2023年1月30日(月)
淡海三船のお墓である奈良市高畑町1352にある比賣神社の小さな境内には神像石(かむかたいし)と書かれた札の奥に4つの石と淡海三船と池辺王と葛野王と弘文天皇と・・十市皇女と父子4代の名前。
この父子4人の中で、池辺王=道鏡とすれば、空海コードは見事につながりました。
池辺王は道鏡である!と言い切れます。
2023年1月30日(月)
淡海三船のお墓である奈良市高畑町1352にある比賣神社の小さな境内には神像石(かむかたいし)と書かれた札の奥に4つの石と淡海三船と池辺王と葛野王と弘文天皇と・・十市皇女と父子4代の名前。
この父子4人の中で、池辺王=道鏡とすれば、空海コードは見事につながりました。
池辺王は道鏡である!と言い切れます。
2023年1月23日(月)
高塚山の葛野王のお墓である。石室は神社の鳥居をくぐり、階段を上って開けた境内の左手下である。でもお社は、正面にある。
私は今回、高塚神社の社の向きを計測して帰った。
人が社に手を合わす先は、60度であったが、その場では誰しも手を合わす意味が分からない。計測してから家に帰るまで「お楽しみだった」「手を合わす先には何があるのだろう・・」と。
帰ってから地理院地図を開いてその先を調べると・・高塚神社の社で手を合わす先は、三重県伊賀市鳳凰寺にある弘文天皇の墓だった。弘文天皇は葛野王の父である。
お社に手を合わす先には、壬申の乱で敗れ無念の死をとげた父、弘文天皇のお墓に手を合わす設計になっていた。
2022年12月20日(火)
湖西線の志賀駅前から堂満岳に向けると黄金の幅6mをキャッチした。
そして次は、びわ湖バレイのゴンドラで一気に山頂駅まで行って、そこからコンパスグラスで30度方向にある堂満岳にコアロッドは黄金の幅6mをキャッチした。
この二つのデータから私は石室の向きを推測した。するとそこには・・、百里ヶ岳を教えていた。
堂満岳は芦屋道満の墓であるが、その道満の石室が教える先は、南は、草壁皇子の墓であり、その先に弘文天皇の墓である。
そして北のほうには、百里ヶ岳であるが、百里ヶ岳は・・、藤原百川の墓だと響いてきます。
上の写真は、志賀駅からの堂満岳。
下の写真は、びわ湖バレイ山頂駅からの堂満岳。
2022年12月8日(木)
12月3日(土)三上山の雌山に上った。そこには草壁皇子の墓が在るとの空海コードは描き終わっていたので、確かめるべく調査にやっと行くことができた。
そしてそれは十分に確かめることができた。
いつもより私は、時間をかけて丁寧に調査をした。
その間に、前田さんと三津谷君は、近辺の調査に行って帰ってきて、「立派な磐座があります・・」との報告をもらったので、石室の調査が終わってから連れて行ってもらった。するとそこには、見るからに立派で、何か重要な方位を教えているように思えたので、コンパスグラスを取り出して控えて帰った。
そして事務所に帰ってその方角を調べると・・見事です!
2020年11月11日(火)
先日、額田王の墓へと行った時、お墓の上で中原椿さんが、
「ここは誰の墓ですか?」と。
私は、「エッ!? ぬかたのおおきみ の墓です」と言うと、
「愛知県にも岡崎の近くに額田郡という地域があります」と教えてくれました。
「エッ!!」
・・壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河方面に援軍を求めたこと。
そして、これらの地の豪族たちの協力が得られたことが弘文天皇(大友皇子)側に伝わるや、弘文天皇側の従者たちは怯えて戦意を喪失したという。
私には、この謎がづっと頭の片隅にあった。・・「なぜだろう・・??」と。
その謎が、額田王の墓の上で椿さんが発した言葉で、「もしかしたら・・」と、三角法でその謎が解けるのではないかと後日、ネットで「額田郡」の歴史を調べて、地理院地図で調べると、やはり思った通り浮かび上がりました。
それが、下の図形です。 ここから謎の祢がたどれそうです。
額田郡を調べると京ヶ峯という山の存在が浮かび上がりました。
『峯』とは、へブル語でお墓の事ですから、額田王と大いに関わりの深い大部族の首長の墓なのでしょう。
そのような関係から三角法でのもう一点を求めると、安栖里が浮かび上がりました。
安栖里と言えば、卑弥呼の息子の嫁の里で、卑弥呼が岩戸隠れしたあとに応神天皇が幼少の頃に過ごした思い出の地でした。
まさか・・、もしかして・・、と安栖里(500m)の山(墓)と京ヶ峯との二点からタレスの定理で求めるラインを見ていくと、ズバリ天武天皇の墓が存在しています。
このことは、天武天皇と額田王は、濃い血縁関係であることが読み解けます。
2020年11月2日(月)
10月25日(日)の朝は、早く眼が覚めて、広い窓の下の腰の襖戸を開けて、布団に入って寝たまま川を眺めていました。
お宿 平井亭の粋な設計に感心しながらその意図どおりに川を眺めていました。
贅沢なひと時でした。
そして朝8時にお願いしていた朝食も川を眺めながらゆっくりと食事をしていたら、あっという間に9時半を過ぎて、出発でした。
葛野王の墓は、平井亭から車で20分ほどでしたでしょうか・・。
葛尾から奥西の山頂にある高塚神社がその場所でした。
入口の茶畑からは、遠くに天照大神の墓である神野山が見えていました。
さすが武部さんです。境内の土間に東西南北の方位石があるのを発見しましたね。
さすがに天智天皇、弘文天皇と天武天皇の血を引く葛野王の墓には、地底に立派な石室が存在しています。
階段を登り切った正面に祠がありますが、お眠りになっている場所は、階段を登り切ってすぐ左手下です。
桜の木が三本ありますが、その前です。 さすが、立派な大きな石室です!
2020年10月31日(土)
額田王の墓から、額田王の娘である十市皇女の墓へと向かった。
お墓への登り口には、十二神社があった。
武部さんは、車を神社に停めて、左脇の坂道を登っていった。
十市皇女さまは、人知れず人の来訪もない山中にお眠りになっていました。
でも、母君であられる額田王さまも私たちと同行されて、千三百年余りぶりの再会をされたことでしょう。
いえいえ、弘文天皇も天武天皇さまたちも同行されたかもしれません。
「明日は、十市皇女さまとご親族一同が、額田王さまとご対面されることでしょう」と思いながら山を下りました。
そして、そこから名張毒ぶどう酒事件の舞台となった葛尾にあるお宿へと武部さんは車を走らせました。・・つづく
2020年10月28日(水)
王家の方々のお墓参りと確認作業は続いています。
10月3日(土)弘文天皇の墓
4日(日)天武天皇の墓
4日(日)志貴皇子の墓
24日(土)額田王の墓
24日(土)十市皇女の墓
25日(日)葛野王の墓
・・と、お墓参りに行ってきました。
それらの場所は、全て山の上に造営されています。
『崇める』の字は、それらのことを端的に教えています。
現人神たちは、山の上に葬られ祀られているのです。
現代の考古学の学芸員の方々の常識とは、「お墓は山の上にはありません」という常識がまかり通っているようですが、いつまでもそのようなことを偉そうに言っていたら、神様に『祟られる』ことになります。
先祖を敬い、山を崇めなかったら化けて出るぞぉ~!と、どこかで聞いたことがありませんかねぇ。
そうそぅ、コロナ禍の時代になったということは、神様たちの堪忍袋の緒が切れたということでしょう。
私は、三角法を駆使してお墓の位置決めがなされた王家の方々が葬られ祀られている場所を教えられ、特製のゼロ磁場Lロッドコアで地底に玄室があるのかを確かめましたが、6ケ所全てにそれぞれの形のお墓が保存されいることが分かりました。
さぁ~大変です。
今までにも法則に則って割り出されたお墓の場所には、石室が保存されています。
本当のお墓は、山の上にあるのです。
額田王の墓から天武天皇の墓までと十市皇女の墓までは12.17㎞と同距離で二等辺三角形を描いています。
また、葛野王の墓から弘文天皇の墓までと十市皇女の墓までも20.8㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
あくまでも仮説を立て、地理院地図の等高線を読み解いて割り出した場所に行って、特製のゼロ磁場Lロッドでそれぞれの地底の空間の大きさと方角を読み解いての100%の確率です。
三角法でのお墓の位置決めの仮説は正しいことを物語っています。
あとは、地権者の了解のもとにひとつづつ入口を開ける作業で、そのことは立証されます。
御一方御一方、御霊に手を合わせ感謝の意を表し改めて供養してあげなければなりません。
「かごめの唄の夜明けの晩」が迫りつつある今だからこそ、その作業に取り掛からなければなりません。
鶴と亀の統合です。
後ろの正面の山を崇め祀らなければなりません。
2020年10月20日(火)
弘文天皇の墓と十市皇女の墓から求められた葛野王の墓と、弘文天皇の墓と天智天皇の墓の親子三代の三点は、直角三角形を描いています。
このことは、葛野王の墓が正しいことを示し、そしてまた、十市皇女の墓が正しいことを教えています。
2020年10月19日(月)
弘文天皇の墓が分かり、后の十市皇女の墓が分かれば・・。
「二人の間に子供は居たのだろうか・・」との思いが浮かんできました。
調べると・・、と言っても便利な世の中で、ネットですぐに答えは出てきます。
すると、「葛野王・かどののおうきみ」と教えてくれます。
「弘文天皇を父とし、十市皇女を母とする葛野王の墓は何処にあるか求めなさい!」と、空海様でしょうかぁ・・。
父・母 の墓の位置が分かれば、子供が眠る墓の場所として先ず考えられるのは、二人の墓から等距離にある場所です。
互いの墓から共に円を描いて、円と円が交わった点と点を結ぶと(赤い直線)そのライン上からは等距離になります。
そのライン上のコンターラインを見て、お墓を探します。お墓の場所には必ず、特徴が見て取れます。
山の名前であったり、神社や寺があったり、廃寺跡が記されていたり、人工的なコンターラインが見て取れたりします。
そして墓であれば、必ずその場所より低い場所に遥拝の山のコンターラインが在ります。
その二等辺三角形を描く場所に、そのような痕跡が見られなかったら、二つポイントでタレスの定理のポイント(赤い円)となる場所のコンターラインを見ていきます。
要するに三点で直角三角形となるポイントです。
このようにしてお墓を探していきますが、このような作業にかかる時間は数分もあれば十分です。
それでもお墓らしきコンターラインが見つからなければ、基本になる墓がどちらか間違っていることになります。
でも、データが何百と蓄積されていますから、まず間違うことはありません。
そのようにわずかの時間で、葛野王の墓は見つかりました。
一応見つかりました!なのですよ。
それから、その墓が間違いないかを確かめるために、今度は、父母のその先、要するにお爺さんの墓との関係性がどうなのかをみていくことで、確かなものとなっていきます。
全て、三角法の連鎖で、ご先祖様のご先祖様であるイエス・キリストの墓につながるようになっています。
この日本のご先祖様たちは凄いのです!
大王(天皇)達の本当の墓、本当の歴史が分かるような仕掛けをこの大地に印していました!!
実は、知足院のナラノヤエザクラから174度のラインには、もう一つ重要な貴人が眠っておられました。
それは、天武天皇の皇女であり、弘文天皇の后であった十市皇女の墓もあって、知足院の三点で2:1:√3の直角三角形を描いていました。
2020年10月18日(日)
「十市皇女は、天武天皇の皇子との仲も噂されていたのよ」とも〇重さんは話していましたが、なんと! その事実も地理院地図上に残されていました。
噂の主は、キトラ古墳に眠る天武天皇の皇子の高一皇子でした。
十市皇女と高一皇子のロマンスは、『御破裂山』が語り継いでいますねぇ。
高一皇子の墓(キトラ古墳)と十市皇女の墓と御破裂山(ごはれつやま)は、二等辺三角形を描いています。
二人の仲は、御破裂したと・・。
・・
高一皇子の墓から十市皇女の墓と弘文天皇の墓と明星ヶ岳は一直線に並んでいます。(赤いライン)
高一皇子の墓は、天武天皇の墓からその子供たちである高一皇子、大津皇子、舎人親王と北西へ一直線に並んでいる。(青いライン)
2020年10月17日(土)
弘文天皇と天武天皇と志貴皇子の墓参りと調査を終えて、「みんな再開してどうなったかなぁ~」と思いながら、お三方の位置情報を地理院地図で整理していたところへ、〇重さんから久しぶりの突然の電話です。
「10日のセミナーに行きま~す」という会話から、「ところで、十市皇女の墓はどこにあるの!?」と。
〇重さんは、10年前のこの不思議な物語の始めの頃、いろいろと私を明日香などに案内してくれた方でした。
「とうちのひめみこって誰ですか」と私。
「弘文天皇の后で天武天皇の皇女よ」と。
このタイミングで、大変な人物名を口走ります。
今の世の中、知らなくてもインターネットですぐさま検索して知ることができます。
大変便利な世の中です。
調べれば知るほどに、このタイミングですから、「十市皇女の墓に行きたい!」と、弘文天皇と天武天皇が言っているような気がしてきました。
いえいえ、「私のお墓にも来てください!」と十市皇女が言ってるような気になってきます。
その時、ちょうど地理院地図を開いて整理していましたから、電話を切った後、その方がどこに眠って居られるかを割り出すにはさほどに時間も要りませんでした。
その時代の天皇や王家の方々の墓は、全て関係を持たせた場所に三角法を駆使して造営されていますから、10分もかかりませんでした。
2020年10月16日(金)
弘文天皇の墓へ行った翌日には、天武天皇の墓へと行きました。
壬申の乱の立役者二人が、1300年の時を超えて再開し仲直りできればと思って武部さんに無理なお願いを聞いてもらいました。
その後、二人の墓との関係を地図上から調べると、直角二等辺三角形の位置にある場所が知足院であり、そこにはナラノヤエザクラがありました。
その近くで同じ二等辺三角形を描くポイントに空海寺です。
これは太古の昔に弘文天皇と天武天皇の二人の墓の場所を知っている人物が、二人を供養するためにナラノヤエザクラを植樹したことでしょう。
そして空海もその桜の秘密を知っていたでしょうし、空海寺からいつも壬申の乱の二人に平等に祈りを捧げていたと私には響いてきます。
この日本には、素晴らしい先人先輩方が居られましたねぇ。
このようなことを知った上で、春には知足院の奈良の八重桜を見に行って、そこから空海寺へ行って先人達の思いにふれてみたいものです。
寺院の庭からコンパスグラスで、84度 と 174度の方角がそれぞれの墓です。
後日、174度のライン上に、天武天皇と弘文天皇にとって大切な人が眠っていることが分かってくるのでした。
・・
んん?? 何!? 角度の数字から響いてくる言葉は、春を待たずとも「ハヨ イキナヨ!」とな。
2020年10月15日(木)
10月4日(日)天武天皇の墓から向かった場所は、弘仁寺の裏山である虚空蔵山だった。
虚空蔵山は、春日宮天皇と呼ばれた志貴皇子の墓である。
弘仁寺に着いたのは夕方五時前で山頂に登る道はもうかなり薄暗くなっていた。
山頂傍には小さな祠が祀られていたが、それをゆっくり見ることもなく特製のゼロ磁場Lロッドコアを取り出して、山頂の地底の探索を行った。
結果、志貴皇子の墓は東西に長い玄室でした。
もうかなり日も暮れてきていたので、急いで山を下りました。
天智天皇の第一皇子である弘文天皇の墓と、第七皇子の志貴皇子の墓とは、一ラジアンに意味をおいた直角三角形を描いています。
素晴らしい、位置関係ですねぇ。
彼らは歴史の真実をたどれるように、三角法でお墓の位置決めをしています。
山頂近くはイノシシが掘り返して赤い土がむき出しになっていましたが、早く掘り出して供養してあげなさいと言ってる気がしましたねぇ。
「弘仁寺の明星堂の意味が分かったかね」・・と、空海さま。