禁制の江戸時代に建てられた石造りのマリア像がご本尊。このマリア像のレプリカは旧稲庭城跡にある今昔館に展示されている。祈祷寺の妙音寺は、庶民の願い事を叶えることで信者を増やしてきた。住職はキリシタンとの関わりが強かったと云われ、訪れる信者は地元ばかりではなく山を越えた湯沢・雄勝、横手地方まで広まり、信者の通う道を「キリシタン通り」と呼んだと伝えられている。現在はほとんど知られていない。

現在も集落では観音様の講の行事は続いている。この観音講は黒滝子安観音ではなく、岩清水神社を祀っている。岩清水神社を地元では観音様と云い、毎年5月上旬に講が開かれ神主が祭礼を司っている。ご本尊は石造の像右手には宝剣、左手には如意宝珠を持っている。右手の宝剣は不動明王の持物で、左手の如意宝珠は観音の持物とも云われている。一時期ご神体が盗難にあい別のものを祀ったとの説もあるが真偽は定かでない。キリシタンとの関連性については今の処わからない。

キリシタンと妙音寺について「妙音寺を偲ぶ 2」で追跡してみたい。

※ 上記の黒滝明神は旧妙音寺の跡に建てられている。この場所から150mの処に黒滝神社稲荷大明神、天正2年(1574)5月造立があったとされる。妙音寺が開山される40年前になる。現在は存在しない。廃仏毀釈で壊された可能性もある。今ある黒滝明神と関連あるのかは不明。
銀杏の大木を伐ったら禍が続き、鎮めるために祠を建てたとの説がある。


経済的徴兵制を具体化

2015年12月15日 | 地域
新安保法案を強行した安倍政権は、徴兵制を懸念する反対派をあざ笑うように将来「経済的徴兵制」導入することを具体化したそうだ。「経済的徴兵制」については予てから憂慮されていた。「赤かぶ」さんの記事は問題点をわかりやすく解説しているので全文シェアさせてもらいます。多くの人と共有し拡散したいものだ。

予備自衛官を雇ったら法人税減税! 自衛隊志願者やっぱり激減で、安倍政権がいよいよ経済的徴兵制を具体化(リテラ)
http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/173.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 12 月 14 日 19:30:05: igsppGRN/E9PQ

予備自衛官を雇ったら法人税減税! 自衛隊志願者やっぱり激減で、安倍政権がいよいよ経済的徴兵制を具体化
http://lite-ra.com/2015/12/post-1782.html
2015.12.14. リテラ

やはり安倍政権は「徴兵制」を目論んでいる──そう思わざるを得ないニュースが報じられた。なんと、政府と自民党が「予備自衛官などの雇用を増やした企業に対して法人税を控除する」というプランをもちだしたのだ。

予備自衛官とは、有事のときに予備要員として召集される非常勤の自衛官のこと。この予備自衛官の数は2005年には4万1744人だったが、昨年は3万7271人と減少傾向にある。そのため防衛省は、予備自衛官を2人以上、かつ10%以上増やした企業に対し、1人あたり40万円の法人税控除を行う要望案を提示。自民党の国防部会がこれを先月17日に了解したという。

1人あたり40万円も法人税が控除されるとなれば、企業側にとってはかなり大きい。この案が実現すれば、企業は積極的に予備自衛官を雇用し、求職者にとっても予備自衛官であることが採用アピールにつながるだろう。つまり、この予備自衛官雇用の法人税控除案は、間接的な「経済的徴兵制」と言えるものだ。

安倍首相は安保法制議論で徴兵制について「典型的な無責任なレッテル貼り」と否定、憲法違反の安保法制を押し通しながら「徴兵制は明確に憲法違反」などと明言してきた。だが、安保法制に反対する人びとが懸念しているのは、むしろ「経済的徴兵制」の問題だ。

たとえば財務省は、先日、国立大の授業料の大幅値上げを発表。現在の国立大の授業料は標準で54万円だが、2031年度には現在の私大平均授業料(約86万円)よりも高い93万円まで引き上げるとしている。非正規雇用が4割、子どもの貧困は過去最低の16.3%という現在の状況から考えても、この授業料引き上げは実質的に「経済的徴兵制」を加速させることは間違いない。

実際、安保法制の成立によって自衛隊は「経済的徴兵制」なくしては成り立たないことは明白な事実だ。ジャーナリストの布施祐仁氏が先日、上梓した『経済的徴兵制』(集英社新書)のなかで、その問題点に多岐にわたる角度から鋭く切り込んでいる。

まず、時下の問題として挙げられるのは、自衛官の退職者・志願者数の減少だ。安倍首相は7月のニコニコ生放送で「いま自衛隊に応募する方は多く、競争率は7倍なんです」「(集団的自衛権の行使容認によって)応募する人は減るはずだと(中略)批判をされているんですが、実は7倍のままなんです」と勝ち誇ったように語ったが、実際は集団的自衛権の行使容認を閣議決定した2014年度、自衛隊の志願者数は、「任期制」隊員が〈二〇〇〇人以上減少〉、「非任期制」も一般曹候補生が〈三〇〇〇人以上〉、一般幹部候補生は〈五〇〇人以上〉も減少している。しかも、〈「任期制」隊員では、「採用目標」を達成するために年度末ぎりぎりまで募集を実施〉していた。

この志願者数の激減について、安倍首相は決して集団的自衛権の影響を認めないが、布施氏が情報公開請求を行った防衛省の資料(九州・沖縄地方の地方協力本部長会議の説明資料)では、しっかりと〈「企業の雇用状況改善」とともに「集団的自衛権に関する報道」を要因に挙げ〉られているという。

さらに退職者の数も同様で、14年度の退職者は13年度よりも500人以上も増加。これもまた集団的自衛権の影響と思われるが、少子化で自衛隊員の確保が難しくなっているなかで、さらに安保法制の成立で志願者・退職者が今後減少することは目に見えている。

安保法制によって自衛隊の活動は大幅に拡大する一方で、それを支える隊員の数は減少。しかし徴兵制の導入を検討すれば非難を浴びることは必至……。そうなると、“背に腹は変えられない”人びとをターゲットにしようと考えるのは自然な流れだ。

事実、「経済的徴兵制」を敷いていると言っていい状況のアメリカでは、〈一定期間以上軍務に就いた者に大学の学費や職業訓練を受けるための費用を給付〉する奨学金制度を1944年に制定、これによって〈それまで一部の富裕層しか入ることのできなかった大学に大量の復員兵が入学し(二年間で一〇〇万人以上が入学し、一九四七年には全米の学生の半数は復員兵が占めた)、その後のアメリカの中流階級形成の原動力になったといわれている〉という。しかも2008年に新設された制度では、〈九・一一以降に九〇日以上軍務に就いた兵士を対象に、大学の学費全額に加えて、住宅手当や教科書などの必需品の費用まで給付〉〈権利を配偶者や子どもに譲渡することも可能〉となった。布施氏は、アメリカの「経済的徴兵制」の現実について、このように述べている。

〈戦争は、大量の武器や弾薬とともに人間の命も消耗する。そして、消耗される命のほとんどは、愛国心に燃えた富裕層の若者ではなく、教育を受けたり病院にかかったりする基本的な権利すら奪われている貧困層の若者なのである〉

うしたアメリカの先行例は、日本でも十分、通用する話だろう。というのも、現在の日本では〈昼間の四年制大学に通う学生のうち、奨学金を受けている割合は五二・五%〉にも上り、〈卒業後に背負う借金は、大学生で平均約三〇〇万円、大学院まで進学すると多いケースで一〇〇〇万円にも達する〉からだ。さらに前述したように、アベノミクスによって非正規雇用の割合は4割と増えており、〈奨学金返還滞納者の一八%が「無職」〉という現実がある。そこに授業料の値上げが追い打ちをかければ、アメリカ同様、貧困層の学生が大学進学と引き換えに徴兵を選択することは想像に難しくない。

しかも、この「経済的徴兵制」は、すでに具体的に日本で検討されはじめていることでもある。たとえば、〈(大学)卒業後に自衛隊に入隊して「衛生・技術系幹部」になる意志を持つ医学・理工系の学生あるいは大学院生を対象に、月額五万四〇〇〇円の奨学金を支給する〉「貸費学生」という制度があるが、これは現在、毎年十数名程度しか採用されていない。しかし、防衛省ではこれを拡充することを検討項目としている。

さらに問題なのは、“自衛隊と企業の提携”による徴兵だ。2014年に開かれた文科省の有識者会議にて、前原金一・経済同友会専務理事(当時)は「(職に就けず奨学金返済を延滞している若者を)防衛省でインターンシップさせたらどうか」と発言したが、この発言について中谷元防衛相は今年8月26日に安保特別委で辰巳孝太郎・共産党議員の質問を受けて、〈(前原氏の発言以前に)防衛省の方から前原氏に対して自衛隊への「インターンシップ・プログラム」を提案した〉のだと答弁。しかし、このとき明らかになった驚愕の事実は、〈防衛省が提案したのは、奨学金返済を延滞している無職の若者ではなく、企業の新規採用者を「実習生」として一任期(二年間)限定で受け入れるプログラムであった〉ということ。つまり、〈その企業に就職した人は業務命令として自衛隊に派遣され、二年間その業務に当たらなければならな〉くなる、という話だったわけだ。

このとき明らかになった防衛省の内部文書によると、このプログラムによる企業側のメリットは〈自衛隊で鍛えられた自衛隊製“体育会系”人材を毎年、一定数確保することが可能〉であること、防衛省側のメリットは〈厳しい募集環境の中、「援護」不要の若くて有為な人材を毎年一定数確保できる〉ことだという。

本書の著者である布施氏は〈この構想は目新しいものではなく、防衛省・自衛隊が以前から検討してきたもの〉だとし、07年にも防衛省は同じ構想を検討していたことや、遡ると1970年代の段階から〈自衛隊と民間企業の「人事交流構想」〉があったことを明らかにしているが、問題は当の内部文書に〈企業側との関係が進めば、将来的には予備自(衛官)としての活用も視野〉と書かれていることだろう。今回もち上がった予備自衛官雇用による法人税控除は、このプログラムの実現を後押しするものになりえる。すなわち防衛省は、企業と連携した徴兵システムの構築を、いまこそ具体的に現実化させようとしているのではないだろうか。

しかも、前原氏が発言した奨学金の返済に困っている人に対するインターンシップ制度にしても、導入が検討されてもおかしくはない。いや、アメリカ並みの奨学金制度の構築なども検討しなくては、安保法制後の自衛隊を支えることはもはや難しいのではないか、とも思えてくる。その上、自己責任論が幅を利かせるいまの日本の空気では、「国の金で大学に行くのなら、それくらい奉仕して当然」などという声もあがりかねない。

だが、忘れてはならないのは、本書でも言及されている通り、アメリカでは〈退役軍人の学生のうち八八%が初年度で退学し、卒業するのはわずか三%〉〈とりわけアフガニスタンやイラクからの帰還兵はPTSDなどで通学を継続するのが容易ではない〉という事実だ。インターンシップといえば聞こえはいいが、農業体験や地域奉仕活動などとは根本的にまったく違う。安保法制成立後の自衛隊に入るというのは、戦地に赴くという命がかかった問題なのだ。

本来は「貧しいけれど大学に行って勉強したい」という若者の願いは、社会制度によって叶えられるべきだ。それを命と引き換えにしなくてはならないとなれば、この国で生きるのに夢などもてるはずもない。

そもそも、「経済的徴兵制」には、経済界の思惑も密接にかかわっている。経団連などの経済界は集団的自衛権の行使を積極的に政府へ要請してきたが、既報の通り、その裏側には武器輸出の問題が絡んでいる。本書でもその問題は深く掘り下げられているが、〈自衛隊の海外での活動の拡大が、そのまま武器輸出ビジネスに直結〉しているのである。

 布施氏は、本書のなかでこう述べている。

〈政府が自衛隊(自衛官の死)を海外での国益追求のツールとして活用しようとしていることと、国内で非正規雇用を増やして貧困と格差を広げるような政策をとっていることには、底流に共通する思想がある。それは、国民一人ひとりの人権や生命より国策や国益を優先させる思想である。国民を、国策や国益実現のための「資源」として捉えているのだ〉

安保法制を考える上で「経済的徴兵制」は切り離しては考えられない重要な問題だ。甘言を弄する安倍首相に騙されないためにも、ぜひ一人でも多くの人に本書を読んでほしいと思う。「経済的徴兵制」というと、徴兵制よりソフトな印象をもっている人もいるかもしれないが、ある面では徴兵制以上に悪質なところもある。戦争を決定する人間と実際に戦地で戦わされる人間が完全に分離し、為政者や経済的強者は戦場の悲惨な実態も痛みも知ることがないまま戦争を遂行することになり、歯止めがきかない。「経済的徴兵制」は不幸な国の負のスパイラルに陥るかどうかという、誰にとっても他人事ではない話なのだから。

(水井多賀子)

晩秋田んぼの野草たち

2015年12月01日 | 地域の山野草
11月28日フェスブックに「晩秋の田んぼの野草たち」を書いた。ブログ記事が遅れ気味になっている。今回フェスブック記事に加筆する。

「各地から雪の便り、今朝は東鳥海山の山頂は真っ白になった。川連の予報は明日の朝にかけて湿雪予報が出ている。根雪はまだまだだと思いたいが、田んぼが真っ白の雪に覆われるのはすぐ近くになった。
降雪予報の田んぼは強い北西の風が強い。田んぼを田植や高温の夏、稲刈り等を振り返りながら一枚、一枚の畦畔を回ってきた。「農」をホトンドわからない輩の云う「攻めの農業」や規模拡大策に翻弄されてしまうと、田んぼで健気に自己主張してる野草を邪魔な雑草などと決めつけてしまう。

「関東に一声不平あり」に倣えば「秋田の田んぼに一声不平あり」と毅然と叫ぶ、稲川盆地の野草達を紹介したい」。

 晩秋のアキノノゲシ 2015.11.28

秋稲刈り前の姿には妖艶な姿を連想されたアキノノゲシは、この時期にはどことなく幽艶さが漂う。初めて接したときこの花の名前はわからなかった。普通の姿とは何か違って見えた。この場所だけ違って見える。「雄勝野草の会」事務局の佐々木さんから名を聞いて知った。稲刈り前だったので写真に収めた数日後刈られてしまった。上記のアキノノゲシは刈られた後から成長し、晩秋また花をつけた。

 稲刈り前のアキノノゲシ 2015.8.3

 2015.11.28 ヒメジョオンだろうかハルジオンならぬアキジオンと呼ぶべきか

強烈な繁殖力。「ハルジオン(春紫菀、学名:Erigeron philadelphicus)は、キク科ムカシヨモギ属の植物。北アメリカ原産で、日本では帰化植物となっている。ヒメジョオンと共に、道端でよく見かける。一部の地域では「貧乏草」と呼ばれ、「折ったり、摘んだりすると貧乏になってしまう」と言われている。花言葉は「追想の愛」とある。

2015.11.28 イヌタデ(アカマンマ)

2015.11.28 セイヨウノコギリソウ

2015.11.28 アラゲハンゴンソウ

イヌタデは一年草、多年草の「シロバナサクラダテ」は減反している田に増えてきた。セイヨウノコギリソウは昭和62年麓転作組合が集落を上げて職場の「田んぼに花を」、「学校道に花を」の呼びかけで25種類の花の種を蒔いた時から定着した。30年ほど経過して今も残っているのは「セイヨウノコギリソウ」、「マツヨイグサ」、「アラゲハンゴンソウ」だけになってしまった。「マツヨイグサ」を多くの人は「ツキミソウ」と呼んでいる。「アラゲハンゴンソウ」は粗毛反魂草と云い、日本へは大正時代の観賞用として渡来してきた。野生化し繁殖力が旺盛で近縁種に「オオハンゴンソウ」がある。別名を「キヌガサギク」とも呼ばれている。

2015.11.28 アカツメクサ

誰でも知っているアカクローバーともいう。これらの田んぼの野草は雪の季節の到来にビクともしない。種族の定着に果敢に立ち向かっている。

降雪前の稲川の田んぼを代表する野草だ。フエスブックに以下の記事を追加した。

「多くの皆さん「いいね」ありがとうございました。「アキノノゲシ」や「アラゲハンゴンソウ」には花の終わった所と、蕾があった。晩秋になっても「ひと花咲く」との胎内時計は判断したのだろうか。雪の季節寸前というのに、、、。

それとも「攻めの農業」への抵抗だろうか。誰を攻めるのだろうか。誰がせめられるのだろうか、、、。規模拡大農業は隣をはじめ、周りを踏み台にして成り立つ。農から撤退する人が多くなって初めて成り立つ農業。止めた人、止めるしかできない人への配慮はほとんどない。

その結果集落は崩壊に向かう。街には人通りが少なくシャター通りとなった。今度は「地方創生」などとと政策はが独り歩きし、大型.中型、小型官僚は多くの被害者から「打開策」提案を募る等と云う。「壊し、創る」政策は公共工事、「戦争は唯一(最大)の公共事業」と言った路線と繋ながりはしないのか、、、、。

「アキノノオゲシ」、「アラゲハンゴンソウ」よ、根雪はまだだ。残された時間はまだある。さらにアディショナルタイムがある」。厳寒でも持続の花を咲かせなければならない。