新河鹿沢通信   

暮らしの中から 村の歴史 足跡 集落 跳躍  麓風小舎     

「後藤喜一郎」頌徳碑

2017年02月22日 | 村の歴史

故「後藤喜一郎頌徳碑」は八坂神社の鳥居の横に立っている。建立後100年近くになる。長い年つきで刻まれている文字は苔に覆われている。この場所は麓集落の共同作業春の堰普請や、中山間事業の草刈作業等の集合場所になっている。集落出身の故「後藤喜一郎」氏の頌徳について語り継がれてきたが、詳しいことは知らないできた。碑文は苔に覆われているばかりではなくて、碑文が漢文調で読み方も難しくどのようなことが記されているのかわからないでいた。この場所の前集合で時々話題になるが、特に関心も薄くそのままになっていた。

今回ブログ「年貴志(根岸学校)から川蓮小学校」を調べている中で貴重な資料が出てきたので追跡してみた。大正八年(1919)五月に建立された碑の建立委員長が曾祖父だった事を初めて知る。建立当時の数点の手紙を基に背景を追ってみた。

後藤喜一郎先生碑 2017.2.16

碑文は稲川町史資料集の2集から引用した。

後藤喜一郎先生碑
後藤先生名喜一郎以嘉永元年九月二十三日生干秋田県雄勝郡川連村
為人温良忠厚好学芸夙見頭角明治十一年四月卒業下等小学伝習科同
村根岸小学校訓導十五年十二月転川連小学校二十一年九月任同校校
長曩十五年四月以職務恪勤之故石田県宰賞以四書一部三十年十二月
又以教育上功労不尠岩男県知事授与教育学芸義一部覚之有其職二十
有五年受敬者達千数百名先生常勤倹力行以〇教養子弟故皆感其徳立
身守道各励其業郷風大革良有以也三十六年二月依村民興望抛教職為
川連村長爾来鋭意計村政改善頗有嘉績焉偶嬰病三十七年一月四日欻
焉遂逝享年五十有七閏村無不哀惜門人感 遺沢久而不能 遂相謀欲
建記念碑以伝 高徳為後進子弟崇敬之標識亦報恩之至也因記其事蹟
  大正八年五月                 門人一同謹精

頌徳碑は高さが173cm、横幅92cm、台座を加えると高さが210cmはある。本文文字304字、その他12文字数計316文字。上部に巾60cm、高さ30cmに「後藤喜一郎先生碑」と刻んである。この碑文は私立秋田女子技藝学校長(現在の国学館高等学校)井上房吉氏。井上房吉氏は明治2年生まれで当出身。後藤喜一郎氏は明治十一年に根岸学校の訓導(先生)になっていたので、井上房吉氏も教えを受けたと推定される。下記は井上氏から頌徳碑建立委員長当ての手紙。「碑文草稿添削等304字の一字一句の吟味すれば約一ケ月もかかる」等と綴られている。
私立秋田女子技藝学校 井上房吉氏の手紙 大正8年4月21日

碑文は漢文調で現代文に書き改めると次のようになっている。素人の解釈なので間違もあると思われるが、碑文の趣旨に大きな違いはないと思っている。
                
後藤喜一郎先生碑

「後藤先生名は喜一郎、嘉永元年(1848)秋田県雄勝郡川連村に生まれた。温良、忠厚、好学、芸風は抜きんでて人のために尽くした。下等小学伝習科を卒業して明治11年4月に根岸小学校の訓導となった。明治15年12月に川連小学校に転任し、明治21年9月に同校の校長となった。先(曩)の明治15年4月職務を励み故石田秋田県知事賞四書一部を、明治30年12月には又教育上功労に岩男県知事から教育学芸義一部を授与されたのは不尠(まれ)なことだ。其の職25有5年受教者は千数百名覚えあり、先生は常勤し勤勉にはげみ精一杯の努力して子弟に教育した。多くの生徒は社会的に一人前になる為にその徳を学び各々の道を守り励んだ。その行いに郷土が発展した。明治36年2月村民の強い願いで教職から村長についた。それ以来鋭意を計りすこぶる村政は改善にされた。そうした中で思いもかけずに嬰病を患い明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった。門弟は大いに悲しんだ。長いつきあいの恩恵は変わらない。話し合いで記念碑を建てることになった。後進子弟はすぐれた高い徳を崇敬報恩のためそのことを記して蹟とする。
    大正八年五月                        門人一同謹撰

下記は封筒に碑石代等とある、石材店からの石碑建立についての詳しい基準についての文。石材は仙台石と別の書に書かれている。仙台石は宮城県東部に位置する港町石巻、稲井地区産の名石「井内石」。墓石界では"至高の石"と称され、山形の文人斎藤茂吉が「父のために」と墓標の石を稲井に求めにきたという逸話があるそうだ。石質は黒くどっしりと重厚感があり、美しい石目が特徴で、文字を刻むと鮮明な白が浮かびあがる。塩釜神社、松島の瑞巌寺の石碑など明治以降各地の記念碑、墓碑に数多く利用されてきた名石を調達した。

石材店   柴田清之助 

頌徳碑建立費の総額等の資料は見当たらい。頌徳碑建立に多くの方々から寄付を募った。根岸学校、川連小学校の卒業生等門人、有志に一口1円50銭をお願し建立された。その中で井上房吉、佐藤新吉、赤松哲二、熊谷保氏等10円以上、酒井忠朗、小野寺忠則紀氏等5円以上の寄付があったことが記されている。秋田市や県外からもみられる。下記は南満州鐡道株式会社に勤務していた酒井忠朗氏から主旨の賛同と恩師へ厚い想いが綴られている。
南満州鐡道株式会社 酒井忠朗

八坂神社鳥居の横に「後藤喜一郎頌徳碑」は大正8年5月に完成し9月4日に除幕式が行われた。後藤喜一郎氏が亡くなったは明治36年1月4日、25年の教職から混乱の村長就任、議会案件から財政難は相変わらず、明治政府は明治32年から5年限定で地租を32%引き上げ(2.5%~3.3%)、明治37年日露戦争勃発で引き下げ案を撤回し逆に4.3%、翌年からは5.5%と引き上げた。このころ米騒動も起きている。明治35年の暴風雨による甚大な被害等の中で村税の滞納が続出、学校建設の遅れ、自然災害への対応等の中で助役、収入役また書記等の辞職と再任等混乱した村政の中で後藤村長は就任半年後の明治36年6月に体調を崩してしまった。そのため議会開催通知が7月から山内助役が代理村長の名で出されれいる。明治37年1月4日享年50有7年亡くなってしまった

頌徳碑は後藤村長の逝去11年後の大正8年に建立された。第一次世界大戦による好景気が続いていた大正7年(1918年)米騒動が勃発。米の小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り、世の中は物情騒然といわれた中、郷土の偉人の業績を後世に語り継ぐために故「後藤喜一郎」頌徳碑構想が生まれた背景が偲ばれる。


年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 3

2017年02月08日 | 村の歴史

先の年貴志学校(根岸学校)から川連小学校 2 以降別の資料が出てきたので補足。(3)とした。(2)で以下のように書き留めたが間違いがあった。
「稲川町史「資料篇」十一集に(二)沿革・行事の概要に衝撃的な記述がある。
 明治38年10月02日 根岸充用校舎焼失・備品悉皆焼失(午後2時)
10月23日に野村に新校舎が落成され、根岸分教室が併合される直前の火災。約20年間継続していた「根岸学校」の火災、「備品悉皆焼失」の記述が強烈だ。現在この火災についての資料は見つかっていない


その後の調べで、根岸学校の火災は明治38年10月2日ではなく、明治37年11月2日だった事が判明した。当時村会議員だった曾祖父に火災のあった翌日に議会通知が届ていた。明治37年11月4日午後1時、急拠の案件「川連小学校充用家屋(根岸)焼失報告ノ件」議会開催の通知があった。火災報告とその後の対策が話し合われた。

そして明治37年12月3日の議会招集の通知、議案第45号案「川連小学校臨時充用校舎借入ノ件」が上程されていた。
 議案第45号案

議案第45号案に「本村尋常小学校(根岸)充用校舎焼失ニ付本月ヨリ来ル明治38年3月限り川連村川連字野村59番建家借入レノ臨時充用校舎ニ充テルモノトス」とある。4月以降新校舎に移る明治38年10月23日までの校舎借入の詳細資料は見つかってはいない。

明治38年10月23日に野村に完成し、約30年続いた「根岸学校」は新しい「川連小学校に統合され幕を閉じた。今回新たに明治36年から38年頃までの経過が判明した。すべて議会通知からのもので校舎建設の詳細が分かった。統合された「川連小学校」は明治35年に計画されていた。

明治36年3月4日の議会案件 
第九号 小学校新築事業繰延ノ件
要約すると「本村尋常小学校新築工事ワ客年7月ヨリ起工スベキトコロ、気候不順暴風災害、農産物ノ凶作ヲ受ケ生産力ノ達ヲ阻害、一般経済界ノ困難ヲ来シ到底事業ノ竣工ハ認メズ依ッテ本村小学校新築工事ノ繰延ハ止ムヲ得ザル37年度迄繰延スルモノナリ」とある。


客年7月起工予定とは明治35年7月のことになる。川連小学校の新築工事は明治35年に決定していた。繰り延べは「暴風被害等一般経済界の困難」となっている。
議案第10号に「明治35年年度○税○入出予算中剛削除ノ件」が上程されている。これによれば臨時費として「校舎新築、機材計6408円60銭」とある。

学校新築が繰延しなければならない「気候不順暴風災害」とはどのような事だったのか。稲川史資料集第8集2編、稲庭古今事蹟誌巻「明治35年9月28日風害調」佐藤黎明 にその詳細がある、それによると「明治35年9月28日、朝より雨風起こりて次第に烈しく正午頃に至りて大風となり、川は俄に洪水となり屋根の石を落とし、木羽杉皮屋根板垂木扉障子等を飛ばし屁子店(ママ)等は道に倒、人さえも倒されて歩行もならす、、、、、。三島神社の拝殿は大杉倒れて微塵になり、、。午後3時頃より風弱くなり、、、、」とある。
さらに「当地暴風の損害は左の如し」
明治35年9月28日風害調
「全半壊55戸、大破350棟、小破69棟、製糸場全壊、陶器場全壊、負傷者9名、神社境内風倒木99本、損害田150町、畑160町、樹木転倒26万本、損害見積高42万4700円。田んぼはほとんど倒れ、籾は田面一面に散布ものの如、半作以下。作物は倒れ葉の満足なもの一本もない」とある。

稲庭から約7㌔ほどしか離れていない川連村でも同じような被害は想像される。この年東北地方を中心に米が平年の半作で経済界も大打撃。この暴風雨は「足尾台風」ともいわれ、千葉から新潟、北海道北部を通過、主に関東から東北地方に大きな被害をもたらしたといわれている。暴強風で収穫前のモミが田んぼ一面に散布したように散乱した状態とは信じがたい被害。

政府は明治33年北清事変で出費が大きく、日清戦争後の戦勝ブームで企業勃興が相次いだが、一方では株価が暴落、倒産企業も続出し資本主義恐慌に陥っていた。1月に日露戦争を想定した軍事訓練、「八甲田雪中行軍」で210名が遭難、5月に199名の遺体が収容された。

明治35年~38年までの議会は混乱に満ちている。開催通知から主な議案は「東福寺村と川連村との入会林の裁判、学校建築、役場(借家)、病舎等の修理、久保下川原河川復旧」等で相次ぐ追加予算、明治36年の追加予算案で、税の戸数割が当初予算案の23%増等が見られる。結果的に延滞者が多く村では役場職員だけで対応が難しく各地区に区長を置くという案が審議されている。議会を招集しても欠席者が多く再召集の通知が見られる。

そのような情勢の中で明治35年村長が辞表を出している。さらに助役、収入役等の辞職。書記職員の退職等村の執行体制の混乱が見られる。その都度代理村長名、議会議長代理の助役名で議会通知等繰り返されている。
代理村長では埒が明かずと見えて、明治36年2月に村長に川連尋常小学校の校長、「後藤喜一郎」氏を就任させた。しかし、その後も選任された助役、収入役等が辞任、税収の不足、追加予算等の混乱のが続いていたとみられ、役場の職員体制(村長含めて6~7名)で税収徴収等に手がまわらず、各地区に区長を置く提案が見られる。

後藤喜一郎村長名の議会通知は明治36年6月までで、その以後は助役が村長代理名で議会通知を出している。校長職から激変した状況がしのばれる。そのような状況の中で就任一年にもならない明治37年1月、「後藤喜一郎」村長が急死している。事態の集約のために村長欠員選挙会開催の請願書が出された。5名の議員は全員川連(根岸)、亡くなった「後藤」村長も川連だった。


請願は村長代理助役山内梅吉は大舘出身。選出過程は承知しないが結果的に明治35年辞任した村長「酒井文吉」氏が代理就任等にも見受けられるが混乱は収まっていないと思える。その後も収入役の辞任、相次ぐ議会招集も欠席が多く延期開催等の通知がみられる。
 
今の所、明治36年度の村会で明治37年に繰延された、その後の川連小学校新築の経過の資料が見つかっていない。そんな中で明治37年11月2日午後2時に「根岸学校の火災」が発生し備品悉く皆焼失と稲川町史 資料集 第11集にある。

明治37年12月21日、川連村長代理「山内梅吉」で下記の予算案が見られる。



これによると臨時予算として教育費2285円55銭が計上されている。学校敷地2反8畝10歩 坪単価60銭計510円、校舎新築費1329円55銭、古校舎買上450円等がある。

村財政ひっ迫の中で明治37年起債額2000円の償還財源に戸数割、地価割り等の他に高等科併設として、生徒一人一か年2円として80人分160円が計上されている。しかし、この計画も予定通りは進まなかった中で、明治38年10月23日に「川連小学校」は「根岸学校」と統合されて発足した。発足した小学校も翌年、明治39年3月の予選案で334円93銭が工事費として追加計上されている。

高等科のない川連尋常小学校に、明治37年6月の議会に補習科設置の案件が見られる。ここに「高等科がないため尋常科卒業の児童が無益な遊戯していることは甚だ遺憾、本校に補習科を設置し教育上の発達を計る」と要約される。
明治37年6月議会案件 川連尋常小学校に補習科設立の件

わが国に公教育制度が完成したのは、明治5年の学制の発布から28年後の明治33年(1900)と言われ、この年に義務教育の授業料廃止が行われ、義務制、無料制、宗教からの中立の条件が成立した。そのような制度の中で川連尋常小学校に併設条件と思われる生徒一人年額2円、計160円の予算が遂行されたのかは確認できない。
当初計画された高等科は併設できず、高等科が出来たのは計画から約10年も経過した大正4年に開設され、川連尋常高等小学校に名前が改称されている。

旧稲川地区で高等科設置が早かったのは駒形小学校が明治25年、三梨小学校は明治30年、稲庭小学校は明治32年。大正4年まで川連尋常小学校の卒業生は高等科に進むためには駒形、三梨等の学校に進んでいた。

下記は明治30年に設置された三梨小学校の高等科へ転校するために、それまで通学していた駒形小学校に曾祖父が提出した「退桟届」の下書き。高等科3年は現在の中学校1年、高等科1年は小学校5年生にあたる。根岸学校の地域から駒形の学校までの距離は約5㌔以上、三梨の学校までは約3㌔。当時子供たちは知識を学ぶ生徒は当然としても需要な働き手だったので通学時間が短いことは何よりも学校に通う条件だったと思える。

駒形尋常高等小学校 退桟届

昨年11月29日「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」に始まり、今年1月12日 に2、そして今回その後の資料が出てきて「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」3とした。
学校発足の明治9(1876)年はから明治38年まで約30年間、川連小学校が新しく生まれて「年貴志学校」(根岸学校)が統合までの資料は見つからない。

文久2年生まれの曾祖父が、高祖父からの教えで「読み書きそろばん」から「百姓往来豊年蔵」から論語、孟子、大学、中庸等を10歳前後から学んでいたことが分かっていた。明治新政府はそれまでの寺小屋制度を廃止し小学校の新設を奨励した。集落に「根岸学校」が生まれたころは曾祖父は14歳になり、学校に設立に高祖父が一部関わっていたらしい。「根岸学校」は巷間語り継がれてきたが詳細はほとんど知らないできた。「川連学校」が明治9年5月に開校されたときのはすでに「根岸学校」があったということを「稲川町史」で知り関心が高まった。

昨秋自宅の土蔵から出てきた議会通知等の資料から「年貴志学校(根岸学校)から川連小学校」シリーズ1~3をひとまず終える。「根岸学校」の詳細にはほど遠い。今後も資料収集、聞き取り調査等で追っていきたい。終えるにあたって振り返ってみたら今年は「川連小学校」開校140年に当たっていた。