2021年6月8日(火)
セミナーの翌日、字幕大王さんが我社を訪れてくれました。
そしていろいろと話は弾みました。
その会話の中で私が、
「何年か前に突然爆発した御嶽山の西に日月の山があります」
「日月神示が下ろされた麻賀多神社の御神体は日月の山を向いています」
「日月の山の麓に富士神社があって、社は兵庫県神河町にある卑弥呼の陵墓にキッチリと向けて造られていました」
・・などと話しました。
私はつい最近まで、字幕大王さんの存在を全く知りませんでした。
字幕大王さんもまた当然私の存在など全く知らなかったということでした。
でも何故か私は、日月神示という言葉と日月の山と、その日月の山の役割を話していたのでした。
「西(関西)の重要な位置が、日月の山を支点として同じ距離だけ東(関東)へ行った場所に存在しています」と。
・・
そして翌日の昨日朝、私の著書なりの送り先の住所地が字幕大王さんからメールで送られてきました。
私はいつも思うのですが、どこで生まれ、どこで暮らすかは、自分で決めているようで実は見えない何者かに操られていると思っている私ですから、
早速、送られてきた住所地を地理院地図に落とし込み、日月の山を中心にしてその住所地までの距離を半径として円を描いてみました。
すると・・どうでしょう。
日月の山から字幕大王さんの住所地までと、卑弥呼の墓がある婀月山までとは共に252㎞です。
卑弥呼が生まれた庵月山までも252㎞です。
このことを偶然と呼べるでしょうか。
これは偶然でなく必然・・??と呼んで良いものなのか??
必然的マトリックスの世界?とでもいうのでしょうか。
・・そうであれば、「一厘の神仕組み」は、その瞬間に向けて動き出しているようです。
かごめの唄の「夜明けの晩」にまっしぐらの様相です!