新河鹿沢通信   

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帰ってきたスズメと「サンクチュアリ」モドキ 

2014年07月29日 | 地域
「野鳥もスズメも消えた庭」は2013.12.21のブログだ。スズメが昨年暮れから春先にかけて自宅に近づいてきたのは数えるくらい。牛を飼っていたころはエサを求めて牛舎によく来た。昨秋のブログで絶対数が減っているからとの記事を書いた。

雪が消え、5月になると屋根の棟部にスズメが巣をかけた。この冬少ないスズメが営巣するのか心配だったが、今年も子育てのスズメは賑やかだった。収穫されたコメはモミの状態でJAのカントリーに運び、クズ米含めて販売してしまうが自家用の飯米分の「もみすり」でクズ米がでる。作業場の片づけで、今回残っていたクズ米を柿の木の下にこぼしてしまった。そこに数日後スズメが来た。どこかで見ていたのかもしれない。明らかに今年生まれた子スズメだった。親スズメより警戒心が緩やかに見える。

昨秋一度も野鳥が来ることもなかったエサ台、その後取り外していたのを想いだしモミジの場所に移動しクズ米を置いてみた。始め警戒してスズメは2、3日で慣れてきたのか数羽で来るようになってきた。離れてみているとスズメは独占欲が強いのか、エサ台に来る他のスズメを追い返すを繰り返していた。クズ米が無くなるとしきりに催促するようになってきた。このごろ一族のスズメだろうか、集団でクズ米を啄む姿が見られるようになった。相変わらず警戒心は強く視線が合うと飛び立ってしまう。しかし、やっと自宅の窓越しにカメラに収まった。

 2013.7.19

スズメの朝は早い。早朝4時頃になると集まり、慣れてきたのかエサの催促。しかし自然のエサが豊富なこの時期、催促されても一日一回限りのクズ米とした。自然に生きるものにとって、簡単なエサはスズメ達にとって不幸なことになるかもしれないからだ。

以前から野鳥に関心があって、一時期「日本野鳥の会」の会員だった。日本野鳥の会のホームページに「サンクチュアリ」のことを解説している。それによれば「サンクチュアリ」とは「そこは人と自然の出会いの場。そして地域の自然保護の拠点。第一に野生鳥獣の生息地の保全を目的とした場所。また保全だけでなく訪れた方がそこの自然を直接体験する場所」とある。

我家の「ミニミニサンクチュアリ」は、3年前の牛舎解体後の敷地に造成。住宅の西側に位置する。元々東側にため池があり、北側と含めて坪庭と云ってきた。東に200年以上にもなる見事な栃の木があったが枯れて数十年になる。北側の道路側にこれも樹齢180年近いだろうか、栃の木とイチイの木がある。前回のブログで17年前に畳分3枚程の広さの小さな池を造った。新たに造営の場所と連動する。造園の知識も乏しく脈絡がかけるかもしれない。

牛舎解体後の敷地に、建設会社勤務の友人の井上君が工事の際出てきたという「コマユミ」、「オンコ」、「ツゲ」等が移植したが惜しいことに80年とも思われる「オンコ」を定着させることはできなかった。昨年里山で育成していた「モミジ」5本を移植。この「モミジ」は自宅のモミジの実生から選抜し、高さが5mにもなる樹齢約20年のものだ。育成の場所から「クロモジ」、「ミズナラ」も一緒に持ってきた。50cm程の「クロモジ」は二年目で2m近くなった。

合わせて、懇意にしている建設業の後藤氏提供の「シダレザクラ」に「ナナカマド」。岩手の業者から譲り受けた「ナツグミ」、更に昨晩秋ホームセンターで50%引きで買い求めた「ナツツバキ」、「アズキナシ」、その他「ハナモモ」、「ヨウラク」、「レンゲツツジ」、「ゴヨウツツジ」、「サワワタリ」等が定着した。小鳥が好む「ムラサキシブ」もあるがすべての木は小さい。小鳥が種を運んで発芽したと思われる「エゴノキ」、「サンショウ」、「オンコ」も仲間に加わった。「サンショウ」の種を小鳥が運ぶか、どうかは今のところ定かではない。ただ、柿の木の根元に2本ある。しばらく生育を見守っていきたい。いずれアゲハチョウが産卵することになるかもしれない。今のところ産卵は確認できない。

この新たな坪庭、「ミニミニサンクチュアリ」の一番古い木は柿「オオハチヤガキ」だ。樹齢100年にはなるだろうか。牛舎建設の時も残し大雪にも耐えたが、あまりにも大きくなったので高さ5m程の上は5年ほど前に伐採。2年程前から伐採後の新梢に実がつくようになってきた。

これらの木の側に山野草を配置した。「ホウキグサ」、「ハンゲショウ」、「ヒメシャガ」、「トリモチソウ」、「ゲイビラン」、「サンカヨウ」、「カワラナデシコ」、「シロハギ」、「フジバカマ」等が植えられている。今年になって自家の里山から「ヤマユリ」、「クルマユリ」が仲間となった。木を大きくして日陰をつくり山野草を定着させたいと思っているが、まだまだ始まったばかりだ。にわか作りの庭にはなんといっても夏を彩る「ノウゼンカツラ」は格別、7月早々から咲きだした。面積は約120㎡。


「サンクチュアリ」モドキ  2014.7.25

まだかけ出しの「ミニミニサンクチュアリ」、植栽の木はまだまだ小さく小鳥が自由になるのには時間がかかりそうだ。エサ台に来るのは今のところ「スズメ」だけだ。一度「ヒヨドリ」が通過した、「カラス」はアンテナに止まり「スズメ」の動きを時々監視にくる。

シオカラトンボとイボガエル 

2014年07月23日 | 地域
我家に小さな池が二つある。一つはこの家が建った頃からあった。集落のほとんどの家にため池があった。これは火災への対策のためだった。新しく平成9年に坪庭に一坪半ほどの池を造った。今から17年前だ。500k前後の石組の池だ。G氏に委託したら重機を持って来た。2日がかりの作業になった。周りは石組とし、中の50k程の石を中島として配置したらコケと雑草が定着してきた。平成15年頃、雑草を除去しマイズルソウとフウチソウ等を植えたら坪池らしい姿になってきた。

この池の主は「イボガエル」、「金魚」、「アメンボ」、「イトトンボ」だ。そしていつの頃からか毎年「シオカラトンボ」が生まれる。今年も見事な「シオカラトンボ」が誕生した。羽化して何日目だろうか毎年誕生の「シオカラトンボ」今日出合う。池の淵のトクサで休んでいたのをうまく撮れた。


シオカラトンボ 2014.7.6 自宅坪庭

小さな池に金魚が棲みついた。池が大雪に覆われても生存。この金魚をみるとよほどこの場所が気に入ったのか棲みついて約10年近くになる。小さな池のためか金魚が増えると淘汰されるのか総数で10匹以上にはならない。トクサで休む「シオカラトンボ」は近づくとすぐに飛び立ち、モミジの新枝に止まった。金魚と一緒になった。「シオカラトンボ」と金魚は同じ池で会話していたのかもしれない。石組みの間に植えたユキノシタが花盛りだ。


シオカラトンボと金魚 2014.7.6 自宅坪庭

今年はいつも年と違うところがある。「イボガエル」がのあの賑やかな鳴き声が極端に少ない。いつもの年よりカエルの姿が少ないのはなぜなのだろう。やっと一匹カメラに収まった。


石ゴケのイボガエル1 坪庭 2014.7.13

過去記事 「イボガエルと地震」2008-07-04、「続イボガエルと地震」2008-07-07がある。全文掲載する。

イボガエルと地震 

「我が家の居間から3メートルばかり離れた所に小さな池がある。7㎡位の溜池だ。その池に金魚や鯉など放していたが、この冬の雪でほとんどいなくなってしまった。池の主が自分たちだけになったのか、今年のツチガエル、別の名イボガエルの鳴き声は凄かった。

3メートル側の窓際のテレビの音声が聞こえないくらい邪魔な鳴き声に辟易していた。 それが岩手・宮城内陸地震の2日ほど前からピタッと鳴き声がきこえなくなった。 テレビの音が聞こえないくらいの賑やかな鳴き声が消えて、2日ほどしたらあの地震。

今月6月14日の地震。震源地から直線距離で、約50kほどしか離れていない当地の震度は5強と発表され、さすが揺れはかなりのものであった。 家のきしむ不気味な音と揺れの中で、この小さな池もたちまち濁ってしまった。

鳴きやんでしまった「イボガエル」。 まだまだ余震が続くからなのだろうか。
やっと鳴き声が聞え出したのが、地震発生から10日もたってからだったが、鳴き声が地震前より弱い。ときたま思い出したように鳴き声聞こえるが、続く気配がない。そして7月。「イボガエル」の鳴かない日は決まって余震がある。 今日は7月4日 昼頃、余震があった。 今晩もあのにぎやかな鳴き声はないのだろうか。 

続イボガエルと地震 2008-07-07

「時たま鳴きだしたと思えばピタッととまる ツチガエル(イボガエル)。 体長3cm-5cmほどで、メスの方がオスより大きい。背中には大小のいぼ状突起がたくさん並び、各地で「イボガエル」という方言で呼ばれているらしい。このカエルには独特のいやな臭がある。 当地ではカエルのことを「ビッキ」と言う。いやな臭いから「クソビッキ」といわれている。

このビッキは面白い習性がある。オタマジャクシの一部が越冬するのだ。降雪の前、池のごみ上げなどをすると数匹ごみと一緒にあらわれる。そして、越冬した幼生(オタマジャクシ)は翌年大型のカエルになり、尾まで含めた全長が7~8cmに達するものもいる。小生宅の溜池は二か所あって、何年前からか世代を交代し「クソビッキ」の棲みかとなっている。水辺の石などで地上生活をし、おもに小さな昆虫類を捕食する。繁殖期は5月-9月で、オスが鳴いてメスを誘うのだそうだ。
「グエェー グエェー」「グエェー グエェー」
「グウゥ グウゥ」「グエェー」
と鳴き声が多才。

人が近づくとあわてて池に飛び込む。 あの松尾芭蕉の有名な

古池や かわずとびこむ 水の音

かわずとはこのツチガエルではないかと言われているのも頷ける。

一つの池どうしでの掛け合いの合唱なのか、せいぜい20メートル位しか離れていない溜池でうるさいくらいの競演は地震の後、ずっとすくなくなってしまった。6月14日の岩手・宮城内陸地震前までの鳴き声には戻っていないが、今晩の溜池の合唱は快調だ。そろそろ、余震も終わりなのだろうか。 昨日は体に感じる余震が2回ほどあったが今日は気付かなかった」。


石ゴケのイボガエル2 坪庭 2014.7.13

過去記事「イボガエルと地震」、「続イボガエルと地震」を再掲示した。しかし、今年は違う。「イボガエル」がほとんど鳴かない、鳴いても弱い声だ。イボガエルの数が少ないように思う。かつてテレビの音も聞こえないくらい賑やかな池の方はイボガエルから別のカエルになった。トノサマガエルだろうか。


トノサマガエル? 2014.7.17

小さなため池は我家の二つと道路を挟んで隣家のため池と約20m間隔に3ツがほぼ一直線に並んでいる。最盛期はこの3ツの池の「イボガエル」の合唱になった。夕方から朝まで休みなく賑やかさに辟易した。それが今年は静かなのだ。雨の少ないカラ梅雨気味のせいなのか。あるいは岩手・宮城内陸地震の時あったように何か異変の前兆なのかは今の処わからない。


薪割り 

2014年07月18日 | 地域
今年分の薪割り作業はこのほど終わった。薪そのものは2017年度使用予定で計3年分確保されたことになる。我家の居間の広さは18畳で、この広さの部屋を石油ストーブで暖房することになると石油の使用量は半端ではない。薪暖房は30数年近くなる。杉の間伐材、廃材、雑木、リンゴの木、かつては川連漆器の御椀の廃材等燃えるものは何でも使った。

かつてイギリス在住の方が、古新聞で薪つくりができることの記事があった。以下は要約。

再利用。  
雑誌をパラパラ、パラパラ...
めくっていたら、
うぉーーー、なんじゃこれは!!

この感動をみなさまにもお裾分け。
別にいらないか

BRIQUETTE MAKER
古新聞で暖炉用、BBQ用の薪が作れるというモノ。
、、、、、、。
作り方は至って簡単。
古新聞を水の入ったバケツに入れ、
ぐちょぐちょ状態にし、このMAKERに流し込む。

そして、力を加え水を切り、
乾かしてできあがり!!
牛乳パックでハガキ作るのと同じかな?
新聞をただ普通に燃やすと
あっという間に燃え尽きてしまうけど、
古新聞薪では、2時間くらいは持つんだそう。

2007年09月20日のブログだった。新聞紙薪に興味大だったのでメールを送ったら以下の返信があった。

カジカザワさんへ
リンク先のサイトで調べてみましたが、イギリス国内のみの発送だそうです。
イギリスにお住まいでしたら、こちらよりご購入できます。
もし、イギリス以外にお住まいですと、私の方でも分りかねます。
お役に立てずすみません。
Posted by:ゆき at 2007年11月30日(金) 06:49

おかしなもので求めることが難しいとなるとさらに調べたくなった。ネット検索で2007年12月台湾で製造、函館の業者が代理販売することを知り早速注文した。5000円プラス送料代金だったと記憶している。作り方はイギリス在住の方の記事通り4ページの新聞紙約16枚で一つの新聞薪ができた。燃やしてみたがとても2時間は持たない。一年でやめてしまった。水びたしになり、やや面倒なことと、火力はいまいちなのは欠陥だった。紙だから当然なことだ。燃料高騰のおり古新聞紙の活用を考えたイギリスの知恵に感心した。いずれ灯油はさらに高騰するかもしれない。再利用でいずれまた復活することも考えられる。

その後は上記の記載の通り、自家の杉林の間伐材が中心になった。杉材はミズナラ等に比べて火力のなさは当然としてもタダ同然の間伐材は貴重な燃料となった。さらに大先輩が製材所からの製材クズを紹介され一時期重宝した。又近年屋敷内の立ち木等が大きくなりすぎて伐採する方も結構いて、その木をいただくこともあって毎年春先から薪つくりが行事となった。

近年石油高騰で薪ストーブが結構増えた。特に山間部に行けば家の周りには薪がきれいに積まれている。ほとんど5月中で終わっているようだ。我家薪割り作業は田植が終わってからの作業となる。春先から薪になる木を集めてはいる。この冬の大雪だったが杉やミズナラの被害はすくなかった。今年は昨年被害の杉や雑木が作業の対象となった。


小坂 2014.4.17

この杉は内沢の対岸で昨年の大雪で途中から折れてしまったものだ。倒した後林道まで出すのに2本の杉の木は一日もかかった。何せ直径35㎝以上で樹齢80年は過ぎた大木、重機があるわけでなくチェーンブロックでの作業。推定重量600~800キロはある。約230㎝もある沢を越さなければならず雪の上だと何かと楽と思ったが結構重労働だった。


内沢林道側 2014.5.11

約1mに伐り、運びやすく縦割りした。


自宅 2014.6.19

さらに薪の長さに短くし自宅に運んだ。今年の作業分は八坂神社の石段側の杉1本、雪折れで中が空洞、内沢の対岸等の杉3本、黒森のカジカ沢対岸のミズナラ2本、ヤマザクラ1本、7月に入ってから数年前からカジカ沢の杉林に積んでいた杉、雑木を加えた。


自宅薪割り 2014.7.1

これはほとんど現場で薪材の長さに切断し軽トラで自宅に運んだ。5年前までの薪割りはマサカリで、杉林の中で小鳥の声を聴きながらの作業だったが、今では200Vの電動薪割り機での作業となる。8トン能力の電動薪割機だが能力に不満が残る。エンジン付の薪割機にはかなわないが、高価なこととエンジン音の煩いの嫌って電動薪割機とした。太い木も先に金矢を使いハンマーで縦割りしてから作業に入るとほとんど割れる。

今年の完成した薪の使用は3年後の2017年冬の予定。毎年3年分の薪の確保のこだわりは今年もクリヤした。積み上げた薪の量は計算上約20立方ほどになる。積む場所は土蔵の下屋とした。3年分だと約50立方程、置き場所もそれ相当の場所が必要になり、一部作業小屋の二階にも保管している。


「カオジロトンボ」と「賽の碩」栗駒山 

2014年07月13日 | 地域
栗駒山麓の「イワカガミ湿原」、「賽の碩(かわら)」を探索した。いきなり木道で見たことのないトンボに出合った。大きさはアカトンボよりやや大きい。好天のイワカガミ湿原の木道に入ってすぐ足元に止まったので、あわててシャッターを押した。かすかに思えるシャター音で飛び去ったがうまく収まっていた。

 カオジロトンボ 栗駒高原イワカガミ湿原 2014.7.3

胴の部分が鮮やかな赤、尻尾の部分の真ん中より下の部分に黄色の点がある。初めて出会うトンボだ。ネットで調べてみたがこのトンボと同じなのはなかなか見当たらない。やっとのことで「カオジロトンボ」にたどりついた。「カオジロトンボ」(顔白蜻蛉、学名:Leucorrhinia dubia (Vander Linden ,1825) )は、トンボ科カオジロトンボ属のトンボの1種。英名と和名は本種の特徴である顔面が白色であることに由来するとある。産地は局地的で、数が少なく本州では東北地方と上信越の山岳地帯1000~1500m以上の高層湿原のみに生息している。青森では八甲田山系だけと云う。ともかく一瞬のシャッターチャンスで巡り合えた貴重な一枚となった。いきなり飛んできて木道に止まり、すぐ飛び立つ一瞬のことでトンボの「顔白」は確認できなかった。


イワカガミ湿原 2014.7.3

志賀高原後の栗駒「イワカガミ湿原」、同時期の湿原の木道を歩く。この日は天気も良く遠くに雄大な栗駒山が見える。湿原では「ワタスゲ」が終わりに近づいていた。目標とした「イワカガミ」の最盛期は過ぎ所々に数株あるだけ、高価なカメラに望遠レンズの二人がわずかに残った「イワカガミ」をしきりに狙っていた。


名残ガ原~賽の碩 2014.7.3

その後「名残ガ原」へ行く。木道を過ぎて本格的登山口と賽の碩への分岐点で休憩していたら、それまで見えていた栗駒山頂が足早の濃霧に隠れてしまった。そこに山形市からの3人連れが下山してきた。今日3回目でやっと晴天の頂上だったという。しばし団らんの後「賽の碩」に向かうと霧が立ちこめ、木道の先が見えない。濃霧の向こうに硫黄山があり、かつて硫黄の採掘がおこなわれた場所だ。泥湯の先の「川原毛地獄」の小型版にも想える。「川原毛地獄」は 古来より恐山・立山と共に日本三大霊地として並び称された女人禁制の修験の地であった。1600年代から佐竹藩の硫黄の採掘がおこなわれ、昭和41年まで続いた。

硫黄から製造される硫酸は化学工業上、最も重要な酸と云う。硫黄は黒色火薬の原料で、合成繊維、医薬品、農薬など重要な原料。日本では火山が多く、火口付近に露出する硫黄は露天掘りで採掘が容易であった。古くは鉄砲伝来により火薬の材料として重要なものだった。江戸時代から始まったという「付け木」はマッチが一般化される昭和20年代まで使われてきた。
マッチが貴重な時代、少量の硫黄は各家にあったものと思う。熱を加えるとドロドロとなり、これに当地方では麻糸を採った殻、「オガラ」に付けたものを「付け木」といって使った。祖母が囲炉裏で「付け木」を作るのを子供の頃見ていた。

朝鮮戦争時は「黄色いダイヤ」と呼ばれるほど硫黄価格が高騰、昭和30年代に入り資源の枯渇と石油精製の過程で発生する硫黄の生産が急増し、価格の下落で昭和40年代には国内の硫黄鉱山はすべて閉山になった。

「賽の碩」のこの場所を「東成瀬村誌」に「明治時代相当長い間三井家で剣岳鉱山として、山の直下で硫黄を採掘し、一時は三井家のドル箱鉱山であった。従業員千人をこえ、須川温泉→瑞山間に鉄索を敷設し、専用電話が通じる精錬所もあった」とある。鉄索は吉野鉱山にもあった。吉野鉱山から十文字駅まで敷設。親父の出身が上吉野だったので子供の頃遊び行くときは必ず鉄索の下を通った。鉄索特有なのか時には鈍い音がするので不思議に想った時代が懐かしい。吉野鉱山は秋田県南部を代表する黒鉱鉱山とも云われ、主に黄銅鉱、黄鉄鉱、重晶石などを産出。昭和32年(1957)に閉山になり鉄索も撤去された。

「賽の碩」の硫黄の採掘跡は荒涼としている。「賽の碩」の語源は「死んだ子供が行く所といわれる冥途(めいど)の三途(さんず)川の河原。ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが、絶えず鬼にくずされる。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという」。荒涼としている姿を三途の河原に見立てて「賽の碩」と呼んだ。ここにも数か所、小石を積んだのが見られる。

木道の先は濃霧で見えない。現代の世相の反映にも思える。この時期志賀高原、栗駒山ろくの散策は日常の喧騒を一時逃亡した感にも見えるが「解釈改憲」の愚への怒りは大きい。霧に覆われたこの木道の先同様、「解釈改憲」の先に何が飛び出してくるのか。


イワカガミ 賽の碩 2014.7.3

賽の碩の木道の濃霧を通りこしたら、イワカガミ湿原でほぼ終わった「イワカガミ」の見事な姿があった。賽の碩の「イワカガミ」はイワカガミ湿原のように群生は見られないが、少し硫化水素の臭い離れてはいるが過酷な条件の中で繁殖してきたのか、小さな株だがなにかしら毅然として見える。この時期にしか出合えない「イワカガミ」、他にも「オノエラン」も少し小ぶりながら数か所見られた。


地獄釜 旧噴火口

いつもここに来ると地獄釜 旧噴火口の前に立って眺めてしまう。かつて硫黄の採掘での建物があったのだろう。今も煉瓦が散乱している。姿の良いウラジロヨウラクが出番をまっていた。


ウラジロヨウラク 旧噴火口前 2014.7.3

世相とクロスしながらイワカガミ湿原~須川温泉~名残ガ原~賽の碩~地獄釜・旧噴火口のコースを終える。

解釈改憲 

2014年07月10日 | 地域
解釈改憲の「集団的自衛権」の行く先はどうか。7月1日「朝日新聞」は「むのたけじ」氏の次のことばを掲載した。

「集団的自衛権の実態だって「アメリカと一緒に戦争をします」でしょ。戦争を放棄した日本が許されるはずはないんです。行使の要件をいろいろ議論しているが、戦争を知らない世代の言葉遊びです。
、、、、、、、。

安倍政権は逆のことばかりしている。戦争状態になっても日本は攻撃の主たる目標にされないだろうと考えているんでしょうかね。「当事者じゃなくてアメリカの下働きです」なんて言い訳して。でもそんなことは許されるはずがない。戦争に巻き込まれるんです。

若い人たちに言っておきたい。戦争が始まったら自由は一切なくなる。携帯電話なんか使っていたらすぐ捕まって投獄される。敵に情報が漏れるもの。最後は安倍政権の問題じゃない。主権者である我々が、どのようにこの時代を収束させるの~か。黙っていて、誰かに何かをしてもらおうというのが一番悪いんです」。(聞き手・木瀬公二)引用

7月9日朝日新聞は、7月1日内閣が解釈改憲を閣議決定した翌日2日付きの新聞各紙の社説で賛否状況を報道した。在京6紙では朝日、毎日、東京は批判。地方、ブロックでは反対が40紙、賛成が北国新聞、富山新聞、福島民友の3紙だった。反対の中から4紙の主張を要約している。これによれば秋田魁新報は「戦後70年近くかけて一歩一歩進めてきた平和国家の歩みをわずか一ケ月半、計13時間の与党協議で『戦争ができる国』へと強引に方向転換させた」。信濃毎日新聞は「憲法は権力を縛るものなのに政権が想うまま解釈を変えられるのでは、意味ががなくなる。今度の閣議決定はあしき前例を作った」。沖縄タイムズは「憲法クーデター」と批判した。


朝日新聞 204.7.9

世相の濃霧の行く先に見える時代にある種の予想がつく。前の政権は多く政治不信をつくりだした。この政権は前の政権以上とんでもない方向に向かっている。憲法が危ない。自衛隊関連法案の改正そのものが、憲法9条違反の法律改正であるからだ。憲法第9条の改正の呪いでこの政権も崩壊へ向かわせなければならない。7月6日の琉球新報では高校生から「戦争に行かなければならないのか」との不安の声が出ていることの報道があった。(http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-228066-storytopic-1.html)解釈改憲の違法性を憲法学者ばかりではなく、多くの庶民が声を大にして糾弾しなければならい。

内閣支持率が低下傾向が報道されると、集団的自衛権行使だけを決め、その内容に関しては一括して法案整備をするために来春以降の国会論議に持ち越しとして国外逃亡。与党議員、野党、役人とのわずらわしい面会で忙殺される日常に比べれば、外遊はは精神的に楽でリラックスできる。さらにODA予算をふくめて援助申し入れる日本の首相訪問を歓迎するのは当たり前のことだ。安倍首相の外遊頻度は歴代1位と云われる所以だ。

ニュージーランド、オーストラリアの政府に集団的自衛権の行使を閣議で決めたと自賛。国会で説明するわけでもなく、滞在先との首脳会談で自画自賛に明け暮れるのが定番。国民への説明責任も来春まで延期というからあきれた政権だ。


蓮池周辺を歩く 志賀高原 

2014年07月05日 | 地域
志賀高原に行ってきた。行き当たりばったりの旅となった。一百姓の身で旅行の通でもない。JRの「おとなの休日倶楽部」の会員歴5年だが、旅の機会は少なかった。今回年3回実施されるJA東日本(北陸含む)4日間有効のキップを使うことを思いついた。

6月26日湯沢発8:36で大曲着、9:38発「こまち14号」に飛び乗り大宮着12:38、大宮発12:50「あさま523号」で14:02に長野駅に着いた。長野駅で今晩の宿泊を湯田中温泉「ホテルますや」に決めた。やっと「信州そば」で昼食、バスで善光寺へ。のち長野電鉄で湯田中へ、温泉で一泊。ホテルで特に「仲居さん」のもてなし対応についつい夕食時間が長引いた。次の日の早朝渋温泉街散歩。長電バス8:04湯田中発の硯川・白根火山行きに乗車、8:45蓮池バス停で降りた。土地勘のないものにとってこの地はややこしい。高速道の入り口みたいな道路の交差、ひっきりなしに車が通る。

やっとのことで約2時間の蓮池周辺散策を開始、蓮池には志賀高原のシンボル志賀山が湖面に映り「ヒツジグサ」と「コウホネ」が向かい入れてくれた。「コウホネ」はスイレン科の植物で根茎が骨のように見えことから、「コウホネ」(河骨、川骨)の名の由来となっている。「コウホネ」は秋田の千秋公園でも見られるというが海抜約1500mの蓮池の「コウホネ」は力強く見える。5年前、月山で「オゼコウホネ」に遭遇した。湯沢では国道398号線沿いの田代沼に見られる。普通の「コウホネ」と「オゼコウホネ」との違いは、「コウホネ」は葉の茎が水上に突き出るが、「オゼコウホネ」は葉が水面浮かぶ。


コウホネ 蓮池 2014.06.27

少し進むと遠近メガネの先は不思議な光景だった、思わず新しい発見かと錯覚。シャターの後振り返ってみたら頭上には「サラサドウダン」の大きな木があった。ドウダンの花が落ちたところが憎らしい。


珍花? 蓮池 2014.06.27

「ベニバナイチヤクソウ」は蓮池を離れ頻繁に車が行きかう道路、ガードレールの下にあった。白い「イチヤクソウ」は数回出合っているが、「ベニバナイチヤクソウ」は先日岩手山焼け走り溶岩流から道路に出た所で一輪あった。ここでは数株固まっている。「ベニバナイチヤクソウ」は陽当たりの良いところでは紅色が濃くなると云われているが、陽あたりが弱いところでは花色がとても薄くなるらしい。背の高い樹木に囲まれていて、ガードレール下の陽当たりが良いとは言えないの場所だったから花の色は薄めだった。「イチヤクソウ」は古くから薬草として知られ、葉の汁は血止めに利きその他にも血管拡張、リウマチ、打撲、傷、虫さされほか多くの薬効が云われている。


ベニバナイチヤクソウ   2014.06.27

自動車道路脇には「アザミ」が結構あった。蓮池近くの「アザミ」の開花は少しまだ早かった。「シガコウゲンアザミ」等呼ばれることもあるらしい。比較的「アザミ」にはその土地の名がつくものがある。固有種が多いのだろうか。ここの「アザミ」は少し大型にも見える。開花直前もそれなりの物語を伝えているようだ。


アザミ  2014.06.27

しばらく歩くと「下の小池」の看板があった。海抜1610m地点。少し奥に「京大ヒュッテ」の立派な建物は誰も人の気配がなかった。側のスキー場だろうか。ワラビ採り夢中の人たちがいた。それにしてもワラビは一面に生えていた。まさか採って遠く志賀高原から、秋田に持ち帰るわけにいかずその場を離れた。



下の小池看板 2014.06.27

木道も整備され「ワタスゲ」の花が最盛期。ワタは真っ白でスゲは胴の部分ともいえる。間もなく少しの風でも遠くへ飛んで繁殖を広げるのだろう。スゲはスゲ属の植物で、どれもほぼ共通の形態的特徴を備えている。大部分が多年生の草本で、多くは花時をのぞいて茎は短くて立ち上がらず、たいていは細長い根出葉を多数つける。地下茎を横に這わせるものは、広がったまばらな集団になり、そうでないものは、まとまった株立ちになるものが多い。(一部引用)


下の小池 2014.06.27

小さな池だったがすがしい気分だった。まだ午前の早い時間帯だったので京都ナンバーの車できた3人と木道で言葉を交わしただけだった。初めての志賀高原。次の宿泊地をめざして蓮池午前10時40発長野電鉄高速バスで長野駅に向かった。1時間10分のバス。高速バスからの風景、あいにくの天気で長野の山々はかすんで見えない。乗客はタッタの3人、一人が途中で下車貸切状態で昼近く長野駅に着いた。あわててJR篠ノ井線「名古屋行しなの14号」で、次の目的地松本に向かった。