2034年1月15日(日)
1月8日(日)武部さんとJR奈良駅に12時の待ち合わせでした。そこから武部さんの車に乗せてもらって光仁天皇の墓へと行きました。
お墓である殿山への入口には、磁北を教える道標の三体の石仏を掘った大きな磐座がありました。
お墓は、30m四方の巨大な地下神殿の様相でした。中心には黄金もビシッ!と反応しました。
2023年1月14日(土)
8日(日)に光仁天皇の墓へ行きました。そして次の日9日には淳仁天皇の墓へと調査に行きました。
この二つの墓に対して、大日山(1689m)から光仁天皇の墓までと淳仁天皇の墓までは凡そ共に56㎞と同距離で二等辺三角形を描きます。
そして、大日岳(1521m)と光仁天皇の墓と淳仁天皇の墓の三点で正五角形の一部をなす直角三角形を描きます。
また、和歌山県田辺市本宮町渡瀬にある大日山(369m)と二つの墓との関係では、91度と直角ではありませんが直角三角形に近い位置関係です。この三角形を90度に補正した場所に、熊野三山 大斎原(おおゆのはら)があるのは、偶然でしょうか。そして田辺市本宮町渡瀬にある大日山(369m)は、コンターラインの形状から女性の墓と思えます。これら三つの山 大日が教えるものと、光仁天皇の墓と淳仁天皇の墓と熊野三山 大斎原との3点で2:1:√3の直角三角形を描く意味は重大であると私には響いてきます。
2023年1月10日(火)
8日、JR奈良駅に12:00武部さんと待ち合わせしていた。
そして光仁天皇の墓へと連れて行ってもらった。
予想通りに黄金をキャッチした。 石室の中央に黄金を囲むような配置は、推古天皇の墓を思い起こさせるものだった。
そしてその後は、ただただ空海コードの凄さに放心状態の私だった。
ホテルにチェックインしたのは4時で、光仁天皇の墓の造営の様子を想像しながら沈みゆく夕日とその変化をボーッと眺めていた。・・つづく
2023年1月8日(日)
今日は殿様に会いに殿山に行きます。
光仁天皇の墓であるか否かを知るためにコアロッドで調査です。
殿と言えば・・殿様バッタが思い出されます。もう十二年前になりますが、淡路島の淳仁天皇陵に行った時に、車の車体にバッタが乗っかって何やら私に語りかけていたのを思い出しました。
46代孝謙天皇が産休・育休を取って、47代淳仁天皇を立てたもののうまくいかずに、再びおばちゃまは第48代称徳天皇として重祚しました。そして49代が光仁天皇でした。
そうそう、孝謙天皇のおばちゃまは、少なくとも淳仁天皇に産休・育休の間、助けられたことでしょうに・・。この時に生まれたのが空海さまのお母さんでしたねぇ。では・・「お父さんは誰よ!?」とな。お父様は道鏡さまでしたよ。 つづく
2023年1月6日(金)
昨日は、営業開始より二日目だった。
まだ世間はお休み状態だったが、初日に道鏡が眠る村役場から届いていた封書を持って神戸の法務局へと行った。もちろん道鏡が眠る山の地権者を知るためだった。まだフロアーには人もほとんど居なくて、謄本を上げるのにそれほど時間はかからなかった。おお~~この方が歴史的人物が眠る山の持ち主か~と何故か嬉しくなった。そして事務所へ帰るなりグーグルの地図を開いた。そこは初めて武部さんと行った日に通り過ぎてUターンしてきた付近の家だった。何か懐かしいような気持になった。ここからどんなドラマが始まるのか・・と思う私です。武部さん8日、よろしくお願いいたします。
8日は、光仁天皇のお墓参りですが、道鏡と光仁天皇、桓武天皇には何か強い因縁が絡んでいる気がしてなりません。
2022年6月10日(金)
上森社長
お疲れ様です。
表記の件、つまらない話ですが。。。
昨朝のブログで称徳天皇と道鏡について語られてましたが道鏡の”弓削”が気になり
想ったことです。
近所にも、備前の和気やイエス王家のお墓の近く(熊山遺跡の麓)にも弓削という
地名があったので・・
1.道鏡の俗性とされる弓削氏は、弓を製作する弓削部を統率した氏族で、物部氏
の一族、物部守屋が母性を仮冒...偽称して弓削守屋を称してからその子孫が
弓削氏を称したとありました。
道鏡の出自については天智天皇の皇子である志貴皇子の落胤という異説も
あるようですが、
古法皇山のある弓削島との関係から道鏡の出自は弓削氏にあると想います。
この弓削氏が、物部守屋公と繋がりがあるならば、道鏡も守屋公のDNAを
継ぐ人物だったのではないでしょうか?
(つまり用明天皇のDNA)
また、弓削は、弓矢で”弓”と”半月”で、弓月を示唆するという情報も目に
しました。
弓月と言えば、弓月の君にも繋がると想います。
*九州から瀬戸内(山沿い、川沿い)、そして近畿に集中する弓削という
地名は、弓月の君が東遷していく順路のように見えます。
2.一方、称徳(孝謙)天皇は、壬申の乱後、天武帝の直系としては最後の天皇
にして女帝と言われています。
3.身分の低い道鏡が、称徳天皇に取り入って朝廷で出世し、あろうことか皇位を
狙った一連の行為に尾ひれがついた風説が一般化されていますが...
上記のことを考えると、称徳天皇は、道鏡が皇位を持つにふさわしいDNAを
持つことを知っていたのではと想われます。
(もしかして、当時の周囲の人はみんな知っていた)
*このことが、藤原仲麻呂の乱の背景にあったのかも?
4.ただ、道鏡自身は皇位に対して、それほど積極的ではなかった。
しかし、称徳天皇はご自身に後継者(子供も居なかった)が無かったことも
あり、高貴なDNAを持つ道鏡を見出したときに、
そこに天武系と言うか、それに近い血脈に皇位を継がせる可能性を求めて
どんどん道鏡に執心していった...というようなことがあったのでは
ないでしょうか?(もちろん男女の関係も含めて)
5.称徳天皇という後ろ盾がなくなった後、道鏡自身は死罪等の重罪に問われること
なく、清麻呂公からも次代の光仁天皇からも死罪等重罪に問われることなく
ただ下野へ配流・左遷されるだけにとどまったことを考えると、
道鏡自身は、称徳天皇の想い(天武系の継続)に翻弄されただけと想えて
なりません。
6.いずれにしても、称徳天皇が亡くなった後、天智系の光仁天皇を迎え、
朝廷から道鏡も居なくなり、いよいよ桓武天皇の時代を迎えることに
なる。。。その幕開けの事件だったように思います。
いよいよ平安の時代に入っていきますね。
以上です。
大西
この大西さんからのメールを見て、すぐさま弓月王の墓と古法皇山とを結んで、そして空海コードでその一点を探しました。
その一点は、複数の空海コードと重なるか否かで「道鏡の墓である」と判定しました。
沢山の空海コードが一点に重なることは、偶然にしてはあり得ないものです。(うえもり)
2022年4月23日(土)
秋篠宮ご夫妻が伊勢神宮参拝のニュース。
伊勢神宮を祀るいわれには幾つかあるように思いますが・・その一つについて。
・・
桓武天皇の父である光仁天皇の墓である殿山から、聖徳太子と尊ばれ、片やその対極的ないわれを今世にまで引きずる蘇我入鹿であり、実は皇極天皇だったその祀り墓である皇極天皇陵(竜石山)までの距離と、
藤原不比等の長男である藤原武智麿の墓までが同距離で、皇極天皇陵(竜石山)と藤原武智麿の墓と、伊勢神宮(内宮)の3点は、綺麗な正三角形を描きます。
また、生野の地下神殿から皇極天皇陵までと藤原武智麿の墓までは同距離で、二等辺三角形を描きます。
伊勢神宮(内宮)と生野の地下神殿、光仁天皇の墓との三点を結んだラインを軸にして、皇極天皇陵と藤原武智麿の墓はキッチリとシンメトリー的位置関係にあります。
偶然でしょうか。 ・・いえいえそうではありません。 全て計画的配置なのです。 つづく・・
2020年12月11日(金)
嵯峨天皇の御祖父さんは光仁天皇。仁明天皇は嵯峨天皇の子供です。
三人の関係は、奇麗な直角三角形を描いています。
光仁天皇と仁明天皇の墓へはまだ行けてませんが、そのうちに行く機会に恵まれると思います。
嵯峨天皇の玄室は、7300×8200もあります。
大きいですねぇ。深さは19mほどです。
また、嵯峨天皇の玄室から北へ100mほど行った場所にもう一つ玄室があります。
いったいその墓は、嵯峨天皇と親子? 天皇の妃? それとも・・??
2020年12月8日(火)
13日の橘嘉智子さんのお墓参りが近づいてきましたが、参加される皆さんの為に今、矢野さんが立派な価値ある資料を作成中です。
当日、皆さんにお渡しの予定だそうです。
「矢野さん、嘉智子さんのお墓の遥拝の山を地図に入れてもらいますか」と私。
「遥拝の山からお墓に向かって手を合わす先に、子供である仁明天皇のお墓があります。仁明天皇の父である嵯峨天皇の墓と仁明からすれば御祖父さんの光仁天皇の墓と仁明天皇の墓の三点は、2:1:√3に2度ほどの違いで直角三角形を描いています。・・ですから皆さんに渡す資料の地図には、遥拝の山を入れておいてくださいね」とお願いしました。
1300年前、1200年前の歴代の天皇の本当の墓の場所は、この大地に三角法で親子関係まで分かるように記されています。
これはもう、習わしというより掟のように思われます。
2020年7月22日(水)
白毫寺の御本尊は、天智天皇の第七皇子 志貴皇子(しきのみこ・春日宮天皇)の古墳である弘仁寺の虚空蔵山を見つめていました。
志貴皇子の子は光仁天皇であり、光仁天皇の墓との二点からタレスの定理の円弧のライン上に重要なポイントが何なのかを求めると、浮かび上がったのが海龍王寺でした。
海龍王寺の謂れを調べると・・、藤原不比等と娘の光明皇后に由来している。
そしてそこには、重要なお墓の位置を教える国宝五重小塔。
その場所こそ若き空海が遣唐使船に乗り込むに際し心に誓った場所であり、あこがれていた玄昉との接点となる場所でした。
そして・・、国宝五重小塔で祈る先には何があるか・・!
この謎解きの仕掛けは実に妙であり、益々興味を引き付けられる!!
2020年3月5日(木)
邪馬台国オリオン座説の本の原稿が山場にさしかかり、第50代桓武天皇が交野山で北に向かって二度祈ったというくだりの記述の打ち合わせから、思わぬ発見に結び付いた。
桓武天皇の父、光仁天皇の墓は交野山の東側で、移し替えているという。
私はそのようなことは、全く知らなかった。
でも・・、そのような経緯から光仁天皇の墓が見つかり、下の図形が浮かび上がった。
二つの夏の大三角形である。
光仁天皇の墓は、京都府木津川市加茂町山田の『殿山』だった。