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古道 夏街道を行く(再掲載)

2012年10月29日 | 村の歴史

200X年十月初旬、私は川連地区通称「なつぎゃど」(夏街道)から初めて大滝沢に入った。伝承に寄れば「なつぎゃど」の由来は、川連漆器(800年の伝統)木地業の祖で大滝沢(通称東福寺山)には木地師が居を構え、西部の山を越えた集落川連(通称根岸)への通い道ではなかったのかとの説がある。 

大滝沢に「三ツ小屋」の地名があり、その昔三軒の家があったと言われている。「なつぎゃど」ともう一つ「ミツヤツル」がある。オヤシキ口からヒノキタイを通り、通称「かみながね」に上がり大滝沢へと行く。 天仁元年(1108年)藤原清衡が平泉に中尊寺を建立した。京都から招いた木地屋、塗師が建立の後、小組織を成し東北各地の豪族に抱えられたと言う。

山北地方にも豪族が割拠し、藤原氏の地頭職、大河兼任はこの地方にいたらしいといわれている。大河氏は源頼朝が平泉藤原氏討伐の後、頼朝に一矢報いんと反乱を起こしたが圧倒的な頼朝の軍勢に敗れた。兵士のほとんどは四散し、その中に木地師や塗師がおり、隠れ里として大滝沢を選んだと推定されている。 「三ツ小屋」の内一軒は現在の東福寺G家と言われ、大滝沢から現在地に越えてきたとの定説がある。他の二軒は山を越え川連に居を移したといわれていた。

昭和三十七年この地を調査した久保の郷土史家「伊藤雅義」氏の記録には、川連に越えたと二軒の末裔の記述はない。 そのころ私の本家、N(当時稲川町教育長)氏から二軒とはN家上野のS家聞いていた。N家の祖先がいたとされるが現在「N家一族」にその記録は見当たらことから、真偽のほどはわからない。 大滝沢へ「なつぎゃど」を歩いていくのは今回初めてのこととなった。

その道は集落から東へ真っ直ぐ、途中まで軽トラで行き小さな沢を越え、急峻な杉林を上って行く。急峻なため、つい三、四十年前まで「薪やカヤ」などはこの坂道を引っ張ってきた「引き降ろし」道を行くことになる。ときには小柴をつかみながら小一時間かけて登りつめた頂上が集落と大滝沢の分岐点となる。

この沢は、隣の増田町との間に挟まれていて、民家からおよそ四キロ、町の中心部から直線にしてもせいぜい三キロ弱のところにありながら急峻な地形で、開発から取り残されてきたところだ。

この地域はその面積三百五十へクタール、海抜二百五十mから四百五十m前後の比較的低地に位置するブナの極相林で、わが国では、このような低地での極相林は、ブナ帯では極めて例がないといわれている。「なつぎゃど」から大滝沢は急激な峰を下るとすぐ着いた。

三ツ小屋伝説

「三ツ小屋」は東福寺山の綱取沢、との口碑があり「なつぎゃど」の場所は、川連での字名は大館字綱取と言い、東福寺山の綱取沢はその真東にあたる。ミツヤツルもその名前からして通い道だったかもしれない。

伊藤氏の記録に「湯沢郷土史資料」に茂木久栄編「東福寺山略図」に「舎人場」と言う地名があり昭和三十九年六、七月の調査で土中三十?から硯と木堀りの椀らしきものを発見したと言う。 舎人(とねり)と言う名はなんとおごそか名だ。

大辞泉によれば?古代、天皇、皇族の身辺で御用を勤めと者。?律令制で皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官人。貴族・下級官人の子弟などから選任したとある。 「舎人場」とはそれらの人達の住んだ場所なのだろうか。「舎人場」から約三百mの山を越えれば川連と下宿に通じ、里程も四?とある。「舎人場」と「三ツ小屋」との関連はどうなのだろうか。                    

伊藤氏の調査によればこの「舎人場」の場所を東福寺の大沢口から約六キロの所と言い「昼なお暗きブナの密林、ここまで来ると谷川の巾も狭くなる。ここから奥は、谷川が二本に分かれている所で少々広くなっていた。

舎人場は南東に向かって右手に、山路より急坂の高さ、四mくらいの崖の上で二アール以上の平面の丘である」と書いてあり、墓碑のようなものや生活雑器らしきものを発見し、住居跡に違いがないと記されている。前に大滝沢へは増田町狙半内の火石田から皆瀬村沖の沢へ通じる山路から山越すると大滝沢の奥地には比較的簡単に入れる。

入ってすぐに路があり、これを下ると下方に谷川が見える。私はこの沢が伊藤氏の言う、「舎人場」のある二本に分かれた沢ではないかと思ったが、後に確認してみたいと思っている。

この地は、「なつぎゃど」を通り沢にたどり着いた地点からもっと上流だと思われる。「三ツ小屋」や「舎人場」など何ヶ所に木地師が住み着き、山越えして川連の木地師(椀師)と交流したのか、また冬場は雪も多く夏は頻繁に通ったと考えれば最短な「なつぎゃど」は重要な街道であったことが想像できる。

だから、今でも地域に「なつぎゃど」の路は定着し、何人かは山菜やキノコを求めてこの路を通う。 200X年十月、沢に着いてしまえば路とてなく、歩くのはほとんど沢、中心となった。沢淵の岩場には白い可憐な花「大文字草」がひっそりと咲いていた。秋の日はことさら短く、散策は途中で断念し帰途についた。帰りの行程はあまりにも急峻な坂で頂上まで一時間以上もかかってしまった。    

舎人場

大滝沢の東側は増田町狙半内地区、そして西側は稲川町川連だ。川連の山沿いに松倉、次郎多郎、綱取、などいくつもの沢があり沢と沢の間の峰にはほとんど路形がある。 

この沢はせいぜい二、三百mほど。峰に立つと両側は斜度三、四十度もあろうか思われる急峻な地形が沢まで続く。ところどころにブナやミズナラ、トチなどが見られる。樹齢は二、三百年とも四百年とも言われている。

「舎人場」から東福寺までは約十?、険しい山を越えれば約四?弱で川連(根岸)だ。川連漆器、椀師は大滝沢からはじまって現在の大館に移ったとされている。そのため椀師にとって「なつぎゃど」は集落との往来に最短で重要な街道だったと思われる。

椀師が大滝沢から生活に便利な、根岸に定住するようになっても「椀」の材料となるブナやトチの木は大滝沢から求めたのだろうから、「なつぎゃど」は数百年も続いた街道と考えるのは暴論だろうか。 原木の一丁とは、平均して直径八寸で長さ三尺六寸をいい、五丁で椀が一挽できた。一挽とは百人前、だから原木の一丁で二十人前の椀ができたことになる。

当時、大滝沢の山奥から原木を背負ってくることなどはそれほど難しいことではなかったはずだ。何丁分背負ったのだろうか。せいぜい四?の路のりは当時なら小一時間くらいではなかったろうか。

現存する古文書「利兵衛文書」に「塗物二投資シテ産業ノ開発ヲ図リ・・・」との記録が残っているのは四代目六之丞(元文四年生1739)と言う。近在の山からの原木だけでは足りなくなり、皆瀬の山奥、栗駒山系から求めるようになったのは天保の頃、記録では二百年ほど前となるのだろうか。

伊藤雅義氏の「川連の木地業と羽後の木地山」によれば、椀三挽を製造販売すれば一年の飯米が買えたという。椀の代金は「利兵衛文書」によれば文政初期から文久年間(1818から1858)まで約四十年間変わらず、百姓の手間賃は一日五十文の時、(ただし田草とり、草刈、稲刈は七十、八十文)塗師百三十文、大切挽百文、挽師は百三十文だったとある。

それまで椀は横木挽きだったところへ、文政年間に鳴子から立木挽の技術が伝えられると椀の他に仏具や膳、盆なども作られるようになったと言う。  立木挽の方が横木挽きに比べて、何でも自由に挽け当時としては画期的だったらしい。この地の椀師は、会津や津軽のように藩の手厚い保護の下で分業だったのと違い、家内一貫作業で消化し、販売まで手がけたと言われている。                                

大滝沢と川連(根岸)

川連(根岸)は大滝沢との共通点が浮かぶ。大滝沢を超え、「なつぎゃど」の字名は綱取、そして内沢に入る。

内沢に入れば公図に記載がない通称名、エボシクラ(烏帽子くら)、オヤシキ(大屋敷)の地名がある。昔の人達は皆がわかりやすい呼び名をつけたと思う。 東福寺山「舎人場」同様、中世からの名の由来かとも思われる。内沢の最奥を地元では、オヤシキ(大屋敷、御屋敷)と言う。オヤシキとは何から来た名称なのか今知っている人はいない。

川連では椀師が木地から製品までの作業したのに比べて、会津では藩主の保護のもとロクロ師と塗師は別だったと言う。会津藩の保護奨励で「塗大屋敷」を作って分住させて業をした記録があり、内沢のオヤシキもそれと共通する形式があって、名が今でも残ったのだろうか。

ちなみに稲川町に「大屋敷」の名前が残っているのは京政で、現御嶽堂の桂音寺のあった所と言う。オヤシキは、町部の近くでは珍しく今でもブナやトチ等の植生がある。  

昭和六十二年森林公団による杉の植栽で、かなりのブナが切り倒されてしまったがそれでも樹齢二、三百年と思われるブナは数十本残っている。今は面積約五十haほどのオヤシキはほとんど杉林となってしまった。  

川連の南部、そして稲川町役場東の八坂神社境内から切り崖、天王、黒森、坪漆までのせいぜい海抜百五十m前後の場所にもブナは見られる。八坂神社境内のブナは杉の樹齢二八十〜三百年とほぼ同じと推定される。字名の天王は八坂神社の御神体牛頭天王から、黒森は(日本山名辞典)によれば真黒に樹木が繁茂していることからと言われている。八坂神社境内のブナ以外樹齢は四十〜五十年位とみられる。 
写真のブナは大滝沢の集落寄りの峰で撮ったものだ。数十年かにわたって樹の幹から切り、活用されたと思われ根元からの節やこぶは長い年月を感じた。このブナの前に立つと、何百人がこの木と向き合ったのだろうかなどと、先人の思いや哀しさの歴史が伝わってくる。比較して現在国有林等でみられる、根元から切ってしまう皆伐にブナの再生はない。                               

話題のファイル

昭和五十五年九月三十日の秋田魁新聞は「わだいのファイル」で「大滝沢を平地に珍しいブナの原生林」と大きく報道した。

昭和五十五年「雄勝野草の会」三好功一氏らの植物調査で、ブナ原生林や珍しい植物群落に驚いたことから秋田県自然環境保全審議会に報告、同会も参加して同年九月詳しい調査が行なわれ報道される事になった。

この原生林が手つかずの状態で今日まで来たのは、江戸時代、佐竹南家が《水源涵養林》としてこの地帯の伐採を固く禁じ、その後もこの《禁令》の趣旨が守られてきたことにあると言う。

東福寺村ノウチ小畑沢峯限リ水落チ次第綱取沢水野目林ニ立置ノ間下枝ニテモ木伐リ取ル可カラザルモノナリ                      

       安永三年六月     岡本又太郎  

この禁令の立て札が東福寺雲岩寺に保存されていると言われている。

文中、岡本又太郎は佐竹南家の山林取締方、安永三年は(1772)年、今から二三〇年ほど前だ。

昭和五十六年、増田営林署は今まで全く伐木したことのないこの大滝沢国有林を継続的に伐採計画を発表した。流動的とは言いながら年間三十立方?を択伐し、ナメコ栽培など観光特産用に払い下げたいとの意向だった。

その後、昭和五十七年(1982)秋田県自然保護課が「自然環境保全地域」指定の対象地として科学的な調査を行い、「自然環境保全地域等の調査報告(稲川町大滝沢地域の植物と地質)を」発刊し、「秋田県民の財産であり、自然保護、自然環境保全、学術的に」きわめて重要な地域としての立地とともに厳重な保護が望まれる」。

当時「雄勝野草の会」の調査から保護への働きかけとその後の社会情勢は、増田営林署による伐採計画は免れて今日に到っている。

さらに、「いなかわ地域・農業振興推進会議」稲川町農業振興推進指導員で農学博士成田 弘氏が中心になって調査、平成七年林野庁の「水源の森」百選に選ばれたのは記憶に新しい。

さらに成田 弘氏が、トネリ場地区の「木地師遺跡の科学的発掘」調査と保存を指摘してからすでに十数年にもなるが、大滝沢に町としてのアクションは、数箇所に「百選」を示す標柱と入り口までの道路の整備以外ない。

町の伝統産業の漆器との関連の中で、「郷土史とさらに漆器産業の発展にきわめて重要」だと指摘。不況は町の産業にも強く影響している今だからこそ、八百年ともいう地場産業の最発展の足がかりとしても優先して行なうべきと思う。止まったままの時計、地域を揺り動かす理念が今こそ必要と思うのだが。                             

注   

2000年の記録へ一部補筆                                             参考文献 伊藤雅義著「川連の木地業と羽後の木地山」