2015年8月10日(月)
母方の御祖父さんのところの家紋は違い鷹の羽だった。 名前は小次郎さんでしたね。小さいときには、囲炉裏端でお爺さんの胡坐の中で燃え盛る炭の赤い炎を見ながら眠り込んでいた情景や、 昼の陽だまりに莚を敷いた上で、鳥籠や竹製品を作っていたのを思い出します。 子供心に凄い!と思ったことは・・、あるとき、「今から向こうの電柱の上に居てるカラスを撃ち落とすから見てろよ」と言ってすぐさまお爺さんが肩に下げていた銃を持つやいなや、ズドーン!とその瞬間、カラスは電柱から真っ逆さまに落ちました。 小次郎さんは近衛兵で戦争に行ったということですが、戦争が終わって15,6年経ってもライフルの腕前が衰えていなかったのは、その証明の現れだったのかもしれません。そのお爺さんの教えを少しだけ、今度の本の中に思い出として書いて見ました。
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天草四郎はジュリアおたあと秀忠の息子だ
家康は、おたあを天国の島にかくまったんだろう、と上森は思った。気候が良くて、いい風が吹いて、潮の流れがよい日には、神津島から江戸までは一日で渡れたようだし、おたあが若い時から死ぬまで、神津島から出なかったとは考えられなかった。 上品で美しく、周りの人々からもとても信奉されていたおたあを、家康の死後、2代目将軍秀忠が放っておくことはなかったのではないか、とも上森は考えた。 記録では定かにされていない、本当のジュリアおたあの人生は、どんなものだったのだろう。 上森の頭にひらめいたのは、島原の乱だった。祖父に聞かされた昔話を思い出したのだ。 「ウチは平家で、壇ノ浦の戦いで敗れて、山の中に逃げ込んできたんだ。ウチの先祖は。 そこで平和に暮らしとったけど、また島原の乱で、狩りだされて戦に行った。けど、また負けて、また山の中に帰ってきたんだ」 と祖父は上森の頭の記憶回路に刷り込むように、繰り返し、言っていた。 上森は祖父に、よく 「でも、ウチは平家の武士なんだ、だから、誇りを持て」 とか、 「自分は貧しくても人に施しをせよ」 などと言われて育ったのだ。 その島原の乱といえば、思い浮かぶのは誰だろう?天草四郎だ。上森の祖父は、 「ウチも天草四郎に大いに関係がある」 とも言っていた。 それについて詳しくは聞かなかったが、上森は熊本の人間だから、歴史音痴とはいえ、天草四郎という名前くらいは知っていた。 伝承によれば、天草四郎はわずか15歳で、大勢の人を引き連れて、キリシタンのリーダーとして戦をした、とされている。が、普通は元服したばかりの年の少年が、十字架の話をしたり、キリストの話をしただけでは、大勢の人がハイハイ、とついてきて、命を賭けて戦に行くようなことにはなるまい、と上森は考えた。 やはり、天草四郎は、ちゃんとした血筋、DNAを受け継いでいて、周りもそれを知っていたから、みんなが動いた。そのように神様が上森に告げていた。 ここからは上森の推測だが、神津島を出たジュリアおたあは、江戸は避けて、小西家の領地で幼少時代を過ごした堺にいったん戻っていたのだろう。さらに、その後、恐らく、人目を避けるために、小西家の領地だった熊本県の宇土に移ったのだろう。というのも、実際、宇土にはジュリアおたあの記録がいまでも残っているのだ。 上森の想像は膨らんだ。 おたあは、徳川の2代目将軍秀忠に見染められて、子どもを産んだのでないだろうか。 もしかしたら、それが天草四郎だったのではないだろうか、というのが上森の憶測だ。 天草四郎が実は宇土の出であるという説も実際にあるのだ。 後に上森は、天草四郎は島原の乱で亡くならずに、現在の熊本の下益城郡に行き、宇土にいたが、生涯未婚だった、とも知らされた。おたあは47歳で下益城郡で亡くなったという。 ちなみに、その頃の堺は貿易で潤った、ベニスのような港町だったそうだ。いくら戦していても、一旦、堺の城壁に入れば、みんながケンカをやめるような、独立国のようなところだった。小西行長が造った平和で、国際色豊かな、素晴らしい世界が堺だった。 そうした世界の再興こそが上森に与えられた新たな使命のひとつなのかもしれない。 「日本人こそが、争いの無い世界平和を実現させる重大な鍵を握っている。その為にも、真の日本の歴史を明らかにして、キリシタンの方々の御霊鎮めをやるように」 と言われている気が上森にはするのだ。
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今度の本は実に面白いですよぉ! 全て実話ですし、神様が「皆に伝えなさい」と言われた世間様が一切知らないことを書いていますから、気が狂っていると言われても仕方ないことばかりです。 でも・・腑に落ちる不思議さに、「あり得るかも・・」と思われる人もないこともないと思っています。 お楽しみに・・!