goo自由日記

いろんな出来事を載せています見てくださいね!

ひろしま歴史街道散策くらぶ(雲石街道・西国街道)に参加する~!  2

2017-02-18 11:40:11 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 西国街道散策、続きます。
 
 ◎ 天満橋
  天満川にかかる橋。

 


 

 


 


 


 西国街筋の古くからある「内藤畳店」、茶碗や?

 


 


 ◎ 天満宮 → 天満町の要
  江戸時代初期に東の広瀬村の出作地で新開組に属し、普請小屋が所在したため小屋新町ト呼ばれていました。
  その後、西国街道に沿う広島城下の西の宿場となり、火災が頻発し水害も被り当地の有力者により、広島城下の東の尾長天満宮より分霊し、天明8年に当地に天満宮が勧請されました。

 
  


 


 旧山陽道に面しています。(西国街道)

  


 トイレ休憩を兼ねて天満宮を散策しました。

 


 


 


 菅原道真1200年記念碑、
 小さい「つばき」?のつぼみが珍しかった。

 


 年末には必ず、テレビで紹介される「林餅店」
 人気で皆さん、土産に買われていました、私もご同様にゲット。

 


 福島川が昔あった所、少し低くなっています。
 太田川放水路改修工事で福島川は無くなり、「都町」が新しく町ができました。


 


 


 


 ◎ 己斐橋 
  己斐橋は現太田川放水路に架かる、西国街道の橋。
  明治から国道筋の橋となり、昭和初期以前に有った山手川に架かる橋であった、
  1960年太田川放水路に整備された。
  幅 150m。

 


 


 太田川放水路は、現太田川、
 北から流れてきた太田川奔流が左岸東区牛田、右岸安佐南区長束で旧太田川で分流し、西区を流れて広島湾にそそぐ。
 延長9km。

 己斐西国街道。

 


 ◎ 滝の観音への道標
  西広島駅北と茶臼山山麓には、北方大塚村に至る里道があり、渓流に沿う谷間に昔から
  観音菩薩が祀られ、名水の湧水点に佇んで瀧の観音様と呼ばれていました。

 


 旧己斐鉄道の電車専用橋があり、ここに駅があり、原爆投下の翌日から電車が走ったと
 伝えられる。

 


 


 今は新己斐橋に移設されています。

 ◎ JR西広島駅 (己斐駅)
  己斐の地名は、福岡県=筑前国宗像郡許斐(こい)村から神社を勧請したとか、神功皇后
  が長門の熊襲征伐のおりに当地の県主がコイを献上し後に鯉村となったとか。
  広島城下と間宿の草津の中間地点として、古くから栄えました。

 今では、「ズッコケ3人組」=那須正幹:作  で有名になった。


 


 


 


 ※ 午後4時40分。
 本日の雲石街道、西国街道の散策も終了です。
 このコースは2度目の再訪でしたが、わすれている部分の多いのに驚き最確認の散策でした。
 9520歩、5,5kmの今日のスマホの歩数計です。
 己斐辺りから、すっかり足がだるくなりました。
 広電の電車でこ帰宅しました。

 お土産の「林の餅」も忘れずに・・・


 


 案内の佐々木先生、お疲れ様、皆さんお疲れ様でした。   END


ひろしま歴史街道散策くらぶ(雲石街道・西国街道)に参加する~  1

2017-02-17 11:24:20 | ひろしま歴史街道散策くらぶ

 ひろしま歴史街道散策くらぶ(2月定例会)に参加する!  

平成29-2/16(木) 13:00 中央公民館 集合 22名参加   

散策会  「雲石街道と西国街道」    

散策経路   三篠橋~横川橋~寺町~十日町~堺町筋~天満町~福島川跡~山手川跡~己斐橋~西広島駅   

案内人 : 佐々木卓也 指南役  13:00中央公民館を出発です。

 ◎ 三篠橋  三篠橋は楠木の材木蔵と対岸の運上場渡しを結んでいた、運上場(正徳5年 1715)は三篠橋の完成で無くなった。  

 ◎ 楠木の大雁木   

安佐群、山県郡方面からの川船の荷揚げ場所だった。   雁木は船着き場として使われていた護岸の階段で、潮の満ち引き等による水面の変化にも  接岸できるように工夫されている。  

 

 

     野鳥も出迎えてくれましたが何の鳥か分かりません。  

   本川(旧太田川)から広島城のお堀の取水口(堀川)  

 横川の材木商「小田億」の専用飛行機  

   横川と横川橋 → 城下の入口に当たる  (本川から分岐、横に流れて天満川となる)  

 本川(旧太田川) 寺町東筋の流れ、先端は北ん鼻  

 ◎ 横川胡子神社  商売繁盛の神様として祭られている  

 

 ◎ 本願寺広島別院 (仏護寺)  

安芸門徒の総本山で永禄3年に刑部小輔義信が建立し憎正信を開基とした、。   寺町と言い12坊が、浄土真宗西本願寺派が集っている。  

 

 旧空鞘橋の親柱 → 空鞘公園  

 

 

 ◎ 出雲石見街道道標  → 出雲へ41里     

 

  ◎ 空鞘稲荷神社   大きい空鞘と小さい彦山社の二社からなり、元禄のとき空鞘稲成明神となった。  

 狛犬は原爆の跡が痛いたしい。  

 旧空鞘町(十日市町二丁目)の町名が。  

 ◎ 旧出雲石見街道分岐  

西国街道の堺町1丁目から、北へ一本の脇往還が分岐します。 出雲石見街道=雲石街道と呼ばれる街道です。   坪村家具店の玄関脇に分岐を示す道標がありましたが、道路拡張のため、現在の空鞘神社   の境内に移転しました。   萩に移封した毛利家は、元就公の墓所へ通うため吉田往還とも称し、安芸国北部への重要な交通路で石見大森銀山・出雲大社・松江城下へ至っています。    

 

 

 

 土橋 界隈  → 昔、溜池があり土の橋が架かっていた。  

 

 

 西国街道筋の「芸陽堂」煎餅 → 良い香りが周囲を包んでいました。  

 堺町2丁目に店を構える「藝陽堂」は、明治44年に創業者が新たな広島土産に考案した   ことによります。   昭和27年に当地に移転し、芸陽の儒者頼山陽に因み、店主の平室賢氏が丁寧に焼き上げています。  

 

 小網町あたりはその昔「いろ町」(赤線地帯)であった。  

 今はなごりは残っていないが、周囲には髪結い(美容院)、性病の病院も多数あります。    長くなりますので 続きます。  

 続く・・・

 追加

 小田億 → 大正2年 木材店創業  昭和22「小田億材木店」昭和39年「家具センター小田億」

 小田億家具号は西飛行場が閉鎖になり、今は飛んでいないようです。

 

小田億家具号について、クリックして見てください。

   http://blogs.yahoo.co.jp/matsuji_0039/63146796.html?__ysp=5bqD5bO25bCP55Sw5YSE44Gu


ひろしま歴史街道散策くらぶ(1月定例会)に参加~!  2

2017-01-20 19:51:40 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 続きます。
 民家の「ろうばい」が綺麗に咲いて居りました。

 


 ◎ 法雲寺
  浄土真宗本願寺派

 


 


 路上の波と鳥の「マンホール」の蓋です。

 


  「宇品公民館」てトイレ休憩に立ち寄りました。
  ここでは「南区散策ガイド」みなみ区を行く、宇品・元宇品編のマップを頂きました。
  
 
 


  公民館隣接の「宇品第二公園」を横切ります。

 


 ◎ 神田神社
  東区牛田から宇品新開地に移ったが、台風被害を受けて昭和6年(1931)現在地に。
  (牛田浄水場の一角に小詞が今もあります)

   


 
 


 


 ◎ うじな保育園
  広島初の私立保育園創始者の碑 
広島市で最初の私立保育園が昭和4年(1929)田中イト女史によって誕生。
  教育の充実に貢献。
  (当時の写真と田中イト氏)

  (保育園では今日も元気な子供たちの歓声がしておりました)

 


 


 
 ◎ 千暁寺 
  浄土真宗本願寺派
  千田貞暁が宇品港建設で苦労した人々のための宇品説教所として明治21年頃に建立。
  被爆時は負傷者の救助、亡くなった人々を供養した。

 


 


 


 本堂に上がらせて頂き、住職の説明を受ける。

 


 ◎ 御幸松記念碑 
  明治天皇の広島幸行を記念して植樹された松、御幸松と呼んだ。
  何度も植え替えられたようですが、何代目かの松も枯れそうな感じです。
  (わずかに枝先が青かったです)

 

 


 



 


 ◎ 旧水上警察署
  明治42年(1909)に建てられた木造洋風建物で、左右対象に作られている。
  現在立ち入り禁止。
 (いつまでもつか、皆さんが残してほしい産物だと言っていました)

 


 


 


 


 ◎ 係留された船
  唱歌「港」に歌われたという風景。
  船は変わっても当時の様子が残っている。
  (市営桟橋付近、案内人の佐々木先生が”そおらも港も、よははれて~”と口ずさんで居られました)









  ※ 夕日が綺麗でしたが、午後5時、ここで今日の散策会は終了です。
  明治天皇が広島幸行の際に作られた御幸通りを歩きました。
  明治天皇は3回歩かれているとか?
  明治以来の港の発展と広島の歴史を感じる街です。
  防寒対策で厚着にホッカイロで暑かったですが、港へ来ると海の水は綺麗でしたが、
  風が冷たく寒かったです。
  皆さんお疲れ様でした。
  12000歩、7,1kmのスマホの歩数計でしたが、
  集合場所に早く行きすぎて、
  千田町付近を20分位歩きましたので、定かではありません。

    -END-
    

ひろしま歴史街道散策くらぶ(1月定例会)に参加~!  1

2017-01-20 10:43:00 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 ひろしま歴史街道散策くらぶ(宇品線沿線)に参加!
 平成29-1/19日(木)  御幸橋電停 13:30集合  16名参加

   「郷土資料館と宇品線沿線」

  散策経路
   ~千田廟公園~郷土資料館~神田神社~宇品電停~
  散策会 案内人  佐々木卓也 指南役

 ◎ 御幸橋
  明治18年(1885)、宇品築港事業にともない架橋された。
  140間(225m)規模の橋で当時でもっとも長い木橋であったことから「長橋」と呼ばれ、河口橋とも言う別称もあった。
  1885年8月、山陽道幸行の明治天皇が広島を訪問し、この橋を渡ったことから「御幸橋」と改称された。

 


 被爆直後に御幸橋西詰めで撮影された、有名な写真。

 


 ◎ 平和塔
  元日清戦争凱旋碑、昭和22年8月6日に改名。

 


 ◎ 御幸通り
  明治18年4月(1885)明治天皇の幸行を記念し、当時埋立て工事中だった宇品新開の新しい道で、宇品港までまっすぐの御幸松までの道。
  一段、高くなっています。

 
 


 


 ◎ 千田廟公園
  千田翁の偉業をたたえて宇品新開地記念碑などが建てられている。

 


 


 千田廟神社
 大正14年(1925)宇品築港を成し遂げた千田貞暁知事の偉業をたたえ、その御霊を祀ったいる。

 


 


 


 千田貞暁像
 宇品港築の功労者、右手には設計図を持つ。
 毎年、命日の4月23日には千田祭を開催。

 


 正岡子規の句碑
 「行かばわれ 筆の花散るところまで」
 従軍記者として宇品出港時の句。

 


 カルビー広島工場跡地(旧陸軍食肉工場跡地)
 カッパえびせん発祥の地。
 (真ん中のガードマンがいる辺り付近)

 


 ◎ 広島郷土歴史資料館
  旧宇品糧秣支廠(缶詰工場)。
  原爆の証跡が天井の鉄骨に残る。
  今は暮らしと歴史をテーマにした博物館。

 


 


 常設館の暮らしの展示物です。
 (懐かしいものが沢山あります)

 


 


 


 


 


 百年前の広島の写真もあります。

 


 NHKの「ぶらタモリ」で紹介された当時の写真も掲示されていました。

 


 特別企画展 
 『広島諸商仕入買物案内記』に見る明治前期の広島 の説明を学芸員の「本田さん」に
 詳しく説明を受けました。
 分かりやすく」楽しかったです。
 (撮影禁止ですので、購入した冊子からの画像です)

 


 


 長くなりますので続きます。


  続く・・・


大洲地区散策

2016-12-16 11:30:02 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 歴史街道散策くらぶの流れで「大州学区ふれあい講座」にでかけて、大洲地区を散策しました。
 12/15(木)大洲学区集会所 13:30  約30名参加
  
   「広島城下東郊の西国街道逍遥!」
       ~広島城下から広島東宿への歴史浪漫~

  広島の東部地区は広島城と上方を結ぶ重要な交通路としての西国街道が通じていました
  このことが現在の大洲地区の発展に繫がってきました。
  ということで、講師の「佐々木卓也」先生の講座を楽しく受けてきました。


  15:30 終了後は、大洲集会所を大洲通りを広島駅まで歩きました。

 


 講座終了後の散策は10名でしたが、外は小雨が降って、気温も6度位しかなくて異常に
 寒かったです。
 
 大洲通りは銀行が多数並んでいましたが、反面、戦後の住まいも残っていました。
 空き屋状態でしたが、新らしい建物のなかでは懐かしいものを感じます。

 


 マツダスタジアム迄きました。
 数人の見物人もいます。
 今年のリーグ優勝も今となったら夢のようです。
 
 


 


 カープ坊やのマンホールの蓋がくっきりと。


 


 マツダスタジアムの真ん前の「宮地嶽神社」です。
 福岡県福津市に総本宮がある神社で、主祭神は神功皇后。
 立派な鳥居の中に社殿は入口のように見える。

 


 
 


 マツダスタジアムへ続く道には宮崎県からの植樹と思われる「フェニックス」の並木も真新しいです。
 (カープが宮崎県でキャンプをする関係か?)
  
 


  戦後の荒廃した中で「歌声喫茶 ムシカ」が賑わっていましたその名残か再建されています。
  雰囲気があります。
  噂によれば「レコードコンサート」が開かれているとか?
  戦後は流川に有ったそうです。

 


 小路に入ると昭和の香りのする下町風情です。

 


 荒神橋は原爆橋梁の一つです。
 初代は電車専用木橋、いまでも電車も走る現役です。
 橋の親柱には「くわんじんばし」と「荒神橋」と西と東では違っています。
 (聞くところによると、京へ向かう時はヒラカナしか読めなくても京へ上ってくると偉くなって漢字でも読めるようになってくると聞きました。)

 


 

 


 的場町にある「原爆慰霊碑」です。
 犠牲者がここで埋葬された証です。


 


 「猿猴橋」 にやってきました。
 原爆橋梁の一つですが、現在の橋は大正15年(1926)架橋。
 当時広島一美しい橋と称賛された、ブロンズ製のワシが乗った親柱など華麗な装飾があった
 今年見事に復元されました。
 丁度夕暮れで照明も付いて幻想的な光景でした。

 


 
 


 
 


 


 


 欄干の猿猴と「桃」?のデザイン。
 西国街道と猿猴橋の説明板。

 


 


 復元記念の「猿猴橋碑」。

 


 広島駅までの約一時間の散策でした。
 小雨が降って、日が暮れて寒い散策でしたが、復元された「猿猴橋」が見れて良かったです

 広島駅からはバスで帰路に付きましたが、バスが出たばかりの20分待ちの時間が限界状態です。

 バス停からの広島南口再開発Bブロックの中国地方最高のビッグカメラの入る高いビルです。
(何んというかはこのときは分かりません、今でも分かりません(笑))

 



  

ひろしま歴史街道散策くらぶ11月定例会に参加~!  2

2016-11-18 11:12:01 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 続きます。

 ◎ 中群古道 
 広島城築城の時の道でもある古道、ほぼ完全に残っている、約400m。
 戦国時代末期、毛利輝元が広島に城を築くために、吉田郡山城から広島までの人の往来や
 資材の運搬に適した平地で最短のルートを選んで在地地主である井原小四郎に命じて造らせた中群道です。


 


 


 


 


 落ち葉を踏み、滑らない様に仮の杖で用心しての「古代道」の散策、木立の中はひんやり
 して、汗をかいた背中が冷たく感じましたがまさに中世を感じさせられる歴史の道です。

 ◎ 柳瀬吊り橋
  橋脚の北が、町の境になっている。
  南側が狩留家、北側は白木町三田です。
  昭和38年に木で作ったが、40年の大水で流され41~42年に鉄の吊り橋になった。

 


 
 
 


 


 橋の中ほどからの三篠川です。

 


 再び、宮原古道を歩きます。
 道に沿って流れる農業用水は改修工事はなされていますが当時の流れです。

 


 ◎ 紅梅山天満宮  
  ご祭神: 菅原道真公
  この地域は昔は、皇室の領地だった。
  屋根瓦の「神」の文字が・・・


 


 白木山が見上げられる景観です。
 標高890m。

 


 ◎ 西八幡神社
  ご祭神 : 品陀和気命 (応神天皇)
  江戸時代の中期、元禄10年(1690)の建立。
  一部、室町時代の部材を有している。
  広島市重要有形文化財に指定。

 


 


 


 


 


 


 


 もみじと銀杏が紅葉して見事です。

 


 


 
 ● 民家の「皇帝ダリア」が咲いて迎えてくれます。

 


 ◎ 狩留家胡子神社 
  どこにでもある「胡子神社」です。
  となりが郵便局になっています、郵便局は大抵町の中央に位置するそうです。

 


 ● 宮原街道です、古い町並がわずかに感じられる通りです。

 


 ● 旧芸備銀行跡
  大正2年、広島銀行の前身である芸備銀行の支店もあった賑わいがある。

 


 駅前の「中群古道」の案内板も新しく設置されています。

 


 16:20狩留家駅到着です。
 江戸時代の、三篠川沿いの物資の集積地として栄えた町の古道散策でしたが、まさに中世を
 感じさせられる歴史の町です。
 狩留家の地名の由来は 狩留家は昔、皇室の領地で稲置狩倉が設けられとことによると謂れています。
 狩倉には、常に禽獣が生息しやすい環境が保たれていて、宿泊施設もあった。
 このことから「もののふ」が、「狩」をして「留」まる「家」すなわち「狩留家」となったのが地名の由来とされています。

 



 16;35発のJR芸備線広島行きで帰路に着くべき、解散でした。
 好天気に恵まれて、少し暑かったですが、皆さんよく歩きました。
 11000歩、6,7kmの今日の2時間半のスマホの歩数計です。
 関係者の皆様、お疲れさまでした。   END

ひろしま歴史街道散策くらぶ11月定例会に行く~!

2016-11-18 09:12:14 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 ひろしま歴史街道散策くらぶ11月定例会に参加!
 28-11/17日(木)JR白木山駅 14:00集合 11名参加

   散策会  「三田往来と群界地域
   案内人  佐々木卓也 指南役

   散策経路
  白木山駅~順覚寺~西福寺~福永八幡神社~宮原観音~柳瀬吊り橋~紅梅山  天満宮~ 西八幡宮~狩留家駅
  
 三田往来は古代、高田郡三田郷(現在の白木町域)から安芸国府へ往来があり、吉田郡山
 (俗に吉田道)と三次支藩(三次・中郡)への連絡道として、中世以来多くの武家が駆け抜け  ました。
 江戸時代には、狩留家からは、賀茂、豊田の各地の年貢米が繰りだされ、三田船=三篠川
 舟運により広島城下に運ばれ、内陸地域への貴重な交通路ともなっていました。
 今日は、その一部を歩きます。

 


 14:00 白木山駅到着です。
 11名と少数でしたが、元気に出発です。

 ◎ 順覚寺  → 浄土真宗本願寺派
  明応8年(1499)開基。
  元は真言宗。
  本堂に上がらせて貰って拝ませて頂きました。
  500年近く古い、経堂があります。

 

  


 
 


 


 


 ◎ 楢崎修策翁頌徳記念碑
   楢崎街道を切り開いた功労者。

 


 


 ● 小椿橋  → 三篠川に架かる。

 


 ● 農村下水道 のマンホール

 


 ◎ 福永八幡神社
  大正年間に奉納した石燈籠がある。  
  宮原の郷倉からの米の積み出し場所があった。
  広い境内があり木立もこんもりとした、神社の神域らしい場所でした。 

 


 
 


 


 


 ● 民家の大きな「ゆず」と思われる果実です。

 


 ● 五庵城跡地
  (JRの道路建設工事で分からなくなったみたいです)

 


 ● 最も古い小道です。

 


 ● 民家の畑にはまだヒマワリが咲いて居りました。


 


 ● 三篠川
  太田川支流 1級河川

 


 


 ◎ 宮原観音堂  → 川床より30cm程度の岩盤上にあり、「やつで観音」を祀る。

 


 これより、山道に入りますので、木の小枝を利用して「杖」代わりにしました。


  続きます・・・


ひろしま歴史街道散策くらぶ(5月定例会)に参加する~!  2

2016-05-20 14:50:39 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 引き続き古代道の小路を歩きます。

 ◎ 鶏頭原薬師堂
  上安村の武田氏の祈祷所より、武田氏の滅亡後、行基作と伝わる本尊薬師如来を同村野村氏の境内に移したと言われ、薬師堂は元禄年間(1688~)6代野村正悦が創建したと記録されている。
  お堂の下に、かっての古代山陽道と言われる幅2m足らずの小道が残されている。

 


  


 


 


 ● 道端の「ほたるぶくろ」を見ました。

 


 ● 安川 
  昭和初期のころまでは、ウナギがよく取れていました。
  いまでは、鯉や水鳥などが見られます。
 
 


 ● 銀山橋
  橋の上流は数軒の商店が賑わっていたようです。

 


 ◎ 正伝寺
  寛和元年(985)に浄土宗の始祖恵心僧都の高弟恵空が、武田山の北麓に阿弥陀寺を建てたのが始まりとされる。

  銀山城主武田氏の菩提所となってからは光賢寺と称してからは同氏の厚い保護の元栄えた
  慶長元年(1596)現在の地に移り、同10年(1605)に金尾山蛍光院正伝寺と改めた。
  寺には4代広島城主浅野綱長の描いた当時の写生画が残されている。
  また、境内にはクロガネモチの巨樹があり、広島県の天然記念物に指定され、この木は
  福島正則が朝鮮の役の時に持ち帰った苗木を植えたものといわれ、樹齢400年と思われる。

 


 


 


 


 


 本堂に上がらせて貰い、先生の説明がありました。
 今の、祇園北高校の近く「たつはら」に昔、仏護寺(現在の別院)12坊がありました。
 そのうちのこの「正伝寺」が1ヶ寺と、祇園の「連光寺」以外は現在の「寺町」に移設しました。
 由緒ある浄土真宗のお寺です。

 


 庫裏の裏の「お庭」も見せて頂きました。
 廊下の角の柱の「彫刻」のセミはこの寺の見どころの一つでもあります。

 
  


 


 ◎ 恵比須神社
  文政4年(1821)8月に笠岡幾左衛門の発起によって建てられたもの。

 


 


 


 ◎ 安公民館
  安公民館で休憩です。
  館内では「安の花田植」が10年前から復活されて、「張り子のオブジェ」があったり、画像の展示がしてあり、今年も「6月12日(日)」に安東公民館の隣で行われるようです。

 


 


 
 


 ● 新しく塗装された家紋入りの土蔵。

 


 ● 慰霊碑
  平成3年、アストラムライン工事で事故に合われた犠牲者の「慰霊碑」です。

 


 ◎ 上安駅
  解散場所のアストラムライン「上安駅」です。

 



  ※、午後5時15分、今日の旧山陽道の散策会は終了です。
   午後の日差しの強い中の散策会でしたが、初めてのコースで楽しかったです。
   小路、古道の残っている街中をぐるぐると巡りました。
   新しい県道も車が多く、私立大学や、市大とか教育文化地区でもあり戦後発展した地区でもあります。
   9000歩、5kmの今日の万歩計でした。
   5:20発のアストラムライン電車で帰りました。
   皆さん、お疲れさまでした。

   
 

ひろしま歴史街道散策くらぶ(5月定例会)に参加する~!  1

2016-05-20 10:45:29 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 ひろしま歴史街道散策くらぶ(5月定例会)に参加!
 平成28年5/19(木) 13:30 アストラムライン長楽寺駅 集合 19名参加

  散策会  「古代山陽道と安地区散策」

  散策経路  
   長楽寺~光明寺~鶏頭原薬師堂~銀山橋~正伝寺~恵比寿神社~安公民館~上安駅
  
  案内人 :佐々木卓也 指南役

 長楽寺地区は、北側の荒谷山、南側の武田山・火山に挟まれ、その間に流れる安川に沿って広がる町です。
 明治22年(1889)、当時の沼田郡中須、大町、相田、上安、高取、長楽寺の6つの村が合併し安村が誕生。
 昭和48年(1973、広島市に合併、昭和55年(1980)の政令指定市郡市移行を受けて、現在の安佐南区の一部となっています。

 ◎ 富士川游先生顕彰碑 
  日本医学史の研究によって恩賜賞を得、日本医学史学会を創設した富士蚊川游氏の碑。
  医学と文学の両博士号を取得していた(当時は、森鴎外と2人だけ)。
  
 

  


 ◎ 長楽寺跡
  長楽寺観音堂
  延喜5年(905)に真言宗として開かれ、戦国時代には武田氏や、毛利氏の祈祷所として繁栄した。
  かっては壮大な寺院であったが、慶長6年(1601)福島氏が広島城主の時、寺領を没収され衰退、廃寺となった。
  後に観音堂が建立され33年毎に本尊観世音菩薩像を拝むことができる御開帳が行われてきた。
  
 


 


 


 


 最近では平成14年(2002)がこの33年目に当たり、お堂の修復も行われた。
 
 ◎ 新宮神社 
  かっては神仏習合によって長楽寺内に合祀されていたが、長楽寺が廃寺となった後、亨保元年(1716)に現在の場所に社殿が移つされた。
  境内の「イチイガシ」、「イヌマキ」は広島市の「天然記念物」指定されている。

 


 


 


 ● 途中の白い花、「うつぎ」の花。

 


 ● 古代山陽道  
  古代山陽道は都から諸国に延びる官道(今でいう1級国道)で、大化2年(646)に駅制が定められて以降、朝廷が唐の制度を見習って整備したものであり、その大路としての山陽道がありました。
  安芸の国の道は、峠越えや川渡りなど難所続きだったと言われ、道幅は極めて狭く、馬が通る程度の道幅であったと推定されています。
  安佐南区内では、戸坂から川を渡って東野付近から相田、安を通り、現在のアストラムライン沿いに大塚・石内方面へ抜けたと考えられます。

 


 


 ● 仁王門の跡
  仁王門の跡地が記録に残るが、門の伽藍は仁王尊とともに厳島神社に移譲されたと伝わっている。
  荒谷山登山道の途中に、不動院、鐘楼(奥院)がある。

 


 ◎ 道標 →  不動道 是より18丁


 


 ◎ 常夜燈・灰状穴 (詳細不明)

 


 


 古道 → 3尺足らずの古道を重点的に歩いています。
 (先生曰く、かなり良く残っている、そうです)

 


 右に「火山」「左に「武田山」の見ながら・・・

 
 


 ◎ 下田屋敷跡  
  地元では「どうどう神様」とも呼ばれている。
  江戸時代に繁栄した下田家があった場所。

 


 ◎ 光明寺  → 浄土真宗
  弘安2年(1279)に真言宗福光寺第28世慈教が夜珠(やす)の庄(荒谷山)に円妙院を建立したのが始まりです。
  真言宗の霊場として200年にわたって栄えて来たが、寛正元年(1460)第13世性空 が蓮如を師事し真宗に改めた。
 戦時中、兵器の材料として軍に供出された釣鐘は、幸い溶かされずに、戦後、変換されたものである。

 


 


 


 


 


 境内の外を取り巻く「石垣」は江戸時代のものです。
 少し休んで、又、散策します。

  続きます・・・


ひろしま歴史街道散策くらぶ3月例会に参加する~!  2

2016-03-18 08:32:40 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
  八木梅林へ続きます。

 ◎ 八木梅林
  昔の八木梅林橋は欄干がない小さな橋でしたが、古川土地整理事業により新しくかけられました。
  現在の八木梅林橋には、平成7年(1995)に佐東地区内の小学校の児童が描いた12枚の陶板画が設置してあります。

 


 


 「八木梅林」の名は古くからあり、慶長12年の太田川の流路変換でこの地に梅の木が植えられたと言われる。
  梅林の広さは1万坪もあったそうです。
  花見 時には殿様の野点(野外で立てる茶の湯)があったり、多くの人が訪れたりしました。
  又、日清戦争のころには薬用として知られていました。

 


 


 


 


 


 第一古川は、蛇行した水路による親水護岸、樹木や丸太橋などのある散策路が整備され多くの人々に親しまれています。

 


 (カモが居ましたが、撮影できませんでした)

 ◎ 胡子神社
   八木城主香川氏の経営したと思われる市場集落跡地。
   市場の守護神として祀られている。

 


 ◎ 佐東公民館
   2014年の土砂災害では避難者が生活した場所でもある。
   (30分休憩しました)

 


 「今井一記念碑」 元役場前に設置されている記念碑?

 


 ◎ 胡子神社 中道
  この辺りは七軒のお茶屋が並んでいた。

 


 


 県道にかかる小さな「太郎橋」。

 


 ◎ 黄幡神社
   ご祭神 :素戔嗚の命
    安川と古川に挟まれ度重なる洪水による氾濫の原を形成。
    寛政年間(1890年代)旧家の土井家の屋敷神として祠が建てられた。
    秋の収穫時、お正月等多くの人が参詣するようになった。
    明治11年(1878)本殿を再建、大正15年(1926)社殿を西向きから東向きにした。

 


 


 境内の大木の「イチョウ」の木の「乳だれ」はすごい大きさだった。

 


  ◎ 胡子神社(中須)
   雲石街道に位置する今日、3個目の胡子神社です。


 


 


 中須、雲石街道です。
  
 

 
  ※ 上八木駅から、八木、梅林、七軒茶屋、中須と通過してきました。
   気温も四月を思わせる温度で、歩くには暑かったです。
   緑井の土砂災害地を右に見ながら、昔の人が山より少し離れた街道を出雲方面へと歩いていたのでしょう。
   夕方、5時前、アストラムライン「古市駅」で解散でした。
   よく歩いて、14000歩、7,2kmの今日のスマホの歩数計です。
   皆さん、最後の頃は、だらだらでした、私も足が、パンパンでした。
   皆さん、お疲れさまでした
!!