新河鹿沢通信   

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NHKテレビ放送開始60周年記念関連 

2013年01月19日 | 足跡
昨年の9月にNHKエンタープライズライツアーカイブスセンターから一通の封書が届いた。
その内容は表記の通りで、NHKウェブサイトへの番組利用についてであった。

「この度NHKでは、2013年2月1日にテレビ放送60年を迎えます。それを機に、NHKのウェブサイト(NHKオンライン)のアーカイブサイトの中にNHKのテレビ放送史を概観できるコーナーを設け、60年の歴史を振り返るのにふさわしい番組を3分程度のクリップとして紹介の予定です。また、60周年関連の催事・サービスなどでも紹介する予定です。
現在、クリップの候補となる番組に1300ほど選定し制作準備を進めております。」

下記映像の利用について協力して欲しいという内容であった。
番組 「明るい農村 村の記録 減反詩集」(1973年11月19日 放送 冒頭から3分程度
サイト名 NHKアーカイブスポータルサイト
掲載期間 2013.1.15~2014.3.31(予定)


少なからずビックリした。約40年前の番組である。
当時、高度経済成長期の「出稼ぎ」が最盛期で冬期、農村から男の働き手が都会へと流れ、村の機能がマヒ状態になっていた。劣悪な宿舎、劣悪な作業現場で作業事故が続出、秋田県では年間の交通事故死より多いほどの労働災害事故死。
高度経済成長下の事故がおきた際の対応は誠に杜撰なことが多かった。労働災害とは認めないとか、死亡事故も病気扱いなどで対応などは当たり前。それに呼応して各地に「出稼互助会」などが生まれたが初期の頃は不十分だった。

当時ある会合に参加していた。尊敬する農業改良普及員の「たにでんきち」さん(本名は別)の紹介で参加していた秋田県農村文化懇談会の末席である。高校卒ころから農家の跡取りとしてのいかに生きていくかが毎日のテーマ。昭和35年「農業基本法」が制定されそれまでの農業と劇的とも思える大変化に対応できそうもない自分がいた。

当時、岩波新書で大牟羅 良著「もの言わぬ農民」が出版され、どういうわけかこの本に触発されて「農民詩」という分野に足を踏み入れていた。
詩を通して農民はどう土と、農と、また自然とあるいは地域と関わってきたのか探るためであった。書くこともまして詩など創ることなどは到底できない。ただ、近くの本屋周りでそれらの本を探し読むだけ。

だから、嗅覚だったろうか秋田県農村文化懇談会の中心に農民詩人の集団があることも知っていた。その集会で前記の「出稼問題」で子供たち、残された家族等、地域としての機能のマヒ状態の中で「出稼詩集」の必要が声高らかに話題になっていた末席で、ほとんど喋ることのない自分が「減反詩集」こそ必要でないかなどと発言してしまった。それが今回のいきさつの始まりである。

「減反詩集」をなどとついでまかせに発言したことがその後自分を苦しめた。
農民詩を漁るように読んでいたとは言え、自分も詩を書きいつかは「詩集」発行等と考えたことは一度もなかった。ただ只、己が農に定着するためだけ。そのころは農の仕事の繰り返しの中で定着するだけの核心がなかった。先人はどのように向かい、どう生き、どのように矛盾と対峙してきたのか等毎日頭一杯の状態。出稼ぎ者の増加の中に「減反」が加わり、農業情勢は複雑になっていた。

「農」に立脚するために探し求めて多くの地域、農村に暮らしながら多くの作品に出会うことは当時の自分にとってなによりのエネルギーとなった。多くの詩は「農」の悦びよりもむしろ哀しみや怒りの作品が多かった。そのころ触れ合う「農民詩」にはなによりもその時代に生きている作者の温もりや決意がみなぎっていていた。そこに触れ合うことがその頃の唯一の自分の時間だったように思う。「詩」などは書けない中で、年賀状と暑中見舞いだけはなにかひと工夫などと思って知人に送っていた。

「減反詩集」発言以来、何かと詩集発行まだかの催促。閉口していた。
そんな矢先、尊敬する「原田鮎彦」氏から長文の手紙が来た。
原田鮎彦氏は(本名は別)秋田の県北、峰浜村(現在八峰町)生まれ 農業改良普及員でサークル「山脈の会」所属、詩作多く少なからずその作品に多くの共感を得ていた。
その原田さんは昭和46年4月以降、毎月最終日曜日NHK秋田放送ラジオローカル「朝のロータリー」で「むらの詩 −−− 詩を通して透視する秋田農村の課題」 を放送していた。その第一回目が「宮沢賢治」の 稲作挿話、その後「真壁 仁」日本の農のアジア的様式について さらに「小坂太郎」 篤農 ある訣別、「草野比佐夫」村の女は眠れない等々著名な作品を通して秋田の「農」を語っていた。軽妙な語りと薀蓄のある内容は大きな励ましだった。

原田氏からの長文の手紙の内容は一年半近く続いた番組の終わりに、未刊の詩集「減反詩集」取り上げるから作品を送れとのことだった。さて困り丁寧は断りをしたがなかなか承知がもらえない。しまいには、「何通か暑中見舞いが届いているから、二編ほど至急送れ」というわけだった。そのような経過の中で「のぼるよ泣け」と、「ババひとりの冬」書き上げた。
書き留めていた「詩」があったのでは無くて締切日があって無理やりに書されたと言って良い。出稼ぎの増加、減反政策による心の荒廃、離農など状況の中で頭のどこかにいつも引っかかっていたことを書き留めた。
「のぼるよ泣け」と題して昭和47年8月、原田鮎彦氏の朗読、語りでNHK秋田放送ラジオローカル「朝ロータリー」で放送された。

翌年の9月秋田文化出版社から 「むらの詩 −−− 詩を通して透視する秋田農村の課題」が出版された。出版からまもなく今度はNHK「白洲浩平」氏(本名別)から、「減反詩集」を明るい農村 村の記録で紹介したいと連絡が入り、約一週間取材でこの作品が生まれた。
秋の収穫の真っ最中、田んぼの圃場整備直前で村の中は換地問題で大揺れ、さらに出稼ぎで事故死した青年への対応をめぐり多くの人たちの賛同を得て裁判闘争へ向かっていた中で、十分取材に協力できなかったことが今でもすまなく思っている。

その番組が1月15日から約1年2ケ月ウェブサイトに登場する。正味2分55秒。
NHKは60年間の膨大な番組の中から約1800本を紹介するという。その中で「明るい農村」の中で「村の記録」は1960年から20年近く放送本数1370本今回「減反詩集」と「アオコの湖 ~霞ヶ浦の1年」が映像で紹介される。
3分前後の映像でウェブサイト「NHKアーカイブスサイト」で検索(検索は秋田、減反詩集でも可)誰でもネット接続されているパソコンがあれば自宅で見られます。
 
全編の閲覧は各地のNHK放送局でアーカイブスの番組としてご覧になれる。当時の「明るい農村」の番組はその他多く保存され、閲覧が可能になっている。