新河鹿沢通信   

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平成26年秋田の米と特A

2015年02月28日 | 農業
秋田魁新報は2015.2.20 に以下の記事を掲載した。

県南こまち、3年連続で「特A」 14年産米食味ランク

日本穀物検定協会(東京)は19日、2014年産米の「食味ランキング」を発表した。JA全農あきたが出品した秋田県産米5銘柄のうち、県南のあきたこまちが3年連続で最高評価の「特A」を獲得した。県北と県央のあきたこまち、全県のゆめおばこは昨年に引き続き、特Aに次ぐ「A」となった。県央のひとめぼれは1ランク評価を上げ、Aに返り咲いた。14年産は44道府県から産地・品種別に133銘柄の出品があった。ランキングは専門家20人がコメの見た目や味、香りなど6項目で評価し決定する。

全農あきたはこまち誕生30年を前に13年度から、全県食味コンテストで入賞した生産者の栽培方法を紹介したり、県内農家に栽培マニュアルを配布したりして栽培技術の底上げに取り組んできた。県も特A獲得に向けて実証圃場を設け、施肥や水管理の工夫で食味を高める手法を検証してきた。
2015.2.20 秋田魁新報


各地から「食味ランキング」の「特A]が北海道から九州まで続出している。かつて「あきたこまち」は「特A」をキープしていたがAからA´に陥落していた。来年は県南だけではなく県中、県北の「あきたこまち」が「特A」を期待したいものだ。

東北、北海道で「特A」ランクの米のなかった唯一の県は青森だった。今回品種名「青天の霹靂」が選出された。あきたこまち、ひとめぼれ等と少し名の異なる品種名だ。これで東北にはそれぞれの県で「特A]の米が出そろった。

下記は昨年暮れの秋田魁新報紙からの引用である。表に見られるように近年では高いに収量だったことが報告されている。


秋田魁新報 2014.12


2014年産水稲作柄を振り返って 秋田県農業試験場 2015.2.1農業共済新聞 あきた

多くの農家はこの一覧をみて冷ややかだ。平均10a当たり600kの収量というのだ。昨秋収穫してみて確実に約10%強近く収量は少ない。20144.10.30のブログ「米概算金暴落の狭間」でも指摘したが、収量調査の基準が違うのだから当然ともいえる。

農家は米の出荷、販売においては未成熟米と整粒米とを厳格に分ける。もみすり段階で網目1.9ミリで調整するが、統計調査では1.7ミリで行われているのだ。農家の網目1.9ミリ以下の米は俗にいうクズ米、私の場合クズ米は平成26年産は平均6.5%、25年産で9%もあった。これが網目1.7ミリだとクズ米率は5%以下になる。その分収穫量は増える計算になるが生産者には反映されない。カントリー等で大量のクズ米は加工等の業者にわたる。せっかくの収量調査も消費者にわたる米(整粒米)とクズ米とに分けての公表も可能なはずだ。

平成26年産の概算価格は平成23年と比べて、60K当たり5000円も安い昭和47年当時の価格。消費減退、生産増加みたいな風潮ので、実際収量と大きく差がある収穫量調査に冷ややかになってしまうの当然ともいえる。

2月18日、農業情報研究所は「食材費上昇が給食に波及 小中10%値上げ」との日本経済新聞の記事を紹介している。この中で大阪の茨木市では週2.5回から3.5回に増やし、月額432~468円の値上げの給食内容を充実させる。という。週一回増える米飯、茶碗一杯が精米65g、一人当たり年間43食ほど米飯が増え2.8kほどになるという。茨木市の小中学生16000人で45トンとなる。(この記事で45万トンと記されている。単位違い?)

全国の小中学生は統計によれば10,317,282人(平成24年)、米飯給食を全国の小中学校で週一回の茨木市のように増やすことができれば、米の消費は約29000トン増える計算になる。これは先の秋田魁新報の記事で湯沢市の平成26年収穫量23300トンよりはるかに多い消費量になる。地域創生には農の活性化が極めて重要なことだ。



ドキュメンタリー映画「ダムネーション」

2015年02月20日 | 地域
2015.1.31朝日新聞 ザ・コラム欄に「ダムと過疎地 先人が教える夢と現実」上田俊英編集委員が掲載された。「ダムネーション」アメリカのドキュメンタリー映画を観てのコラムだ。それは次のような書き出しで始まる。

『「ダムネーション」という米国のドキュメンタリー映画を見た。米国でダムの「撤去」を求め、実現させてきた人びと。その姿を通して、川とはなにか、ダムと引き換えにわれわれが失ってきたものはなにかを伝える。昨年11月に東京で公開され、横浜、大阪、名古屋などを巡回している。

ダムは近代化を象徴する建築構造物だ。灌漑(かんがい)、治水、水力発電――。米国では1929年に始まる世界恐慌が建設を加速させたとされる。テネシー峡谷開発公社(TVA)が設立され、雇用創出と経済再建の旗印のもと、多くのダムがつくられた。米国のダムはいま7万5千基を超えるという。

ダムができて、川が自然の流れを失えば、川を中心とする生態系は激変する。
映画は、ダムをすべて壊せと言っているわけではない。
 「ダムにもやはり寿命はある」
 「ひとつひとつ精査すべきだ」
そして、役に立たないダムは「壊す」という選択肢があることを教える。
 「ただの水たまりだ」
ダムを前に、こんなせりふが投げかけられる。「水たまり」それは、わたしがすむ福島県で も見ることができる』。


さらに終戦直後、「日本再建」をかけた国策の舞台になった奥会津の10基のダム開発、昭和60年代に9基完成。現在巨大な水たまりと化し、かえって水害が増えたと言う地元の声を紹介している。水力発電所は無人化が進み遠隔制御されている。「ダムもまた過疎化をすすめる」、79年に只見町の議会特別委員会の報告「デメリット」を次のように紹介している。

「過疎の原因となる」
「農林水産業の振興に影響を与える」
「購買力が減少する」
「自然環境が破壊される」

政権との癒着が指摘されるマスコミの中、このコラムの健全な良識を歓迎したい。映画「ダムネーション」を知り、是非観たいものだと思っていた。2月に入って「成瀬ダムをストップをさせる会」で、上映会企画のニュースが入った。

DAMNASTIONチラシ

先日「成瀬ダムをストップをさせる会」は、上映会を成功させるために試写会を開いた。「DAMNASTION」のSTORY に次の言葉があった。

「自然の良さは人間が何もしなくてもいいこと。ただそのままにしておけばいい」。

地球の血管にも例えられる川。ダムが及ぼす影響は、私たち生き物すべてに及ぶ。ダムが撤去された時、川は解放されみずから元の姿に回復していく。本作品が映し出す川の生命力と美しさは、人間も自然の一部なのだということを改めて気づかせてくれる。そして、技術により自然を征服してきた過去と決別し、新しい未来をつくりだす希望の光を見せてくれる。製作責任者はパタゴニア創業者のイヴォン・シュイナード。共同プロデューサーは生態学者で水中写真家のマット・シュテッカー。

映画はダム推進派、反対派の意見を取り上げ、効率の悪くなったダムの撤去を呼びかけている。ダム開発によるアメリカ先住民の苦悩が描かれ、ダム開発で期待された効果が必ずしも達成されない現実を訴えている。

日本には2700基のダムがあると云われている。この映画を観るとダム開発、ダムの効果等に疑念が湧いてくる。ダムネーション企画プロデューサーのマット・シュティッカー氏は語る。

「米国にダムがクリーンエネルギーを供給しているとする「神話」があります。ダムからは二酸化炭素の35倍の温室効果のあるメタンガスが排出され温暖化が促進している、研究によると世界中のメタンガスの排出は世界中のダムや化石燃料が原因かもしれないません。だからダムはクリーンエネルギーを供給しているとはいえません。それにダムは川の生態系を破壊します。ダムはクリーンであるという論理は成立しません」と語る。

日本では熊本県球磨川水系の荒瀬ダムが2012年から撤去が始まっている。河川周辺の生態系の再生や魚介類の増加が報告されている。

映画「ダムネーション」は、「ダムは過去の遺物か未来への資産か」と呼びかける。各地で反響の大きい映画が、秋田県南で上映される。「成瀬ダムをストップをさせる会」では「DAMNATION」の上映会を開催する。開発の名で自然環境へ人間が手を加えることで、取り返しのつかない結果を生み出すことがある。沖縄では地域との合意なしに、国家権力で辺野古基地建設を強行している。各地にも似たような事例は多い。かつて只見町の議会特別委員会の報告、「デメリット」は充分考慮されなければならない。地域に住む者には地域環境を変える開発に重大な責任が伴うのだ。多くの人に関心を持ってもらいたい。

この映画「ダムネーション」は「建設あり」の開発に大きな警鐘をならしている。

 「ダムネーション」上映会 アメリカのドキュメンタリー映画

 期日 3月8日(日)13.00開場 13.30上映(87分)
 場所 横手市 サンサン横手 
 料金 当日券700円 高校生以下無料


アニマルトラッキングと桐

2015年02月08日 | 地域
首都圏に雪情報の2月5日、当地方は朝から快晴。2月4日は立春で満月。朝方ちょっぴり雪があった。せいぜい1センチにほどだから雪が降ったとは言わない。この時期恒例のスノーシュー探索。動物の足跡と自家の山林の見回りが目的だ。いつものことだからアニマルトラッキング等とゆうのも少し大げさだ。しかし今年の里山はいつもの冬と少し違うウサギの足跡が多いのだ。



スノーシューで歩き始めて間もなく足跡、集落の周りを回って山側に続いている。キツネかと思ったがどうやらタヌキ?かも知れない。水路と土手と畑上の平らな所は、廃寺となった妙音寺の引導場とも言われている場所になる。後にこの足跡はその道に詳しいO氏からテンだろうとの指摘をうけた。



ヤマウサギだ。2羽がそろって歩いたらしい。ウサギを匹ではなく羽と数えたのに諸説がある。長い耳が鳥に似ている。肉が鳥に似ている等言われてきたが、「獣の肉禁忌とされた時代」に「鳥に見立てた」との説。それを裏付ける文献として大正時代に書かれた。南方熊楠「十二志考(2)兎に関する民族と伝説」がある。それによれば「従来兎を鳥類と見做し、獣肉を忌む神にも供えまた家内で食うも忌まず、一疋二疋と数えず一羽二羽と呼んだ由」とある。一般的には一匹二匹の数え方になるだろうが、ウサギとのかかわりがほとんどなくなった今では、誰も数え方等問題にしなくなった。



上の足跡はわからない。数年の探索で初めて出会う。カラスではなくヤマドリだろうか。狩猟免許を持っていた友人T君は、この場所にはヤマドリが必ずいたと話していたことを思い出した。集落で狩猟免許持っていたのは平成になって彼一人だった。鳴り物好きといわれた彼はライフル免許を持ち、さらに打ち上げ花火師だった。亡くなって10年近い、「村のマタギ」がいなくなりこの10年ヤマドリ等を捕る人がいなくなった。捕る人がいなくなっても格別増えるわけでもなさそうだ。それも自然界のバランスなのだろうか。こどもの頃、村には数人の鉄砲撃ちがいた。大人達におだてられてウサギ狩りの勢子をしたことがあった。傾斜の強い杉林でにわか仕立てのウサギの追い出し係、大声に驚いたウサギが頭のはるか上を飛んで逃げたことを思いだす。声を枯らしてのウサギ追いの褒美は「ウサギ汁」だった。あの頃は里も山も冬はウサギの足跡はいたるところにあった。



いつもの沢を超えて杉林に入ったらウサギの他にこの足跡。あまり大きくなさそうだ。2,3日前のものか、歩いた足跡の上に雪が少し、鳥か獣かわからない。



これは数日前のタヌキ?の歩いた所を今朝方ウサギが通ったようだ。この足跡も先のものと同じと思える。タヌキではなくテンということになる。夜行性のテンはまだ見たことがない。ここ3年ほどの探索で初めて出合った足跡になる。町の中心部から1kも離れていない場所、動物の種類が増えたような気がする。



木の芽等が雪に隠されてしまうこの時期、若杉の根元には雪が少なく枯草か木の芽があるのだろう。ほとんどの杉の木の根元に足跡がある。昨晩はおだやかな天気の満月だったから、この杉の木の周りでウサギの井戸端会議があったらしい。満月にウサギはお似合いだ。



集まり後散会、四方に分れた。上の写真は一緒にこの場所から離れ並んで歩いた足跡。なにかほほ笑ましい、親子のウサギだったのだろうか。ここ20年ほど前からこの地域でヤマウサギが激減していた。反面キツネが増えていた。この近くの草地には親子づれのキツネが毎年のように出てきていた。ヤマウサギの激減はキツネのせいだろう等話していたが、今年はウサギの足跡が多い。数年君臨してきたキツネの世界に変化が生まれたようだ。

この冬は雪の少ない分、杉林の被害がほとんどなかった。雪折れ、倒木がないのは数年ぶりだ。被害といえば一本の桐の木が雪の重みで倒れていた。酪農拡大を目指して昭和52年一部傾斜30度もあった雑木林を草地に変えた。草地の切り土部にどこから飛んできたのか桐が芽を出した。草地管理の傍らこの桐の木を残してきた。切り土の肥えた土と草地の養分で一本の桐の木は年々大きく育った。

30年近くもなると直径40㎝位にもなっていた。かつては村にも、桐の木を買う業者が回ってきたが近年ほとんど来ることない。湯沢地方は桐の産地と云われている。数年前、伐採し桐市場へ搬入等と考えていたが、伐る前どういうわけか枯れてしまった。枯れた桐の木もここ数年の大雪に耐えていたが、この冬の雪でとうとう倒れてしまった。倒れた桐の木はこんもり雪の山になっていた。ここにもウサギの足跡があった。数年切崖、八坂神社を中心に昨年まで見られたカモシカの足跡はない。この冬からエリヤを変えたのだろうか。少し気になる。

「むのたけじ」氏の反戦と共に

2015年02月02日 | 足跡
反骨のジャーナリストと言われた「むのたけじ」氏が1月2日で満100歳を迎えた。地元紙秋田魁新報、東京新聞等が報道した。東京新聞は2015年1月7日朝刊で、「むのたけじさん100歳 反戦生ある限り」と次のように100歳の誕生を祝った。

「反戦を訴え続けてきたジャーナリスト、むのたけじさんが、二度のがん治療を乗り越え二日、百歳になった。「今の日本は戦争のにおいがぷんぷんする。生きている限り、戦争をなくすことに役立ちたい」。戦後七十年を迎え、放つ言葉には一層の力がこもる。

「負け戦を勝ち戦と報じ続けてきたけじめをつける」。一九四五年八月の終戦を受け朝日新聞社を退社。故郷の秋田県横手市でミニコミ誌「たいまつ新聞」を発刊し、三十年間、反戦記事を書き続けた。今、さいたま市で暮らし、講演や執筆をする。昨年の衆院選を振り返り「投票率52%なんて国は主権在民とはいえない」と一喝。「国民は自分たちの意見が反映された生きた政治にするために、考え、もだえなければいけない。それが全くない状況のままだった」と憂えた。

安倍政権が進めてきた特定秘密保護法制定や集団的自衛権行使容認に、戦争の影を感じるという。「安倍さん個人の話ではない。彼を前面に出し、日本を変えようとする政治、経済界の勢力がある。誰が何を求め、何をしようとしているのか。それを明らかにするのが記者の務めだ」。戦争の話になると口調が熱を帯びる。「人類の三大敵は病気と貧困と戦争。戦争をやめ、その分のエネルギーと金を回せば病気と貧困を解決できる、それがなぜできないのか」。危機感をあふれさせ、時に拳を振り、足を踏み鳴らした。
(TOKYO Web)DATE:2015年1月8日


「むのたけじ」先生とは20代の頃から「秋田県農村文化懇談会」で一緒だった。1960年代に農文懇がむのたけじ氏、西成辰雄氏等が中心になり結成された。私の参加は1965年頃からだった。農文懇の機関紙「炉火」が発行され、6号に「むのたけじ」氏の巻頭言「自己変革の鏡」がある。
炉火 6号 1967.5発行
「日本の教師に訴える」明治出版 1967年で、出稼ぎ農民が多くなっていく現状の中で「親と子供たちの関係」に教師がどうつきあうのか。子供将来のしあわせを願うなら親がしあわせになれ、と農村婦人の親と子の話があふれていた。炉火6号巻頭言「自己変革の鏡」に、『この本は「変革の書」として世に送ったつもりだ。人間の個人を変え、集団を変えていくための最初の原則に関する祈り、訴えを語ったつもりだ。週刊朝日の書評で「直言や激情の勇み足もある」と指摘、、、書評子のいう「勇み足」が、私にはとっては「四股を踏む」ことだ。それがないなら、この本はゼロにひとしい」。と発売直後の本について「炉火」で主張している。

そして、この本から6年後1973.4に「解放への十字路」を評論社から出版された。時論・1972年後半期、すべてを〈日本解放戦線〉へ等、問に対する返信という形で、第一信から第一六信まで続く。当時の私は出稼ぎで死亡した青年の東京地裁で裁判、日中国交回復後の訪中でのある種の衝撃、減反強化の中で経営の不安定等で混乱していた。たまたま参加していた「秋田県農村文化懇談会」で、「むの」先生に浅学を顧みずに「十字路と言われれば混乱してしまう、本のタイトルの十字路とは何ですか」等と尋ねてしまった。むの先生はしばし沈黙の後、「むのたけじが十字路にさしかかっているからかな、、、」と話した。巻末に「終わったところから始まるに〈岬〉と〈十字路〉について」がある。当時は理解するのに時間が必要だった。

「一本でありながら幾通りにも分かれ、幾通りにも分かれて一本に結ぶもの、そういう結節点が地上の生活、それは〈十字路〉なんだ」。幾通りの道から無数の十字路で結ばれる。統一戦線。多様の中に統一、、、。生活の場、生産の場に無数の〈十字路〉をつくることで促進される。

『「地方文化」とはなんだ」は「解放への十字路」の96ページにある。その中「、、、民衆を国内植民地のドレイにしてきた歴代の支配に報復する、その拠点としての「地方」であり「文化」である。屈従を強制されてきたわれわれ民衆が一人間として、一社会存在としておのれを回復していく、その創造運動としての「文化」である。両者を結ぶものは、私にとって「地方文化」ではない。「解放」である。、、、、、大事なことは、支配と被支配の歴史の縦層をえぐって、そこで自分の立場をきめることだ』。とある。

「解放への十字路」は当時衝撃の書だった。ぶしつけな質問に正面から対応してくれた。40数年前の会話が昨日ように想いだされる。

岩手農民大学・岩手県農村文化懇談会、第12回「農民文化賞」の受賞(2001.12.8)は「むのたけじ」先生でした。岩手農民大学は1989年12月に「農民文化賞」を制定している。「日本農業の危機が叫ばれているとき、わが国農業および農民が築き上げてきた文化的遺産の灯をたやすことはできない。その栄光を歴史にてらし、継承・発展させる使命は重く大きい。それゆえ、いまこそ農民文化に大きく寄与・貢献した未来感あふれる証を、秀れた実践業績の一つひとつに求めて頚影し、ふるさとの大地のするべとする」。が制定主旨という。

選考委員会はむのたけじ氏は、文筆・講演活動に優れた才能を持つ新聞人・革新的文化人・評論家、農村変革の実践家として、「高い理想・自由と解放の炬火を農の心に灯す日本のヴィクトル・ユゴー」と評価された。

農村文化サークル「虹の会」の会員を中心に、2001年12月「むのたけじ」先生の「第12回 農民文化賞」受賞を記念して祝賀会が開かれた。案内が届き参加した。あいさつの中で「まだ賞は似合わない」と受賞を強く辞退していたことを話した。さらに余生という言葉に抵抗の意を述べ「一日多く生きれば、それだけ経験を積む、学ぶべきものがあれば学ぶ、日々成長できる。死ぬるとき、そこが人生のてっぺんでなくてはならない」との想いを熱く語った。対談集「むのたけじ 現代を斬る」イズミヤ出版 2003 はこの集会がきっかけとなって出版された。

先日友人T氏からメールが届いた。以下はその全文。

「今年は雪が深そうですね。
むのさんが1月2日で満100歳になりました。お祝いの会と言うか、100歳報告会が17日に新宿で開かれ、参加して来ました。とても100歳とは思えない大音声で30分近く挨拶したむのさんに圧倒されました。岩波書店の編集者が4人、朝日が2人、NHKが3人はじめ、琉球新報や出版社の関係など40人近くが集まっていました。むのさんは現在、埼玉県の次男宅に住んでおられるようです。老人の怪気炎に、これだけ元気なら小生のことも覚えておられるかも知れないと期待しましたが、ダメでした。完全に忘れられていました。最近、むのさんの岩波新書が3冊出ていますが、いずれもそこそこ売れて版も重ねているといいます。むのさんの本が売れているとなると、日本はかなり危ないのでないかと心配になります。秋田では100歳のむのさんを囲む会など開かれているのでしょうか」。


T氏のいう、「むのさんの本が売れていることは日本がかなり危ない」の指摘が現実になってきた。

テロ行為を支援する立場ではないが、今回の人質事件は最悪の結果に陥った。フランスのパリ新聞社襲撃テロ事件直後に、世界の火薬庫ともいわれる中東へ軍事関連企業と出向き、イスラム国と敵対する国に援助すると表明した。これは結果的にイスラム国側から見れば挑発と捉えるかもしれない。真に「人道支援、難民支援」なら国際機関を通す方法があったのだ。

さらに連日、悲惨な結果に「テロリストを絶対に許さない。罪を償わせるために国際社会と連携して行く。日本がテロと屈することは決してない」。との談話がテレビ報道で繰り返されている。「罪を償わせる」とは相手からみれば「宣戦布告」とも取れる。言葉は受け取る立場で解釈が異なる。

官邸は人道支援の名のもとに自衛隊の海外派遣、戦争できる国をめざす憲法をないがしろにする方向を向いている。テロ対策の陰で巧妙にTPP、農協改革の強行、金と政治の問題等にフタを決め込んでいる。2015年予算案は防衛費の増、社会福祉予算の削減に向かった。政権との癒着を指摘され、お花畑状態を思わせていたマスコミは最悪の結末でやっと事件検証を発言しだした。本日2月2日、全国紙を始め多くの新聞は社説でこの事件を扱っている。秋田魁新報は社説に「邦人人質事件 政府対応の検証を急げ」を掲載した。

「人類の三大敵は病気と貧困と戦争」反戦 100歳「むのたけじ」