新河鹿沢通信   

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麓の空に百歳祝う花火

2013年03月31日 | 集落


3月23日ブログで「百歳を花火で祝う」を紹介した。3月29日、当日はよく晴れて春の兆しが感じれるポカポカの天気となった。午前11:30湯沢市長が高橋さんの自宅を訪れて、市からのお祝い金とお祝い状を手渡した。麓集落では3月10日の総会で決定した、「お祝いの花火」5連発をこの時間に合わせて打ち上げ百歳を祝った。地元の新聞、秋田魁新報は3月30日上記の記事を掲載し「高橋良一」氏の百歳を祝ってくれた。

まだ雪の多い麓集落。打ち上げ花火は集落を見守る鍋釣山、国見嶽に響きわたり、澄んだ山並みと雪消えを待つ集落全体にこだました。集落以外の多くの市民は、この花火が百歳を祝うものだと知り「おめでとう」と祝った。56戸の麓集落で高橋さんを含めて数え年で90歳以上は男性5人、女性3人の計8名健在だ。麓集落がまれにみる長寿者の多いのは一体どこから来るのだろう。

1000年以上の歴史のある集落と前回のブログで紹介した。歴史の重みと未来へのかけ橋になるために第二、第三の百歳が生まれることを期待したいものだ。


まんさくの花と鍋釣山

2013年03月26日 | 集落

鍋釣山(海抜444m)頂上から集落の写真だ。約12㎞西南西の方角には海抜777mの東鳥海山がある。444と777の揃う山があるところは全国的に珍しのではないか。例の世界では777は確変で444は超確変ありの数字とも言われている。
鍋釣山は地元では、地名から通称小坂山と云う。鍋釣の名の通り半円形した形の山で、正面は30度超すような急峻な山だ。このほどスノーシュー第三回目として、神應寺後ろ「相の沢」を通り東福寺山稜線沿いに約1時間半ほどかかって登頂した。

集落の海抜は150㍍前後だから、この写真とは標高差約300mとなる。
中央の道路境にして左側が「麓集落」、右が「川連集落」、写真にはないが川連のさらに右側が「上野集落」三つの集落は行政区に分かれているが、合同で川連大集落を形成している。

集落の生い立ちはとても古い。天喜5年(1057)上野集落に八幡神社、川連集落に康平年中(1058~1064)神應寺が建立され、その後麓集落へ長治元年(1104)勧請、慶長4年(1599)八坂神社、天正元年(1573)能恵姫伝説の龍泉寺が川連集落、麓集落妙音寺の先達は伊勢の世儀寺。文化、文政(1818~1829)年間のころは「権大僧都、密雲権月法印」が修験者。妙音寺最後の和尚は「黒滝賢瑞」といい、跡地の近くに「黒滝氏」歴代の墓地がある。

夏の鍋釣山(2012.8.24)と熊出没ののぼり

現在は145戸ほどの集落にかつて二つの神社、三つのお寺があった。龍泉寺は明治22年火災により約1㎞離れた野村集落へ移り、妙音寺は明治の廃仏棄釈(明治5年)で無くなった。
今は二つの神社と一つのお寺がある。
鍋釣山南南西の方角400mは川連城(別名黒滝城)があったところだ。麓の地名は「角川日本地名大辞典」よればお城の武家屋敷群といわれており集落内の道路、屋敷跡にその足跡がうかがわれる。約千年ほどになる神社、お寺から推察してもすでに集落が形成され、人々の暮らしがあった。阿弖流為の時代も想像される。

天正18年(1590)、秀吉の検地に反発して起きた川連一揆。川連城を中心に増田城、山田城(湯沢市山田の説もあるが、上野集落八幡神社東に八幡館、山田城があったとの説もある)川連一揆は川連地区を中心に2万人とも2万5千人が上杉(景勝)、大谷(吉継)の武力で約一ケ月で鎮圧された。一揆方の死者は300人と云われている(常陸志筑本堂家譜)が、他の説には一揆衆の首1,580を討ち取り、上杉、大谷勢にも討死200余、負傷500余の被害が生じる激しい戦闘となったとも云われている。一揆の主体は年貢に苦しむ百姓、土豪層だったことに変わりはない。

その後蔵入地代官として乗り込んだ、最上義光勢と小野寺一族は激しく対抗することになり、長引いた紛争などを契機として、慶長6年(1601)小野寺一族は全所領を没収され約400年この地に君臨してきた小野寺一族は滅び、佐竹氏の移封、支配の時代となった。この集落はこの戦いで神應寺を含めてことごとく焼き払われたと伝えられている。これは川連城の最後の出来事で、この後お城の復活は無かった。(川連城については2010.1.05ブログ 化け比べ背景(2)舘と平城にも記述)

今もこの地に住む人々の先祖が、約400年前の一揆と川連城の落城で犠牲になったことになる。しかしこの出来事の詳しい記録は地中深く埋め込まれていて知る人は今いない。

権力の強圧や不正に立ち上がる精神は、今も脈々として受け継がれている風土かもしれない。


約十年ぶりの鍋釣山の頂上、はるか西にはすそ野から見える鳥海山、西北には平鹿平野、稲川野の眺めは一望できる。田んぼや家の周りにはまだ雪は1m程、頂上は0.8m近い雪があったが、西斜面は地肌が見えてきて、春告げ花の「まんさく」が咲いていた。「まんさく」の花の後ろは松くい虫被害の枯れた赤松。花と枯れ木、意味深なコントラストだと一瞬おもった。

百歳を花火で祝う

2013年03月23日 | 集落
厚生労働省は平政24年9月14日、平政24年度百歳になられる高齢者(表彰対象者)は25,823人だと発表した。老人福祉法が制定された昭和38年に百歳以上の高齢者は、全国で153人だったのが昭和56年には1000人、平政10年には10,000人を超え、平政21年に40,000人、平成24年は51,376人だと言う。そして全体の87.3%は女性が占めていると言われています。
秋田県では487人が百歳以上で今回の対象者は227人。そのうち男性26人、女性が201人(平政24年4月1日から平政25年3月31日まで百歳になる人)

今回は麓集落の歴史始まって以来、初めて百歳になる人が出た。平政24年度対象者25,823人の中で、男性が全国で3,729人。秋田県で26人の内の1人が麓集落出身ということなる。先の集落の総会で、全員一致で誕生日にお祝いの花火で祝福することを決めた。
先日、集落内に総代の名前で回覧が各戸に回った。以下がその回覧 

「お知らせ この冬の大雪もだんだんと下がってきました、暑さ寒さも彼岸までとは昔からの例えの通り、案外早く雪消えになるかも、と思いたいし消えて欲しい。
さて、三月十日麓部落総会が行われました。おかげさまで何かと無事に閉会することができました。ありがとうございます。
総会のなかで高橋良一氏百歳の話が出て麓でお祝いの花火を上げてはと言うことでした。会場では「それなばいいことだ」と言う話でした。かつて総代として又の役職として永年貢献していただきました。そこで高橋良一氏の誕生日、三月二十九日に花火を上げて皆んなでお祝いをしたいと思います。
麓で百歳の誕生は初めてではないかと言う話をされました。麓の皆さんも、まめで百歳をむかえ花火を上げてもらえるよう長生きしてもらいたいと思います。」

高橋良一氏 大正2年3月29日生まれ。昭和41年から46年まで麓総代、46年から川連大総代。昭和51年8月から昭和63年8月まで稲川土地改良区理事就任。昭和54年麓土地改良区納付組合設立、初代組合長に就任し麓の重要な働きをされてきた。

今回これらの働きに感謝し、集落全員で百歳の誕生を祝うことにした意義は大きい。

黙とう一人の震災の日

2013年03月14日 | 足跡
3月11日午後14:46JR京葉線の電車の中にいた。東京発14:33発快速蘇我行。一週間ほど前から大荒れの秋田の天候、3月10日過ぎには回復するだろうと決めて房総、館山行を決めていた。友人のS氏がA新聞館山支局を最後に退職するというのである。

S氏とのつき合いの始まりは、減反が始まった昭和46ごろからだったから40数年となる。秋田を離れ、札幌や本社、パリ支局、日曜版編集長時代も良くハガキや手紙が届いた。S氏の退職が館山市だったのが何かの因縁で館山市訪問は2回目だった。

氏と約束したのは両方の日程に合わせて決めたのが3月11日だった。約束日があの「東日本大震災の日」だったのを決めてから気づいた。気づいた時からあの14:46のときどこにいるのだろうと気になっていた。近年あまり上京することのない自分にとって、あの喧騒の東京駅は大の苦手。
まして京葉線か総武線への乗り換えなどどちらへ行くのかも想像しても浮かんでこない。
標識通りでいいのだといっても慣れない駅構内ではどうしようもない。などと思っていた。

3月11日、京葉線午後14:33発蘇我行にやっとのことで滑り込んだのは発車寸前だった。
幸い座ることができたが、例の14:46はどこを通過するのか気になっていた。
14:33定刻に発車した電車が14:46に舞浜着であることは座ってから気づいた。
八丁掘、越中島、潮見、新木場、葛西臨海公園で車両内の乗客数は約60人ほどだった。座席前の二人の会社員はしきりに話し込んでいる。女子高生は携帯。マスクの主婦は居眠りか。
全体を見回してもほとんど無表情。

いよいよ舞浜着14:46私は姿勢を正し、合掌黙とうした。黙とう中あのものすごい揺れと激しい津波、福島第一原発の爆発などを連想して目頭が熱くなった。あれから二年経過しても315,000人もの仮設住まい、原発事故で指定された区域外に避難した人は113,000人と言われている。

黙祷の時間が過ぎあたりを見回して驚いた。誰一人黙とうのそぶりがなかった。
いつ震災前の生活に戻れるのか想像つかない。戻れない人は何万人いるのだろうか。誰もわからない。神戸大震災と比較にならない位大きな被害。たった二年目で人々の記憶から震災被害の意識が消えつつあるのだろうか。

振り返れば車内放送もなかった。昨年の一周年には各JRは車内放送で追悼したと聞くが二年目となればこうも変わってしまうのか。

「皆さん、福島原発からは計り知れない放射能の垂れ流しが続いていますよ」叫びそうになった。

2013年3月11日14:46電車は京葉線舞浜駅通過。
多くの人々からありふれた「絆」などとの言葉の消えてしまったのではないか。それとも先行へ展望を見いだせそうもない社会情勢への沈黙だろうか。

2013.3.11.14:33東京駅発京葉線蘇我行き 沈黙の車両風景



スノーシューと動物の足跡

2013年03月06日 | 集落

3月に入って秋田は猛吹雪、新幹線こまちの脱線などと天気が荒れた。今日は全国的に好天という。また里山探索に出かける。前回の動物の足跡をもう少し観察してみたいと考えたからだ。驚いた。あのカジカ沢の土留工脇の足跡、これは何をしたあとだろう。何匹の共演だろう。「キツネ」だろうか、「ヤマウサギ」らしいのもある。しかし、時間がずれたのか。おびただしい。尿らしいあともあるが、「キツネ」が「ヤマウサギ」を襲ったあとではなさそうだ。
いくらか傾斜になっていたから滑って遊んだかなどと冗談を言ってみたがそんなはずはない。
集団でとなれば「タヌキ」や「ムジナ」かもしれない。

近づきてみるとおびただしい。一方通行でもないだろうが渋滞したのか。

おなじ足あとを何匹も歩いたと言えばそれまでだが、せいぜい1m半ほどの幅で二本の足跡、今まで見たことなかったことで何か儲けた気分になった。前回の写真でのスキシップの土留工の上に登ってみた。あれから一ケ月、天気は大荒れで両端が成長し完全にくっついていた。この角度からのふくよかな写真も又おしろい。上部が結ばれたので動物たちは安心しながら渡った跡だ。前回は足跡はなかった。跳ねれば簡単かもしれなかったが、動物達は普通はそんな渡り方はしないのだろう。

しばらく杉林を歩くと前方に雪の塊をかぶった杉にぶつかった。

自然は人の手では絶対造れないだろうと思う形をつくりあげる。高さは1.2m幅が1.5mはありそうだ。約2㎥重量は1tは超えそうだ。林の中にはあまり足跡は見られない。林を過ぎると大きな足跡。大人の足跡みたいだ。2.3日前のものだろう。はじめは人が歩いたのかと思ったがどうやら違う。「カモシカ」だろうか。ともかくいままでのものと違って大きい。

この足跡は雪の上から出ている杉にほとんど立ち止まった跡がある。食べ物探してだろうが杉の葉はどうにもならない。八坂神社の後背地の河鹿沢、天王、坪漆、切り崖をエリヤに「カモシカ」が数年前から棲みついていた。今も健在らしい。