新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

川連 三大絵師・画人 2 滕亮昌

2020年03月07日 | 村の歴史

川連の江戸の絵師「亮昌」は謎に包まれていた。昨年まで絵師「亮昌 」、「チセン」についての詳細はほとんど手がかりなしできた。2019年暮れ稲川文化財保護協会顧問T氏との懇談で「日野亮昌」の名が出てきた。「稲川町史」資料篇 第八集で松迺舎 佐藤信敏「稲庭古今事蹟誌」稲庭画工家ノ事、「佐藤信成ノ事」に「寛保3年(1744)生、宝暦10年(1757)14歳に川連村の人日野亮昌に隋て学ぶ」とあった。川連の「日野亮昌」の消息を尋ねられた。   

とっさに姓の「日野」ではなく「亮昌」の名にくぎ付けとなった。自家に「亮昌」の掛軸があったからだ。隣家「キエモン」(喜右衛門)宅で「鍾馗」の掛け軸が話題となり比較したことがあった。「キエモン」(喜右衛門)宅訪問は2015年春、豪雪で壊れた内沢の「山神社」の修復で募金活動していたら「山神社」の建立時の古文書が出てきた。その後慶長19年の「大舘村検地帳」、「妙音寺」の盛衰と聞き書きを「妙音寺を偲ぶ 1」(2015.12.19)2(2016.4.7)「400年前の大舘村の名請人」(2018.4.27)等、ぶろぐ「新河鹿沢通信」で報告してきた。

隣家は「キエモン」(喜右衛門)は慶長7年(1602)、水戸から佐竹一族と秋田にきて代々肝煎を務めてきた。肝煎の役柄一時経済的な困窮があった後、家を新しく建て替えたのが現在の住宅。今から2百数十年前、(宝暦?)、家を建て替えた時に村の絵師「チセン」が襖絵、掛軸等を描き、さらに作庭もしたという。見事な襖絵、掛軸等の中に「鐘馗」様があった。

                                                            鍾馗様 左 自家 滕亮昌行年63歳畫 右 キエモン 亮昌 

「キエモン」(喜右衛門)宅の「鍾馗」の掛軸と同じものが自家にあったことに気づき、帰宅後改めて比較してみると、「鍾馗」の絵に向きの違っていたが自家の「鍾馗」の軸に「滕亮昌行年六十三歳畫とあった。しかし、「キエモン」(喜右衛門)の当主がいう「チセン」ではなかったのでしばらく頓挫していた。

                                         襖4枚の絵 

話によれば襖絵、掛け軸は「チセン」は「カンノジョウ」(勘乃丞)の絵描きが書いたと話された。「カンノジョウ」は我家と同じ長里一族。現「カンノジョウ」の当主は先祖に絵師がいたことは聞いたことがないという。「キエモン」(喜右衛門)の鍾馗様軸と我家の軸は、図の向きが違うが同じ号名。「チセン」と「滕亮昌」は同一人物なのか詳細は判断できないでいた。

「キエモン」(喜右衛門)宅を再訪問調査で、自家と「キエモン」の鍾馗の軸で「滕亮昌」を再確認。「鷹」の軸に「寶十午滕亮昌行年七十六歳書」とあるものを見つけた。「寶十午」は宝暦10年(1761)76年歳、生年は貞享2年(1685)ということが判明。さらに「滕亮昌」、「滕北濱」、「チセン」は「日野亮昌」の号名であることが確認できた。

                                           鷹のかけ軸

稲川広報昭和54年3月10日号「城下町 川連(六)歴史散歩」に「カンノジョウ」(勘乃丞)の当主、熊太郎氏が森古の稲荷神社は「京都伏見稲荷神社から、寛政9年(1797)に分社として求められた」ことが書かれていた。「授与之状」に別当「日野孫左衛門」とあったこと手掛かりに「カンノジョウ」(勘乃丞)との対談したら次のような結果がわかってきた。

「チセン」は「カンノジョウ」説は日野の姓が判明したので急速に進展した。現「カンノジョウ」屋敷は元「日野孫左衛門」屋敷だった。「マゴザエモン」は「ニザエモン」(栗林)の分家。栗林家「ニザエモン」は日野「マゴザエモン」を分家とした。「マゴザエモン」屋敷、畑は約3反ほど分家屋敷としては広い。「ニザエモン」と「マゴザエモン」との関係は今のところ不明。

約200年前、隣家「ブエモン」(長里)が「マゴザエモン」屋敷の一部を習得。その土地に「ブエモン」が「カンノジョウ」を分家を置いた。「カンノジョウ」が「マゴザエモン」と懇意となり後に一体化したようだ。その後「日野孫左衛門」の名がわかったので菩提寺「神応寺」住職に過去帳調査を依頼した。

「日野孫左衛門」家の過去帳調査で文政12年(1829)「夢覚了中信士」が判明した。詳細は不明ながら、文政12年以降「マゴザエモン」屋敷は「カンノジョウ」屋敷になった。近年まで位牌を「カンノジョウ」が約200年近く管理していたことがわかった。さらに「マゴザエモン」の神応寺墓地は、本家「ニザエモン」(栗林)一族と一緒の場所にあった。そして「マゴザエモン」家がなくなった後の墓地所に現在「カンノジョウ」が入っている。「亮昌」、「チセン」は「カンノジョウ」の絵かきと「キエモン」の話はこのことに起因があったことが判明した。

さらに神応寺の調査で「日野孫左衛門」家の最後の人の戒名は、「夢覚了中信士」文政12年(1829)、その前が「智勝棟工信士」川連 孫十郎 安永3年(1774)没が確認された。屋号は先代亡き後その子がその屋号を名乗ったのは江戸時代多くあったことから、「日野孫左衛門」家は3代以上続いたと思われる。「日野亮昌」の生年は貞享2年(1685)であることから戒名「智勝棟工信士」、孫十郎が「日野亮昌」と同一人物なのかその子なのかは判断できない。

「ニザエモン」(栗林)宅でこの経過はついて知る人はいなかったが「日野亮昌」の軸が二点が現存していた。               

                       七福神 北濱75歳画                                                

                                                                  方位神 歳徳神 と八将神 亮昌

七福神は「キエモン」(喜右衛門)にも同じものがあった。方位神には歳徳神 と八将神(大歳神、歳破神、太陰神、豹尾神、黄幡神、歳殺神、歳刑神、大将軍)が描かれている。九星術で得られた方位の上を毎年十干や十二支に従って移動する神々のことで、吉神と凶神に分けられ、その年の方位神の位置は、市販の暦の初めの方のページにある「方位吉凶図」に書かれている。軸の絵に歳徳神 と八将神の名が朱で書かれていた。

下の軸に号名と年齢があり左に軸には「寶十午」宝暦10年(1761)があった。

                          亮昌 号名 滕亮昌 滕北濱 滕亮昌 年齢                                       左 宝暦10年(1760)76歳   中 宝暦3年(1754)74歳  右 延享4年(1747)63歳

日野亮昌」は江戸時代にしては長寿だった。80歳前後まで「キエモン」(喜右衛門)家に逗留して絵を描き、作庭もしたという。藩のおかかえ絵師ならともかく、一般的には地方の民間絵師は「一描一食」ともいわれ生活が苦しかった。そんな中で「チセン」、「滕亮昌」の有力なパトロンとして肝煎「キエモン」(喜右衛門)の存在が大きかったと推察される。

稲庭の佐藤信成14歳が「日野亮昌」に弟子入りしたとされる宝暦10年(1757)は「亮昌」76歳の高齢になっていた。「信成」26歳の「明和5年(1769)、江戸に出て狩野深信に学び、安永元年(1772)京都の円山応挙の門に遊し、晩年菅江真澄と交わる」と稲川町史資料集にある。調べてみると「佐藤信成」が江戸に出たころには狩野探信(守定)、(守道)はいなかった。狩野派に弟子入りは確実にしても資料集の記述は間違いかもしれない。       

江戸に「狩野探信」は二人いた。「狩野探信」(守定)は承応2年(1653)~享保3年(1718)江戸時代の中期に活躍した狩野派の絵師。「狩野探幽」の三男で江戸幕府御用絵師の「鍛冶橋狩野家」の2代目。「狩野探信」(守道)は天明5年(1785)~天保6年(1836)で江戸後期の狩野派の絵師。「鍛冶橋狩野家」の7代目。「信成」26歳の明和5年(1769)に「狩野探信」がいない。「佐藤信成」の入門は「狩野探幽」派門下の別の人物と思われる。        

江戸時代の身分制度で絵師になるには世襲制。武士の子であれば誰でも入門できたが、多くは狩野派の弟子続きの子弟。弟子続き以外は藩主の紹介が必要とされた。さらに入門にあたって当主や絵所弟子頭に貢物が必要されたという。このことから「日野亮昌」の弟子が江戸の狩野派の門下生になることができたのは「日野亮昌」が狩野派との深い繋がりを予測できる。

「狩野定信」は秋田狩野派の祖、二代秋田藩主佐竹義隆のおかかえ絵師で、藩内の画壇を支配した画家とされる。妻は現湯沢市雄勝町院内の出。その弟、子等に引き継がれ大舘、角館、横手、湯沢の支城に及んだとされる。「日野亮昌」はこれらのつながりが大きかったことが伺われる。 

今回「マゴザエモン」一族の聞き取り調査で絵師、大工説が有力な情報。「亮昌」が大工、絵師。その子または一族が大工だと以下の記述が成り立つようだ。年代順の記録に、宝暦10年(1761)稲庭の金華山神社に大舘村棟梁、日野孫〇〇、日野孫〇之進とある。明和6年(1769)神応寺本殿建立棟梁孫太郎(稲川郷土史資料編 第七集 町内曹洞宗八寺院)。寛政9年(1797)森古稲荷神社別当、日野孫左衛門等。

                        森古 稲荷神社     京都伏見稲荷本宮璽授与之状 

安永3年(1774)戒名「智勝棟工信士」孫十郎。神応寺本殿建立棟梁への敬意を込められているように思える。孫太郎、孫十郎の名前は違っているが間違いもあるかもしれない。大工説が正しければ、「日野孫左衛門」と「ニザエモン」(栗林)、「キエモン」(高橋)との濃密な関係が明らかになってくるが今のところ詳細は不明だ。        

 秋田魁新報社は昭和37年4月から38年12月まで、旧藩時代から明治までの「秋田の画人」を連載した。紹介された絵師、画人は約200名。昭和39年に本として出版された。「日野亮昌」の名はない。この本に旧稲川町から明治の画人として「井上松治、沓澤利瓶、東海林恒吉」の3人が紹介されている。その中で。「井上松治」は川連の出身、「井上松治」明治3年(1870)~昭和19年(1944)は明治21年上京し、勤王画家の「松本楓湖」に学び、23年(1890)に洋画に転じた。帝展に出品するのは明治44年(1907)京都師範に移ってからと「秋田の画人」にある。いずれ「井上松治」号名は「知海」を調べてみたい。隣家の出身で集落には多数「知海」の軸が残ってる。明治23年(1890)、洋画に移る前の日本画がほとんどと言われている