2023年10月21日(土)
聖地巡礼ツアー 第28回「五大山白毫寺と光明山観福寺」・・の空席が4名となりました。
そして、コースを光明山観福寺へ行ってから白毫寺へと行くように変更します。
どうも・・、法道仙人(定恵)さまにご挨拶して、一緒に定恵さまと共に皆で白毫寺へと行くのが流れのように思います。
皆さんが来られるのを定恵さんが心待ちにして居られるようです。
そのようなことで、私もその日を楽しみにしています。
お申込みは、トーラス テラファイト クラブ(T.T.C)迄。
2023年10月10日(火)
兵庫県丹波市には凄い秘密が隠されていました!
なんだかんだと言っても丹波は凄いのです!!
・・
これは、藤原鎌足~定恵・藤原不比等ら藤原家の執念からくる願いです。
「私達の先祖は、高句麗の第11代山上王であり・・第5代慕本王(カンショウシ)=綏靖天皇(ヤマトタケル)であり、第三代大武神王=神武天皇=大国主命=大黒天=大己貴命=葦原醜男・・などなど呼ばれ、なんと西洋名はイエス・キリストだ!」と言い続けているのです。ビックリなのです。
今、パレスチナ人の小さな自治区、ガザ地区からハマスがイスラエルへ進行を開始したという大変なニュースが世界を震撼させています。
このユダヤ問題の根深い起因は、我が国の1900年ほど前の歴史に遡るのです。
世界が大混乱に陥り、そして世界の人々が疲れ果てた時、・・この日本に助けを求めてくることでしょう。
いよいよ、かごめの唄にある『夜明けの晩』に突入です。
桓武天皇の命を受けて、最澄が天台山へ行って持ち帰り白毫寺へ持って行って埋めたものは何か!? 空海が再度山大龍寺から北に位置する白毫寺に手を合わせた意図は何か!? 和気清麻呂が桓武天皇に進言したことが聞こえてくるようです。
・・
「急げ!時間が無い!お前が一日遅れればどれだけの人間が死ぬかお前は分かっているのか!!」と言われ続けてフェニックスコードを復元し、古代天皇達の墓である重要な山々へと行かされましたが、ここに来てその意味がハッキリと解ってきました。
道のりは遠いかもしれませんが、分かったものから手を合わせ行動することです。 その後に必ず心ある者が続き風を起こすことでしょう。
お申込みは、T.T.C 迄。
2020年8月7日(金)
兵庫県三田市の光明山観福寺から見える光明山は、藤原鎌足の長男とされる定恵の墓である。
定恵は孝徳天皇の落胤(らくいん)である。
また定恵は、謎の人物、法道仙人でもある。
そして、藤原鎌足の次男とされる藤原不比等は、天智天皇の落胤である。
その藤原不比等は、双子の弟である。
不比等は藤原家では次男となっているが、天智天皇のDNA的流れで言えば、天智天皇の三男である。
長男は大友皇子(弘文天皇)、次男は誰かというと、稗田阿礼である。
そして、聖武天皇の妃、光明皇后は藤原不比等の娘となっているが、兄 定恵=法道仙人の娘である。
行基と橘三千代との子である。2923年10月10日加筆訂正
不比等は、光明子の養父である。
その光明子が眠る光明山がある地名は養父市(やぶし)であるが、養父に育てられた光明皇后が眠っていることを語り継いでいる。
嘘のようであるが、本当の話である。
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これらのことを教えられている私としましては、翌日の光明山山頂へ上り、光明皇后と身近に対面できることに少しワクワクドキドキでした。
でも少しだけ、クマさんのことも気になる私で、「・・でも神様の使いで行くのだから、何があっても守られる」との強い思いもありました。
・・
旅館 古城に着いたのは夕方6時頃で、急いでお風呂で汗を流し、6時半から食事でした。
武部さんは私のお願い事で、小野妹子の墓と孝徳天皇陵へとお参りに行ってもらいましたが、DNA的に小野妹子~孝徳天皇の流れで、
孝徳天皇の子供の定恵、定恵の子供の光明子という流れですので、武部さんに小野妹子と孝徳天皇が乗ってきて、定恵の墓に行って、翌日に三人が光明皇后の神殿に行くという計画でした。
・・ので、夕食の場には、光明子をのぞいたお三人さん方が居るという感じで、この世の人が私を含めて三人。
あの世の方が三人で合計6人の御霊の宴会でした。
「私は、ビールは口にしたことはありませんので、出来ましたら日本酒で・・」ということで、ビールと日本酒で話し込む宴席でした。
立派なお御霊6柱の宴席には、おもてなしの心と気配りがなされていました。
飲みつぶれることもなく、おごそかな時間はあっという間に過ぎて、部屋に帰った私はすぐさまバッタリと寝入ってしまいました。
そのせいもあって、十分に寝て起きたのは夜中の3時頃でした。
それで、スマホで光明山の登山コースの情報を初めて、次々と読みふけりました。
そして、自分なりに登るコースと地点を地元のおじさんの助言も含めて決めてから、また眠りました。
思いはもう、上るコースと頂上のイメージを描きながら目をとじました。
・・
朝、「武部さん、このコースで行きたいと思いますが、どうでしょう・・」と。
すると武部さんも同じコースを考えられていた様子でした。
そして朝食を済ませ、早めに宿を出発。
宿から登り口まで車で、15分ぐらいでしたでしょうか・・。
地元の人が教えてくれた場所はすぐに分かりました。
登山靴に履き替え、スパッツをまいて準備OKです。
さぁ~光明山へ巡礼登山開始です!!
2020年8月6日(木)
1日(土)三田市の光明山観福寺から兵庫県養父市へと移動し、翌日登る養父市の光明山へ登るルートの下見をした。
光明山のすそ野には、古墳が沢山存在している様子を知ることができた。
ちょっと尋常ではないおびただしい数のようである。
下見は、山裾の西、大藪から南の口米地、そして中米地と見て回った。
中米地から川沿いに北へと進むとネットの扉で道路がふさがれていたので、引き返した。
途中、男衆が村の掃除仕事の終わりに集会を開いてくつろいでいる様子が見えていたので、山へのルートを聞いてみた。
2,30人ほどでしたか皆さんは仕事も終わって、一杯飲んで居られましたねぇ。そこえ私が・・
「すみません、上の光明山へと登りたいんですが、どこから登ったが良いのでしょうか。道を教えてもらえませんでしょうか」と。
「んん^^わからんなぁ」
「わからんなぁ・・、おまえ分かるか?」
「向こうの人に聞いてみな」
私が宴席?をぐるっと回って聞いていきました。
私:「光明山へと登りたいんですが・・」
村人:「ところで、何しに山へ行くんだ。山にはクマがいるぞ」
私:「えっ!熊が居るんですか!!」
村人:「子熊でも居たら大変だぞ、親が攻撃してくるぞ!」・・と、口々に言われます。
私:「熊ですかぁ・・、でも神様に言われたんですね、お酒を持って挨拶に来いと言われるんです」
村人:「酒持って挨拶に来いと・・神さんがか・・」
村人:「お前、猟師だからわかるだろう・・」
猟師:「山頂までは無理だ、険しすぎる」
私 :「じゃ~すみませんが、明日、道路をふさいでいる扉を開けて入ってもいいですか」
村人:「ああ、良いよ」
私 :「ありがとうございます」
村人:「扉を開いてまっすぐ行ったら左手にコンクリートの貯水槽みたいなもんがあるから、そこから登ったらいい」
・・と教えてもらいました。
「ありがとうございます!」「気を付けて行きぃよ」。
村の人達でも光明山山頂に登った人は、ほとんどいてない様子でした。
猟師の方だけが、「山頂に行っても何もないぞ、景色も見えんぞ」と。
でも私としては、ふさがれた扉を開けた入って良いという了解をもらえただけででも凄い安心感が湧いてきました。
泊まったお宿は、『旅館 古城』でした。
いよいよ翌日は、目指す光明皇后の陵墓である光明山です。
2020年8月4日(火)
観福寺の山門を入った先に見える山は、光明山だった。
頂上には、あづまやが在って、ひょうごの景観ビューポイントにも選ばれるほどの景観を眺めることができる素晴らしいポイントでした。
いろいろ素晴らしいことは、武部さんがブログで紹介してくれるでしょうから、私は報告だけを記します。
あづまやの先に石佛がありますが、その下に石室の大きさは凡そ4m×6mの片袖型の古墳が存在します。
私がテラファイトコアで作ったゼロ磁場Lロッドコアの威力は、抜群の反応を即座に示しました。
2019年12月5日(木)
藤原不比等の墓を教える綺麗な図形が浮かび上がって・・。
藤原不比等の墓参りにあたり、上の図形は私に多くのものを示唆しているように思えて、定恵の墓の麓にある観福寺へも法道寺へも正法寺へも私を急がせた。
そこから、私達の先祖のルーツを教えていることが垣間見れました。
そして・・、元正天皇が法道寺と正法寺を使って、卑弥呼の墓の位置を教えていることが浮かび上りました。
元正天皇陵と法道寺と卑弥呼の墓は直角三角形になっています。
又、元正天皇陵と正法寺と卑弥呼の墓も直角三角形になっています。
そして・・、卑弥呼の墓までと元正天皇陵までと同距離になるポイントにな~~~んと、「美女山」という美しい名前の山があるのです。
元正天皇は独身の女性天皇だったということですが、女王と天皇の2人は、「美人でしたねぇ!」と山に語らせているようですね。
しかも30度60度90度の基本形の直角三角形をシンメトリーにしています。
これは元正天皇は嬉しいでしょうねぇ。
・・と言うことは、「美女山」の名付け親は、正法寺を開基した泰澄大師のように私は思います。
美女と言われるのは卑弥呼おばさんも悪い気はしないでしょうが、「元正天皇ってだ~~れ?」と言って居られるのか、「それは有難い!」と言っておられますやら・・?
卑弥呼の墓と法道寺と美女山の三点は、ケプラー三角形になっています。
今まで、不比等君と卑弥呼おばさんとの関係図がありませんでしたが、ここにきてやっと賀茂遺跡とで綺麗な直角三角形を描きました。
不比等君は、卑弥呼のことを「美女だった」とは言ってませんが、出会ったこともない人に「そのようなことは言えません」と、不比等君らしいような・・。
・・と言えば、卑弥呼おばさんにも不比等君にもお叱りを受けるでしょうかねぇ私は。 ぺこり!
2019年11月30日(土)
藤原不比等公のお墓参りまであと一週間となりました。
不比等公のお墓への上り口には、嵯峨天皇勅願で空海様開基の真言宗の阿祇園寺があります。
下の図を見ていただきたいと思います。
法道仙人開基という真言宗の法道寺と、藤原不比等公の墓とを結んだ左右の図形は、完全なシンメトリーを描きます。
法道寺から真言宗のお寺である岩間山正法寺までと、真言宗の観福寺の上の山に眠る不比等公の兄の定恵の墓までも61㎞と同距離です。
不比等公の墓から正法寺までと定恵の墓までも32㎞と同距離です。
法道寺から加茂遺跡までと鎌足公古廟から移し替えられた藤原鎌足の墓までの距離も40.9㎞と同距離で、不比等公の墓から加茂遺跡までと藤原鎌足の墓までも36.41㎞と同距離です。
綺麗な図形を空海様が浮かび上がらせました!
2019年11月27日(水)
23日(土) 高貴な人が眠る大事な古墳である山を見る為に、麓の観福寺の電話番号をカーナビにセットして神戸から車を走らせました。
どうして行ったのか!?
・・それは・・、四天王寺で手を合わす先は、鎌の形をしたコンタラインの長老ヶ岳でした。
その長老ヶ岳と鎌ヶ岳にある藤原不比等の墓と、36度54度90度の正五角形の一部をなす綺麗な直角三角形を描く場所に、前方後円墳があり、その山裾に、観福寺があったからです。
今年の春、藤原不比等公1300年法要に呼ばれるにあたり、藤原不比等の墓の特定をし、それに続いて、長男の定恵の足取りを追い求めていました。
そのきっかけになったのは、定恵にまつわる山梨県早川町の西山温泉でした。
そのような流れから、定恵の墓が浮かび上がってきました。
以前私は、紀貫之の墓が、どうして比叡山延暦寺根本中堂の東の山中にあるのかが不思議でなりませんでしたが、ここに来て、紀貫之は定恵の秘密も全て知っていたということが証明されそうです。
梵字の「ア」「ウン」には大きな意味を感じます。
小さいですが、「ホ・キ」の山もありました。(下)