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400年前の大舘村の名請人

2018年04月27日 | 村の歴史
大館村は現在の湯沢市川連町大舘、合併前は稲川町大舘。大館村は江戸期から明治22年の村名。大舘は大字で麓と大館で構成されている。そして名請け人とは江戸時代、検地により田畑、屋敷の所持者として認定され、検地帳に記載された百姓。耕作する権利と義務があり年貢、諸役を負担した。

大館村の東に小野寺一族の川連城があり、天正18年(1590)豊臣の太閤検地に仙北地方(現在の雄平仙)と由利地方に検地反対の一揆が勃発した。この検地騒動は「川連一揆」ともいわれる。豊臣秀吉の太閤検地を越後の大名上杉景勝を命じた。秀吉家臣大谷吉継をが庄内、最上、由利、仙北の検地を行った。この検地の過酷な所業に諸給人、百姓が蜂起した。一揆勢力は各地に放火、追い詰められた一揆勢は増田、山田、川連に2万4000余名が籠城し抵抗したが圧倒的な大谷勢に鎮圧された。結果一揆衆1580名が斬殺、大谷勢討死200余、負傷500余名の激しい戦闘で終結した。そして川連城主は責任者として人質に捕らわれ一揆終結の6年後、一揆の咎めとして豊臣秀吉の命を受けた最上義光によって川連城、稲庭城、三梨城は慶長2年(1597)落城した。

太閤検地は織田信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉は従来の検地を組織・統一化して全国的に拡大させた。太閤検地では6尺3寸四方を1歩(坪)とし、300歩を1段とする統一的丈量単位で一筆ごとに実測し,土地を収穫量で表示する石高制を完成した。秀吉以後,江戸幕府は1歩を6尺1寸四方に改めた。農民には不利な検地となった。慶長検地は太閤検地への一揆、川連城の落城等で、多くの犠牲や耕作地の荒廃からの立ち上がり途上下のことになった。

約400年前の慶長19年(1614)大舘村検地帳は湯沢市指定古文書。「慶長19年大館村検地帳は、秋田藩が行った計3回の一斉検地のうち、慶長19年(1614)に実施した中竿の大舘村の検地帳である。舘又左衛門ほかによる検地帳の控えで、稲川地域に現存する最も古い検地帳である。

検地帳は、近世、年貢の徴収と農民支配を目的に、領主が行った土地の測量調査(検地)の結果(田畑の面積・等級・石高・名請人)を記したもので、年貢賦課の基礎となる台帳である。秋田藩では慶長8年(1603)佐竹が入部当初に行った先竿、慶長19年(1614)頃に行った中竿、正保4年(1647)から慶安元年(1648)にかけて実施された後竿と計3回の一斉検地を行っている」。(湯沢市指定古文書 個人所有)引用

大館村検地帳 慶長19年 大舘村 出羽国仙北雄勝郡川連の内 10月6日 舘又右衛門

大館村検地帳68戸の名請人の一覧がある(稲川町史資料集編 第二集には大館村検地帳百姓名子一覧とある)。当時記録には本百姓、小百姓、名子、下人等があり、本百姓は検地帳に登録され年貢と夫役を負担する階層。名子、下人と呼ばれるのは零細な耕地を持ち検地帳に登録され、年貢を負担しながら夫役を免除される下層農民と呼ばれた。その他に土地を持たない水呑百姓がいた。検地帳には田畑・屋敷地について、一筆ごとに字名(所在地の地名)・地目(種類)・品位(上・中・下・下々からなる品質)・面積・分米(石高)・名請人などの情報が記載される。名請人として記載された者は土地の保有者として認められる一方で、その土地に緊縛されることになる。

検地帳の名請人以外に土地を持たない戸数は宗門人別改帳は見つかっていないので不明。江戸幕府が宗教統制の一環として檀家制度(寺請制度)、キリシタンではないことの証明として宗門人別改帳があった。現在の戸籍原簿、租税台帳で婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし移転先の改帳に記載された。

慶長19年(1614)年大館村検地帳に見られる名請人は以下の68人。
半内、四朗右衛門、左馬介、与九郎、形右衛門、市兵衛、権右衛門、三右衛門、重右衛門、弐助、掃部、甚右衛門、千介、介右衛門、惣右衛門、市右衛門、一右衛門、喜兵衛、四郎三郎右衛門、隼人、芦右衛門、甚介、宮内、住三、内近、孫六、囚獄、安平、佐助、和泉、三河、但馬、五郎右衛門、嘉右衛門、才次郎、民部、与助、孫七郎、左馬五郎、正介、孫五郎、助八、越中、兵部、九郎太郎、理右衛門、甚内、対馬、大次郎、惣介、弐右衛門、旭本、小石本、亥介、右馬蔵、加りん、次郎三郎、左馬助、左馬三郎、孫次郎、鍛冶、正三郎、寺、丹波、治郎兵衛、寺房、与惣右衛門。

目立つのは17人の〇右衛門が特徴的。右衛門、左衛門は百官名の一つ。律令制下では〇左衛門、〇右衛門の起源は兵役に就いた者が兵役終了後、その証として配属先の〇左衛門、〇右衛門府の名を名乗ったとされる。

武士の世の中になって、武士が自分の権威付けのために名目上このような名を欲しがった。また、一般庶民でも朝廷に金を払って〇左衛門、〇右衛門の名を買うことができた。 古来より日本では「左」の方が「右」より権威が上で朝廷から買う時差があったとも言われている。江戸時代になると頭に親族・兄弟関係を表す文字を比較的自由につけたとされる。

和泉(大阪)、三河(愛知)、但馬(兵庫)、越中(富山)、対馬(長崎)、丹波(京都)等一般的には出身国と思われる。かっこ内は現在の府県。

朝廷職の名等や職業を連想される名。掃部、宮内、民部、囚獄、兵部、かりん、鍛冶等の名請人の名前がある。掃部、民部、兵部は律令制下の八省の一つ。「掃部寮は、律令制において宮内庁に属する令外官。掃部寮は宮中行事に際して設営を行い、また殿中の清掃を行う」とある。掃部、民部、兵部その職を司ってきた末裔だろうか。

囚獄司は律令制において刑部省に属する機関に関係した名と思われる。大館村の囚獄は上、中、下の田んぼ5筆2反2畝8歩を耕作している。囚獄はしゅうごく、そのままの名の通りだと囚人を入れておく牢獄となる。単なる名請人の名とは思えない。

検地帳の集計で大館村で多くの田畑を持っているのは四郎右衛門の15筆1町4反1畝18歩。次が形右衛門の17筆9反8畝9歩になっている。他領からの転入と連想される和泉は7筆7反6畝23歩、対馬9筆7反1畝25歩、但馬7筆3反9畝18歩、三河1筆1反9畝18歩、丹波2筆28歩等。

大舘村集計田(上、中、下、下〃)24町5反2畝1歩、畠(上、中、下、下〃)4町5反5歩、屋敷1町3反2畝14歩、田畑屋敷合30町3反4畝20歩。ト米348石9斗8升5合。本田分239石3斗3升6合。その他に苗代5反1畝3歩、寺等屋敷1反7畝28歩計6反9畝1歩。ト米9石3升8合と記されている。

戦国時代が終わったばかりの江戸時代初期。各地において土地を捨て他国領に入る農民たちを「走り者」といい牢人と呼んだ。牢人には封禄を失った武士や百姓もいた。走りはより良い地を選んだものと推察される。江戸初期は各地に戦国時代の影響があり、荒れ地となった農地が結構あった。慶長19年検地帳の名請人にある他国領とみられる移入者は、太閤検地反対一揆、小野寺一族の滅亡で荒れた大館村の情報を知り駆けつけたとの推測もできる。

豊臣秀吉の身分統制令以来、幕府は士農工商の制度を設けて社会秩序を固定し封建社会を維持しようとしたが機能しなかったとされる。武士が百姓に、百姓が武士になったりした。大名の経済力基礎は土地から得られる収入が主力。他領国からの流入者が荒地を耕地に変えることには願ってもないこと。百姓は検地によって名請地として検地帳に載り所有地として認められることを望んだ。当時武士以外はほとんど百姓と呼ばれ大きな家族で住んでいた。百姓の規模の比較的少ないものに商業や物を作る工業的な業を営んでいた。走り者(牢人)を受け入れやすい背景もある。特に50万石の水戸から20万石の秋田に左遷された佐竹氏にとって農地の拡大は急務なことで自領からの逃散、走りは制限しつつ他藩から「走り者」には優遇はしたともいえる。

明治に入って古地図に家の数131軒、借家16軒とある。大館村の内、大館は本郷で家数95軒、麓は支郷根岸と呼ばれ家数36軒とある。412石6斗6升3合とある。慶長19年(1614)68軒から明治元年(1868)までの253年間で家数は約倍の131軒になっている。ちなみに明治以降現在までの150年間では麓54軒、大館520軒で計574軒。大舘が急激に増えたのは漆器業や仏壇産業が盛んになったことも大きな主因と思われる。

オオミスミソウ(雪割草)

2018年04月19日 | 地域の山野草
先日和賀山塊にオオミスミソウ(大三角草)に会いに行ってきた。雪割草ともいわれる。オオミスミソウは、キンポウゲ科ミスミソウ属の常緑の多年草。オオミスミソウは、名前の通りミスミソウよりも葉や花が大きい上に花色も白色、淡紅色、濃紫色、淡紫色などの変異があるといわれている。



4月10日になっても林道はまだ積雪があり車から降り歩くこと約30分で目的地についた。南東斜面で陽あたりよさそうな地形。傾斜50度近いブナ、ミズナラの林は歩くことが少しきつかった。這うようにして小さな雑木を手繰り寄せながらの観察となった。春先の斜面が滑りやすく一歩一歩確かめながらの移動もことさら慎重にならざるをえなかった。白花、淡紅色の花、濃紫色のものはまだ見ることが出来なかった。花期の後半になるとみられるという。オオミスミソウの花びらが6枚、7枚、8枚、なかには八重咲きらしきものもあった。



自生地は新潟県を中心に富山県から秋田県とする日本海側にある。オオミスミソウは、雪割草の中でも最も変異の幅が広く、さまざまな色や形が楽しめ交配に熱中する愛好家が多く古くは江戸時代から愛好されてきたと言われている。名前の由来は、正月から春にかけて降り積もった雪を割るようにして茎を伸ばし、花を咲かせる様子にちなんで名付けられた。原産地は日本の他ヨーロッパ、北アメリカで中世ヨーロッパでは、葉の形が肝臓を連想させることから肝臓の病気の治療に用いられたと記録にある。

 一株から一重と八重花に見える

複雑な花



オオミスミソウと出会ったのは今から10数年前、国道101号線の道路脇にある山野草店だった。山野草にもともと興味がありドライブ中見つけると立ち寄っていた。その山野草店にはおびただしい数のオオミスミソウ(雪割草)。客は少なかったせいか主人は長々と講釈が始まった。価格は数百円から数千円、中には特別なものと云いながら万円単位のものまで案内された。教職を定年後オオミスミソウの魅力に取りつかれ念願の店を開業したという。

雪割草は名のごとく早春の山野草。花が終わり休眠期の夏休みに近い季節になると素人にその姿は連想できなかった。古くから変異の大きいオオミスミソウは数えきれないほどの種類の株が育てられ、愛好家の間で取引されている事を知らせられた。当時それほどの関心もなかった。

新潟県では「冬を堪え忍んで春に咲く雪割草は県民の心情に合致する」雪割草(園芸名)オオミスミソウ(キンポウゲ科ミスミソウ属)が県の草花に指定する方向で検討。さらに新潟県に2001年国際雪割草協会が設立されている。オームページに設立の背景として「我が国は北海道を除いて、学術的に貴重な雪割草が4種類分布する。分布は局所的で、しかも、 一般に群落を構成する個体数は少なく、最近の地球の温暖化や人的活動の結果、自生各地で絶滅が強く懸 念されている。、、、、、、、、。

豊かな自然を守るひとつの方法として、私たちは雪割草を大切にする気持ちが日本の自然を守ることにも繋がると考えた。雪割草の育種技術が年々向上し、、、、、それに伴い世界各地からの関心が高まり、園芸的な地位を確立してきた。何ごとにも国際化が叫ばれる昨今、我々は国際雪割草協会の設立を日本でスタートすることが大切と考えた」。とある。(一部抜粋引用)



今回和賀山塊を熟知している達人にオオミスミソウを案内していただいた。自然の状態で変異を繰り返していることがわかる。変異しやすい植物として特徴的なのかもしれない。自然に生え、一つ一つ微妙に違うオオミスミソウに接すると山野草店や園芸店で見かけるものより深い広がりが想像できる。可憐な姿は早春を代表する花にふさわしい。