鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・前編

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物語の前史 | プロローグ |


あなたの知っているフィンスタルという人と、
私の知っているフィンスタルとの間に
どういう関係があるのか、それは分からない。

あなたのお話の中のフィンスタルは、
いまも微笑んでいますか。
悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、
私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。

だから私が、あなたを助けます。
さぁ、物語の続きを紡いで。

  ルチア・ディラ・フラサルバス
   某代の闇の御子
   そしてミロファニアの時詠み 光と闇の歌い手


1.虚海ディセマの果て、深海の神殿



 暗黒の口を開いてすべてを呑み込み、隙あらば圧し潰そうと待ち構えているような、この莫大な量の液体は、本当は海水ではなく、魔力を帯びた漆黒の絵の具か何かではないのかと――そのように目を疑いたくなることが何度も何度も続き、それに飽きてもなお、ルキアンたちは《ディセマの海》の奥底に向けて延々と降りてゆく。

 果てなき闇の海に包まれ、ぼんやりと灯った光がただひとつ。透明な球体の中に人影がふたつ見える。光それ自体が球を形作っているそれは、彼らがようやく立っていられる程度の手狭なものだ。本来なら、こんな脆そうな移動手段で深海の底になど辿り着けるはずもなく、そもそも中の空気すらすぐに尽きるだろう。だが、ここはあくまでもルキアンの創出した仮想世界、彼の意識下で納得ができていれば、それで問題は特に生じないのかもしれない。

「とても静かですね、おにいさん。どこまでも真っ暗で、何もなくて……。ちょっと怖いです」
 エレオノーアは不安げに外を眺め、それからルキアンに体を寄せかけた。
 ルキアンは、彼女と身体が触れ合うたびに相変わらず緊張しつつ、その緊張感が回を重ねるたびに少しずつ違う気持ちに置き換わっていることも感じていた。両腕が自然に接触したところから、彼はエレオノーアの手を恐る恐る握ってみる。握ったというよりは、何本かの指をそっと掴んでみたような、ぎこちない様子だった。
「そ、そうだね。僕は、人のまだ知らない深い海の世界といえば、見たこともないような不気味な生き物が隠れていると思っていたんだけど」
 ルキアンは、以前に手に取ったことのある一冊の書物のことを思い出した。この本は、敷居の高そうな、何の飾り気もない分厚い黒表紙の中に、その見た目からは想起し難い極彩色の挿絵を多数散りばめた貴重な作品だった。正確なタイトルは忘れてしまったが、博物学者と冒険家とを兼ねたような人物の海洋調査を旅行記風にまとめたものである。その章のひとつに、深い海で獲れる生き物を扱ったところがあり、海の淵に棲む奇妙なものたちの絵にルキアンは思わず惹きつけられた。小さな魚体に不相応な巨大な目をもつ魚や、体の半分以上を占めるのではないかという裂けた口に、刃物のごとき牙を何本も生やした魚、あるいは体中が幽霊のように白く、もはや光を映すことを忘れた濁った目をもつサメのような生き物、海の魔獣クラーケンと肩を並べそうな現実離れした巨体をもつイカ、そして、クラゲかナマコか何かよく分からない、毒々しい紅色をした漂う悪夢のごとき生物。深海に潜む、そうした者たちが、今すぐにでも眼前に飛び出してくるのではないかと、ルキアンは半ば興味津々、半ば心配であった。
 空想を巡らせている彼を気にせず、エレオノーアが言葉を返した。
「《無限闇》は、闇の御子の想像したものを領域内に創造する支配結界です。だったら、おにいさんの考えるような怪しい生き物に支配された深海の姿が、ここでも具現化されそうな気がします。でも実際には、そうなっていません。もしかしたら、おにいさんが思い浮かべたものの本来の実態も、それはそれで《無限闇》による創造に影響するのかな」
 急に小難しいことを並べ始めたエレオノーアに、ルキアンは慌てて答える。
「え、えっと、そう、なの? つまり、その、僕がいくら都合よく何かを想像しても、その何かがもともと持っている本質を無視した創造には、ならないってこと?」
「はい。おそらく。化け物さえ姿を現さない、一切が死に絶えた海。この状況こそ、《虚海ディセマ》に実体を与えたものに相応しいのかもしれません。それにですね、他にも、それに……」
「それに?」
 にわかに落ち着きのない態度になったエレオノーアに対し、首を傾げるルキアン。エレオノーアの方は、愛嬌のある怒り顔でルキアンに打ち明けるのだった。
「そ、それに、今の私です。この体、私の本当の体と隅々まで同じなのです。どうやって、そっくりに作ったのですか。もう、おにいさん! 私の……その、いろいろ……見たりしては、いないですよね?」
「え? 見てない、絶対に見てない! そんなこと言われても……。ただ、僕はエレオノーアに戻ってきてほしいって、ただ、それだけを念じたら」
 エレオノーアは仕方なさげに笑うと、膝を抱えるようにして座り込む。伝説の戦乙女を思わせる今の彼女の衣装も、仮の姿が創造される際、支配結界の力で作り出されたものだ。
「この服も、測ったわけでもないのに、どこをとっても私にぴったりの大きさです。細かいところの造りは勝手に《補完》してくれるなんて、とても便利な結界ですね。でも、ちょっときつめのところが、いくつか」
 そう言いながら、エレオノーアは着衣を整える。首から肩、胸にかけて大きく開いた造形のため、いまひとつ落ちつかないのか、胸元のところを何度も引き上げた。ルキアンは目のやり場に困りながらも、もはや開き直ったのか、それとも欲求にひかれて無意識のうちにか、彼女の胸の谷間を遠慮がちに眺めてしまっている。エレオノーアが《エレオン》だったときに、ルキアンが垣間見たそれとは、明らかに様子が違っていた。そうかと思えば、エレオノーアは、スカートの丈の短さが気になる様子で、もじもじと太腿を擦り合わすような仕草をしている。ただ、彼女の方も、ルキアンに見られていることを内心では分かっているようだったが。
 ルキアンは気恥ずかしくなったのか、話を逸らそうと、改めて周囲を見回して言う。
「それにしても、一体、どのくらい深く潜ったんだろう。何もない真っ暗な空間がこれだけ続くと、時間も、距離も、何もかもが曖昧になってくるよ」
「そうですね。もう全然、そういう感覚、なくなってしまいました。でも、おにいさんと一緒なら……」
 こわごわと、小鳥でも内に抱くかのように力の入っていないルキアンの指を、エレオノーアが強めに握り返した。互いの手が少し汗ばんでいる気がする。そっと見つめ合って、不器用な笑みを浮かべて、また前を向いて。
 こうしたやりとりが幾度ともなく続き、通常の時間感覚というものが二人から半ば失われようとしていたとき、沈下が止まった。音もなく、着地の感触すらおぼろげに、深海の底に降り立った二人。
 《ディセマの海》に入って以来、障害らしい障害にも遭遇せず、気味が悪いほど順調に海底へと辿り着いてしまったことに対し、彼らはむしろ不安を感じていた。お互い、そのことに敢えて触れることはなかったにせよ。
 真っ暗で何も見えないはずだが、これもルキアンの心象風景がかたちを取った結果なのだろうか――光る球体が着底した瞬間、舞い上がる砂煙が付近一帯を包んだのが分かった。そのとばりが徐々に流れ去り、海底にまた還っていったとき、エレオノーアが声を上げた。
「おにいさん! あそこに何かあります。ほら、建物のようですね」
 彼女が指差す方に、ルキアンもそれを見出した。
「何だろう。古い遺跡のようだけど、見た感じでは、神殿とか、そんな雰囲気の……」
 ついに手の届いた《虚海ディセマ》の深みの果て、そこに広がる海底平原に、ルキアンたち以外にただひとつ、光を放つものがあった。あやしく魅惑的でいて、しかし来るものに警告をも示しているような、青白く揺らめくオーロラ状の光幕の向こう、そびえ立つ幾本もの丸い石柱に担われた建造物がみえる。
 エレオノーアが言う。少し震えを帯びていたにせよ、同時に彼女の決意をもうかがわせる声で。
「この想像と現実との狭間で、あれだけが私たちにその姿を敢えて見せているということは……。あそこが、目指すべき場所ですね」
「行こう。そして君を取り返して、必ず一緒に帰るんだ」
「嬉しいです! ありがとう、おにいさん!!」
 喜びに瞳を輝かせ、エレオノーアはルキアンを正面から見つめる。そして唇を寄せ、目を閉じた。だが不意に何を思ったのか、彼女は慌ててルキアンから離れてしまった。
「ごめんなさい。おにいさんの言葉が嬉しくて、嬉しくて。でも、こんな偽物の私のままでは、おにいさんにふさわしくないのです。あ、偽物って……おにいさんに作ってもらった、この仮の体のことではないですよ。今までの私、私の全部が嘘の私……。こうして一度《消えて》みて、初めて分かったのです。もう逃げないで、向き合うべきことと、恐れずに私が向き合って、答えを出さないと、ずっとこのまま、私自身として生きられないと思うんです」
 エレオノーアは、今の自分の気持ちを素直に込めた瞳で、ルキアンを見上げるのだった。

 ――そうしない限り、きっと、《ディセマの海》からも二度と出られはしません。

 ◇

 海底に沈んだ遺跡とは思えないほど、例の建物の内部は地上と変わらない環境のもとにあった。
「よかった。息もできるんだね」
 ルキアンは安心し、空気があることを改めて実感しようと思ったのか、大きく深呼吸をしている。エレオノーアも、不思議そうな顔でルキアンや自分のあちこちを見ている。
「そうなんです。どういうわけか、服も体も全然濡れていません。やっぱり、ここ、おにいさんの想像の世界の中なのですね」
 二人は顔を見合わせると、今度は周囲の様子を確かめる。彼らは一本の通路に立っているようだ。まず天井は、2,3階建ての建物を貫く吹き抜けと同程度に、非常に高い。前方に目を凝らしてみても、奥は深く、薄暗くてよく見えないが、そこに向かって伸びる通路の幅は、外から見た建物自体の大きさからみると、意外なほど限られたものだった。
「結構狭くて、圧迫感がありますが、おにいさんと二人並んでも歩けそうでよかったです」
 エレオノーアはルキアンに微笑んだ後、一転して緊張感のある表情で言う。
「こんな狭いところに罠があったり、何かに襲われたりしたら、防ぎようがないかも、ですね」
 彼女は、すかさずルキアンと手を繋いだ。
「おにいさん、ここは並んで行きたいです。何かあった場合、二人とも一度で全滅する……かもしれないですけど。でも、もしおにいさんが前を進んで、私より先に犠牲になったりしたらいやですし、おにいさんが私の後ろにいて、私が見ていない間に消えてしまったりしても、いやですし」
 わざと、わがままそうな口調でそう告げると、エレオノーアは青い目を潤ませた。
「最後まで一緒なのです、おにいさん」
「もちろんだよ、エレオノーア」
 二人は、慎重に、今しばらく辺りの様子を調べてみた。壁も床も、硝子のように滑らかな手触りだ。不規則な黒い縞模様のある灰色の石が、緻密に磨き上げられ、一辺10数センチ程度の四角いタイルとなって足元に敷き詰められている。タイル同士の隙間に紙一枚さえ簡単には入りそうもないほど、精巧に作られていた。
 ルキアンは経験を積んだ冒険者などではなく、素人のやることに過ぎないにせよ、いま調べた限りでは、周囲に特に危険や問題はなさそうだった。エレオノーアも頷いた。
「心配は、ないかもです。そんな気がします。この通路、ただ真っ直ぐ進んで来いと、そんな作為性すら感じられます」
 通路はそれからしばらく続いたが、その間、特に目立ったことは起こらず、分かれ道もなく、彼女の言葉通り真っすぐにただ進むだけで事足りたようだった。

「この向こうに、何か大事なものがありそうですね。おにいさん」
 薄暗い通路の行きついた先、ルキアンとエレオノーアは、見上げるような漆黒の大扉の前に立っている。
 ――いや、ちょっと嫌な感じだな。そうだよ、これって、《楯なるソルミナ》の最後の部屋、《夜》の部屋の入口と感じが変に似ている気がする。
 言いようのない不安を覚えるルキアンに対し、エレオノーアは扉に記された文章を平然と読んでいる。
「不思議、ですね。見たこともない文字なのに、私、何故か意味が分かるんです」
 その言葉を読み始めた途端、エレオノーアの目つきが真剣になる。彼女はしばらく黙った後、自らの気持ちを整理し、これでよいと自身を納得させるつもりで、何度も大きくうなずいた。そしてルキアンに告げる。彼を見つめるエレオノーアの瞳には、強さと悲壮さとが共に漂っていた。
「おにいさん。この中に入れるのは《アーカイブ》の御子の方、つまり私だけだそうです。そして、この中で受ける《試練》を乗り越えれば、扉が再び開いて無事に出てこられます。そうなったら、多分、私は身体を取り戻して、一緒に帰れます。でも、もし《試練》に私が敗れたときには……。たしかに《執行体》の御子は助けに来てよい、と書かれていました。ただし、その場合に中に入れるのは、アーカイブと対になっている《執行体》、つまり、この扉と合う《鍵》を持っている者だけだとあります」
 そこまで話すと、エレオノーアは無言になり、うつむいたまま顔を上げなかった。それから、感情のない機械的な口調で、扉に掛かれた言葉を棒読みするように告げる。
「しかし、合わない《鍵》しか持たない御子が、すなわち別の《アーカイブ》と対になっている《執行体》が扉を開くことはできない。無理に扉を開こうとすれば、中にいる《アーカイブ》は引き裂かれ、失われる、と」
 エレオノーアは頭を振り、乾いた声で、珍しく投げやりな調子で付け足した。
「どうして、こうなるのかな。おにいさんと最後まで一緒だと思っていたのに……。おにいさんと私は対の御子ではないです。結局、《鍵》が扉に合わないって、ことですよね」
 黙ってしばらく見つめ合った後、エレオノーアが口を開いた。
「でも、私は《試練》を乗り越えてみせます。もし、私がなかなか帰ってこなかったら、無理やりにでも扉を開けてください。そのときには、私は完全に消えてしまうでしょうから、最後にもう一度だけ、この目でおにいさんを見ておきたいのです。そうすることで、私が引き裂かれても、死んでしまっても構いません。一緒に戻れないくらいなら、どうか、おにいさんの手で私に終わりを与えてください。辛いお願いをして、ごめんなさい」
「落ち着いて。僕はエレオノーアを信じるよ。それに、ここは僕の支配結界の中なのだから、何があっても、僕が何とかする。だから、大丈夫。君を待ってる。幸運を……」
 巨大な漆黒の扉、さながら帰らずの門のような不吉な場を前にして、二人は固い握手を交わした。
 一歩を踏み出し、振り向かず、エレオノーアが両手をかざすと、扉に光の文字が浮かび上がった。おそらく、それに呼応して、彼女の左目に闇の紋章の魔法円が現れる。そして最後に、黒い大扉が開くのではなく、エレオノーアの方が扉の中に吸い込まれるようにして、ルキアンの前から姿を消すのだった。


2.暗闇に沈む



 扉の向こうへと吸い込まれたエレオノーアは、次の瞬間には薄暗い部屋の中に立っていた。松明の灯りらしきものが壁にいくつか燃えており、その周辺の様子だけがぼんやりと目に見える。灯りの届かないそれ以外の場所は、闇に包まれている。奥の方の様子が全く分からないことからして、相当に大きな広間かと思われた。

 ――とても怖いです。この先で何が待っているのか、だいたい、分かるから。私自身が向き合いたくなかったことや、誰にも言えずに心の奥に秘めてきたこと、そういう暗い部分が形になって、容赦なく襲いかかってくると思います。
 エレオノーアは不安そうに振り返ると、入口の方にいったん戻るような素振りを見せた。
 ――勇気をください、おにいさん。
 だが彼女はすぐに立ち止まり、ゆっくりと息を吐き出すと、漆黒の大扉に再び背を向ける。
 そして顔を上げたとき、エレオノーアは身を凍り付かせた。彼女の目の前、ほとんど互いの顔が触れそうなところに、青白い顔をした黒ずくめの女が立っていたのだ。音もなく。いつの間にか。《それ》の両眼は白目だけでできており、瞳がなく、口は大きく開かれていた。
 危険を感じたエレオノーアは後ずさろうとするも、突然のことに脚が動かない。強張った状態から解き放たれる間もなく、彼女の首に、冷たく硬い何かの感触が走った。
「ひっ!?」
 言葉にも、悲鳴にさえもならず、エレオノーアが得体の知れない恐怖に身を震わせると、首筋のところで金具が閉まるような嫌な音がした。
「来るんだよ。この罪人(つみびと)!」
 黒衣の女の声や話し方は、何故かリオーネのそれと極めて似ている。最も信頼する人の言葉をこんなかたちで聞くことになるのは、とても理不尽な気がした。また、漆黒の法衣に、目深に頭巾を被った女のいでたちには、どことなくリューヌを連想させるところもある。
「な、なぜ……」
 わななく唇が自由に動くようになりかけたとき、鎖の鳴る音がして、エレオノーアは首を無理やりに引っ張られた。その痛みを避けようと、彼女は首と体を、渋々、引かれた方へと自分から動かす。彼女はまるで犬のように、あるいは奴隷のように、黒衣の女によって首輪と鎖を付けられていた。
「どうしてこんなこと、するんですか。やめてください!」
 エレオノーアは怒りと困惑の視線を向ける。だが狂気じみた笑いに続いて、黒衣の女は、なおもリオーネの声で繰り返す。
「まったく図々しいね。あんたの罪は、自分自身が一番よく知っているくせに」
「私の……罪?」
 何も気づいていないような答えを曖昧に返す一方、エレオノーアは「罪」という一言を突き付けられたことで動揺し、今まで覚悟に満ちていた目や、彼女の言葉から、急激に気力が抜け落ちていったように思われた。それでもエレオノーアが懸命に耐え、立ち向かおうと勇気を振り絞っている様子は、わずかに見て取れる。
「図星だね。そうやって、自分でも罪の重さを認めているのだろう?」
 黒衣の女は吐き捨てるようにそう言うと、血の気の一切無い、異様に白い手で鎖を握り、エレオノーアを引っ立てていく。その先には、同じように黒い法衣を身に着けた2人、いや、2体の存在が、身じろぎもせず立っていた。血の通った生き物の気配のしない《それ》らは、エレオノーアをあの世へと誘う死神のようでもあった。
 彼らの前で黒衣の女はエレオノーアを突き放す。エレオノーアは転げ落ちるように、湿った煉瓦の床にしゃがみ込んだ。その姿を黒衣の女と他の2体が見つめ、広間に再び沈黙が満ちた。静寂に押し潰されそうな幾秒かの瞬間が過ぎた後、エレオノーアが、微かに震えた声で口を開く。
「お願いです。私の体を返してください。帰りたいです、おにいさんのところに」
 彼女の言葉が終わろうとする間もなく、黒衣の女が大声でののしる。
「救いようのない馬鹿だね。あんたは、もう消えたんだよ! 跡形もなく消えて、《ディセマの海》の底にこうして還ってきたのさ。いや、元々、生きていてはいけない者だと、自分でもよく分かっているだろ」
 こうしてリオーネの声で罵倒されるのは、エレオノーアにとって、とりわけ辛いことだった。
「そ、それは。それは……。でも、私は」
 エレオノーアが次の言葉を飲み込み、答えに詰まったとき、黒ずくめの2体のうち、小柄な方が歩み出た。《それ》の被っているフードが揺れ、人ではなく骸骨の姿が現れる。そこから出てきた声は、幼い少年のものだった。
「だったら、おねえちゃん、僕らの命を返してよ。これまでに、一体、何度の《聖体降喚(ロード)》が行われて、どれだけ沢山の子どもたちが《聖体》の《器》にされ、失敗して死んだと思っているのさ」
 無邪気な声で、大人びた言葉を投げつけてくる《それ》に対し、エレオノーアは、事前に思っていたようには反論できなかった。
「僕らが何をしたの? 僕は、ただ、その日まで遊んだり、ご飯を食べたりしていただけなのに、ママと引き離されて、何も分からないまま、《受肉(インストール)》された《聖体》に適合できず、体がバラバラになって死んだんだよ。おねえちゃんだけ、なんで生きてるの?」
 少年の声をもつ骸骨は、エレオノーアの前まで近寄る。もはや表情を現せない朽ちた白骨の顔で、それでも彼は、皮肉に笑ってみせたように感じられた。
「ねぇ、知ってるよね。《ロード》が実行されるときには、町や村がひとつ、まるごと生贄にされるんだ。おねえちゃんが生まれたせいで、どれだけ多くの人が犠牲になったと思っているの?」
 《それ》は、干乾びた骨の指でエレオノーアの顎をつかみ、戦慄する彼女に対し、もはや眼球の抜け落ちた二つの暗い穴を向けた。
「そんなに沢山の、罪の無い命を踏み台にして生まれて、どうして平気で生きていられるのかな。何も感じないの? おねえちゃんには、人間の血が流れていないの? 生まれてきて本当にすみませんでしたと、床に頭を擦りつけてみろよ。そして消えてしまえ!!」
「わ、私は……」
 エレオノーアの態度が微かに変わった。戸惑いに任せていた体に、指先に、徐々に力がこもる。
「たしかに、私なんか生まれてこなかった方が、よかったかもしれません。それでも……私自身は、生まれてきてよかったと、思っています」
 強い意志を帯び、青く澄んだ瞳で、彼女は骸骨を見返す。
「私は、リオーネ先生に救われました。先生は、本当のお母さんのように大事にしてくれて、沢山のことを教えてくれました。私は生まれてきて、生きて、信じ続けたから、大好きなおにいさんと出会えました。おにいさんや先生に受け入れてもらったことに、想いに、応えたいのです。私からは、まだ何も返せていません。だから私は、ここで消えるわけにはいきません!」
 《それ》と睨み合うエレオノーア。
「私を生み出すために犠牲にされた人たちに対しては、お詫びの言葉をどんなに尽くしても、決して足りることはないと思います。でも、それでも……」
 エレオノーアは声を大にして、これまで敢えて言わなかったことを、もはや善悪や是非の問題を度外視して、気持ちのままに吐き出した。
「それでも、何といわれようと私は生きて、おにいさんと一緒に《御子》としての使命を必ず果たします。たとえ、血だまりの中から創り出されたのだとしても、どんなに忌まわしい存在でも、それでも生まれてきた御子が世界を救わなければ……生贄にされた人たちは、ただ意味もなく命を奪われたことになってしまう。私は嫌です、そんなこと!」
 火花の散るようなその場に、もう1体の黒衣の者が加わった。エレオノーアの表情が強張り、目に陰りが走る。というのも、《それ》は、驚くべきことにエレオノーアと同じ顔をしていたのだ。
「違う。それはあなたが決めることではない。そうやって図太く生き延びて、犠牲になった多くの魂をいつまで冒涜し続けたら気が済むの?」
 自分と同じ姿をした相手から責められても、それでもエレオノーアは、すぐにはうろたえなかった。だが、次の言葉を聞いた途端、彼女は信念にくさびを打ち込まれ、覚悟が揺らぐような思いに陥った。
「そういうこと、言ってもどうせ無駄かしら。生贄にされた人たちの命や御子の使命なんて、建前で挙げているだけで、あなたにはどうでもいいことなのでしょう? 本当はただ、愛しい《おにいさん》と一緒にいたい……あなたが考えていることは、結局、そればかり。もっと本音のところでは、《おにいさん》に抱かれたくて、いつも妄想に溺れている気持ちの悪い女。それがいかにも理想に殉じるという顔をして、この、嘘つき、けだもの!」
「違います! 私はそんな……」
 最初の黒衣の女が、そこでまたリオーネの声をもって加わった。
「違わないよ。あたしが今まで何も知らなかったとでも、思っているのかい」
 一瞬、エレオノーアは身体をぴくりと震わせ、目を大きく見開いた。
「きれいごとよりも、あんたは御子であるよりも先に、女としての自分の欲望にばかり忠実に動いている。普段は少年みたいな格好をして、何も知らない純朴そうな顔をして、とんでもない子だよ。あんた、ルキアンに言ったね。《日が暮れると、もっと寂しくなってきて。おにいさんのことが、どうしようもなく気になって……》」
「や、やめてください!」
 エレオノーアは、急におどおどとして、慌てて止めようとする。しかし、リオーネの声は淡々と話を続ける。
「《ベッドに入っても眠れなくて、とてもとても切なくなって、おにいさんのことを想うと身体が熱くなって、そして……そして私は……》。そして、それからどうしたの?」
「どうって、それは……」
 そこで言葉が終わったまま、エレオノーアはしばらく彫像のように動かなくなった。
 彼女自身からの答えが返ってこないことを確認し、《それ》が手をゆっくり上げると、壁に掛けられた大きな鏡の表面が次第に渦を巻いて何かの形を取り始める。
 おそらく魔法の力を宿した鏡面は、今の時点では少し濁った色をしていた。鏡を支える燻し銀の外枠が、これまた異様で、とてもではないが気持ちの良いものではない。蜘蛛のように長い手足をもった小鬼を思わせる生き物が、四角い枠と一体になって無数に群がり、絡みつき、覗き込もうとしている。卑劣な小鬼たちが、鏡に映る者を寄ってたかって嘲笑っているような、そんな醜悪なデザインである。
 まもなく、魔法の鏡に浮かぶ絵姿がはっきりとして、そこに何が現れるのかを理解せざるを得なくなると、エレオノーアは平静を失い、拒否の言葉を繰り返した。
「い、いや、いやです……。見たくないです、見せたくないです、やめてください」
 天井から床までを占める巨大な鏡に映し出されたものは、灯りの消えた寝室だった。穏やかな月光のもと、簡素ながらも、愛くるしいクマやネコのぬいぐるみで、あるいは野の花で飾られた部屋。壁際にベッドがあり、そこにエレオノーアが横たわっている。
 その様子に特に違和感のあるところはないにせよ、エレオノーア本人は、真っ赤になったり青ざめたり、半開きの唇を振るわせ、弱々しい上目遣いの視線で慈悲を乞うている。
「お願いです、お願いですから。これ以上は、もう……許して、ほしいです」
 だが懇願の言葉は無視され、鏡の中のエレオノーアは、布団を首まで深めに掛け直すと、思い詰めた表情で目を閉じた。ベッドに身を横たえたまま、やがて彼女は幾度も《おにいさん》と口にし、切なげな表情で身悶えを繰り返す。その尊い名が唇からこぼれるたびに、それに呼応して吐息は荒くなり、銀の髪は乱れ、紅潮した頬だけでなく、耳から、首筋から、体中が次第に薄紅色に染まっていく。
「おにいさん。早く会いたいです、わたしのおにいさん……」
 上気した顔のエレオノーアが、絞り出すように、うめくように、恍惚としてつぶやく。
 その姿は、それ自体としては決して恥じるべきものでもなく、美しかったにせよ、この場においてはエレオノーアの敗北を暗示していた。
「これがあんたの本性だよ。最初は、おにいさんに会いたいと独りで飛び出して、それからも、こうやって己の欲望に流されながら彼を待ち続け、そして彼に出会えたら、今度は強引に一緒についていく……。分かりやすいねぇ、あんたの行動原理は」
 意地の悪い指摘を、よりによって尊敬するリオーネの声で行われ、エレオノーアの罪悪感はいっそう高まっていく。気が動転して頭の中が空っぽになったまま、エレオノーアは精一杯の勇気を振り絞り、途切れ途切れの言葉で言い返した。
「た、たとえ、はじめは妄想でも……ひ、人を……人を愛しく思って、切なくて、辛くて……それで……その、どうしようもない、気持ちを、何とかしたくて……その、それの、何が……悪いの、ですか」
 極度に満ちた怒りと恥じらいで、顔中を真っ赤に染めながらも、必死に睨むエレオノーア。黒衣の女は、彼女の方を見て溜息をつき、ちょうどリオーネがエレオノーアを叱るときのような調子で告げた。
「本気でそう思っているのかい? よく考えなさい、エレオノーア。何の罪もないのに虐殺された沢山の命と引き換えに……あんただけが生き残って、それなのに、ただ自分の欲望に身を委ねて。そんなふうに生き続けること自体、本当に、失われた魂たちへの冒涜だよ。もういいだろ、おとなしくこのまま、無に帰りなさい」
 自分の中だけに秘めておきたかった姿を露わにされ、同時に、《ロード》の犠牲になった者たちへの後ろめたさを痛烈に思い起こさせられ――もはや抵抗する気力を削り切られたエレオノーアは、言葉をひとつも発することなく、がっくりと床に手を付いた。
 そんな彼女の心に最後の一撃を加えに来たのは、エレオノーアと同じ顔をした黒衣の者である。《それ》は広間中に響き渡る嘲笑の声を上げたかと思うと、エレオノーアが最も恐れていたことを、とどめとして突き付けた。
「無様な姿、いい気味だわ! ねぇ、あなたが欲望を実感しているその体は、もともと、私の体を《器》にしたものだってことを、忘れていないでしょうね。他人の体を勝手に乗っ取って、さも人間であるような顔をしている化け物。これ以上、私を汚さないで! その体も魂も、何一つ、あなたのものなんて無い!!」

 両手で顔を押さえてすすり泣きながら、とうとう、エレオノーアの心は真っ二つに折れてしまった。

 ――はい……。あなたの言う通り、私なんか、最初からどこにもいなかったのです。この体となった《聖体》も《器》も、どちらも私ではありません。そう考えている私の心さえ、この私自身だって……《聖体》が人間を演じている結果、仮に生じただけの、虚ろな現象に過ぎないのかもしれません。

 エレオノーアは、うわごとのように繰り返した。

「私は《消えてしまった》のではなく、どこにもいなかったのですね。そうです、いないのです」

 彼女の周囲の床の色が、白い紙に絵の具の染みが広がるように、徐々に真っ黒に変わり始めた。煉瓦の床が溶け出し、泥沼と同様の様相になる。その中から、死霊を思わせる枯れ枝のような細い腕が何本も伸びてきた。それらはエレオノーアの手や足、体中に取りついて、彼女を底無しの暗闇に引きずり込んでゆく。

 ――それでも、もう一度だけ会いたかったです。おにいさん……。

 エレオノーアは、《試練》を超えられなかった。
 そして《ディセマの海》に、永遠に沈む。


【第55話 中編 に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・中編

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3.光と闇の歌い手



 エレオノーアとルキアンが《ディセマの海》の深奥に挑んでいた頃、《ディセマの海》自体を――つまりは、無尽蔵とすら思える莫大さではあれ、何らの実体も有しないデータの集積体であるその《虚海》を――具現化し、人が知覚可能な《死に絶えた黒き大洋》という仮の姿を与え、これを支配結界の中に維持し続けるという困難な役割を担っていたのが、《地》の御子のアマリア・ラ・セレスティルと、同じく《地》のパラディーヴァのフォリオムであった。
 闇の色にも近い、非常に濃い紺碧の色に染まった海原が、視界一面、鏡のように、小さな揺らぎさえなく時の中に凍り付いたような海面となって、果てしなく続いている様子は、壮絶な美しさをも感じさせるにせよ、それ以上に不気味な光景であった。静けさの中にはかり知れない狂暴性を秘めた《ディセマの海》と対峙しながら、アマリアは手にした杖に力を込め、この得体の知れない相手を、ルキアンから引き継いだ魔力の縛鎖で目の前に繋ぎ留めている。
「わずかにでも気を抜くと、《虚海ディセマ》の実体化が解かれ、この広大な《海》が一瞬で霧散する。そういう、あり得ない光景を見ることになりそうだ」
 アマリアの身体から迸る霊気が渦を巻き、幾重にも絡み合って爆風のごとく立ち上り、巨大な光の柱となってそびえる。完全に覚醒した御子、もはや《人の子》の次元を超えた彼女の力をもってしても、《虚海》を結界内にとどめておくことは容易ではなかった。
 後頭部で一本に編んだ髪を揺らしながら、アマリアが表情を微妙に硬くする。
「仮にエレオノーアが海底から戻ってきても、彼女とルキアンがそのまま元の世界に帰れるなどとは、私は考えていない。《聖体降喚(ロード)》によって生成されたエレオノーアは、《人の子》として生まれた御子が決して逃れられない《永劫の円環》の呪いから、完全に免れている。つまり、彼女が生まれ、生き続けていることそのものが、《あれ》の理(ことわり)に反している。しかも、本来はこのまま消え去るべき運命にあったにもかかわらず、彼女が再びよみがえるならば……これによって、世界の根源たる《絶対的機能の自己展開》は、万象を支配する因果律と矛盾する存在を受け入れざるを得なかったことになる。そんなことを《あれ》の《御使い》たちが許すはずがない」
 遥か彼方、遠くに潜む何かを睨み、敢えてその何かに対して宣言しようとするかのような挑発的な口調で、アマリアが言った。
「だから、あの《古き者たち》が、何らかのかたちで必ず介入してくる。たしかに彼ら本来の力ではなく、ルキアンの支配結界《無限闇》の制約に服した、限定的かつ我々と対等な次元での介入ではあれ。それでも私とルキアンの力だけでは太刀打ちできない。そのこともあって、ここから先は、他の御子たちの力も借りようと思う」
 アマリアは、彼女を隣で支えるパラディーヴァの名を呼び、目元にわずかな笑みを浮かべた。
「どうだろうか、私もそれほど己惚れてはいないだろ、フォリオム? 頼まれてくれるか」
 主従というよりは親子にも似た、頼もしい大人に成長した娘を、ある種の眩しさを感じつつ誇らしげに見守る老いた父親のように、地のパラディーヴァ・フォリオムは白髭を緩めてうなずく。
「わが主アマリア、聞くまでもないことを。任せるがよい。まずは、あの者たちには話が付いておるわい」
 
 ◇
 
 いささか仰々しく、芝居がかった言動も繰り返される《地》の御子とパラディーヴァのやり取りに比べると、フォリオムのいう《あの者たち》、つまり《炎》の御子と同パラディーヴァの間にみられる関係性は、趣のかなり異なるものだった。
 おそらくは《鍵の守人》の基地内の一室をあてがわれたのであろう、いわゆる「旧世界風」のデザインの典型のような、殺風景な病室を連想させる飾り気のない部屋の中。灯りの消えた真っ暗な室内に炎が突然揺らめき、空中で人の姿をとった。火炎のようなフリルと、フリルのような火炎――両者の区別がつかない幻想的な装いで、いずれをもその身にまとう《炎のパラディーヴァ》フラメアは、一見すると可愛らしい少女の姿で、目の前に眠る自らのマスターを容赦なく叩き起こした。
「ねぇ、マスター。起きてよ。ねぇ……。こら! 起きろ、この怠け魔法使い!!」
 その体と同じく炎に包まれた手で、フラメアは、ベッドに寝ていたグレイル・ホリゾード、つまりは《炎》の御子を揺り起こす。ちなみに彼女は、見た目には恐ろしい焔(ほむら)をまとっているにせよ、それは物理的な炎ではなく、また実際の身体の温度も自在に変えられるため、グレイルに火傷の心配はない。ただ、それでも今のフラメアの指先は、相手を火傷させない範囲でわざと高温に保たれているようだった。
「あっ、熱っ! おいおい、こんな夜中に一体何だよ……。あ、お前、さては……その、夜這いか?」
 一瞬、寝ぼけ眼で周囲を眺めた後、わざとらしく騒ぐグレイル。
「よ、よ……夜這いって。アンタね、一回、消し炭にしてあげようか」
 取り巻く炎のおかげで、フラメアの顔色は分からなかったが、多分、彼女の頬もそれなりに赤く染まっているようだった。だがフラメアは、不意に緊迫した表情になって、ただでさえ大きい声を一層荒らげて告げる。
「それはともかく、いますぐ《通廊》、開きなさいよ! 全力でいくから。そうね、最終決戦の模擬訓練だと思って、死ぬ気で魔法力全開!!」
「無駄に暑苦しいお言葉だな。で、何? つーろー? 何だよ、それ」
 その答えを予想していたかのように、フラメアは天を仰ぎ、大げさに肩を落とす仕草をした。
「あのねぇ、《通廊》も知らないの? 分かった。わーかったってば。細かいことは後で。いいから、私に魔力を全部貸しなさいな、マスター君」
「全部って……俺、後で、干乾びたミイラみたいになっちまわないだろうな?」
 そのような過激なことも平気でやりかねない相棒の性格を思いつつ、グレイルは本気で少しだけ慄くのだった。
 
 ◇
 
 ――もう、何が何だか……。わたし、今度こそ、本当に、消えちゃうのかな……。
 薄れゆく意識の中で、エレオノーアは無表情につぶやいた。もはや視覚や触覚で感知できる世界であるとも、自身の内面に浮かぶ心象の世界であるとも区別できない、あらゆる雑多な感覚が交じり合い、煮詰められたような認識の淀みの中を、エレオノーアはいつ終わるともなく落ちていく。
 《虚海ディセマ》の底に蓄積される、ほぼ無限のデータの一部として、己の存在が無に還っていく過程は、事前に恐れていたよりも遥かに恐怖も痛みもなく、ある種の心地良さすら伴うものであった。あたかもそれは、母なる海に帰り、その懐に永遠に抱かれるような感覚である。
 ――あれ? 最後に誰かの、姿が。おにい、さん……? 違う。あなたは、誰、ですか。
 万が一、ここで自我を保てなくなれば、完全に《ディセマの海》に溶かされ、存在自体を消し去られてしまう寸前、エレオノーアの心に眩い光が溢れ、その向こうに誰かの姿が――知らない人物だけれど、なぜか無性に懐かしい――独りの女性が手招きする姿があった。優美でありながらも儚げな空気を漂わせる、あるいは少女から大人になって間もない、エレオノーアよりも幾つか年上であろう女性が、車椅子に乗り、見た目には無垢な笑顔で小鳥たちと戯れている。
 彼女はエレオノーアの方を向き、一礼とも、うなずきともよく分からない仕草をした。だが、互いの目があった瞬間、エレオノーアは分厚い空気の壁に正面からぶつかったかのような、心の奥底までかき乱される衝撃を、体中で感じた。
 対するもう一方の女性は、あくまでにこやかに、可愛らしさと気高さとが交じり合った独特の雰囲気で語り始めた。
「こんにちは、わが友、遠き世界の闇の御子よ。私は、ミロファニア王女、ルチア・ディラ・フラサルバス。私のことを、人は《ミロファニアの時詠み》あるいは《光と闇の歌い手》と呼びます。そして、あなたも気づいているように、私も闇の御子です」
「こ、こんにち、は!!」
 さほど変わらない年頃でありながらも、比較にならない威厳をもったルチアに対し、エレオノーアは緊張しつつ、なぜか全力で普通の挨拶をしてしまった。それと同時に、エレオノーアは、先程までの意識の混濁や身体が溶けていくような感覚が、すっかり消えていることに気づいた。加えて、ルチアの名前を耳にしたときから、エレオノーアは、己自身もこれまで一度も思い起こしたことのなかったルチアに関する記憶が、《知らなかった》はずのことが、それにもかかわらず極めて鮮明に思い出されてくるということを、不思議な気分で体験していた。これが《アーカイブ》の能力の一端だろうか。エレオノーアは、それこそデータベースから読み出すように、自身の手の届く限り、ルチアにかかわる記憶をよどみなく参照する。
 ――ルチア・ディラ・フラサルバス。これまでに無数の世界に存在してきた御子たちの中でも、ごく限られた、本来の紋章の他に別属性のもう一つの紋章を併せ持つ、《双紋の御子》の一人ですね。しかも彼女は、右目にもつ《闇》の紋章に加えて、左目のもうひとつの紋章も、ほぼ完全に使いこなすことができました。他の《双紋の御子》は、申し訳程度にしか、二つ目の紋章を扱えないものですが。かつ、左目のその紋章は《光》。自然の四大とは異なる属性である光と闇の紋章をいずれも完璧に使える御子など、彼女の他には存在しません。でも……」
 そこでエレオノーアは、心の内でこれ以上つぶやくことを戸惑った。
 ――でも、彼女は戦いませんでした。最後のときに至る直前まで。彼女ならば、《あれ》の《御使い》たちから世界を救うことができたかもしれなかった、にもかかわらず。
 とび色と闇の色が交じり合ったようなルチアの目が、穏やかさはそのままに、同時に逃れられない鋭さをもって、エレオノーアの青い瞳をとらえた。
「そうですね。私は信じた。だから戦わなかった。いいえ、今は時間がありません。あなたとは、また近いうちにお茶でも飲みながら、ゆっくり二人で語り合ってみたいものです。もっともそれは、こうした幻の中での話にすぎませんが」
 黙って肯くエレオノーアに対し、ルチアも満面の笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「本当なら、私は、後の世の御子の前にこうして姿を現すつもりは無かった。たとえば、あの破戒僧のようには……。それでも、《縁》があった。あなたとルキアンと、私との間に深い《縁》があったのです。ひとつは《フィンスタル》、もうひとつは《ミロファニアの姫》という二つの強力な《概念連環》が、時代も世界も異なる私たちを結びつけたようですね。ちなみに《概念連環》というのは、本来は関連性の薄い異なる時代や異なる世界の別々の事象が、メタ的な視点からみた場合に、ある特定の概念にかかわって一定以上の類似性をもつ構造を有している……そういうことです」
 《概念連環》の説明にはあまり関心は無かったが、フィンスタルという名を聞いた途端、目を輝かせ、話の続きを期待したエレオノーア。そんな彼女とは対照的に、ルチアは抑揚を控えめにした調子で言った。
「あなたの知っているフィンスタルという人と、私の知っているフィンスタルとの間にどういう関係があるのか、それは分からない。ただ、私の知っているフィンスタルは、いつも優しい目をして、静かに微笑んでいました。そして私を支えてくれました。しかし、私は、彼の願いを結果的に裏切ることになってしまいました」
 エレオノーアは、過去の御子たちに関する情報をも詳細に記録している、自身の《アーカイブ》の力を呪わしく思った。ルチアについてもそれは同様だった。
「あ、あの……。ルチア、様。私も知っています。それ以上、おうかがいするのは、心が、痛い……です。いいえ、その、あなたの心を、お許しもなく、後の時代から覗き見たような私を、どうかお許しください」
「良いのです、良いのです、エレオノーア。可愛い人ですね、ますます気に入りました。《様》などと、他人行儀に呼ばないでください。私たちは共に闇の御子、魂の記憶で結ばれた闇の血族なのですよ」
 ルチアはエレオノーアの手を取り、彼女の頬に優しく口づけをした。
「ねぇ、エレオノーア。あなたのお話の中のフィンスタルは、いまも微笑んでいますか?」
 涙をまき散らしながらも、それらと決別するような、泣きながらの精一杯の笑顔を浮かべて、エレオノーアは即答した。
「はい、姫様! あ、違いました、ルチアさん。勿論ですとも! フィンスタルは笑っています。いいえ、正しくは、私はフィンスタルに笑っていてほしいのです。私にとって、その物語だけが、空想だけが、くじけそうになる私の心を支えてくれました」
 何故かルチアにはすぐに気を許せてしまったエレオノーアは、その場の勢いで語った。
「会ったこともなかった、まだ知らなかった《おにいさん》を想う、私の夢みたいな気持ちの悪い妄想を、それでも少しだけ、愛と呼んでよいのなら……その消えそうな、ただ一方的で自分勝手な愛を支えてくれたのは、私が都合よく創った《フィンスタルのその後の転生》についての物語だけでした」
 そこまで告げ、いまさらのように気づいて恥じらうエレオノーアに対し、彼女の頭をルチアは撫でて、諭すように言う。
「分かりました。そうだと思っていましたよ。悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。だから私が、あなたを助けます。さぁ、もう一度生きて、物語の続きを紡いで」
 ルチアとつないだ手を、目を潤ませて、嬉しそうに、無意識に揺さぶるエレオノーア。そんな彼女を好ましく思いながら、ルチアはさらに付け加えた。
「それからもうひとつの《縁》は、《ミロファニアの姫》をめぐるもの。私は、かつて自らがいた世界にて、ミロファニアという国の王女でした。これに対し、《今回》の世界にも、いくつかの意味において《ミロファニア》と同様の位置づけにある王国が存在するようですね。そこの《姫》と私の間には、血縁や地縁などとは全く異なる次元での《概念連環》が存在します。その《姫》とルキアンとの絆が、私とルキアン、そしてあなたとの縁をつないだのです。彼らの絆は極めて強い」
 エレオノーアは、若干、複雑な想いで尋ねた。
「それって、もしかして《ミルファーン》王国の《姫様だった人》のことでしょうか」
 《その人に、会うために》――大切な《おにいさん》、すなわちルキアンが、ハルス山地に来てエレオノーアと出会ったのは、そもそも、傷心の彼が、ミルファーンの元姫、つまりはシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアを訪ねての旅の途上だったのだ。
 ルチアはエレオノーアの銀の髪を手ですくように、彼女の頭を優しく撫で続ける。
「どうでしょうか。この《概念連環》にいうところの《姫》というのは、記号のようなもの、あるいは象徴的なものであって、その方が今も王女の地位にあるのか、そうではないのかということに、それほど意味はありません。いずれにせよ、ルキアンと彼女との関係は、互いの深い闇が引き合う磁石のようなもの。その方は、彼にとって、あなたに対するのとは違った意味で、とても大切な人です」


4.「言霊の封域」、受け継がれる力!



 「おにいさん……」

 不安げだったエレオノーアの表情が、ルキアンとシェフィーアの間にとても強い絆が存在するということを耳にした後、いっそう曇った。彼女は思い起こす。そういえばリオーネの家でも、ルキアンがシェフィーアのことを口にするとき、目を輝かせ、彼女のことをまるで自身のことのように、そして誇らしげに語っていた様子を。
「変な心配をさせてしまったかしら。ごめんなさいね。でも大丈夫ですよ」
 エレオノーアの頭を撫でていたルチアは、彼女の心配など気にも留めないような調子で笑い、首を振った。それでもエレオノーアの方は、ルキアンとシェフィーアのことを考え出すと、もう気が気でない。
「シェフィーアさんという人は、かなり強引で自由奔放な人みたいですし、しかもきれいな大人の女性で……もしも、わたしの、お、おにいさんを……とられてしまったら、どうしましょう!?」
 エレオノーアは半泣きになって、ろくに言葉も選ばず、ルチアの顔を見た。だがルチアの方は笑顔を崩さず、なぜか確信をもって断言する。
「だから、そんな心配は要らないのです」
「どうしてですか?」
「シェフィーアという方に会ったら分かりますよ。それに、彼女に対するルキアンの気持ちも、若い男の子に時々ありがちな、同世代の女の子とは異なる素敵な年上の女性への漠然とした憧れ、人によっては母親への思慕に似たようなところのあるものにすぎません。彼の場合、それに、自分の世界を無条件に全肯定してくれた彼女への深い感謝と、エクターとしての彼女の卓越した能力に対する尊敬の念がさらに加わったもの。男女の絆といっても、恋人や夫婦といったものだけではないのです。そうですね、ルキアンの場合、深い絆で結ばれている相手が、たまたま、お互い男と女だった、だけなのですよ。それよりも……」
 ルチアは身を乗り出すようにして、自分の顔をエレオノーアの顔に近づけ、彼女の両目を正面から覗き込んだ。そして悪戯っぽい目をすると、エレオノーアの耳元でささやくように告げる。こうしているとルチアに残ったあどけなさが正面に出て、まるでエレオノーアと同じ年頃の友達のようだ。
「あなたは、ルキアンのことが本当に好きなのね」
 何の遠慮もなく真正面から指摘したルチアに、エレオノーアはうつむいて、ただ黙ってうなずいた。
「大好きなおにいさんと、ずっと一緒にいたいですか?」
 エレオノーアは、再び黙って肯いた。
 一呼吸置いた後、ルチアは濃い茶色の髪を翻し、背筋を伸ばした。ゆっくりと、毅然とした声で、王女に相応しい品格で言葉が紡がれる。
「ならば、自分自身の存在に誇りを持ちなさい。彼の隣に胸を張って立てるように」
 自身の存在の空虚さ、疑わしさ――そこにあった弱みに付け込まれ、エレオノーアは先程の《試練》に敗れたのだ。魔法の言葉をぶつけられたかのように、彼女は身じろぎもせず、ルチアを見ている。
「あなたは、自分が虚ろで、どこにも存在しないのではないかと、不安で仕方がないのですね。でも私は思うのです。たとえ、《器》にされた他者の身体と、そこに《受肉》した《聖体》が交じり合い、そこから再構築され生成されたのが、それがエレオノーアであったとしても……冷淡な言い方をして、ごめんなさい……ですが、そのことは、あなたがあなたでないという理由にはなりません。あなたがどういう存在であろうと、いまこうして私が話している相手は、エレオノーア以外の何者でもない。あるいはルキアンの心の中でも、エレオノーアは、他の誰とも違うエレオノーアその人なのです」
 ルチアはエレオノーアの両手を取った。そして力強く伝える。
「そのエレオノーアのことを、ルキアンは大切に想ってくれているのでしょう? あなたが何であるのか、どんなふうに生まれてきて、どんなかたちで存在しているのかなんて、そんなことを問題にしているわけではなく、あなた自身として目の前にいるエレオノーアのことを、彼は見ているのではないですか」
「は、はい……それは、たしかに……」
「だから、私やルキアンにとって、《あなたは確かにそこにいる》のですよ、エレオノーア」
「ルチアさん……」
 エレオノーアの目から再び涙が落ちる。まさに流れるように、とめどなく。彼女は、ルチアの膝の上に顔を伏せ、ときおり、引きつるように喉を鳴らして、ひたすら泣き続けている。それは哀しみの涙では勿論ない。しばらくしてルチアが静かに告げた。
「ずっと、こうしていたいけれど、そろそろ行きなさい。長引くと、この《海》自体が消えてしまうようです。最後に私から贈り物を」
 ルチアに優しく促され、エレオノーアは彼女の前に立った。べそをかいて、手で涙を拭いながら。
「あなたは、私の力を継ぐ者に相応しいと思うのです。まずは、私の《歌い手》の力を委ねます」
 ルチアが右腕を伸ばすと、エレオノーアの胸にふれたその手を取り巻き、金色に揺らめく光がエレオノーアの中に流れ込んでいく。
「使い方は、もう、自然に分かりますね」
「は、はい……」
「私が力を使う場合とは、違った効果が生じるかもしれません。あなた自身が確かめ、磨いていってください。その力と一緒に、私はいつも、あなたとともにあります。私の素敵なお友達、エレオノーア」
 
 ルチアの声が次第にぼんやりと、遠くなっていく。
 そして視界は徐々に暗黒に包まれ、身体に伝わってくる生々しい物理的感覚も戻ってきた。
 再び、闇の中をひたすらに落ちていくエレオノーア。だが今は、彼女の目には怯えや迷いがない。
 ――言葉に込められた魔力を歌で引き出し、操るルチアさんの力を、私なりに。私、歌は……得意じゃないですし。でも、見ていてください。
 
 ――あまねく音を従え、この場を統べよ。私の《限定支配結界》、取り巻け、《言霊の封域》。
 
 彼女は胸元で祈るように両手を合わせ、力の言葉を厳かに口にした。
「冥界に引き込もうとする《虚海ディセマ》の力よ、汝は驚くほど弱い。見よ、たちまち汝の鎖は切れ、手は腐り、すべて崩れ落ちる」
 その言葉の力の発現と同時に、エレオノーアの落下が止まり、彼女を《ディセマの海》の生命無きデータの一部として吸収しようとしていた無数の手が、先端の方から見る見るうちに腐敗し、さらには風化し、また一本、また一本と崩壊を続け、闇の果てに落ちていった。
「私の翼は限りなく速く、高く舞い飛び去る。だが汝は遅く、地の底に重く縛り付けられ、私には決して届かない」 
 エレオノーアの身につけている、戦乙女を思わせる衣装。その背中にある羽根を模した飾りが、彼女の言葉を承けて大きな光の翼に変わり、たったひと振りで、彼女は瞬時に視界から消えるほど高く舞い上がった。この《翼》は魔法の力を発動させるためのシンボルのようなもので、実際にそれで飛んでいるわけではないのだろう。
 いつの間にか、エレオノーアは、おそらく異なる空間に存在する元の場所、つまりは《ディセマの海》の底にある神殿に戻っていた。
 彼女を苦しめた三体の黒衣の存在が正面にいる。先程とはうって変わって、活き活きとした生命の光を宿し、エレオノーアの青い瞳が《それ》らを見つめる。
 
  ――囲め、言の葉の戒め。《言霊の封域》。
 
 黒衣の者の一体が白目を開き、恐ろしい真っ赤な口で罵りの言葉を吐こうとしたとき、信じられないことが起こった。
「黙りなさい。私の尊敬するリオーネ先生の声で喋ることなど、許しません」
 エレオノーアの言葉が広間に響く。例の黒衣の女は、声を出せず、息苦しそうに首元をかきむしった。
 残りの二体が動き出そうとしたとき、淡々と、エレオノーアの冷たい声が流れた。
「光よ、照らせ、ここに満ちよ。影を消し去り、我が敵を一片も残さず滅ぼせ」
 広間を薄暗く照らす松明の一本が、彼女の言葉の後、火花のように激しく瞬いたかと思うと、次の刹那、眩い閃光となって爆風のごとく広がり、部屋中を呑み込む。
 真昼のように隅々まで光に晒し出された広間。黒衣の三体は、床に沈み込んで苦しみ、うめき声をあげ、その輪郭が光に溶かされるように薄れていく。闇に潜む者たちにとって猛毒にも等しい、強力な《光》属性の魔法を使ったように見えたが、実際にはそうではなく、エレオノーアの《言霊の封域》の力なのだろう。
 もはや幽霊同様に薄らいで、今にも消えそうな《それ》らに向かい、エレオノーアは毅然と言った。
「私は《生きます》。もう迷いません。身体も返してもらいますね」
 三体が跡形もなく姿を消すまで、ほとんど時間はかからなかった。《それ》らが消滅すると、エレオノーアの体が青白く光り始め、四方八方から光の粒が彼女に向かって無数に集まってくる。ルキアンに仮に与えてもらった戦乙女の姿が消え、かわって現れたのは、エレオノーアがルキアンたちと晩餐をしていたときの、あの白いドレスの姿である。
「やりました。取り戻しました、おにいさん!!」
 エレオノーアは、背後の大扉に全力で駆け寄ると、胸躍らせて扉に手を掛けた。
「これでおにいさんと一緒に」
 
 だが、扉は重く閉ざされ、開こうともしない。何度押しても引いても微動だにしなかった。
 ――囲め、《言霊の封域》! 駄目、ですか? もう一度、《言霊の封域》!!
 彼女の力も扉の近くで跳ね返され、まったく効果がない。
「そんな……。体は取り戻したのに、《試練》を乗り越えることはできなかった?」
 一気に落胆の底に落とされたエレオノーアは、床にしゃがみ込み、両手をついた。
「え? どうして。なぜ、また消えるの?」
 ふと、手を見たとき、自身の体が再び消えかけており、徐々にではあるが、溶けるように光の粒に置き換わっていることに彼女は気づいた。
「いやです! おにいさん、助けて、わたしのおにいさん!!」
 エレオノーアは、絶望のあまり、拳を何度も大扉に打ちつけ、その愛らしい手から血が滲んでも、なおも叩き続けた。
 扉のすぐ反対側に、愛しい《おにいさん》がいる。身体も取り戻すことができた。それなのに、再会できずここで消滅してしまうとは。
 この部屋に入る前、扉に掲げられていたことを、彼女は思い起こす。試練を受ける御子と対になる御子でなければ、この扉を外から開けることはできない。無理に開けようとすれば、中で試練を受けた方の御子が引き裂かれる、と。
「おにいさん、開けてください。たとえ私が死んでしまっても、それでも構わないです。もう一度、ただ一目でも、おにいさんに会いたいよ……」
 エレオノーアは大扉にすがりついた。
 無慈悲な金属の肌の感触が、固く、冷たく、伝わってくる。


【第55話 後編 に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・後編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


5.交わる二つの闇と「双紋の御子」


 

 《虚海ディセマ》の最奥、一筋の光さえも届かぬ深海底に建つ神殿、その試練の間に続く入口の前を、ルキアンは忙しなく行ったり来たりしている。はじめは静かに座ってエレオノーアの帰りを待っていた彼だったが、その後、待つのに飽きたわけではない。彼が落ち着きを失っているのは、もはや単なる心配を通り越した、胸が締め付けられるような、言いようのない不安感が浮かんできたからであった。
 仮にも魔道士の卵であるルキアンの直感は、それなりに鋭い。その直感が、否応もなく、息苦しい緊張感を体中に染み渡らせていく。
「このままでは、エレオノーアが帰ってこない気がする。だけど、対の御子ではない僕が無理に扉を開けると……」
 ルキアンは、先ほどから何度も扉の前で立ち止まり、手を掛けつつも、開けることを結局避けていた。もしルキアンが扉を開ければ、エレオノーアが命を失うかもしれないからだ。
 そんなとき、突然、彼の心の中に声が伝わってきた。
 ――ルキアン、アマリアだ。私の声が聞こえるか。《豊穣の便り》の刻印を媒介にして、君に話しかけている。
 ――はい、アマリアさん。アルマ・ヴィオの《念信》のような感じですが、しっかり伝わってきます。
 ルキアンは、掌に描かれた麦の穂を思わせる黒い紋様、すなわち《刻印》を見つめながら念じた。これに応えてアマリアの声も流れ込んでくる。
 ――よく聞いてほしい。エレオノーアを直ちに助けにいくべきだ。今、彼女の霊気がいったん安定したと思ったら、間もなく急激に減少し始め、もうほとんど感じられなくなっている。おそらく、このままだと彼女は今度こそ消えてしまう。
 悪い予感が当たっていたことを、ルキアンは確信せざるを得なかった。ここは迷うことなく了解した彼に、アマリアは続けて言う。
 ――何かあったら、今の要領で私に声をかけてほしい。ここから、できる限りのことはする。
 ――分かりました。アマリアさんも気をつけて。
 そう告げて話を終えると、ルキアンは大扉の前に立ち、敢えてゆっくりと息を吸い、長く吐き出した。そして両手で押すように扉にふれ、意識を手のひらに集中する。
 ――この扉がどうなっているかが分かる。押しても開かない。これは、闇の御子の力でしか……。
 晩餐の場でエレオノーアが消滅しかけたとき、無意識のうちに《闇》の紋章を浮かび上がらせ、《ディセマの海》を支配結界に取り込んだルキアンは、今なら自分の意志で紋章を呼び出し、その力を扱うことができるような気がしていた。
 ――大丈夫。《盾なるソルミナ》が生み出した幻の世界の中では、僕は紋章の力を使って戦うことができた。あの時の感覚は、はっきり覚えている。
 エレオノーアのはにかんだ笑顔が、《おにいさん》という彼女の愛らしい声が、ルキアンの胸の内に浮かんだ。
「僕が助けないと。《ダアスの眼》よ、開け、闇の紋章を呼び起こし、力を貸して!!」
 《盾なるソルミナ》の化身と戦ったときや、ミト―ニアでアルフェリオンをゼフィロス・モードに変形させたとき、ルキアンはすでに《ダアスの眼》を開くことができていた。御子としての本能が彼を導いているのだろうか。ルキアンが叫び、精神を集中すると、彼の心の目が何かと向き合った。魂の底から彼を見つめるそれは、御子の力の象徴たる《ダアスの眼》に他ならない。己の中の闇に心を投げ入れ、それを恐れず受け入れ、ひとつになったとき、《ダアスの眼》は開き、御子自身の目として、御子自身を見つめる。
「できた。これなら紋章の力も」
 《ダアスの眼》が自らの視線と重なったとき、ルキアンの右目に変化が起き、幾つかの微細な光が、小妖精の輪舞のように瞳の奥で煌めいた。それらは回転しながら細密な文字や図形を描き出し、ルキアンの右目に闇の紋章が現れる。その輝きは強く、彼の想いに応えようとしているかのようだった。
 だが、彼が紋章の力を扉に注ぎ込んだとき、火花が散り、焼けるような感覚が掌に走った。
「痛っ!」
反射的に引っ込めた腕が根元まで痺れている。
「《鍵》が合わないのか。それでも、何としてでも……」
 ルキアンは再び両手を扉に押し当て、魔力を集中する。
「エレオノーアは、僕が救い出す」
 痛みも、痺れも、すべて無視して耐え、ルキアンは手のひらを決して放そうとしない。なおも魔力を注ぎ込むと、掌や腕に伝わってくる痛みがいっそう大きくなった。容赦のない激痛に、うめき声を上げながらも、彼は決して諦めなかった。
「必ず、助ける。絶対、やり遂げる……」
 たとえ短くても、エレオノーアと過ごした忘れ難い時間が、ルキアンの脳裏に鮮明に浮かぶ。今度は自身に喝を入れるように、ルキアンが叫ぶ。
「想いの力を……想いの、力を……見せてやる!」
 一転、ルキアンの目が漆黒色に変わる。紋章の輝きも閃光のごとく高まった。彼の心の中でも、《ダアスの眼》のイメージがいっそう大きく見開かれる。《盾なるソルミナ》の化身との戦いの中で口にした一連の言葉を、彼は無意識に繰り返し、半ば詠唱する。
 
 僕は見た。
 生命と因果律の樹の背後に開けた
 底なしの暗き穴を。
 始まりにして終わりの知の隠されし
 静謐の座を。
 
 大扉に当てられたルキアンの両手を中心に、闇の紋章と同じ形状の魔法陣が浮かび上がる。巨大な扉が震え、大きく揺れ始める。さらにルキアンの銀色の髪がそよぎながら、次第に灰色に、そして黒、ついには漆黒の色に変わった。闇の御子が全力で力を振るうときの姿だ。
 これまでとは違う膨大な力が扉に流れ込み、表面に浮かんだ魔法陣を光となってなぞりながら、扉の中央に集まっていく。
 ルキアンは激高してエレオノーアの名を叫んだ。それと同時の一撃で、扉の中心にひびが入り、周囲に広がる。金属製らしからぬ、ガラスが割れるような高く乾いた音がして、これを引き金に扉が真ん中から砕け散った。現実味が感じられないほど分厚く、重々しい鋼材の破片が、鈍い音と地響きを伴って床に次々と落ち、遂に、人がくぐれるほどの穴が生じるのだった。
 ルキアンはそこから中に入ろうとしたが、何か目に見えないものに遮られて先に進めない。透明な壁、より正確にいえば、凄まじい水圧で流れ落ちる滝に触れたような、そんな感触がする。
「空間が歪んでいる? エレオノーア!?」
 壊れた扉の向こうにエレオノーアが倒れているのが見えた。彼女は口から血を吐き、ぐったりした様子で床に伏している。もう身動き一つできないほど衰弱しているようだ。
 今度は扉にできた穴に向かって、ルキアンが必死に魔力を注ぎ込む。だが次の瞬間、エレオノーアが悲鳴とともに起き上がり、発狂したかのような叫び声をあげ、苦痛にのたうった。ルキアンは慌てて一歩下がった。
 ――無理に開けようとすれば、中の御子が引き裂かれるというのは……まさか、僕が扉を壊そうとすると、それがエレオノーアの体を傷つけてしまうということ?
 見えない壁の向こう、エレオノーアが息も絶え絶えに座り込む。身を引きちぎられるような激しい痛みに耐え、彼女はルキアンを見つけた。
「お、おにい、さん……? なぜか、髪も、瞳も……黒いですが、おにいさん、ですよね。よかった。また会えたの、ですね……」
 エレオノーアの目から涙があふれ、彼女は立ち上がろうとして転ぶと、両腕で体を引きずるように床を這い、ルキアンのところまで必死に辿り着こうとする。
「ごめん、エレオノーア! 痛かった、すごく痛かったね。僕が扉を壊そうとするたびに、エレオノーア自身の体が傷つけられていたんだね? 本当にすまない」
 ルキアンが透明な壁に手を当てると、向こう側のエレオノーアも壁に沿って懸命に這い上がり、残った力で上体を持ち上げ、腕を伸ばし、その手を壁越しにルキアンの手に重ねる。
「体が……中から、ばらばらになるかと……思い、ました……。たくさん、血も吐いて、もう、気を失うくらい……痛かった、です。でも一生懸命、我慢して、おにいさんと、また、会えました」
 エレオノーアの声が、途切れ途切れに、か細く聞こえてくる。
「でも、おにいさん……。私は、ここまでの、ようです。身体は、取り戻したのですが。結局、私が消えようとしている原因は、元のまま……なのです」
「それは、どういうこと?」
「対になる御子を、失っている……片割れの……《アーカイブ》の御子は、とても不安定で、時が来ると、こうして……消えてゆくしか……ないの、です。それに、粒子化と実体化を繰り返した影響で、わたしの生身の体そのものも、もう、ぼろぼろで……」
 エレオノーアの体のあちこちが再び光の粒に変わり、少しずつ蒸発するように消えていっているのが、ルキアンの目に映った。
「わたしは……おにいさんの《アーカイブ》に、なりたかったです。そうしたら、ずっと、一緒にいられた……。でも、おにいさんの紋章は、対になる《アーカイブ》の人の紋章と、すでに結ばれています」
「そんな!? それじゃあ、エレオノーアはもう、助けられないの?」
 ルキアンが思わず声を上げると、エレオノーアは首が折れたかのようにがっくりとうな垂れ、そこから顔を上げる力をもはや失った。
「仕方が、ない、のです。それでも……わたし、満足です。こうして、おにいさんと会えた。短い時間、だったけど……とても、嬉しかった。幸せ、でした。ありが、とう……」
 永遠の別れを思わせる言葉をエレオノーアが口にし始めたため、ルキアンは必死に考えた。今できることを、エレオノーアをこの世に引き戻す決定的な何かを。
「ちょっと待って。《アーカイブ》と結ばれるために、闇の紋章が必要なら……。紋章がもうひとつ、あれば、もしかすると」
 何かを決意したような、哀しくも真剣な顔をして、ルキアンが急に立ち上がった。エレオノーアは虫の息で、壁にもたれかかって座っている。
「神でも悪魔でも、何でもいい。お願いだ。エレオノーアを助けたい。たとえ、この左目が光を失っても構わない。だから、紋章を……」
 ルキアンの闇の紋章が再び光り輝き、彼の背中から莫大な霊気が立ち昇る。
「なんとなく、前から感じていた。左目の……違和感を。でも怖かった。いまの右目の紋章だけなら、僕の力でも何とか制御できる。しかし、もし、もうひとつの紋章が目覚めてしまうとしたら……僕の力ではどうにもならない、かもしれない。これを開いてしまうと、僕は本当に戦うだけの、兵器のような存在になってしまうんじゃないかって、恐ろしくて、知らないふりをしていた。だけど……」
 彼の発する闇の力はさらに強まり、透明な壁越しにもエレオノーアが異変に気づくほどだった。彼女は首を傾け、弱々しく唇を開いた。それが唯一の反応だった。
「エレオノーア。僕の声、聞こえる? ごめんね、話すのは辛いよね……。お願いがある。もし、僕がいつか、敵を殺戮することしか考えない機械のようになってしまったら……そのときは、君が僕を殺して、止めてくれる? とても身勝手なお願いだけど、エレオノーアにしか、頼みたくない。許してほしい」
 そのように口にしたとき、ルキアンは、アルフェリオンの最終形態である《紅蓮の闇の翼》、かつて旧世界の時代に《天空植民市群》を滅ぼし尽くすために作られた殲滅兵器である《アルファ・アポリオン》と、自身とが一体化してしまうことを、不穏にも予感していた。
 エレオノーアからみれば、突然に、予想もしていなかった問いかけだったが、彼女には驚く力すらなく、ただ頷いた。聞き取れないほど小さな声で、ひとこと、ひとこと、言葉が絞り出される。
「はい……。おにいさんが、心から、そう望むなら。でも……そうならないように、私が……ずっとあなたの側で……見守って、いられたら、よかったな」
 最後の力を出し切るような、エレオノーアの切々とした言葉に、ルキアンの目から自然と涙が流れた。
「本当に、ありがとう」
 少し沈思した後、ルキアンはエレオノーアに問いかけた。簡素な言葉に、いま精一杯の想いを込めて。
「エレオノーア、僕の、《アーカイブ》になってくれる?」
 命も尽きようとしていたエレオノーアが、その言葉に大きく反応し、目を開いた。
「なりたいです。だけど……そんなこと……。夢でも、いいから、なりたいな……」
「分かった。僕も勇気を出して、君の願いに応えたい。君だけをひとりで逝かせはしない」
 ルキアンはわずかに背中をかがめ、息を吸うと、一気に叫んだ。彼の絶叫が続く中、左目に血が滲み、その血が次第に一定の形を描く。淀んでいた建物内の空気が彼を中心に動き出し、渦を巻いたかと思えば、気温は急激に下がり、肌を刺す冷気が周囲の石壁から激しく伝わってくるようだ。そして重力も異常をきたし、床の小石や砂が浮き上がり、近くに置かれている燭台や調度品がカタカタと音を立てて揺れている。
 これまでのルキアンとは別人のような、底なしの濃い霊気が辺りを支配し、神殿一帯をたちまち覆い尽くしていく。突然に強大な魔力が海底神殿から感じられたことに、アマリアが驚いてルキアンに呼び掛けてくる。
 ――ルキアン、そこで何が起こっている? 一体、この膨大な魔力は!?
 だがルキアンは答えずに叫び続けた。そして不意に沈黙し、何かに取り憑かれたかのような、ぼんやりとした、遠い目で淡々と語り始める。
「エレオノーア、君は僕の《アーカイブ》だ。なぜなら……」
 ルキアンが両目を閉じ、ゆっくりと開いた。右目に闇の紋章。そして左目に輝くのは……。
 いち早くそれを感じ取ったアマリアが、声を震わせて言う。
 ――あり得ない、そんなことは。《双紋の御子》が、同じ属性の紋章を二つ持っているだと? いまだかつて、そんな御子など誰一人としていない。
 普段とは異なる冷厳とした口調で、ルキアンは続ける。
「なぜなら、僕のもうひとつの、左目の《闇》の紋章とエレオノーアの紋章は、いま結ばれるのだから」
 
 ――《アーカイブ》との契約を承認。両者の《紋章回路(クライス)》をスキャンし、リンクを準備中です。
 
 ――おにい、さん? おにいさんの闇が、わたしの中に、入ってくる……。怖いほどに、こんなにも……孤独で、痛々しい。これまで、寂しかったのですね……。ずっとずっと、辛かったんだね。
 目に見える体の動きを生じさせる力は、もうエレオノーアにはなく、言葉を発することすらままならなかったが、彼女はルキアンに届けと心の中で思った。
 ――そうか、わたしと同じ、なんだ。こんなにも暗く、光の届かない心の闇を、独りで背負うことなんて、できないです。それでも負い続けようとして、ますます、闇は、深くなり、あきらめに押し潰されて、もう、取り返しのつかないほど心が侵食されてく……。それ、知ってます。
 輝きを失ったエレオノーアの瞳が、目尻の方に向かって微かに動いた。
 ――あぁ、会えてよかった。わたしにしか、支えることの……できない人に。これからは、一緒に……背負わせて……ください。
 
 ――リンクが正常に構築されました。《執行体》と《アーカイブ》の接続を確立。
 
 ルキアンは、おもむろに右目を手で覆う。彼が再び手を放したときには、右目の紋章はいったん消えていた。肩の力を緩め、溜息を付くルキアン。紋章が左目のものだけになった後、ルキアンのまとう雰囲気も、話し方もいつもの彼に戻った。
「エレオノーア、いますぐ回復するよ。頑張ったね。今なら、《アーカイブ》の、君の力のことが自然に分かる。僕が、君を、死から取り戻す」
 ルキアンは見えない壁に手をかざし、座り込んで動かないエレオノーアに向けてつぶやいた。
「冥府の門を開け放ち、かの者の物は、かの者へ、時のことわりを超えて此方に返せ、引き換えて新たな災いは招き入れ、封じよ」
 その呪文の長さに応じた極めて強力な治癒魔法、いや、それ以上の計り知れない魔法だろうか。詠唱が続く。
「暗黒の神々の書に名を刻まれし忘却の公主に、我らの地より、遠く願い奉る。哀れなこの者、すでに逝きつつある者の時を戻したまえ」
 神話の戦いの折に、とある書に記され、それ以来、《人の子》の世界からは失われていたといわれる秘術の名を、ルキアンは唱える。
 
「時無しの糸をもって、その青白き指で導け……絶対状態転移魔法……《エテルナ・オブリアータ》」
 幾拍かの間隔があってから、エレオノーアの肩が動いた。彼女は首を起こし、寝ぼけたような顔で目を開き、呆然と周囲を見回している。それから立ち上がると、ようやく驚いてルキアンの方を見た。
「お、おにいさん! わたし、元気になっています、生き返った、みたいですが!? 本当に死んでしまいそうだったのに。これが……真の闇の御子の力、《アーカイブ》と結ばれた《執行体》の力なのですね!」
 瀕死の状況にあったエレオノーアが、心地よい朝の目覚めのように、澄んだ目と健康的な頬の色でルキアンに向き合い、一瞬で立ち上がった。ほぼ死者を生き返らせるに等しい、これほど高度な治癒魔法は、本来ならルキアンが知るはずもなく、使えるはずもない。
 エレオノーアには、ルキアンの行ったことが完全に把握できているようだ。彼女は意味ありげに目を細めて言う。
「《エテルナ・オブリアータ》、効果の見た目からは、違いが分からないようにみえますが……この術は、治癒や回復はもとより、より高度な蘇生の魔術でもありません。対象となるものの状態自体を過去のあるべき姿へと帰す、神の手、《絶対状態転移》の魔法です。私の《書庫》の中に、こんなとんでもない呪文が眠っていたのですね」
 《神の手》とすら呼ばれるその呪文の圧倒的な効果は、もはや天に召されようとしていたエレオノーアが、気力に漲った姿で目の前にいることをみれば、一目瞭然であろう。
「すごいです、おにいさん! 《アーカイブ》の私が蓄えている呪文を――それはつまり、《アーカイブ》とつながっている《ディセマの海》に記憶された、そうですね、いったい、どれだけ沢山の魔道書庫に匹敵するのかさえ想像もつかないほどの、伝説の時代から今日に至るまでの膨大な《闇》属性呪文を、ですね、私が瞬時に検索し、提案し、おにいさんは最適なものを実装して発動させることができます」
 対になる闇の御子が結合し、完成された《聖体》本来の力は、《人の子》たちの想像の及ぶ範囲を遠く超えている。エレオノーアは胸に両手を当て、何か大切なものを抱くような格好をした。
「まだ信じられません。でも、とにかく嬉しいです。おにいさんとつながっています。確かに感じます。わたし、わたし……おにいさんの《アーカイブ》に、なれたんですね!!」
 彼女はそこで思い出したかのように、自身の胸に手を当てたまま、力を発動させる。
「我が体に宿れ、《言霊の封域》」
 彼女のそのひとことで場の空気が変わった。ルキアンは驚愕の目で、エレオノーアの顔を改めて見つめた。試練の間に入る前のエレオノーアとは別人ではないかと思うほど、力の言葉を唱える彼女には威厳があった。
「大切な人のために、わたしの想いは鋼よりも固く、金剛石をも凌駕する」
 ルキアンの目をじっと見つめ、エレオノーアが言葉を続けた。
「だから、わたしは痛みなど一切感じない」
 エレオノーアは、自身とルキアンとを隔てる壁に手を当てると、決意に満ちた目でルキアンに頼んだ。
「わたしに構わず、この壁を壊してください。早くおにいさんのところに行きたいです。壁を壊せば、これまでとは比べ物にならないほど、その、とても痛いかもしれませんが……おにいさんが元に戻してくれたおかげで、《言霊の封域》が使えましたから、何とかなるかもしれません」
 ルキアンはエレオノーアを見つめ、小さく頷いた。壁に手を当て、魔力を注ぎ込む。
 短く、鋭い、喉を絞るような苦しみの声をあげたエレオノーア。だが彼女は片膝を床につきながらも、恐ろしい激痛に耐え切った。壁が割れる音が間もなく響いた。
「エレオノーア、よく頑張ったね」
 ルキアンの手が差し伸べられる。今度は二人の間に何の障害もなく、エレオノーアもルキアンの方に手を伸ばした。
「おにいさんっ!!」
 なおも激痛に表情を歪ませ、足取りもふらつきながらも、エレオノーアはルキアンに駆け寄った。
「もう、離れるのは嫌です。絶対に一緒です、わたしのおにいさん!」
 エレオノーアはルキアンに抱き付く、いや、勢い余ってしがみ付くと、子供のように大声で泣き出した。ルキアンは敢えてそれをなだめようとはせず、黙って彼女を抱き止め、そっと頭を撫でている。そして穏やかに語りかけた。
「さぁ、帰ろう。二人で」
 
 そのときアマリアが、珍しく若干の遠慮を伴って、低めの声で伝えてきた。
 ――盛り上がっているところ、水を差すようで悪いのだが。そこから帰ってくる間、何が起こるか分からない。十分に気を付けたまえ。
 エレオノーアが、目を赤く腫らして、まだ涙声のままで言う。
「そうですね。何か、嫌な予感がします。早くここを出ないと……」
 そう言いかけ、エレオノーアが窓から、あるいは窓の姿をした特殊な結界から外を見たきり、そのまま動かなくなった。彼女の手が震えている。
「あ、あれを、見て……。おにいさん」
 ただ事ではないその様子にルキアンも外へ目を向けると、舞い上がる土煙の向こう、最初は、あまりにも大きすぎて、視界すべてをその巨体に遮られ、《それ》が動いているということがよく分からなかった。暗い深海にいっそう黒々と濃く、悠然と泳ぐ漆黒の影。その巨躯は天界に迫る高き塔のように、《虚海ディセマ》の深層から中層へと突き抜け、ひょっとすると水面の上まで続いているのではないかと思われた。長大な尾がひと振りされると、莫大な深海の水が渦を巻き、蛇のような体が這うと海底は歪み、崩れ、その地形すら刻々と変わっていくようだった。
「とてつもなく、大きな蛇? それとも、竜? でも、この《虚海ディセマ》に生き物など存在しないはずです」
 心配そうにルキアンを仰ぎ見たエレオノーア。彼の表情にも、これまで以上の緊張が走る。
「つまり、あれは、結界の外から……。しかし、そんなことができるのは?」
 ルキアンは拳を握り締め、その手を――おそらくは怒りゆえに――震わせ、自身とエレオノーアに言い聞かせるかのように、静かに、ゆっくりと言った。
「ただひとつ、確かなことがあるんだ。あの竜の姿を見ているだけで、言いようのない激しい怒りがわいてくる。あれは必ず倒さないといけないものだと、御子たちの魂の記憶がはっきりと告げている」
「わたしもです、おにいさん。あれは、これまでに幾度となく《再起動(リセット)》されて滅びていった、すべての世界の御子たちの敵。《人の子》の歴史をもてあそぶ存在、わたしたちの宿敵です!」
 向き合って互いに頷くルキアンとエレオノーア。エレオノーアの命は確かに救われ、彼女とルキアンは対の闇の御子として結ばれた。だが、この戦いに勝利しなければ二人に未来はない。
 彼らの心に、アマリアからの声が直に響いてくる。
 
 ――我々が見ているのは、間違いなく《始まりの四頭竜》の姿だ。世界が創造され、《あれ》の力が、つまり《すべての根源たる絶対的機能》の作用が及び始めたとき、その自己展開が予め定められた通りに進められるよう、物理世界に干渉するための手足として最初に生み出された《万象の管理者》……それが四体、いや、四柱の《時の司》。《石板》によれば、それら《時の司》の正体は、四つの頭をもった最も古き神竜だとされている。ただ、幸いというべきか、いま我々の前にいるのは、四頭竜のただの似姿、しかもその思念体にすぎない。しかし、何とも直接的な方法で介入してきたものだな。そうやって、我らを力ずくで蹴散らせると考えているのなら、永劫の時を経て貴様らは呆けたか。死とは無縁の永遠性をもつ神的存在とはいえ、無駄に長く生き過ぎたな、《時の司》たちよ。《人の子》の限られた命というものの一瞬の輝きを、それゆえの強さを、貴様らが正しく想像できるはずはあるまい。
 
 彼女は初めて口にした。御子の奥義として伝わる究極の術の名を。
 
 ――さぁ、《古き者たち》よ、《今回》の世界は今までとは違うぞ。貴様らと戦うために、私は、善悪や是非を超えて、ただ結果だけを告げよう。真の闇の御子が《聖体降喚(ロード)》によって降臨したおかげで、《永劫の円環》の呪いは打ち砕かれ、《人の子》の歴史が始まって以来、すべての御子が同じ時代に初めて揃った。私を含め、そのうち五人のことが明らかになっている。この意味が分かるか。じきに、御子の真の力を見ることになるだろう、すなわち、《五柱星輪陣(ペンタグランマ・アポストロールム)》を。


【第56話に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・前編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


消えたくないです。生きたいよ。
だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、
同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。
それでも自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?

(エレオノーア・デン・ヘルマレイア)

 


1.エレオノーアの危機と遠き世のネクロマンサー


 

「私は絶対に負けません。だって、おにいさんと会えたから。何があってもおにいさんと一緒に行くって、決めたから」
 エレオノーアは、戦いのさなか、ルキアンへの想いを率直に口にする。否、その強すぎる気持ちが、自覚も曖昧なまま、自然に言葉となって流れ出たのだろう。大勢で詰め寄る山賊たちに囲まれないよう、彼女は渓谷の岩や木を巧みに利用する。そして油断した相手を確実に潰していく。また一人、剣を抜いて襲いかかるも、その足を払ったエレオノーアは逆に剣を奪い取り、直ちに構えるのだった。
 
 ――灰式・隠密武闘術、一群。剣舞風波(けんぶかざなみ)
 
 大気に遊ぶ風の精(シルフ)のごとく、エレオノーアは、次の流れを予想し難い動きで敵を翻弄する。そこから瞬時の隙をついて繰り出される彼女の一撃は、真空の刃のようだ。剣を手にしたエレオノーアは、素手で戦っていたときよりも遥かに手強い。
「こ、こんなの聞いてないぞ。少しは使えるどころか、強すぎる!」
 相手は小柄な娘一人、本気で戦う必要もないだろうと高を括っていたならず者たちが、明らかに動揺し始めた。身体の動きが悪くなり、太刀筋にも怯えがみえる。その変化をエレオノーアは見逃さなかった。
「に、に、逃げようぜ、殺される!」
 浮足立って統率が取れず、もはや数の多さを活かせない山賊たちは、エレオノーアに一人ずつ次々と狙いうちにされていく。最初、賊たちは30名ほど居たはずだが、まともに動ける者の数はもはや半分近くに減っていた。
 
 ――これで勝てる。おにいさん。
 
 だが、エレオノーアがそう思ったとき、しゃがれ声で山賊の頭が迫った。
「お嬢ちゃん、見ろよ。少しでも動いたら、大事な《おにいさん》の頭が吹き飛ぶぞ」
 咄嗟に振り向いたエレオノーアの目に映ったのは、両手を縛られ、無念そうにうなだれるルキアンの姿だった。彼の頬骨近くに銃を突き付け、したり顔の頭目がエレオノーアをからかうように言う。
「王子様をお姫様が守り、しかも王子様が捕まってお姫様の足を引っ張るなんて、こんなふざけた話は聞いたことがないな。おっと、動くなというのが聞こえなかったのか」
 エレオノーアの顔が怒りに満ちたのを恐れ、頭目はルキアンに銃を強く押しつけた。
「エレオノーア……。すまない。僕はいいから、君は逃げて……」
 泣き出しそうな表情でエレオノーアを見つめたルキアン。本気で決意したはずなのに、今回も大切な人を守れなかった、この惨めさ。悔恨にまみれたルキアンの顔つきは、目を反らしたくなるほど悲痛なものだった。
 エレオノーアは周囲の敵を威嚇するように剣を鋭くひと振りし、断固とした口調で言った。
「人質なんて卑怯です。おにいさんを放してください」
 一瞬、沈黙が支配した後、山賊たちは下卑た笑いを爆発させ、エレオノーアに罵声を浴びせた。その響きがルキアンをますます辛い気持ちにさせる。
 山賊の頭も、黒い眼帯をこすりながら大笑いした。
「卑怯ねぇ。ちょっと頭を使って勝つことの、どこがいけないんだ。世間知らずのお嬢さん。それで、お嬢さんよ」
 頭目がエレオノーアの方を顎でしゃくって、何か指示をする。口元を緩ませながら、数名の手下がエレオノーアの方に近づいていく。
「まずは剣を捨てろ。今すぐ下に置かないと、こいつに一発ぶっ放すぞ」
 勢いに乗った頭目が引き金をひくような素振りを見せたため、エレオノーアは、黙って剣を手放した。石の多い地面に鋼がぶつかり、転がる音。剣は横たわり、日光を反射して眩しく光った。
「捨てました。おにいさんを今すぐ返して」
「駄目だ。お嬢ちゃんは素手でも怖いからな。おい、お前ら」
 手下が二人、両側からエレオノーアの腕をがっちりと掴む。
「何をするんですか! 触らないで!!」
 彼らはエレオノーアを向こうに連れて行こうとする。そこには、真っすぐに伸びる2本の太い木が立っており、別の男たちが縄を何本も手にして待ち構えている。その意図に気づいたエレオノーアの横顔から、一瞬で血の気が引いた。かぶりを振る彼女の姿をにやにやと見て、山賊たちは一緒に来るよう促す。何度もためらいながら、エレオノーアは青い顔をして無抵抗のまま従った。
「やめろ、エレオノーアに手を出すな!」
 ルキアンは必死に叫び、身を乗り出したが、周りの山賊に取り押さえられてしまう。何もできなかった彼は、血が滲み出しそうなほど唇を噛みしめた。自分が不甲斐ないせいで、今度こそ守りたかったエレオノーアを犠牲にしてしまうのだから。しかも、普段は少年エレオンとして振る舞うエレオノーアが、その仮の姿に隠して大切に守ってきた、花開いたばかりの女としての秘めやかな本性を、今から悪党たちの手で無理やり暴き出され、弄ばれることになるのかと思うと、ルキアンは正気を保てなくなりそうだった。それでもなお凛として悲壮な覚悟で臨むエレオノーアを、ルキアンは直視できなかった。
 
そのとき……。
 
 ――やれやれ。いくら御子だといっても、大切な一人さえ守れないような軟弱者に、この世界の命運を託してよいはずがなかろうよ。
 この声に、それ以前に声の主の気配に、ルキアンにははっきりと覚えがあった。目の前が暗転し、果ての無い灰色の世界に飲まれ、時間が凍り付くような感覚に落ちていく。その異様な場で、ルキアンは、ひとつの影と向き合っていた。
 影が次第にはっきりとした輪郭をとる。縮れた黒髪をなびかせ、飾り気のない法衣をまとい、羊飼いのような素朴な木の杖を手にした姿。広い額、彫りの深い顔に、奥まった黒い目で悠然と睨むような中年の男。彼は小さな苦笑いを浮かべる。
 ――俺を知っているな。そう、ルカだ。正しくは、かつて生きたルカ・イーヴィックという闇の御子の、残された思念のなれの果てかもしれない。あの可愛らしい娘、俺たちの大事な血族を、野盗ごときにいいようにされるのは気に入らないから、わざわざ出てきてやったぞ。
 唖然とするルキアン。返事を待たずにルカは続けた。会話になっているように思われて、それでいて実はただ一方的に語っているだけにもみえる、いかにも残留思念にありがちな振る舞いであろう。いや、ルカは曲がりなりにも聖職者だったはずなのだが、そのわりには口調が少々野卑だ。
 ――最初に言っておく。俺は、困っている者を放っておかないが、そのためには手段を選ばない。必要なら、どんな汚い手でも平気で使う。何故だか分かるか?
 空間に深々と音を刻み込むように、ルカは静かに、かつ重々しく告げた。
 
 ――なぜなら俺は、僧侶(プリースト)で……しかし、死霊術師(ネクロマンサー)だ。
 
 彼がそう言い終わる前に、ルキアンは急に目眩がして意識が遠のくのを感じた。
 ――あの娘を助けたいのだろ。お前の体を少し貸せ、新しい御子よ。
 そう言ったルカは、いくらか上機嫌そうですらあった。
 
 静まりかえった渓谷に、山賊たちの密やかな笑い声が漂う。ようやく捕らえたエレオノーアを彼らは取り囲んでいた。
 エレオノーアは、僧衣のような濃紺のローブを脱がされ、白いブラウスとキュロットという格好で、2本の木の間に立たされていた。その姿は、これまでの印象よりもずっと華奢で繊細だった。すらりとした腕は、万歳をするように、左右それぞれの木から縄で吊るし上げられている。ほっそりと白い脚も、同じく縄で左右の木につながれ、開かれたまま閉じることができない。蜘蛛の巣に掛かった惨めな蝶のように、四肢を大きく開いた屈辱的な姿を晒されているエレオノーアは、恥じらいに頬を染め、目を閉じて深々とうつむく。悔し涙で睫毛も濡れていた。
「戦っていたときのあの強気は、どこに行ったのかな、お嬢ちゃん。だが、お楽しみはここからだ」
 山賊の頭目は、すっかり勝ち誇った顔つきになり、エレオノーアの耳元でささやく。不意に、その汚らわしい手がエレオノーアの腰を撫でる。避けるすべのない彼女は、引きつったように震え、声にならない悲鳴を上げた。この反応に嗜虐心をかき立てられた頭目は、血走った目でナイフを手にすると、刃を入れて切り裂こうとエレオノーアのキュロットをつまんだ。
 もはや風前の灯火だ。
 ――おにいさん、見ないで。こんなの嫌です!
 エレオノーアの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 
 だがそのとき、頭目は不自然に息を呑んだ。
 彼に銃口を向けられていたルキアンが、ゆっくりと目を見開き、一転、今までとはまったく違う口調で話し始める。
「まず教えよう。後悔したくなければ聞くがいい」
 彼がそう言うが早いか、その場をすべて飲み込み、凍てつかせるような、吐き気を催すほどの威圧感がルキアンを中心に広がった。
 ――おにいさん? 違う。これは、違う人……。でも、遠い昔、この人とどこかで会ったことがあるような、懐かしいような。
 自分の知るルキアンではない姿に違和感を覚えつつも、エレオノーアは彼を凝視する。たとえ不完全でも闇の御子であるエレオノーアが、ルカ・イーヴィックに関する遠い記憶を引き継いでいるのは当然のことだ。
 一方、ルキアンは、いや、ルキアンの姿を借りた者は、人差し指を立てて目を細めたかと思うと、腐っても僧侶、落ち着いた説教を連想させる物言いになった。
「では、一つ目。ネクロマンサーと対峙したとき、決して彼らに触れられてはいけない。なぜなら高位のネクロマンサーは、自らも《不死者(アンデッド)》と同じ。その指先は生ける者を麻痺させ、毒で侵し、体力や魔力を吸い取り、時には触っただけで命をも奪う」
 ――か、身体が、動かねぇ……。
 山賊の頭は、いつの間にか体中が完全に痺れていることに気づいた。ルキアンは頭目の握りしめている拳銃を悠々と奪い、背後に無造作に投げ捨てた。そして右手を前方に突き出すと、指で何かを招く仕草をする。
「二つ目。ネクロマンサーの呼び出す不死者はたしかに恐ろしい。だが、ネクロマンサーはそれ以上に強い。気を付けろ。そうでなければ、死霊たちを従わせることなどできはしないからだ。遊んでやれ、《惨禍の騎士》よ」
 その言葉に応じて、手前の地面が揺れ、地表を押しのけて灰白色の何かが盛り上がってくる。まず頭部を見せ、するすると這い出し、地の底から全身を現したそれは、穴だらけの黒い衣に身を包み、赤い楯と青白く不気味な輝きを宿す長剣とを持った、骸骨の騎士だ。同じように次から、また次へと、地面から白骨の騎士たちが姿を現す。
「だから、この呪われた骸骨たちがいくら恐ろしいからといっても、間違っても俺と戦う方がましだとは考えないことだ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、人の限界を遥かに超える強さの不死の剣豪たちは、容赦なく山賊たちを切り刻んでいた。頭目以下、一人残らず殺戮の嵐に巻き込まれ、屍の山が築かれた。穏やかな谷の風景も血だまりの海に変わった。
「最後に三つ目。大抵の不死者には心がない。だから彼らには、恐怖も躊躇も、憐憫も損得勘定もない。今ので実際に分かっただろう? いや、そうだったな、お前たち……俺の助言を活かす機会を永遠に失ったな。何なら、お前たちも不死者にしてやろうか。いや、やめておこう。素材の質が低すぎる」
 淡々と語ったルカの心にも、また、一切の乱れがなかった。あたかも彼自身、もはや人間ではなく不死者であるかのように。
 
 ――返すぞ、ルキアン。お前の体。
 ルカの心の声が響き、ルキアンは意識を取り戻す。
 その体が自分自身のものだと、再び感触が戻ってくるのを確かめる間もなく、ルキアンは飛び出していた。
「エレオノーア!」
「お、おにい、さん……」
 エレオノーアも落ち着きを少し取り戻したようだ。安堵の空気に包まれた二人だが、やがて遠慮がちにエレオノーアは首を振った。
「あ、あの、ですね……おにいさん。こんな格好……すごく、恥ずかしいです。早く、縄をほどいて、ほしい……です」
「そ、そ、そうだね。ごめんね」
 彼女の言葉にルキアンも頬を染め、申し訳なさそうに、なんとも言えない表情でエレオノーアの戒めを解いた。その途端、今までおずおずと喋っていたエレオノーアが、ルキアンの胸に思い切り飛び込んできた。そのまま二人とも後ろに倒れてしまいそうなほどに。
「おにいさん、私のおにいさん!」
 言葉にすることで彼の存在を確かめるかのように、エレオノーアは繰り返し呼ぶのだった。
 ぐしゃぐしゃに泣き 、それでいて、泣き腫らした顔に心からの微笑みも浮かべながら。

 


第54話 その2 「予め歪められた生」と「永劫の円環」



 ◆ ◆


 今から約20年前――新陽暦283年、オーリウム王国の都・エルハインにて。

 その夏、王国は近年稀な猛暑に見舞われ、この時間、日暮れも近くなってから、夕涼みがてら、人々の姿が街にようやく増え始めるのであった。そして、真夏の長い陽がラプルス山脈を遠く望む方角へと、満足げに沈んでゆく頃、王国あるいは世界中から俊才の集まる王都の神学校でも、学生たちがこれから三々五々、お気に入りのカフェや酒場へと繰り出そうとしていた。
 そんな中、平然としつつも、どことなく周囲の様子を気にするような態度で、一人の神学生が校地の奥まった方へと歩いていく。彼が向かっているのは、王立神学校の広大な敷地の中でも普段はあまり使われていない、古い建物のひとつ、《メラクの青の礼拝堂》であった。現在では、図書館や研究棟に入りきらなくなった蔵書を仮に収めている場所であり、いつもなら、特にこのような夕方遅くになると、周辺では人の姿はあまり目につかない。
 神学生は、念押しといわんばかりに、振り返って周囲を見た。向こうから別の学生がやってくる。そして別の方向からも、また一人。大扉のある礼拝堂のファサードは、古いなりにも、いや、むしろ古びた石彫がかえって重厚さを醸し出す様相だが、その脇を通り過ぎ、建物側面の小さな庭園に隣り合う通用口のようなところから、神学生たちは礼拝堂に入ってゆく。
 《青の礼拝堂》という通称の起源になった、深みのある藍色を中心とする壮麗な天井画は、現在の世界の神々を題材としつつ、どことなく《前新陽暦時代》のレマリア帝国の壁画様式をも想起させるタッチで描かれていた。けれども残念なことに、今では天井画の変色が激しく、かなり剥げ落ちてもいる。その様子を頭上に仰ぎみながら、一見すると地下墓地への入口にも思われる階段を降りていく学生たち。その先にある小部屋に集まると、彼らは、猛暑の中で敢えて二重にまとっていた法衣を払いのけ、皆が同じように黒衣の姿となった。
 この黒ずくめのいでたちは、異端として弾圧されるほどではないにせよ、イリュシオーネの神殿における正統派教義からは外れており、多くの神殿関係者から批判の目を向けられる教派、《連続派》のものである。この場合の《連続》というのは、ひとことでいえば、世界観・歴史観において現世界と旧世界との連続性を敢えて強調しつつ、信仰も含め物事の理解を図ろうという意味である。魔道士たちからみれば、現世界の文明は旧世界と切っても切り離せない一方で、この世界の正統教義に立つ神官たちからすれば、いわゆる《イノツェントゥスの誓い》以前のこと、つまりは《新陽暦》が始まる前のことは、ほとんど省みる価値のない《暗黒時代》や《突飛な言い伝え》にすぎない。いや、正統派としては、そういうことにしたいのである。《新陽暦》以前の伝説の蓋を不用意に開けることは、時にはむしろ危険思想ですらあった(なお、旧世界滅亡の真実につながる《沈黙の詩》を研究していることを、以前にシャリオが隠していたのは、この種の研究が神殿関係者の間ではタブー視されているからに他ならない)。

「諸君。我々の有志による調査団が、イゼール樹海の遺跡にて《石板》第7編を発見したことは、周知の通りだ。そこに書かれていたことも事実だと考えている」
 おそらく定期的に開催されている教派の会合、先ほどのような事情のため、一種の秘密結社のような集まりなのであろう。学生のリーダー役と目される一人が口火を切った。
 それに耳を傾ける者たちの中には、学生だけでなく、近隣の神殿の神官や神学校の教授とみられる者も何人か混じっている。教授の一人が、静かな物言いの裏にも興味を押さえられないような様子で尋ねる。
「第7編の位置づけは、よくてもせいぜい外典、いや、別の時代に後付けされた偽書ともいわれてきたが……。その実際の姿、早く聞きたいものだ、コズマス君。これまで推測されていたように、第7編には《御子》に関する重要なことが書かれていたのかい?」
「はい、先生。しかし、我々にとっては認めたくない内容も含まれています」
 神学校きっての傑物と呼ばれるコズマス・バルトロメアが答えた。彼は、離れて座っている者には聞き取り難いような、微かで長い溜息をついた後、皆の顔を見渡した。
「これでは、たとえ何回、いや、何千、何万回……人の子が《あれ》のことに気づき、《御子》とともに抗ったところで、結局は毎回、世界はただ《あれ》の導く歴史をなぞり、いつかそこから外れたときには《再起動(リセット)》されて無に帰すだけだ。過去にも無数の世界がそのような結末を迎えてきたと、石板には記されている。永遠に同じことの繰り返しだ……」
 コズマスが話し終わるのを待てず、一人の学生が激高し、立ち上がって叫ぶ。
「それでは、我々の世界とは、歴史とは、いったい何の意味がある!?」
 対するコズマスはあくまで冷静だった。もっともそれは、他に先んじて石板第7編の真実に接し、それを受け止めるための時間が今日に至るまでに幾らかあったからだろう。
「我々の生(なま)の存在や、この世界で生起する生(なま)の事実に意味などない。その意味というのは、我々が自ら与えることにより初めて生じるものだ。破滅に向かうまでの生きざま、日々の道のり、そして滅びの日を迎えたという結果に、人として生きた《意味という爪痕》を刻み込むのだ。たとえ、来るべき世界ではすべて忘れ去られようとも」
 いささか抽象的な言い方で言葉を濁したコズマスに対し、次の一瞬は沈黙が広がる。彼は続けた。
「そう、単に、この世界の本質をなす《絶対的機能の自己展開》をなぞり、因果の鎖が日々現実化していくための無数の作用点として生きること、そうすることが、《人の子》に与えられた存在理由、すなわち、《あれ》の自己展開を賛美し、《あれ》の生み出した世界を予定通りに、できる限り忠実に描き出していくこと。それだけが人間の役割なのだと」
 その言葉を受け、先ほど激高しながら尋ねた学生が言う。
「信じられない。《人の子》は《あれ》の一人遊びの駒でしかないと? しかも、遊戯が間違った局面を迎えれば世界もろとも捨てられるだけの……。あぁ、ならば人は、何のために生まれ、死んでいくのだ? 少なくとも、いま実際に我々の生きているこの世界、我々にとっての唯一本物の、この世界にすら、いったい何の意味があるというのだ」
 別の学生からも発言が次々と飛び交う。
「仮にそうなら、正直なところ、人や世界に意味など求めても空しいだけなのでは? 少なくとも普通の人々にとっては。否、むしろ何も知らない方がよいだろう。それにコズマス、《あれ》の駒として自ら演じさせられてきた現実に、いくら懸命に主観的な《意味》を付与しようとしたところで、それは我々が単に《解釈》を施したということにしかならないのではないか。そんなことは、ただの自己満足だ。《あれ》への抵抗にすらならない」
 だが、喧噪のもと、一人の学生が立ち上がり言葉を発すると、彼のもつ不思議な落ち着きや説得力によって皆が再び静まり返る。コズマスの盟友にして、噂では錬金術にも手を染めているといわれる男、カルバ・ディ・ラシィエンだ。見事に手入れされた現在の彼の口髭とは異なり、無精な状態であった若き頃の髭を撫でながら、彼は告げる。
「だが、どうせよと? 《御子》には二つの呪いが掛けられている。《予め歪められた生》の呪いと《永劫の円環》の呪いだ。たとえ御子が生まれても、御子は《予め歪められた生》の呪いに押しつぶされ、大抵は、自らの使命を知ることもなく惨めな生を終える。そして《御子》が己の使命を自覚しても……」
 彼の言葉に頷きつつも、狭い地下室に溢れた熱気を避けるかのごとく、敢えて奥で腕組みしている学生がいた。まだ当時は不完全な闇の紋章も刻まれていない、その思慮深い瞳で、ネリウス・スヴァンはカルバを黙って見つめている。
 手を打ち合わせ、コズマスの声が響いた。
「諸君、静粛に!」
 それまでよりも低く、重々しい声で彼は皆に伝える。
「そう、第7編の石板は伝える。《永劫の円環》の呪いの詳細を。これでは、あるひとつの時代にすべての御子が揃うことは、《絶対に》あり得ない。絶対にだ。人の子が《あれ》に立ち向かうことなど《最初から》不可能だったことになる」
 常に論理的なコズマスが《絶対に》などという表現を使ったのは、もちろん浅慮や高揚からではない。

 続く言葉が、地獄への戻れぬ道の始まりだった。

「だがそれは、人の子の営みを自然の摂理に任せている場合のこと、つまりは《あれ》の仕掛けた《いかさま》のルールに従っている限りでのこと。諸君、敢えて言おう。《永劫の円環》に背いた存在を《人の子》が作り出す秘術は、同じく第7編の石板に示されている。だからこそ、第7編は禁断の石板と呼ばれ、秘匿され続けてきたのだろう」

「それが、《聖体降喚(ロード)》だ」

 コズマスがそう告げ、一連の説明を続けた後――静寂を突き崩し、地下室から無数の怒号や絶叫、机や壁を叩く音が、すなわち集まった者たちの非難や絶望の表明が、空しく響きわたるのだった。

 ◆ ◆

「おやまぁ、あんたたち……」
 あたかも子守りをする老婦人が、幼子の思わぬ反応に呆れながらも目を細めたときのように、リオーネ・デン・ヘルマレイアは、予定より遅く帰宅した二人の姿をみた。
 扉を開けてルキアンが中に入ってくると、後から続くエレオノーアが――いや、今は少年の装いと振舞いに戻ったエレオンが――遠慮がちに、慌ててルキアンと変な距離を取る。そうかと思えば、リオーネとブレンネルの顔つきを横目でちらちらとうかがい、エレオンはまたルキアンににじり寄る。今度は、二人の間は妙に近い。ルキアンの背中で、エレオンの指がルキアンの指に触れ、また離れた。
 ――なんだい、これ。何があったんだろうね。
 リオーネがエレオンを手招きすると、《彼》(彼女)は熱に浮かされたような足取りで、しかし心地よさげな顔をしてそれに応じた。ルキアンの横を通り過ぎるときにも、《彼》の目が意味深にルキアンに向けられ、二人とも一瞬固まったような動きをして、うっすらと頬を染める。
 明らかにおかしく、だが初々しくもある二人の様子をみると、座って地図をみていたブレンネルは口元を緩めた。
 ――あはは。いいね。これが、いわゆるひとつの……青春って、やつか。
 ルキアンたちのいる居間を離れ、リオーネはエレオンを台所に連れて行く。そして急に、頬が擦り合うくらいのところまで顔を近づけると、リオーネは声を潜め、鋭くささやいた。

「ねぇ、あんた……。もしかして、人を斬っただろ? 初めての匂いがするよ」

 経験を積み重ねた戦士の直感、その前ではごまかしはきかない。エレオンが上着の袖をあたふたと触り、どこかに血でも付いていないか探そうとすると、リオーネは仕方なさげに苦笑した。
「馬鹿だねぇ。そういう匂いのことじゃないよ。あんたの感じ、雰囲気のことだよ」
「そ、それは……。はい」
「何か大変なことがあって、あんた自身やルキアン君を守るために、仕方なくやったんだろうけど、人を傷つけた、いや、まだうまく加減できないあんたなら、たぶん何人かは《殺した》ということは事実だろうからね。たとえ相手が悪党でも、あるいは戦場であったとしても」
「は、はい。先生がいつもおっしゃっていたこと……。剣の重さ。それを咄嗟によく考えられず、必死で戦ってしまいました。ご、ごめんなさい」
 エレオンが言葉に迷って頭を下げると、リオーネは《彼》を正面から見据え、首を傾げた。その静かな気迫にエレオンが少し慄いている。
「おや。なんで謝るんだい? そこで謝られたら、あたしの仕事は騎士だった……いくらきれいごとを言っても戦いで人を殺すことが生業だったんだよ。なら、あたしなんか、これまで生きてきてごめんなさい、なんてことになるだろ」
 エレオンの柔らかな銀の髪を撫でながら、リオーネは小声で付け加える。
「手首と足首。その跡、ひどいね。何があったの?」
 赤く腫れ、擦り傷もできている。山賊たちに縛り上げられていたときのことを思い出し、エレオンは誰に弁解するともなく慌てて答えた。
「ち、違います! その、ちょっと跡がついただけで、それ以上、変なことは……されていません!」
「そうかい。無理に、根掘り葉掘り聞かないことにするよ。分かった。いずれにしても、あんたの誇りを汚されるようなことは、されていないんだね。私のかわいいエレオノーア」
「あ、あ、当たり前です! 先生の意地悪……」
 勿論、ルキアンがエレオンにそのような酷い振る舞いをすることなど考えられなかったので、別の事件に巻き込まれたのだろうとリオーネは思った。何があったのか心配だが、彼女は敢えて異なることを言った。
「それに、あんた……。顔が、女になったね。もうエレオンは廃業かもね」
「あ、その、はい?」
 出し抜けに指摘され、驚いて、頭から抜けるような甲高い声で返事をしたエレオン。
「その見た目、いつまでも子どもっぽさが抜けきらないし、いつになったら大人になり始めるのかと思っていたけど……。なんか親離れっていうのか、寂しい気もするよ。変わったのかね」

「人とは違った重荷を抱え、苦しみ抜いて生きてきて、やっと初めての恋をして」

 リオーネが率直な物言いばかりするため、エレオン、いや、エレオノーアは恥ずかしくて卒倒しそうな心持ちになった。《彼女》は必死に首を振る。なぜ否定しようとしているのか、自身でも呆れつつ。
「あ、いえ、そのですね! おにいさんは、私の、大事なおにいさん、であって……。そんな、恋しているとか……いえ、その……つまり……」
 何か言葉を発するたびに、エレオノーアはむしろ深みにはまりつつ、顔もますます赤らめていく。そんな様子をみて、リオーネは、もうお手上げだというふうに肩をすぼめ、両掌を返した。そして居間に戻っていくとき、去り際にひとこと。
「ふぅん。恋かどうかはともかく、でも、一番大事な人なんだろ、ルキアン君」
「はい、それは! もう、もちろん。世界で一番大切な、私のおにいさんです!!」
 結局、エレオノーアは全力で認めている。気持ちを押さえておけないのだろう。

 淡く、可愛らしいエレオノーアのそんな想いとは裏腹に、造られた不完全な御子としての宿命は、まもなく彼女を残酷極まりない結末に向き合わせようとしていた。


【第54話 中編 に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・中編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ


3.尽きる命



 何らかの神を祭った聖堂、それとも、ある種の聖域を思わせるような、よく磨かれた白い石造りの廊下のあちこちに、壁や柱の隅から次第に這い出してきた夕刻の影は、近づく落日に応じてその懐を広げている。静寂を揺るがせ、足早に駆け寄る音。これに対してもうひとつの足音が止まり、そして、荒い息遣いとともに、ひとりの《女》の甲高い声が、高い天井とそれを支える柱列の間に響いた。
「ねぇ、待ってよマスター! どうして、いつまでも……」
 言葉の調子はさらにヒステリックになり、声の高さも一段上がる。
「いつまでも、いつまでも、なぜ、あんな《廃棄物》を処分しないのさ!?」
 ふんわりとした水色の簡素な上着を羽織った銀髪の若者、いや、よく見ると銀髪の娘が、自身よりも遥かに長身かつ頑健な僧衣の男を見上げ、青い瞳で睨み据えている。
「何とか言って、マスター! マスター・ネリウス」
 ネリウス・スヴァンは振り返りもせず、その体躯に似合わぬ小さな声で答える。
「ゼロツー、あれのことは捨て置け……」
 不満そうに何か言おうとしたヌーラス・ゼロツーに対し、ネリウスは繰り返す。今度はもう少し大きく、低めの声で。
「捨て置けといったのだ。《片割れのアーカイブ》など、放っておけば、じきに消える。わざわざ追うだけ時間の無駄だ」
「そんなこと言っても、あの女はもう何年も生き延びているじゃないか。それで、普通の人間のように安逸をむさぼって……」
「それでも長くはもつまい。完全でない限り、《アーカイブ》は《執行体》よりも不安定な存在。もともと単独では現世に定着し難い。それに……」
「それに?」
 なおも不満に満ち溢れたゼロツーに対し、ネリウスは一息おくと、諭すように言う。
「かげろうのような儚い命のあれに、せめて一瞬の悦びくらい、許してやっても悪くはなかろう」
「……はぁ? あはは、おかしいね。それ、本気で言ってる?」
 挑発するような物言いの後、ゼロツーは首を傾げるそぶりをした。
「本当にマスターは甘いよ。これまでに数え切れないほどの人間を泣かせ、それどころか虐殺してさえいるのに、まだ甘さが抜けない。一体、どうしてなのかな」
 彼女がそう言い終わる前に、無視して離れようとしたネリウス。
「でも、マスターのそんな強そうで脆そうなところも、大好きなんだけど」
 憎悪の眼差しから瞬時に一転、青い目は妖艶な光を帯びる。ゼロツーはネリウスの腕を取ると、絡みつくように胸を押し付け、甘えた声でささやいた。
「ねぇ……。あんな《廃棄物》にまで慈悲をかけるなら、僕にも、少しぐらいは愛をちょうだいよ」
「やめろ、エリス。いや……ゼロツー」
 ネリウスは、無表情に自身からゼロツーを引きはがすと、言葉もなく立ち去った。
 
「……ったく。これだから聖職者(坊さん)は。僕だって、いつ死んじゃうか分からないのに」
 
 夕闇がまた近づいた。
 薄暗がりの中にひとり取り残されたゼロツーは、声を喉の奥に詰まらせたかのように、引きつり狂気じみた笑いを漏らすのだった。
 
 ◇
 
「遅いなぁ。せっかくのスープが冷めちまう」
「そうですね」
 ブレンネルとルキアンは、顔を見合わせて誰かを待っていた。彼らはこれから夕食のようだ。白いテーブルクロスの掛けられた、折り畳み式の木製の食卓には、大皿に乗った鳥の燻し肉を中心に、豊かな森の恵みを生かしたキノコや山菜の煮物、同じく近隣の谷川で獲れたであろう魚、玉ねぎを思わせる根菜の入ったスープ、チーズにソーセージなど、素朴ながらも多様な料理が並んでいる。
 それらを目の前にして「おあずけ」の状態となり、ブレンネルは今か今かと体を揺すっていた。対して食べ物にはあまり思い入れがないのか、ルキアンはおとなしく椅子に座っている。
「まぁ、仕方がないか。あの年頃の子の着替えには、何かと時間がかかるんだろう。特にお洒落したいときには。《おにいさん》に見せたいだろうしな」
 ブレンネルは顔を上げた。その先に天井のかわりに広がっているのは、料理に負けず劣らず素晴らしい星空だ。日中は快晴であった今日、晩の澄んだ夜空には無数の星々が、それこそばら撒いたかのように散らばっている。なおかつ、即席の野外食堂は渓流沿いの河原に設けられており、流れる水の音も心地よい。
 
「ごめんなさい。慣れない服だったので、遅くなりました」
 燭台の明かりに照らされ、そう言ったのはエレオノーアである。隣には追加で料理を運んできたリオーネが立っている。
 声の方に目を向けたルキアンは、どういうわけか、そのままの姿勢で動かなくなってしまった。何か信じられないものに遭遇したときのように。ブレンネルは、これは参ったという顔で賞賛の口笛を吹いた。
「あの、それで」
 ルキアンと目が合ったエレオノーアは、頬を薄紅に染め、うつむき加減で尋ねる。
「この服、似合ってますか? おにいさん」
「も、もちろん……」
 当然に肯定しようにも、ルキアンは息を呑み、返答のための言葉を失っている。先ほどまでのエレオンの姿とはうって変わって、白いワンピースに身を包み、髪の流れを櫛でよく整え、衣装と同じく純白のリボンを添えた彼女は、ルキアンのいまだ知らなかったエレオノーアである。その変わり様には、好感を通り越して恐ろしいところすら感じられる。輝く銀の髪、神秘的な青い光を帯びた瞳も、その魔性の力をいっそう増したように艶めいた。
 ――どうしよう。今のエレオノーア、真っすぐ見られないよ……。
「ほら、もう格好いいところをルキアンに見せたんだから、食べ物の汁で大事な一張羅を汚さないよう、これでも付けておきなさい」
 そう言ってリオーネは、質素な木綿のエプロンを手渡した。
「先生、何ですか、これ。ご飯前の子供みたいに」
 文句を言いながらもエプロンを身につけ、エレオノーアはルキアンの隣の席に座った。腰を下ろしてから、遠慮がちに、ひそかに体を寄せる。
「やった、おにいさんの隣です!」
「ど、どうぞ……」
 背筋を伸ばし、ルキアンがわずかに身震いした。ただ、その表情はエレオノーアへの温かな想いに満ちていた。
 そんな二人の様子を見守るリオーネの眼差しも、いつもより優しく、また嬉しそうでもあった。
「さぁ、みんな。用意はいいかい」
 彼女に促され、ブレンネルがグラスを手に取り、軽く持ち上げた。続いてルキアンとエレオノーア、そして最後にリオーネが祝杯の用意を終えた。彼女は目でルキアンに合図をする。彼は不慣れな調子で音頭を取った。
「あ。は、はい。それでは皆さん。今日の日に……」
 リオーネがしきりに黙って口を動かし、ルキアンに何か言えと伝えている。それに気づいて苦笑いしたルキアンは、隣のエレオノーアに微笑みかけ、二人の目が合ったところで穏やかにつぶやいた。
「エレオノーアの未来に」
 四人の声が見事に合わさった。
「乾杯!!」
 まずリオーネが豪快に飲み干す。彼女のこだわりで、最初の酒は、薄桃色に澄んだ泡の立つワインになったようだ。話によれば、タロス共和国の某修道院で作られた貴重なものらしい。
「あぁ、生き返るね。これぞ生命の水だよ。近々こんなこともあろうかと、わざわざ街の市場で買っといてよかった」
 騎士は引退しても、酒豪としてはまだまだ現役のようである。続いてブレンネルも一気に杯を空にし、皆が気勢を揚げた。
「いやぁ、旨い! 昨日今日は大変だったから、一通り終わった後の酒は格別だな」
 ちなみにイリュシオーネでは、地域や身分によって多少の差はあれ、15、16歳程度になれば基本的には成人である。18歳のルキアンはもちろん、エレオノーアも多少童顔だが歳自体はルキアンとあまり変わらないだろうから、普通に飲酒をしていておかしくない年頃である。だが不慣れな二人は、薬でも舐めるように神妙な顔をしてグラスを傾ける。お互いのそんな格好が何だかおかしくて、二人は無邪気に笑い合っている。
 彼らを母親のような眼差しで見守りながら、リオーネは大きめのナイフを手に、自慢げに言った。
「今日は魚は釣れなかったみたいだけど、先日たまたま手に入った上等の燻製がある。ほら、ごらんよ」
 鴨か雉のような野鳥を燻したものだろう。表面に飴色のつやを浮かべ、鼻の奥をくすぐる香りを漂わせた丸ごと鳥一匹のスモークが、テーブル中央の皿に載っている。今宵の食の主役を果たそうとしているかのようだ。
 リオーネが慣れた手つきで切り分けるのを、ブレンネルが待ち構える。その表情が思いのほか真剣で、第三者が見たら噴き出してしまいそうだった。
「パウリさん。お魚でよければ、こっちにも燻製ありますよ」
 小山のごとき燻製鳥に遠慮したのか、机のもう少し端の方に置かれた皿には、スモークサーモンに似た魚肉の薄切りが、野菜と一緒に何切れも盛り付けられている。それを指さし、エレオノーアが小声で告げた。
「お、おぉ、これはこれでなかなか。渓谷の地ならではの逸品だな」
 すぐさま味見を始めたブレンネルを尻目に、エレオノーアも燻製一切れをフォークで取ると、そのまま手を伸ばし、ルキアンに差し出した。
「実はですね。これ、私が釣って、私が燻したお手製なんです。おにいさん、どうぞ!」
 フォークを口元に突き付けられるかたちとなり、ルキアンは餌を待つひな鳥のように、エレオノーアから直接、手作りの燻製スライスを口に運んでもらうこととなった。そんな彼らのやり取りを眩しそうに眺めながら、ブレンネルが笑って冷やかす。
「おうおう。見せつけてくれるねぇ」
「本当だよ。何か、いい感じの二人じゃないか……」
 便乗したリオーネの言葉に、エレオノーアは、してやったりという顔で何度も頷き、逆にルキアンは顔を赤くして固まっている。
 
 昨日のルキアンたちの状況では想像もされていなかった、思いがけぬ愉しげな晩餐はさらに続いた。こうした集いにおいて、よく分からないタイミングで、宴席がなぜか偶然に静まり返る瞬間が時々ある。そういうとき、神や精霊が通ったのだと、昔の詩人は描写したものである。そして、今ここでも、不意に皆が静まり返った。にぎやかに飲み食いする彼らをのぞけば、深い谷間のこの場所では、今日のような静かな夜に音を立てるものは、すぐ側にある渓流のせせらぎくらいであろう。
 冷涼な谷間の流れが奏でる、さらさらとした響きを背景に、エレオノーアの声だけがぽつんと響いた。
「わたし、幸せです」
 残りの三人は食事を続けながら、彼女の言葉に頷いている。
「はい。とても幸せです」
 先程と同様に、三名は黙って頷いている。
「わたし、こんなに幸せです」
 なおも……。
 だが次の場面で、エレオノーアは突然大声で泣き出した。
「私、わ、わたし、こんなに幸せで、こ、こ、こんなに幸せで……いいのかな!?」
 不意に号泣し、周囲も気にせずとめどなく涙を流して、天を仰ぎ見るエレオノーア。
 ルキアンは慌てて胸元からチーフを取り出し、彼女の涙を拭おうとする。だがエレオノーアは首を振って断ると、三人の目をはばからず泣き続けた。
「おにぃ、さん……」
 嗚咽が止まらず、エレオノーアは、倒れ込むようにルキアンの胸元に顔を埋めた。そして彼にしか聞こえないようなささやき声で、ある物語を伝える。
「あの白い花、ヴァイゼスティアーの話。続きがあるんですよ。花になった最後の一粒の涙のこと。魔界の側に堕ち、人間の世に背を向けて闇の英雄となった黒騎士、フィンスタルという人の残した言葉。《次の世では、きっと》。どういう意味だと思いますか、おにいさん」
 エレオノーアは不意に顔を上げた。涙を目に溜めながらも、真剣なまなざしで。
「人は言います。フィンスタルは、次の世では、今度こそ聖女と結ばれると……。彼自身も死の間際にそう願ったのだと。でも私は、そうは思いません」
 強い意志の力を宿した瞳だ。エレオノーアの真摯な語りにルキアンは気後れしそうになるほどだった。
「私は勝手に信じているのです、おにいさん。フィンスタルには、聖女様よりも、もっと彼にふさわしい人がいたかもしれないのです。いや、いたと思います。でも出会えなかった。彼の生きた世では二人の道が交わることはなかった。だから次の世では必ず、もう迷わずにその人と巡り合えるようにって、私はそういう意味だと思ってきたのです。ううん。もっといえばですね、フィンスタルはきっと生まれ変わって、今度は、彼と同じような黒い瞳の、似たようなちょっと物悲し気な顔をした闇の一族の娘と、静かに微笑みながらいつまでも幸せに暮らしたのです。はい、そうに違いありません」
 色々と思い込みの強い彼女の言葉に、ルキアンは、つい自分自身の妄想癖を重ねていた。沈黙したままのそんなルキアンの気持ちが、エレオノーアには自然と想像できたようだ。彼女は涙を拭いて、いくらか無理のある感じで作り笑いを浮かべてみせた。
「私はそういう都合の良い物語を作って、独りで満足していたのです。私はずっと、おにいさんのことを想って……でも、たまには絶望し、あきらめそうにもなりました。そんなとき、私は、逃げ道を作るような気持ちで、無理に自分に言い聞かせようとしました。たとえおにいさんと会えないまま死んでしまっても、今度生まれた時には必ず出会える、と。私のお話の中の、フィンスタルのように」
 ヴァイゼスティアーの白い花に、エレオノーアがそのような想いを込めていたと分かって、ルキアンは、あのとき彼女の振る舞いに戸惑って真剣に話を聞いていなかったことを、申し訳なく思うのだった。エレオノーアが差し出した花の姿を、彼は再び思い出そうとする。
 ふと、そこで我に返ったルキアンは、いつの間にかリオーネとブレンネルが川の方に降りて立ち話をしているのに気付いた。グラスを手に、とりとめのない思い出話をしているようだが、多分、ルキアンたちに気を使って席を外してくれたのだろう。まだ肌寒くもあるが、夜の清流沿いはとても心地よさそうだった。
「エレオノーア、僕らも、川の方に行ってみようか」
 ルキアンはそう言って立ち上がり、エレオノーアに手を差し出した。
「はい、おにいさん」
 エレオノーアも嬉しそうに手を取り、立ち上がろうとするが。
 
「あ、あれ?」
 突然、エレオノーアの声が震えた。
「あれ? おかしいな。何、これ……」
 戸惑いを口にする余裕もほとんどなく、彼女は椅子から崩れ落ちそうになる。ルキアンと手をつないでいたおかげで、何とか転げ落ちずには済んだ。
「おにい、さん?」
 エレオノーアは、ふらふらと椅子に座り直そうとするも、腰を下ろすことさえできず、気を失ったようにルキアンに抱き留められた。
「エレオノーア! どうしたの!?」
「え、え、え? おにいさん、私、私、これ、どうなって……」
 暗がりの中、エレオノーアの身体が青白い光を放ち始めた。気が動転して、彼女の気持ちは、まともに言葉にさえならない。ルキアンの視界の中で、エレオノーアの身体が揺らぎ、輪郭がぼんやりと薄れていく。ルキアンは思わず目を擦ったが、まぎれもなく、いま実際に起こっていることだ。
「え、やだ、ちょっと、待って! わたし……わたし、消えちゃう? い、いや、いやです!!」 
 エレオノーアがなりふり構わず叫び始めたので、リオーネとブレンネルも、ただ事ではない様子に気づいた。二人が駆け寄る中、ルキアンはどうしてよいのか分からず、ただただ、エレオノーアを抱きしめた。だが、腕の中にある大切なエレオノーアの感覚が、次第に虚ろなものに変わっていく。そしてリオーネたちが隣まで来たときには、ルキアンの胸には、もうエレオノーアの体のぬくもりも、確かな存在感も、ほとんど残っていなかった。
「エレオノーア! 何があったんだい!?」
 事情はともかく、エレオノーアの命にかかわる事態であることは、リオーネにも分かる。ブレンネルはルキアンを心配し、彼の背中を支えるように後ろに寄り添った。
 すると、今まで慌てふためいていたエレオノーアが急に落ち着き、風の音のような、しかし人の声で、静かに伝え始めた。
「私、消えちゃうみたいです……。いつか、こんな日が来ると覚悟はしていました。《片割れのアーカイブ》は、《聖体》の定着が不安定なため、独りでは長く存在できないのです」
「だめだ、消えないで、エレオノーア!!」
 しかしエレオノーアは、ルキアンの言葉に対して悲しげに首を振ると、もはや悟ったような口ぶりで答える。
「私だって、消えたくないです。生きたいよ……。だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。そのこと、ずっと考えないようにしていました。怖かったから。それでも、本当は生きたいです。自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?」
「そんな…そんなこと……。エレオノーアに罪はないじゃないか!」
「ありがとう。だけど、もうお別れのようです、おにいさん。会えて、一日だけど一緒に居られてよかった。それだけで、私は世界で一番幸せでした。でも、もしもひとつだけ願いが叶うなら」
 彼女は、静けさの中に寂しさがあふれ出しそうな、微かな笑みを浮かべた。
「おにいさんのアーカイブになりたかったな……。だって、私は」
 もう生身の体すらなく、影のように揺らめくだけのエレオノーアが、ルキアンに口づけをした。
 最後の言葉を残して。
 
「わたしは、あなただけのために咲く花です」
 
 ひとしずく、実体をもって最後に落ちる涙。
 
 何度も彼女の名を呼び、絶叫し、錯乱状態で首を振るルキアン。彼の腕の中で、エレオノーアが見る見るうちになくなっていく。霧散するエレオノーアをかき集めようとするように、必死に両手で空をつかんだ。だが、彼の抗いは無力だった。


第54話 その4 紅の魔女


 
 エレオノーアは無数の微細な光の粒に姿を変え、あたかも風化し砂塵となって舞い上げられていくかのように、この世からあっけなく消え去った。
 失うものを持たなかった者が、戸惑いつつも大切な人と出会ったばかりのときに、それを失った。その喪失感の重さは想像を絶する。ルキアンは、泣くことや悲しみを表に出すことすら忘れ、ただ力なく座り込み、途切れ途切れ、震える声でエレオノーアの名を繰り返すだけだった。
 失意のあまり、ルキアンは、彼の周りで起きた驚くべき変化にもしばらく気づくことができなかった。そしてようやく異変を理解する。どの方向に目を向けても、見通しがまったく効かない。暗黒の世界だ。音もせず、ましてや動くものなど感じられない。ここは、どこなのだろうか。
 だが、そんな空っぽの暗闇の中に、ただひとつ、奇跡のような声が浮かんだ。
 
 ――お……おにい……さん? おにいさんなのですね?
 
 とはいえそれは、現実の音の響きを伴った声ではなく、ルキアンの心に直接語りかけてきている。ちょうどパラディーヴァと話しているときと同様に。
 ルキアンは反射的に叫んだ。
「エレオノーア!? エレオノーア、どこにいるの?」
 彼の声に応えようとしているのか、漆黒の世界にひとつの灯りがともった。仄かな青白い光に包まれ、小さな何かが宙を舞っている。
「蝶? どうしてこんなところに」
 ルキアンがそっと手を伸ばすと、蝶はひらひらと近寄り、彼の手にとまった。真っ黒な羽根に、幾筋かの銀色の模様の入った美しい蝶だ。
 ――おにいさん!
 またルキアンに呼び掛けるものがある。しかし、その話し手の姿は見当たらなかった。
 ――おにいさん。エレオノーアです、私はここです。
 ルキアンは、何も見えないのを理解しつつも、改めて周囲の闇をのぞき、手で探ってみた。唯一、この空間に存在する者。それは、やはり……。
 手の上の蝶を見つめ、しばらく黙った後、意を決して話しかけるルキアン。
「まさか、エレオノーアなんだね?」
 ――よかった! 気づいてくれましたね、わたしのおにいさん!!
 蝶は羽根を何度もはばたかせ、円を2,3回描いて飛んで、再びルキアンの指先にとまった。その様子は、喜びを体全体で表現しているようにみえた。
「こ、これは一体……」
 安堵の涙を目に浮かべながらも、蝶になったエレオノーアを心配して複雑な気持ちになるルキアンに対し、彼女の方は意外に平然と話している。
 ――おにいさん、《支配結界》を展開しましたね。闇の御子の支配結界は《無限闇》。御子が想像したことを創造する、果てしなき闇の世界。
「え、それって……どういう……?」
 ――もう、仕方がないな。おにいさんは、御子のこと、本っ当に……何も知らないんですね。
 エレオノーアが可愛らしく嫌味を言った。
 ――多分、おにいさんは何とかしたくて、無意識のうちに支配結界を発動させたのだと思います。私の体が消え去り、ぎりぎりのところで、最後に残った私の心を《無限闇》の力で実体化し、結界内の世界に留めた。
 ルキアンは、《楯なるソルミナ》の化身と戦った時のことを思い出す。ソルミナの夢幻の世界の中で、ルキアンは闇の支配結界を知らず知らずのうちに展開し、黒光りする鋼の荊を創造して、ソルミナの操る魔人形たちを引き裂いたのだった。
「あれが、想像を創造に変える結界の力? 無限、闇……」
 ――ありがとう、おにいさん。さっきはいきなり消えてしまったので、心の準備が、何もできていなかったです。今なら、もう少し落ち着いて話せます。だけど……。
 エレオノーアが言葉を詰まらせると、羽根を閉じた蝶が妙にしょんぼりとしてみえた。
 ――今も私、徐々に消えていっているのです。おにいさんの《無限闇》のおかげで仮の存在を保っていますが、因果の鎖からは逃げられません。この支配結界もいつまでも続くものではありません。おにいさん、本当は、力がもう足りなくなってきているのでしょう?
 敢えて黙っていたことをエレオノーアに指摘され、ルキアンには返す言葉がなかった。支配結界を展開してから、ルキアンは一瞬ごとに体力や気力が恐ろしい勢いで削られていくのを感じていた。それを無理に隠していたのである。
 ――私をこの世につなぎとめるために、一緒に、あんなものまで実体化してしまったのです。それを維持するのは、いくら御子の力でも難しいことです、おにいさん。
 彼女の言葉に、ルキアンはふと足元を見た。彼は慌てて大声を上げそうになったが、必死に落ち着きを取り戻した。そこに、落ちないように。
 水が――ひたひたと、あくまでも静かに、暗闇の中をつま先まで迫ってきている。そこから何の間合いもなく、その水面は果てしなく深海底にまで、ほぼ垂直に、地獄の底までも落ち込んでいる。目には見えないが分かる。莫大な量の水、底無しの深みに対する、人間のもつ根源的な恐怖感が警告しているのだ。
 ルキアンの恐れが《無限闇》に影響を与えたのか、先ほどまでの完全なる闇が、今度は永遠に明けない薄明の世界に変わった。そしてルキアンと一匹の蝶の前には、彼らの足元から水平線の彼方まで、死に絶え、黒々とした海が、茫漠として際限なく広がっている。たとえば一方で、極点を遥か沖合に臨む、世界の果てを感じさせる寒々とした北の海原と、他方で、夜の工業都市に口を開けた真っ黒な運河の淀みと、いずれも見る者を飲み込みそうな無言の威圧感を漲らせた海のありようが、ひとつに交じり合っている。静けさの中に突き刺すような拒否感を露わにした水面(みなも)が、不気味にこちらを見つめている。
 ルキアンの背筋に冷たいものが走った。彼は思わず後ずさりする。
 これに対して、蝶になってからのエレオノーアは、奇妙に淡々としていた。
 ――これは《ディセマの海》、あるいは《虚海(きょかい)ディセマ》といいます。過去の《アーカイブ》たちの蓄えてきた膨大な情報が思念データとなって保管されている、虚と実の狭間にある情報空間。いま私たちが見ているのは、その一部が《無限闇》によって具現化されたものです。《アーカイブ》の命が尽きると、あの《ディセマの海》に還って、暗い海底に降り積もるのです。
「今なら、そこから、無くなったエレオノーアの体を取り戻すことはできないの?」 
 そう尋ねてみたルキアンだったが、こうしている間にも、《ディセマの海》との対峙の中で秒刻みに力が激減している。
 ――できるかも、しれません。でも、その前におにいさんの力がもうすぐ尽きる……。無理をすれば、おにいさんまで消えてしまいます。
 ルキアンは即座に答えた。自身でも、なぜそう判断したのかいまひとつ分からないままに。
「構わないよ。エレオノーアとなら、一緒に消えてもいい」
 ――おにいさん、嬉しい……。ありがとう。でも、おにいさんは生きて、私の分まで生きてください。
 蝶がルキアンの指から離れ、顔の前を何度も行き交う。 
 ――私がいたこと。私が確かに生きていたこと。おにいさんが覚えてさえいてくれれば、ずっと、私も失われずにそこにいます。
 ルキアンの目の前で、今度は黒い蝶の輪郭がぼんやりと薄れ始めた。エレオノーア自身が消えたのと同じように、この蝶もじきに光の粒となって散ってしまうかもしれない。
 彼女に何か言おうとしたが、突然、ルキアンは胸を押さえ、吐血した。
 ーーおにいさん! もう十分なのです。これ以上続けたら、おにいさんまで本当に死んでしまう。
 泣き出しそうな声でエレオノーアが止めた。死に直面するような凄まじい負担が、ルキアンの心身にかかっている。こうしている間にも体中の力が結界に吸い上げられていく。
「駄目だ。僕は、エレオノーアと必ず一緒に帰るんだ!」
 ルキアンは口から一筋の血を流しながら、目を見開く。右目に闇の紋章の魔法円が浮かび、輝きを増した。だがそれとは裏腹に、ルキアン自身の体力は極度に低下し、文字通り、命を削っている状態である。
「消したくない! 僕の大事なエレオノーアを」
 めまいがして、ルキアンの上体が大きく揺れ、彼はがっくりと片膝をついた。
「もう、力が……。でも、助けたい」
 ルキアンの視界が闇に落ちた。周囲の暗さのためではなく、彼自身がもう目を開けていられなくなったのだ。気を抜くと一瞬で意識を失いそうな中、ルキアンはうわ言のようにつぶやいた。
「誰か、力を、貸して、ください……。助けて……」
 死にゆく二人に、天からの迎えの光か。にわかに暖かく眩い光にすべてが包まれる。
 だが、それと同時に、光の向こうで力強い声が聞こえた。
 
 ――そうだ、諦めるな。君が最後まで諦めなかったから、私が間に合った。
 
 ルキアンの背後で光が門のようなかたちを取り、その中から、白い衣の上に真っ赤なケープをまとった女性が、ふわりと舞い降りた。
「《通廊》を開いてきた。もっとも、いまの私も実体ではなく、急ごしらえの思念体に過ぎないが」
 後ろで一本に編み上げられた金色の髪を揺らしながら、彼女は、相手の心の奥底まで見通すような闇色の瞳でルキアンを一瞥した。夢うつつで、ルキアンを見ながらももっと遠いどこかに焦点が合っているような眼差しだ。それでいて視線が少し重なっただけで、ルキアンは石に変えられたのかと見まがうほど、身動きが一切取れなくなった。
 ――な、何なんだ、この人は……。いや、本当に人間なのか。
 半ば眠るような彼女の瞳の奥に、身震いするほどの魔力をルキアンは感じ、魔道士としてのあまりの「格」の違いに気圧され、硬直してしまったのだ。
 ――あのクレヴィスさんからも、これほどの魔力のうねりは感じなかった。
 何か神的な存在と相対しているような感覚に陥ったルキアンが、ようやく指先程度は自らの意思で動かせるようになったとき、彼女が不意に目を細めた。笑顔は、普通に人間のそれであり、思いのほか優しくみえた。
「遅れてすまない。独りで、よく頑張ったな。この状況でも、そして今までも……。たった一人になっても戦い続けることができる者は、真の勇者だ。誰にでもできることではない」
 そう言いながら彼女は姿勢を低くして、水晶柱の付いた杖を左手で高く掲げ、右の掌を開いて地面に着けた。彼女の言葉が、シェフィーアがルキアンに告げたそれとよく似ていることが、ルキアンには何故か嬉しかった。
「私はアマリア・ラ・セレスティル。《地の御子》、つまり君の友となる者だ。人は《紅の魔女》と呼ぶ。私が来た限り、もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない……。闇の御子よ、結界を上書きする。魔力を開放するから、気を付けて伏せていろ。大切なその子を吹き飛ばされないように」
 その言葉の通り、爆風がルキアンを襲った。彼は体を丸めてしゃがみ込み、蝶のエレオノーアが飛ばされないよう、手の中で大事に守っている。アマリアが言ったように、彼女は単に魔法力を開放しただけ、いわばそれは、体を動かす前に深呼吸をする程度のことだ。だが凄まじい魔力の奔流がルキアンを飲み込む。
「君の結界の特性を残したまま、私の結界で上書きした。この支配結界《地母神の宴の園》は、大地から魔力の源をいつまでも吸収し続け、私に与える。実体化された《ディセマの海》は、私とフォリオムで支える。その間に、君は彼女を海の底から取り戻して来い」
 心配そうな顔になったルキアンに、彼女は頷いた。
「そう。もし《地母神の宴の園》を本気で使えば、その土地の魔力を宿した霊脈は、向こう何十年かは霊的加護を一切失うほど、空っぽに枯れ果てるのだが。だが、心配しなくてもそんな使い方はしない」
 日頃は感情を露わにすることの無いアマリアが、さも楽し気に口元を緩ませた。
「闇の御子を助ける。人類が初めて報いる第一矢だ。さぁ、フォリオム」
 
「《宿命》とやら、曲げてやろうか」

 

【第54話 後編 に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。  

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・後編

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物語の前史 | プロローグ |


5.その想いで、道を切り開け!



  《地》の御子・アマリアの姿をそのまま写した思念体は、ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながらも、虚ろな者とは思えない圧倒的な存在感でもってルキアンに語りかける。
「手を出せ、ルキアン・ディ・シーマー」
「は、はい……」
 ルキアンが恐る恐る右手を差し出すと、その上にアマリアは手を重ね、何か一言つぶやいた。実体のない手で触れられても直接的な感触はない。だが、ルキアンは掌から体中の血管の隅々に至るまで何かを送り込まれたような感覚に陥り、思わず寒気を覚え、次いで爪先から頭頂に至るまで電気が走ったかのごとく身体を固くした。そして最後に、掌の中心部に焼けつく痛みを感じる。
 ――おにいさん! 大丈夫ですか?
 ルキアンの肩にとまっていた黒と銀の蝶は――すなわち、エレオノーアの心が彼の支配結界《無限闇》の力で具現化され、結界内にとどめられた姿は――驚いたように羽根をばたつかせている。
「これは?」
 火傷に似た感覚がまだわずかに残る手のひらを、ルキアンが見つめる。麦の穂を思わせる黒い紋章が浮かび上がっていた。
「《豊穣の便り》の刻印だ。私が支配結界《地母神の宴の園》を通じて大地から吸収する魔力は、この刻印を持つ者にもいくらかは送られ続ける。楽になっただろう?」
 そう告げたアマリアの言葉ひとつひとつから、ルキアンはいわば「言霊」のような不思議な重みを感じつつ、驚いて指を何度も開いたり閉じたりしている。
「本当です! すごい……。ありがとうございます」
 失神寸前だったはずのルキアンの体中に、普段以上に力がみなぎり、朦朧としていた頭の中も心地よく澄みわたっている。背後に果てしなく広がる《ディセマの海》の水面を見据えながら、彼は、この不気味に黒々とした《虚海》に対し、今ならば立ち向かえるという自信めいたものを実感するのだった。
「闇の御子よ、君とは初めて会うという気がしないが、一応、初めてお目にかかる、と言うべきじゃな」
 アマリアの隣に、いつの間にか地面から生えてきたような、一切の気配を悟らせずに現れた者がいる。緑色の着古したローブをまとい、同じく緑色のよれよれの帽子を被った老人の姿をしたそれは、いったい幾百の年を生きたのだろうかと思わせる長い白髭を風に揺らしながら、ルキアンに語りかけてきた。
 ――この人も、パラディーヴァ……なのかな? リューヌと同じような雰囲気を感じる。
 ――そうじゃよ。地のパラディーヴァ、フォリオムと申す。以後よろしく、我らが盟主よ。
 パラディーヴァと相対したときには、向こうにその気があればこちらの心の中が筒抜けになってしまうということを思い出し、ルキアンは複雑な面持ちになった。
「いや、悪かった。契約を交わしていない者の心を勝手に覗いてしまって。わしには、わが主(マスター)と違って趣味はないからの。その、のぞきの……」
 アマリアに無言で睨まれ、フォリオムは慌てて口を閉じた。
「の、のぞきって、どういう……?」
 不可解そうに首を傾げたルキアンは、フォリオムを睨んだアマリアの目に途方もない恐怖を感じ、万が一にも、あの眼差しが自分に向けられたらどうであろうかと、苦笑いをするのだった。
 ――もう、お爺さん! おにいさんの頭の中を勝手に覗かないでください。は、恥ずかしいじゃないですか。
 ――はて。本人はともかく、そこの蝶々さんが何故にそんなに恥ずかしがるのかの。
 そしてエレオノーアとフォリオムの間で、いまそんな滑稽な念話がやり取りされたことも、ルキアンは知らないのだった。
「さぁ、二人の闇の御子よ。ディセマの深海の底にまで進み、為すべきことを為すのだ」
 アマリアが威厳のある調子で語る。もしここが、全てが沈黙し凍り付いた《虚海ディセマ》ではなく、燦々と陽の光の満ちるごくありふれた海岸だったなら、彼女の金の髪はさぞ好ましく風になびいたのであろうが。
「これは海のかたちをしているけれど、あくまでも虚像であり、実体を持たないデータの集合体だ。それに、この空間は君自身の支配結界の中でもある。本来、ここのすべては君の意思でどうにでも変えられる。見た目にとらわれず、その想いで、道を切り開け」
 そう伝えると、アマリアはフォリオムとともに精神を集中し、《虚海ディセマ》を実体化させたまま維持するため、それに必要な膨大極まりない魔力を発し始めた。
「分かりました、やってみます! 行こう、エレオノーア。君を取り戻しに」
 ――はい、おにいさん。どこまでも一緒です!!
 ルキアンとエレオノーアは、言葉を交わし、互いの覚悟を確かめ合った。
「これは海の姿をしていて、海ではない。それに、この場所では、目に見える距離や広さも実際のような意味を持たない。アマリアさんの言ったように、僕の、この想いで道を切り開く」
 あまりにも広大で、身震いするほどの水量に満ちた《ディセマの海》に対し、そこでひとつの探し物をすることが決して荒唐無稽な挑戦ではなく、自らの心の持ちようでどうにでもなるということを、ルキアンは実際に言葉にし、噛みしめるのだった。
「それに、ここが僕の支配結界の中で、今は魔法力も十分にあるのだから、だったら……」
 彼は蝶のエレオノーアを掌の上に乗せ、じっと見つめた。
 ――君の姿は、はっきりと覚えている。
 
 まさに、いま目の前にいる蝶のように、
 森の小道をひらひらと舞うように歩き、
 ルキアンを導くエレオノーアの姿。
 振り返って、
 いっぱいの笑みを浮かべる銀髪の少女。
 
 自分の胸、心臓の上に掌を置き、
 その上にルキアンの手を取って重ねる彼女の姿。
 
 隣に座って、目に涙を浮かべながら、
 これまでのことを語るエレオノーア。
 
 ルキアンの前に立ち、
 剣を構え、山賊たちと対峙する勇敢な後ろ姿。
 
 純白のドレスを身に着け、
 僅かに顔を赤らめながら
 その姿をルキアンに披露するエレオノーア。
 
 いま幸せであるということを
 何度も何度も口にして、
 突然に号泣し
 ルキアンの胸に伏したエレオノーア。
 
 《ヴァイゼスティアー》の白い花を差し出し、
 いつになく真剣な目で
 ルキアンを見つめるエレオノーア。
 
「まずは君の姿を呼び戻す。これから何が起こるか分からないあの《海》で、君が身を守り、一緒に戦えるように」
 ルキアンが念じると、掌の上の蝶は激しく光を放ち、輝く霧のようになって背後に流れた。それは次第に人のかたちを取り、その細部がやがてルキアンのよく知るものとなって、彼の前にたたずんだ。
「こ、これ! 私の姿、戻ったのですね」
「本物ではなく、この結界の中だけの、仮の姿だけど。でも、すぐに本当の君も取り戻す」
 《無限闇》の力でかりそめの体を得たエレオノーアは、それに気づくが早いか、精一杯の想いを込めてルキアンの胸に飛び込んだ。
「十分です! 十分です、だって、この体があれば、こうやっておにいさんに飛び込むことができますから!!」
 あまりの勢いにルキアンは後ろに倒れ、上に乗ったエレオノーアは、ルキアンの胸に頬を擦り付けてはしゃいでいる。
「あ、あ、エレオノーア、ちょっと待って。待ってよ。その、アマリアさんたちが見てるじゃないか……」
 エレオノーアは、澄んだ青い目をルキアンの同じく青い目に合わせ、悪戯っぽく微笑む。
「やりました! やっぱりお兄さんに飛び込んだときの感触は、最高です。だって……」
 彼女は瞳を潤ませ、神妙な顔つきに変わると、率直に気持ちを明かした。
「もしもまた、さっきみたいに消えて、今度こそ私が消え去ってしまって……おにいさんと二度と会えなくなったら、手遅れですから。いつそうなるか分かりませんし、いますぐにでも、こうして想いをぶつけておかなくては、と。本当に、本当に心残りだったんですよ? このまま死んじゃうのかなって。でも今のは一方的だったですね。嫌でしたか? おにいさん」
「い、いやだなんて。とんでもない。だけど、びっくりして、その、言葉が出ないよ。なんて言ったら、いいのかな。よく分からないけど、ええっと、僕も……嬉しい、の、かな? たぶん……」
 ルキアンは、自身でも意味のよく分からない言葉を伝えるのだった。
「それよりエレオノーア、その格好、早く何とかした方が」
 ルキアンに指摘され、エレオノーアは、ようやく落ち着いて今の自分を確認した。頭から湯気が出そうなほど、瞬時に赤面する彼女。
「え? え、何ですか、これ!?」
 エレオノーアがまとっているのは、美しくも勇猛なワルキューレを彷彿とさせる、戦乙女風の衣装だった。ルキアンが《無限闇》の力で《想像し創造した》その服装自体は凛々しいものだとしても、問題はエレオノーアの振る舞いである。衣装の裾やあちこちがかなり短めであるにもかかわらず、彼女は慎みも何もない格好でルキアンの上に被さっているのだ。それをアマリアたちの方から見たら、多分、あられもない姿態が目に入るのだろう。
「お、お、おにいさん? この衣装のこと、先にひとこと言ってください! ところでその、これ、おにいさんの好みなんですか?」
「いや、好みかどうかは……。何というか、頭に浮かんだのがそれで。ごめん。でも、教える間も無く、いきなりエレオノーアが飛び込んでくるから……」
 そんな二人の姿を横目で見ながら、フォリオムが高笑いする。
「ほっほっほ。惨めな少年少女を助けに来たと思ったら、あんな幸せそうな二人組は、なかなか見たことがないのぅ。まったく、《もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない》と、誰かさんがすまして言っておったが、ちょっと格好つかんかったかの?」
「良いではないか。私が流させないといったのは、あくまでも《悲しい涙》だ。うれし涙なら、いくらでも流せばよいであろう」
 アマリアも微かな笑みを目に浮かべ、フォリオムの言葉に同調する。だがすぐに、彼女の表情が再び厳しくなった。
「しかし、この《海》を代わりに支えるとは言ってみたものの……。これは相当だな。闇の御子は、たとえわずかな間ではあろうと、本当に独りでこんなものを支えていたのか。信じられない」
 そう言いつつも、彼女は何の問題もないかのように頷くのだった。
「もっとも、だから私は、自らここに来るのではなく、思念体を送ったのだがな。他の御子の支配結界の中に干渉するのは、たとえ御子であろうと《通廊》を通さないと無理だ。だが《通廊》を使える御子は、今のところ私とルキアンのみ。それで不足するような事態になったら……」
「それはつまり、魔力が足りない場合、他の御子の力も借りようと?」
「そうだ、フォリオム。私が支配結界の外にいれば、他の御子たちの魔力を私に集約してもらい、私がそれを結界内に送ればよいのだから。ただ、そのためには、それぞれの御子のパラディーヴァの役割が重要になるだろう」
 これからの大きな試みに向け、アマリアは、いったんは緊張感をもって口元を引き締め、しかし次の瞬間には、今度はわずかに唇を緩めた。今の状況を半ば楽しんでいるかのように。
 
「《あれ》の《御使い》たちと《御子》との長きにわたる戦いの流れが、ここで少し変わるかもしれない。《あれ》の因果律を万象の生成流転へと具現化する、この世界の歴史の筋書きに、ほころびが生まれるかもしれない。たとえそれが、蟻の穴のようにささやかなものであったとしても。一度でも亀裂ができることは、つまりゼロがもはやゼロでなくなることは、決定的な変化だ」
 
 必ず的中するという彼女の占いが、そのことをすでに予見したとでもいうのだろうか。


【第55話に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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エレオノーアの生還とヒロイン爆誕!

連載小説『アルフェリオン』、先日、第55話「五柱星輪陣(前編)」が完結しました。
エレオノーアの生還と事実上のメインヒロインの誕生(!)を記念し、PR画像を公開です。
 
 
生成AIのHolaraさん、エレオノーア自身はもとより、背景も含め、相変わらず素敵な画像を提供してくれます。
この間、エレオノーアが蝶の姿、戦乙女の姿ときて、やっと、例の晩餐のときのドレス姿になりましたね。これは、彼女が元々の身体に戻ったことを意味しています。ただ、元に戻ったといわれても、そこに違和感が残るのも確かです。エレオノーアという存在そのものに関し、「人間とは何か」、「自分自身とは何か」といった問題と深くかかわって、色々と疑問が生じます。詳しくは小説本編をご覧いただければと思います。なお、同じことは主人公のルキアンにも当てはまりますが……。
 
第55話の終了時点で、一応、消滅することはなくなったエレオノーアです。しかし、彼女の前には例の恐るべき敵が待ち構えていて、これとの戦いに勝利しない限り、本当に「生還」できたとは言えません。その結果は、次回から始まる第56話「五柱星輪陣(後編)」での熾烈な戦いを経て、明らかになります。まさかのヒロイン爆誕!に続いて、今度は、いきなりラスボスとの摸擬戦か!?(笑)という、とんでもない超展開が続きますね。
 
ちなみに第56話は、メインヒロインになったばかりのエレオノーアを差し置いて、水の御子イアラの主役回(!?)になる模様です。
エレオノーアの背負っている運命も重いですが、イアラのそれも悲痛です。彼女が人間を信じることができなくなってしまった理由とは……。
 
エレオノーアが表のヒロインだとして、今後、ひょっとするとイアラが、裏ヒロイン的な立ち位置になるかもしれません。メインヒロインが確定したからこそ、これに対するいわゆる「真のヒロイン」や「裏のヒロイン」、「本当のヒロイン」等々にあたる、層の厚い女性キャラたちがいっそう輝きを増してくるのですよね。エレオノーアの地位も安泰ではありません。
 
いや、ヒロインといえば、シェフィーアさんのヒロイン成り上がりの野望も、第55話を経て、可能性が薄皮一枚のところでつながったかもしれません。彼女が主人公ルキアンと「深い絆」で結ばれているのだと、第55話(その4)にてルチアがエレオノーアに告げたときには驚きでしたね(笑)。
 
いましばらく暑い日が続くと思われますが、ともかく、この夏の『アルフェリオン』は、第53話~56話の新ヒロイン・エレオノーア登場に関するお話に終始しました。連載開始以来、50話以上、実世界の時間で20年以上にもわたって確定的なメインヒロインのいなかった(笑)『アルフェリオン』ですが、エレオノーアの活躍によって、今後、物語が新たにどう変わっていくのか、楽しみですね。
 
本日も鏡海亭にお越しいただきありがとうございました。
読者様方の応援に応えられるよう、連載小説『アルフェリオン』の執筆にいっそう力をいれていきたいと思います。
 
ではまた!
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