鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第55話(その1) 虚海ディセマの果て、深海の神殿

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


あなたの知っているフィンスタルという人と、
私の知っているフィンスタルとの間に
どういう関係があるのか、それは分からない。

あなたのお話の中のフィンスタルは、
いまも微笑んでいますか。
悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、
私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。

だから私が、あなたを助けます。
さぁ、物語の続きを紡いで。

  ルチア・ディラ・フラサルバス
   某代の闇の御子
   そしてミロファニアの時詠み 光と闇の歌い手

 


1.虚海ディセマの果て、深海の神殿


 

 暗黒の口を開いてすべてを呑み込み、隙あらば圧し潰そうと待ち構えているような、この莫大な量の液体は、本当は海水ではなく、魔力を帯びた漆黒の絵の具か何かではないのかと――そのように目を疑いたくなることが何度も何度も続き、それに飽きてもなお、ルキアンたちは《ディセマの海》の奥底に向けて延々と降りてゆく。
 果てなき闇の海に包まれ、ぼんやりと灯った光がただひとつ。透明な球体の中に人影がふたつ見える。光それ自体が球を形作っているそれは、彼らがようやく立っていられる程度の手狭なものだ。本来なら、こんな脆そうな移動手段で深海の底になど辿り着けるはずもなく、そもそも中の空気すらすぐに尽きるだろう。だが、ここはあくまでもルキアンの創出した仮想世界、彼の意識下で納得ができていれば、それで問題は特に生じないのかもしれない。

「とても静かですね、おにいさん。どこまでも真っ暗で、何もなくて……。ちょっと怖いです」
 エレオノーアは不安げに外を眺め、それからルキアンに体を寄せかけた。
 ルキアンは、彼女と身体が触れ合うたびに相変わらず緊張しつつ、その緊張感が回を重ねるたびに少しずつ違う気持ちに置き換わっていることも感じていた。両腕が自然に接触したところから、彼はエレオノーアの手を恐る恐る握ってみる。握ったというよりは、何本かの指をそっと掴んでみたような、ぎこちない様子だった。
「そ、そうだね。僕は、人のまだ知らない深い海の世界といえば、見たこともないような不気味な生き物が隠れていると思っていたんだけど」
 ルキアンは、以前に手に取ったことのある一冊の書物のことを思い出した。この本は、敷居の高そうな、何の飾り気もない分厚い黒表紙の中に、その見た目からは想起し難い極彩色の挿絵を多数散りばめた貴重な作品だった。正確なタイトルは忘れてしまったが、博物学者と冒険家とを兼ねたような人物の海洋調査を旅行記風にまとめたものである。その章のひとつに、深い海で獲れる生き物を扱ったところがあり、海の淵に棲む奇妙なものたちの絵にルキアンは思わず惹きつけられた。小さな魚体に不相応な巨大な目をもつ魚や、体の半分以上を占めるのではないかという裂けた口に、刃物のごとき牙を何本も生やした魚、あるいは体中が幽霊のように白く、もはや光を映すことを忘れた濁った目をもつサメのような生き物、海の魔獣クラーケンと肩を並べそうな現実離れした巨体をもつイカ、そして、クラゲかナマコか何かよく分からない、毒々しい紅色をした漂う悪夢のごとき生物。深海に潜む、そうした者たちが、今すぐにでも眼前に飛び出してくるのではないかと、ルキアンは半ば興味津々、半ば心配であった。
 空想を巡らせている彼を気にせず、エレオノーアが言葉を返した。
「《無限闇》は、闇の御子の想像したものを領域内に創造する支配結界です。だったら、おにいさんの考えるような怪しい生き物に支配された深海の姿が、ここでも具現化されそうな気がします。でも実際には、そうなっていません。もしかしたら、おにいさんが思い浮かべたものの本来の実態も、それはそれで《無限闇》による創造に影響するのかな」
 急に小難しいことを並べ始めたエレオノーアに、ルキアンは慌てて答える。
「え、えっと、そう、なの? つまり、その、僕がいくら都合よく何かを想像しても、その何かがもともと持っている本質を無視した創造には、ならないってこと?」
「はい。おそらく。化け物さえ姿を現さない、一切が死に絶えた海。この状況こそ、《虚海ディセマ》に実体を与えたものに相応しいのかもしれません。それにですね、他にも、それに……」
「それに?」
 にわかに落ち着きのない態度になったエレオノーアに対し、首を傾げるルキアン。エレオノーアの方は、愛嬌のある怒り顔でルキアンに打ち明けるのだった。
「そ、それに、今の私です。この体、私の本当の体と隅々まで同じなのです。どうやって、そっくりに作ったのですか。もう、おにいさん! 私の……その、いろいろ……見たりしては、いないですよね?」
「え? 見てない、絶対に見てない! そんなこと言われても……。ただ、僕はエレオノーアに戻ってきてほしいって、ただ、それだけを念じたら」
 エレオノーアは仕方なさげに笑うと、膝を抱えるようにして座り込む。伝説の戦乙女を思わせる今の彼女の衣装も、仮の姿が創造される際、支配結界の力で作り出されたものだ。
「この服も、測ったわけでもないのに、どこをとっても私にぴったりの大きさです。細かいところの造りは勝手に《補完》してくれるなんて、とても便利な結界ですね。でも、ちょっときつめのところが、いくつか」
 そう言いながら、エレオノーアは着衣を整える。首から肩、胸にかけて大きく開いた造形のため、いまひとつ落ちつかないのか、胸元のところを何度も引き上げた。ルキアンは目のやり場に困りながらも、もはや開き直ったのか、それとも欲求にひかれて無意識のうちにか、彼女の胸の谷間を遠慮がちに眺めてしまっている。エレオノーアが《エレオン》だったときに、ルキアンが垣間見たそれとは、明らかに様子が違っていた。そうかと思えば、エレオノーアは、スカートの丈の短さが気になる様子で、もじもじと太腿を擦り合わすような仕草をしている。ただ、彼女の方も、ルキアンに見られていることを内心では分かっているようだったが。
 ルキアンは気恥ずかしくなったのか、話を逸らそうと、改めて周囲を見回して言う。
「それにしても、一体、どのくらい深く潜ったんだろう。何もない真っ暗な空間がこれだけ続くと、時間も、距離も、何もかもが曖昧になってくるよ」
「そうですね。もう全然、そういう感覚、なくなってしまいました。でも、おにいさんと一緒なら……」
 こわごわと、小鳥でも内に抱くかのように力の入っていないルキアンの指を、エレオノーアが強めに握り返した。互いの手が少し汗ばんでいる気がする。そっと見つめ合って、不器用な笑みを浮かべて、また前を向いて。
 こうしたやりとりが幾度ともなく続き、通常の時間感覚というものが二人から半ば失われようとしていたとき、沈下が止まった。音もなく、着地の感触すらおぼろげに、深海の底に降り立った二人。
 《ディセマの海》に入って以来、障害らしい障害にも遭遇せず、気味が悪いほど順調に海底へと辿り着いてしまったことに対し、彼らはむしろ不安を感じていた。お互い、そのことに敢えて触れることはなかったにせよ。
 真っ暗で何も見えないはずだが、これもルキアンの心象風景がかたちを取った結果なのだろうか――光る球体が着底した瞬間、舞い上がる砂煙が付近一帯を包んだのが分かった。そのとばりが徐々に流れ去り、海底にまた還っていったとき、エレオノーアが声を上げた。
「おにいさん! あそこに何かあります。ほら、建物のようですね」
 彼女が指差す方に、ルキアンもそれを見出した。
「何だろう。古い遺跡のようだけど、見た感じでは、神殿とか、そんな雰囲気の……」
 ついに手の届いた《虚海ディセマ》の深みの果て、そこに広がる海底平原に、ルキアンたち以外にただひとつ、光を放つものがあった。あやしく魅惑的でいて、しかし来るものに警告をも示しているような、青白く揺らめくオーロラ状の光幕の向こう、そびえ立つ幾本もの丸い石柱に担われた建造物がみえる。
 エレオノーアが言う。少し震えを帯びていたにせよ、同時に彼女の決意をもうかがわせる声で。
「この想像と現実との狭間で、あれだけが私たちにその姿を敢えて見せているということは……。あそこが、目指すべき場所ですね」
「行こう。そして君を取り返して、必ず一緒に帰るんだ」
「嬉しいです! ありがとう、おにいさん!!」
 喜びに瞳を輝かせ、エレオノーアはルキアンを正面から見つめる。そして唇を寄せ、目を閉じた。だが不意に何を思ったのか、彼女は慌ててルキアンから離れてしまった。
「ごめんなさい。おにいさんの言葉が嬉しくて、嬉しくて。でも、こんな偽物の私のままでは、おにいさんにふさわしくないのです。あ、偽物って……おにいさんに作ってもらった、この仮の体のことではないですよ。今までの私、私の全部が嘘の私……。こうして一度《消えて》みて、初めて分かったのです。もう逃げないで、向き合うべきことと、恐れずに私が向き合って、答えを出さないと、ずっとこのまま、私自身として生きられないと思うんです」
 エレオノーアは、今の自分の気持ちを素直に込めた瞳で、ルキアンを見上げるのだった。

 ――そうしない限り、きっと、《ディセマの海》からも二度と出られはしません。

 ◇

 海底に沈んだ遺跡とは思えないほど、例の建物の内部は地上と変わらない環境のもとにあった。
「よかった。息もできるんだね」
 ルキアンは安心し、空気があることを改めて実感しようと思ったのか、大きく深呼吸をしている。エレオノーアも、不思議そうな顔でルキアンや自分のあちこちを見ている。
「そうなんです。どういうわけか、服も体も全然濡れていません。やっぱり、ここ、おにいさんの想像の世界の中なのですね」
 二人は顔を見合わせると、今度は周囲の様子を確かめる。彼らは一本の通路に立っているようだ。まず天井は、2,3階建ての建物を貫く吹き抜けと同程度に、非常に高い。前方に目を凝らしてみても、奥は深く、薄暗くてよく見えないが、そこに向かって伸びる通路の幅は、外から見た建物自体の大きさからみると、意外なほど限られたものだった。
「結構狭くて、圧迫感がありますが、おにいさんと二人並んでも歩けそうでよかったです」
 エレオノーアはルキアンに微笑んだ後、一転して緊張感のある表情で言う。
「こんな狭いところに罠があったり、何かに襲われたりしたら、防ぎようがないかも、ですね」
 彼女は、すかさずルキアンと手を繋いだ。
「おにいさん、ここは並んで行きたいです。何かあった場合、二人とも一度で全滅する……かもしれないですけど。でも、もしおにいさんが前を進んで、私より先に犠牲になったりしたらいやですし、おにいさんが私の後ろにいて、私が見ていない間に消えてしまったりしても、いやですし」
 わざと、わがままそうな口調でそう告げると、エレオノーアは青い目を潤ませた。
「最後まで一緒なのです、おにいさん」
「もちろんだよ、エレオノーア」
 二人は、慎重に、今しばらく辺りの様子を調べてみた。壁も床も、硝子のように滑らかな手触りだ。不規則な黒い縞模様のある灰色の石が、緻密に磨き上げられ、一辺10数センチ程度の四角いタイルとなって足元に敷き詰められている。タイル同士の隙間に紙一枚さえ簡単には入りそうもないほど、精巧に作られていた。
 ルキアンは経験を積んだ冒険者などではなく、素人のやることに過ぎないにせよ、いま調べた限りでは、周囲に特に危険や問題はなさそうだった。エレオノーアも頷いた。
「心配は、ないかもです。そんな気がします。この通路、ただ真っ直ぐ進んで来いと、そんな作為性すら感じられます」
 通路はそれからしばらく続いたが、その間、特に目立ったことは起こらず、分かれ道もなく、彼女の言葉通り真っすぐにただ進むだけで事足りたようだった。

「この向こうに、何か大事なものがありそうですね。おにいさん」
 薄暗い通路の行きついた先、ルキアンとエレオノーアは、見上げるような漆黒の大扉の前に立っている。
 ――いや、ちょっと嫌な感じだな。そうだよ、これって、《楯なるソルミナ》の最後の部屋、《夜》の部屋の入口と感じが変に似ている気がする。
 言いようのない不安を覚えるルキアンに対し、エレオノーアは扉に記された文章を平然と読んでいる。
「不思議、ですね。見たこともない文字なのに、私、何故か意味が分かるんです」
 その言葉を読み始めた途端、エレオノーアの目つきが真剣になる。彼女はしばらく黙った後、自らの気持ちを整理し、これでよいと自身を納得させるつもりで、何度も大きくうなずいた。そしてルキアンに告げる。彼を見つめるエレオノーアの瞳には、強さと悲壮さとが共に漂っていた。
「おにいさん。この中に入れるのは《アーカイブ》の御子の方、つまり私だけだそうです。そして、この中で受ける《試練》を乗り越えれば、扉が再び開いて無事に出てこられます。そうなったら、多分、私は身体を取り戻して、一緒に帰れます。でも、もし《試練》に私が敗れたときには……。たしかに《執行体》の御子は助けに来てよい、と書かれていました。ただし、その場合に中に入れるのは、アーカイブと対になっている《執行体》、つまり、この扉と合う《鍵》を持っている者だけだとあります」
 そこまで話すと、エレオノーアは無言になり、うつむいたまま顔を上げなかった。それから、感情のない機械的な口調で、扉に掛かれた言葉を棒読みするように告げる。
「しかし、合わない《鍵》しか持たない御子が、すなわち別の《アーカイブ》と対になっている《執行体》が扉を開くことはできない。無理に扉を開こうとすれば、中にいる《アーカイブ》は引き裂かれ、失われる、と」
 エレオノーアは頭を振り、乾いた声で、珍しく投げやりな調子で付け足した。
「どうして、こうなるのかな。おにいさんと最後まで一緒だと思っていたのに……。おにいさんと私は対の御子ではないです。結局、《鍵》が扉に合わないって、ことですよね」
 黙ってしばらく見つめ合った後、エレオノーアが口を開いた。
「でも、私は《試練》を乗り越えてみせます。もし、私がなかなか帰ってこなかったら、無理やりにでも扉を開けてください。そのときには、私は完全に消えてしまうでしょうから、最後にもう一度だけ、この目でおにいさんを見ておきたいのです。そうすることで、私が引き裂かれても、死んでしまっても構いません。一緒に戻れないくらいなら、どうか、おにいさんの手で私に終わりを与えてください。辛いお願いをして、ごめんなさい」
「落ち着いて。僕はエレオノーアを信じるよ。それに、ここは僕の支配結界の中なのだから、何があっても、僕が何とかする。だから、大丈夫。君を待ってる。幸運を……」
 巨大な漆黒の扉、さながら帰らずの門のような不吉な場を前にして、二人は固い握手を交わした。
 一歩を踏み出し、振り向かず、エレオノーアが両手をかざすと、扉に光の文字が浮かび上がった。おそらく、それに呼応して、彼女の左目に闇の紋章の魔法円が現れる。そして最後に、黒い大扉が開くのではなく、エレオノーアの方が扉の中に吸い込まれるようにして、ルキアンの前から姿を消すのだった。

【第55話(その2)に続く】

 

 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・後編

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6.聖体降喚の真実とエレオノーアの願い


 ルキアンとエレオノーア――共に銀色の髪と青く澄んだ瞳、穏やかさの中に翳りのある雰囲気をもつ、同じ血族を思わせる二人は、再び川縁まで降り、仲良く並んで釣り糸を垂れている。
 黙って水面を凝視するエレオノーア。その横顔を、今までとは違った想いを込めて見やりながら、ルキアンは呟いた。
「レオーネさんの家では驚いたよ。いきなり、《御子》なんて言うから」
「はい、ごめんなさい……。だって嬉しかったんです。おにいさんに、やっと会えたから。だから、つい」
 相変わらず、エレオノーアへの返答の言葉にいちいち悩んでいるルキアンに対し、今の一言をきっかけに、エレオノーアの口数が堰を切ったように増えていく。
「私のこと、その……変な子だと、思っていますよね。初めて出会ったばかりなのに、いきなり、おにいさん、おにいさんって……強引に踏み込んできて、ちょっとおかしいと思っていませんか」
 すかさず首を振って否定するルキアンに、エレオノーアは身を乗り出して言った。
「私、誰にでも尻尾を振って着いていくわけではないです。おにいさんは特別なのです」
 実際、ルキアンは、エレオノーアのことを不快に思ったり、軽蔑したりはしていないだろう。むしろ強く好感を抱いている。だが彼は言葉を上手く選べず、困惑したままだ。それでも懸命に取り繕おうとする彼の態度を、エレオノーアもまた好意的にみているのだろうが、遂には彼女も自分自身の想いを穏当に表現できなくなった。彼女は大きく深呼吸すると、半泣きになってルキアンに向き合った。
「ずるいです! おにいさんは、ずるいです……。おにいさんは、真の闇の御子なのに、《聖体降喚(ロード)》のことも《御子》のことも、何も知らないんですから!!」
「《ロード》? その言葉、《ロード》……って、どこかで、聞いたような。どこかで、とても大事なことのような……」
 ワールトーアでのネリウスやカルバとの会話も、もはやルキアンの記憶から抜け落ちているのだろうか。しかし、たとえ思い出せなくても、あのときのことは記憶の域を超えたところに深々と刻まれているに違いない。苦悩の表情で頭を抱えるルキアンの様子をみれば、《ロード》という言葉に、何かただ事ではない反応を示していることが分かる。
「おにいさん。《ロード》の素体になる者は必ず二人。たぶん、人間一人分の魂の大きさでは、《聖体》を受け入れることに耐えられないんです。だから二人に分けて降ろすのだと。その二人は、たとえば家族とか、親友とか、恋人とか、普通の意味で特別な関係でなければならないのはもちろん、霊的にも深い宿縁で魂を結ばれた者同士でないといけません。それでも、《ロード》はいつも失敗する……。二人ともほぼ間違いなく、死にます。でも稀に、失敗しても一方だけ生き残ることがあります。それが不完全な闇の御子と呼ばれる、《片割れ》の者」
 聖なるものを、真の闇を司る御子をこの世に招くと言いつつも、その実態は非道でおぞましい《聖体降喚(ロード)》の真実を、唐突に、明け透けに伝え始めた少女。
「私たち不完全な闇の御子は、だから……きっと生まれてきたときから、魂が半分しか無いんです」
 そう言い終わらないうちに、涙目になったエレオノーアが、覆い被さるようにルキアンの顔を覗き込む。彼女は自分の左胸に掌を当てると、その手の上に、ルキアンの手を取って乗せた。
「おにいさんと一緒だから、心臓、どきどきしています。私は《生きて》いるようです。でも《ロード》より前の記憶は、私には無いんです。思い出せないだけなのかもしれませんが、もし思い出しても、それって《私》の記憶と言えるのでしょうか。そんなこと考えると……考え始めると怖いんです……記憶や、この体、この思い、どこまでが《私》なのでしょうか。《私》って、本当に存在しているのでしょうか?」
 ルキアンの手が震えた。その手をそっと押さえているエレオノーアの指に、力が加わる。あまりのことに、彼女が何を言っているのか、直ちには現実味を感じられなかったルキアン。しかし心の中でエレオノーアの言葉を反芻してみて、その恐るべき内容に、ルキアンは、ただ言葉を失うことしかできなかった。
 ワールトーアで一度は知った《ロード》のことを、その記憶を《絶界のエテアーニア》によっておそらく奪われたために、今のルキアンは、《ロード》というものについて、自分自身も含めてのことではなくエレオノーアの方だけが辿った悲劇として受け止めてしまっている。その姿は、真実を知る者からみれば、皮肉と無残の極みだった。だが、本当のことをここでルキアンには伝えず、気持ちの奥に押し込めながら、エレオノーアは話を戻した。
「だから、私と対の《執行体》になるはずだった人が、誰で、どんな人間だったのかも、覚えていません。だけど、とても大切な人だったんだなって、分かるんです。私にとって……あ、違うのかな、《この人》にとって。でも私自身も、心にぽっかりと穴が開いたような、何かが絶対的に抜け落ちたような。ずっとそんな苦しい気持ちでした」
 彼女の真剣な表情に押され、ただ無言で頷くルキアンに、エレオノーアは独白を続ける。
「しかも私は《不完全なアーカイブ》なのです。《アーカイブの御子》は、闇の御子の本来扱う様々な御業や智慧を収めておく書庫のようなもの。対になる《執行体の御子》を助け、支えるためだけに生まれてきた存在。たとえ不完全でも《執行体》であれば、普通の人間を遥かに超える特別な力をもつ者として、価値があります。でも、対になる《執行体》を初めから失っている不完全な《アーカイブ》は、《御子》としての莫大な力をただ《保管》しているだけで、それを自分自身ではほとんど使うことができず、他に特別な能力も持っていません。多くの人の命を食い尽くしたくせに、ただ生まれてきただけの、役立たずなのです」
 言葉を選ばず、信じ難い話を突き付けるエレオノーアに、それでもルキアンは共感することができた。多少なりとも《御子》としての自覚がなければ、到底受け入れられない内容であったろうが。そういえば、話に熱が入り出すと止まらなくなり、普段とは打って変わって饒舌になることは、この二人に共通する点である。
 エレオノーアは、心の深いところで何か鍵のようなものが外れたと感じた。ルキアンにここまで話すつもりは無かったうえに、しばらくは彼とのかかわりは無邪気なふれ合いの範囲に留めようと思っていたはずであり、その淡くて不安定な心地良さに、できる限り長く立ち止まっていたかった、はずである。
「《片割れのアーカイブ》。たとえもう、私の《執行者》の代わりは存在しないとしても……それでも空になった己の半分を埋めようとする本能のようなものが、ひたすらに強くなって。そんなとき、私は知りました。その、いいえ、自身で感じ取ったのです。実は《ロード》が成功していて、《真の闇の御子》がこの世に降り立っていることを。この人なら、本当の闇の御子の力をもってすれば、《アーカイブ》としての私を受け止めることができる。魂のもう半分を埋めてくれる、きっと私を導いてくれると、なぜかそのように確信したのです。おにいさんからみたら、一方的すぎますよね。迷惑ですよね。たとえ御子としての宿命があったにしても」
 《不完全な御子》としての秘密と、一人の女性としての胸の内とを、ひとときに伝えようとしているエレオノーア。その目は、いま、正面からルキアンを見つめていて、限りなく透徹していて、嘘が無く、しかし微かに哀しそうな光も宿している。
「ただ、あなたに、おにいさんに会いたい。そう思って私は《僧院(あそこ)》から逃げ出しました。たとえ殺されてもよかった。おにいさんに一目会えるのなら。幸い、レオーネ先生に助けられて……。あの人のもとにいれば、簡単には手出しできません。それに何故か、逃げた私に対し、《僧院》からの動きが何もありません。もう長い間、時々忘れそうになるくらいに」
 つい先ほどまで鮮明に聞こえていた、谷川に水の流れる響きや、風の音、揺れ動く草や木々の葉のざわめきや、すべてがもはや二人には聞こえていない。しかしエレオノーアの声だけが、ルキアンをとらえて離さなかった。
「おにいさんのこと、ずっと想ってたんです。おかしいですよね。どんな人かも分からなかったはずなのに。だけど、なんとなく分かるんですよ。分かっていたのです。朝起きて、まず思うのはあなたのこと。それで気が付けば、お昼になっていて、今日みたいにお魚を獲りに行っても、ずっとあなたのことばかり。夕方になっても。そうやって毎日。日が暮れると、もっと寂しくなってきて。おにいさんのことが、どうしようもなく気になって、静かに本を読んでも落ち着かなくて、すぐに夜が更けて、仕方なくベッドに入っても眠れなくて、とてもとても切なくなって、おにいさんのことを想うと体が熱くなって、そして……そして私は……」
 思わず喋り過ぎたと気づき、エレオノーアは顔中から首まで真っ赤に染めて、慌てて視線をルキアンから背けた。
 
「せつないです。おにいさん……」
 
 ルキアン自身もエレオノーアの語りに気持ちが入り込み過ぎて、己の奥底から湧き出る耐え難い力に動かされ、彼女を安心させたい、やみくもながらも抱きしめたいと思わずにいられなかったのだが――彼の身体はそのようには動かず、何度も腕や指先を震わせ、仕方なくエレオノーアの頭を優しく撫でようと、手を伸ばした。
 
 
 ――はぁい。そこまで。
 
 そのとき、ヌーラス・ゼロツーは心の中で嘲笑した。ゼロツーの操るアルマ・ヴィオが再び上空からルキアンたちを監視している。
 ――そうだ、僕も《おにいちゃん》って呼んじゃおうかな。だって僕は、そんな《廃棄物ちゃん》よりもずっとずっと前から、あんたのことを見張り続けて、いや、見つめているんだよ……おにいちゃん。
 そのうえで、ルキアンとエレオノーアが気づいていなかった周囲の変化に対し、ゼロツーが意地悪く語る。勿論、それは独り言でしかないのだが。
 ――あれれ、どうしよう、おにいちゃん。二人で楽しくやってるところ申し訳ないんだけど、悪いおじさんたちが来たみたいだよ。
 
「釣れましたか。貴族のお坊ちゃん方。いや、そちらは、お嬢様でございますか……。ははははは!!」
 頬に傷、髪をすべて剃り上げた頭、片目に黒い眼帯をした、絵に描いたようなならず者の頭目が、似合わない丁重な表現でぎこちなく喋った後、大声で笑った。
 その声に合わせ、自分たちも下卑た笑いを垂れ流しながら、背後の森の中から男たちが次々現れる。皆、手に剣や斧、ナイフなどを持ち、茶色や緑色の薄汚れたマントを羽織っている。その風体からして山賊や追剥ぎのようだ。
「《せつないです、おにいさん》? そんなに人肌恋しいのだったら、俺たちが温めてやるよ」
 頭目が、これまた似合わない紳士然とした口調で、しかし品の無い言葉を投げかけた。取り巻く手下たちはわざとらしく失笑している。
 口角が下がり、淡い紅色の唇を震わせたエレオノーアに、怒りの表情が浮かんだのをルキアンは初めて見た。彼女は悪漢たちを恐れるのではなく、激しい憎悪に満ちた目で、しかし冷静に周囲を確認している。ずっと心の内に、悶えながらも大切に秘めていた想いを、意を決してルキアンに打ち明けたとき、その尊い瞬間を下世話な山賊たちに覗かれていたのかと思うと、温厚なエレオノーアも、怒りと恥ずかしさとで体中の血が沸騰しそうなのだろう。
 
 ――あの山賊たち、ちょうどよいところに居たからね。でも、本気で相手にしてくれないし、身の程をわきまえず僕に手を出そうとしたから……10人くらいまとめて殺っちゃったら、素直に言うことを聞くようになったよ。馬鹿だね、自分たちにとっても、御褒美にしかならない美味しい話なのに。
 エレオノーアに焦点を合わせ、機体の魔法眼に映る眺めを拡大すると、ゼロツーは徹底して冷淡な口調で告げる。
 ――気に入らないその女を、やっと会えた愛しい《おにいさん》の目の前で、ぼろ雑巾のようになるまで辱めてやってよ。
 容赦のない酷薄さを溢れ返らせ、《美しき悪意の子》は唇を歪める。
 ――おにいちゃん、怒るかな。だったら、大事な大事なエレオノーアちゃんの純潔を守りたいなら、山賊の虫けらどもなんて、いっそ消しちゃったらどう? 実は、おにいちゃんも、血を見るのが楽しいんでしょ、その力を存分に使って。僕、じっくり観察してたんだよ。アルフェリオンが逆同調して、敵も味方も見境なくブレスで焼き尽くしたときのことを。ナッソスの戦姫の機体を、鋼の剣の山で容赦なく刺し貫き、牙で食いちぎったときのことを……。あんた、最高だよ! 本物の闇の御子、僕のおにいちゃんは。だから、認めたらどうだい。
 ヌーラス・ゼロツーは、自らも悦び極まった寒気を感じながら、小悪魔のように誘うのだった。
 
 ――本当は好きなくせに。気持ちいいよね、闇は。
 
「おにいさんは逃げてください。私が道を切り開きます。そして、早く助けを呼んできて」
「でも、そんなことをしたら君が……」
 エレオノーアが告げた決死の提案に、かつ、それが混乱や無謀によるものではなく、彼女自身が一定の勝算を信じた表情をしていることに、ルキアンは驚きを隠せない。それ以前に、彼女だけを置いて逃げることなどできるはずがなかった。
 ――それでも僕は、まだ同じことを繰り返すのか。
 あのとき、内戦で無法地帯となったナッソス領において、ならず者たちに凌辱されたシャノンの姿が、ルキアンの脳裏に何度も浮かび上がって消えようとしない。もし同じように、エレオノーアが山賊たちの手で嬲り者にされたとしたら。そう思っただけで、ルキアンは身も心も余すところなく絶望に囚われた。
「駄目だよ。ぼ、僕が守るから。エレオノーアが逃げて」
 そう言いながらも、ルキアンは剣すら抜いていない。抜いたところで、それを生身の人間に突き立てることなど、彼にできるのだろうか。
「ありがとう、おにいさん。守ろうとしてくれて、本当に嬉しい」
 前に出ようとするルキアンを押しとどめ、エレオノーアは目に涙を溜めながら、精一杯のきれいな笑顔を作った。
「でも、もし、おにいさんに何かあったら、私は生きていられません……。それに、言ったばかりじゃないですか。私は、これでも結構強いんですよ」
 エレオノーアが、考えてもみなかったほど強気の姿勢を見せたため、山賊たちは呆気に取られた。その場の空気を変えようと、彼らの頭はできるだけ尊大な態度を装う。
「ほぉ、勇敢なことだな。だが、そういう強い女は大好きだ」
 それと同時に、おそらく目や表情で合図があったのか、近くの茂みから数人の男が剣を振りかざし、前触れもなくエレオノーアに襲いかかった。
「傷つけるんじゃないぞ、絶対に殺すな!」
 油断してそう言った山賊の頭は、次の瞬間、眼前で何が起こったのか分からなかった。小柄な銀髪の少女に飛び掛かったはずの、彼女より遥かに大柄で屈強な男たちが、うめき声を上げてばたばたと地に伏していったのだ。
 エレオノーアの呼吸が一変し、足の運びも獣のように隙の無いものとなった。
 いま起こったことは何かの間違いにすぎないと、別の一団が、今度は本気で害意を込めてエレオノーアに斬りかかる。
 だが彼女は、緩急自在に円を描くような動きで山賊たちの攻撃をかわし、敢えて敵の懐に入ると、密接して武器を振りにくい間合いから急所に一撃を叩き込んだかと思えば、相手の脚を乱して動きを崩し、敵同士がぶつかり、危うく同士討ちになりそうな動きを誘っている。
 
 ――灰式・隠密武闘術、弐群。
 
 エレオノーアの青い瞳が、その師・レオーネを受け継いだような、《灰の旅団》の戦人(いくさびと)の眼差しへと変わった。
 
 ――邪魔をしないで。私は、もう決めたんです。この美しい谷に、光翠の川面に別れを告げて、私自身のもって生まれてきた宿命も越えて、一緒について行きます、おにいさん!

 


【第54話に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・中編

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4.道を踏み外した姫様のこと


 

「やぁ、久しぶり……。リオーネおばさん」
 気恥しそうに頭をかきながら、ブレンネルが挨拶をした。背は高めだが華奢であり、隠れ場所としては必ずしも適当ではない、彼の背中に――それでもルキアンが身体をできる限り隠そうとして、右に左に、もじもじと足踏みをしている。
 彼らの間の抜けた姿に、取り立てて何か感ずるところもなさそうに、一人の老婦人が黙々と編み物をしていた。ブレンネルの声が聞こえていなかったわけでも、耳が遠いわけでもないようだが、彼女、リオーネ・デン・ヘルマレイアからは、しばらく何の反応も帰ってこない。
 ブレンネルが困った様子でルキアンと顔を見合わせ、二人して微妙な苦笑いを浮かべている。やがてリオーネは、針仕事をする自らの手元を見続けながら、ほとんど背を向けたまま返事をした。
「ブレンネル坊やも大きくなった、いや、すっかり一人前のおじさんになったね。前に会ったのは、いつだった?」
 すぐには思い出せないのか、わざとらしく首を上げ下げしては考え込むブレンネル。
「お茶でも飲みながら、話を聞こうかね。何しろ……」
 顔を上げ、リオーネがルキアンに送った視線。
「アルマ・ヴィオで乗りつけるなんて、ただ事じゃないだろうし」
 見るものを射すくめるような鋭利な光が、彼女の目に宿った。それに呼応するかのごとく、ルキアンは、自身の胸がひときわ大きく鼓動を打ったのを感じ、同時に後ろに押し戻されたような気分にもなった。
「す、すいません」
 ルキアンが思わず頭を下げる。目の前の老女が、かつてミルファーン屈指の機装騎士と恐れられた人物であるとは信じられなかったところ、彼は一瞬にして、見方を改めるのだった。
 もっとも、歴戦の勇士の気でもってルキアンを瞬時に威圧したリオーネは、その直後に彼と再び目を合わせたときには、落ち着いた老婦人に戻っていた。
「いいんだよ。まだ若いのにエクターなんて、因果な商売を。見た感じ、軍人でも傭兵でもないようだけど」
「ご挨拶が遅れました。エクター・ギルドのルキアン・ディ・シーマーと申します。御無礼をお詫びします」
「ふぅん、やっぱり貴族なんだね。で、ギルドのエクター。私はリオーネ・デン・ヘルマレイア。リオーネでいいよ」
 ――あの人と同じだ。ミルファーンの貴族。
 ルキアンは、デン・フレデリキアのことを、すなわちシェフィーアのことを反射的に思い浮かべた。リオーネも本来はミルファーン人であるという点を意識すると、彼女のいくつかの言葉に自分たちとは違ったアクセントや発音が混じっていることに、ルキアンは改めて気づくのだった。だが全体としてみれば、生粋のオーリウム人と何ら変わらない話しぶりからは、リオーネのオーリウムでの暮らしが相当長きにわたっていることがうかがえた。
「長旅、疲れたろ。まず座っておくれ」
 リオーネに促され、ルキアンとブレンネルは、部屋の隅に半ば転がすように置かれている椅子をそれぞれ起こし、床のきしむ音をさせながら腰を落ち着けた。
 一息ついたルキアンがふと顔を上げると、向こうからお茶とお菓子を運んでくる少年と視線がぶつかった。少し年下だろうか、あるいは同じくらいの年でも見た目が若干幼いのだろうかと、ルキアンは他愛のないことを思いつつ、自らと似た銀色の髪をもつ少年に親しみを覚える。
 そんなルキアンに、にっこり笑いかけ、銀髪の少年は思ったより高い声で言った。
「こんにちは、おにいさん。僕、エレオン・デン・ヘルマレイアです」
 彼の名前を聞いて頷いたルキアン。その表情を見て、エレオン少年は首を振った。
「あ、ヘルマレイアといっても、僕、リオーネ先生の本当の子供じゃないですよ。先生の弟子です。でも僕は、先生をお母さんだと思っています」
 師と呼ぶ者と共に暮らす銀髪の少年――ルキアンは、胸の奥で何か遠くのものが呼び起こされるような、不思議に懐かしい気分になって少年の顔をしげしげと眺めた。まず惹きつけられたのは、不自然なほどに鮮やかな、澄んだ青い瞳。それは天空を象徴する宝石を、たとえば選りすぐりのサファイアを想起させつつ、そういった高雅な一面と同時に、彼の眼差しには愛嬌や親しみやすさもあり、好奇心の赴くままによく動く。そして、ふっくらと柔らかそうな唇は薄桃の色、さらに薄桜の花さながらに、ほのかに色づいた頬。
 
「おにいさん」
「あの。おにい、さん」
 エレオンが仕方なさそうな笑みを浮かべ、何度もルキアンのことを呼んでいる。
「あ、ごめんなさい。ちょっと……」
 ルキアンは我に返った。また得意の妄想が顔を出していたようだ。
 ――あ、あれ? いま、男の子に、見とれてしまった、ような……。何やってるんだろ。でも、さっきからずっと僕の方ばかり見ているような。いや、そうだったとしても、それは別に……。
 小声で何かぶつぶつと言い、ひとりで顔を赤くしているルキアン。彼のそんな様子をエレオンは微笑ましく感じたらしく、細めた横目でルキアンの方を曖昧に見続けながら、お茶を入れている。二人暮らしには幾分大きめの白磁のポットは、花や葉を記号化したような紺色の紋様でシンプルに彩られている。そういえばミルファーンの王立の大規模な陶磁器工房が、この種の白と紺の器で知られていることを、ルキアンはどこかで聞いたような気がした。
 リオーネがわざとらしく大きな咳払いをした。初対面にしては奇妙な、ぎこちなくも、変にお互いを意識したルキアンとエレオンのやり取りに、呆れたような表情をしている。
「若いお二人は、話したいことがあれば、あとで沢山語り合ってくれたまえ。それより、何か頼みごとがあって、あたしのところに来たんだろ、ブレンネル?」
 
 ◇
 
 ルキアンの抱えるひと通りの事情を、ブレンネルから聞いたリオーネ。その都度、彼女は頷きながら、比較的好意のある様子で受け止めていたようだった。それにもかかわらず、ブレンネルが喋り終わった後、しばらく彼女は一言も発しようとはしなかった。
 必要以上に長く感じられる沈黙を気まずく思ったのか、ブレンネルは、ルキアンに昨晩語った話を繰り返す。
「昨日も言ったように、俺の親父は、ミルファーンの王都でカフェをやってたんだ。リオーネおばさんは、そのときの常連さ。都の市壁内と郊外との間、中途半端な場所にあるいまいち売れない店に、いつの頃から機装騎士が一人、立ち寄るようになった」
「その中途半端な場所が、あたしには穴場というのか、いわば隠れ家として都合良かったんだよ。王宮の連中ともあまり顔を合わさずに済んだし、街から遠く離れた街道沿いの店よりは多少なりとも洗練……いや、少なくとも酔って暴れる冒険者やら、女が一人とみれば無作法に絡んでくるゴロツキなんかは、あまりみなかったしね」
 リオーネがようやく口を開き、言葉を継いだ。懐かしそうに相槌を打つブレンネル。
「でも結局、都での商売は上手くいかなくて、親父の故郷のオーリウム王国に戻り、ノルスハファーンで店をやり直すことになった。で、二代目店主が俺ってわけだ」
「あの頃は、あたしも殺伐とした仕事に手を染めていたけど、まだ人生に多少の先が、夢があって、何かと楽しかったよ。でも、思い出話に花を咲かせるために来たわけじゃないんだろ。それでルキアン、ケンゲリックハヴンに行きたいんだって?」
 昔語りを楽しむ流れを断ち切るように、リオーネがルキアンに話を振った。
「はい。会いたい人が、います」
「会いたい人、ねぇ……」
 リオーネは深く長く、これ見よがしに溜息をついた。
「あんたは、あの子のことを、どのくらい知っているんだい? あの《鏡のシェフィーア》、シェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアのことを」
 シェフィーアの名を聞いた途端、これまでには無かった想いの輝きがルキアンの目に浮かんだことを、リオーネは見逃さなかった。そして彼女の予想通り、少年の口数がにわかに増えていく。
「いえ、ほとんど、どういう人かは知りません。でも、あのときシェフィーアさんがいなかったら、僕は、今ここにいなかったと思います。はっきり言うと、敵に殺されていたでしょう。シェフィーアさんは、僕の孤独な居場所を、空想の世界を、それでいいって……向き合って、手を差し伸べてくれた。すべて肯定してくれた人です。その、僕の中の、暗くて、醜くて、気持ち悪いところまで、全部」
 己の神を讃える信者を連想させる、滔々と紡がれていくルキアンの言葉に対し、リオーネは僅かに顔をしかめ、途中からはむしろ笑いをこらえるような様子で聞いていた。
「あのね、ルキアン。あんたはシェフィーアのことを、魂の師か、聖女様か何かのように言うけれど、あれはそんな人間じゃない。あれは……」
 リオーネの声が一段、低くなった。
「あの子は《化け物》です、と。そう言わざるを得ない」
 シェフィーアのことを化け物呼ばわりされ、露骨に納得しかねるという顔になったルキアンを前にして、リオーネは淡々と語り続ける。
「もし何度生まれ変わったとしても、不老不死になって修行を何百年続けたとしても、あたしには、あの子に届く気がしない」
 そう言ってリオーネは立ち上がると、ゆっくりと窓際に向かい、濁りのある分厚くて小さめの硝子窓のところで、レースのカーテンを無造作に降ろした。老いてなお筋の一本通った彼女の背中を見つめながら、ルキアンは言葉に聞き入った。
「むかし、互いにアルマ・ヴィオに乗って、まだ小娘だったあの子と初めて向かい合ったとき、あたしは抗い難い恐怖を感じた。こう、体の芯から、理屈じゃなく、ただ怖かったのさ。仮にも《灰の旅団》随一、《剛壁》と呼ばれていた機装騎士がね。おかしいだろ。だけど、あれは違う。あの子とひとつになったアルマ・ヴィオは、もう、あたしたち人間の扱うものとは……絶望的なまでに、次元が違うんだよ」
 ミト―ニア市街でシェフィーアの操る重装型のティグラーと対峙したときのことを、ルキアンは思い出した。ほんの些細な挙動ひとつをとっても、獣同様に驚くほど自然で、事前の気配すら悟らせない動きを。あのときは、ただ驚嘆するばかりであった。しかしそれは、単なる驚きの域を出るものではない。優れた繰士と戦った経験のまだ少ないルキアンは、シェフィーアの強さを正しく測れる段階にさえ至っていないのだ。
「もう、あたしが、いい年をして敢えて機装騎士を続けている意味など、無いんじゃないかって。このあたりが引き際かと考えるようになったのは、あの子と出会ったことがきっかけさ」
 リオーネは、若干の自嘲を感じさせる語り口で、力なく笑った。だが、続く彼女の言葉は、一転して暗く、淀んでいた。
「あの子は強い。国造りの英雄やおとぎ話の勇者、いや、それ以上かもしれない。だったらミルファーンは安泰? いいえ、違う。あれは、この世で平凡な民と共に生きるには、人としての何かが欠けている、本質が違い過ぎる……。だから《化け物》なんだよ」
 リオーネはルキアンに歩み寄り、左右の手で、彼の肩をしっかり掴んだ。その感覚に、ルキアンはなぜか師のカルバのことを想い出す。もはや記憶していないはずの、ワールトーアの礼拝堂での出来事を。そんなルキアンのことなど気にする様子もなく、老婦人は長い独り言のようにいう。
「昔、ミルファーンの王族に一人の娘が生まれた。当時はまだ適切な世継ぎの無かった国王は、ひとまず安堵して喜んだ。ところが、その姫は美しく成長するも、次第に理解し難い面を露わにしていった。彼女は狩りに異様な執着をもち、野獣どころか巨大な魔物にさえも、嬉々として、執拗に、手槍一本で襲いかかった。顔も体も獲物の血まみれになって、周囲が寒気を催すような恍惚の表情を浮かべて……。そうかと思えば、お気に入りの女官たちの血を、特に美しい生娘の血を好んで差し出させ、夜な夜なすすっているという噂も出始めた」
 ――何で急にそんな変な話を。いや、それって、まさかあの人の……。
 「姫」という言葉にルキアンは反応する。シェフィーアのまとった飄々として得体の知れない雰囲気の中に、ときおり近寄り難いほどの気品も感じられたことは、その王家の血筋ゆえであるとすれば合点がいく。
 ――だけど、まるで戦闘狂や、吸血鬼みたいじゃないか。
 ルキアンが心の中で驚いたことを読み取ったかのように、リオーネが頷いた。
「いや、それどころか、あの様子じゃ、実際に人の命さえ奪っていたかもしれない。機装騎士として戦場で敵を倒した結果ではなく、ただの人殺しとして、自らの快楽のためだけに。いや、それだけは無かっただろうと思いたいが、どうだかね」
 信じ難い内容であったにせよ、リオーネの話が概ね真実であることは彼女の目が確かに語っている。ルキアンの方も、彼女の言ったことを何故か否定できなかった。目を見開いたまま何も言えなくなったルキアンに、リオーネは口調を若干やわらげ、道を踏み外したお姫様の物語について、その結末を付け加えた。
「やがて王家も、姫の倒錯した姿をもはや隠しきれなくなった。王は仕方なく、彼女をその高貴な血から切り離し、今後、王位継承とは一切かかわりの無い存在として、臣下であるデン・フレデリキアの家に、つまりは《灰の旅団》の団長のところに預けた。とても厄介だが無双の切れ味の剣として、勿体ぶって押し付けたんだよ。あの団なら、そんな危ない連中、居たって別に構わないからね」
 リオーネは、諦念を有り有りと浮かべた、それでいて悔しそうな涙をほんのわずか、その目に溜めて、一言ひとこと絞り出すようにルキアンに告げる。
「あんたのような、そんな信じ切った目で、あの子が他人から頼られるなんてね。ねぇ、ルキアン君、あの子のことを、シェフィーアを、頼みます……。あの子には、あれ自身が認めた仲間が必要なんだよ。人らしい暖かな想いを知ることのできるような。それが、できるかどうかは、とても疑わしいけどね。でも、あんたは何かを変える。一目見たときから、そんな気がする」
 リオーネからの思いもよらぬ言葉に、ルキアンは何といってよいのか分からず、恥ずかしそうに下を向いて口ごもっている。
 
「大丈夫、おにいさんならできます!」
 自身は部外者であるといわんばかりに今まで会話に加わっていなかったエレオンが、急に割って入ってきた。そして一言。
「だって、おにいさんは《御子》ですから」
 思わずルキアンは、飲みかけていた茶を口から吹いてしまった。高価な白磁のカップも無意識に手放してしまい、床に落ちていくぎりぎりのところで、彼は慌てて受け止めることができた。だが、手元も膝も床も、水浸しならぬお茶浸しの様相である。
 詳しい事情については理解していないにせよ、ルキアンの突然の動揺があまりにも本気のものだったので、ブレンネルが笑い転げている。いや、笑いの声さえ出ず、苦しそうに腹を抱えているのだが。
「な、な、何を……。エレオン? 《御子》って、君は、なぜそれを。いや、すみません、品の無いことを」
 リオーネに平謝りしつつ、ルキアンは懐からチーフを取り出して、こぼれた茶を拭こうとしている。だが、彼はすっかり上の空で、ただ床をこすり続けながらも、まったく拭き取れていない。
 右往左往するルキアンのことなど意に介さない調子で、エレオンがさらに言った。
「僕は、すべて知っているのです。おにいさん」
 エレオンがいつの間にか隣に座っており、ルキアンとの間で互いの二の腕をすり合わせ、無邪気に頬まで寄せてこようとしている。
 ――エ、エレオン、ちょっと変わった距離感の子だな。近い、近いよ、何これ!?
 ルキアンは、音が出そうなほど首を振って、目を閉じ、エレオンを押し戻した。
 それでもエレオンは笑みを崩さず、逆にルキアンの手首を掴むのだった。
「あ、リオーネ先生、そういえば今日はお客さんが来たので、お魚をまだ獲りに出かけていなかったです。今から二人で川に行ってきます。おにいさんにも手伝ってもらいますね。いいですよね?」
 何とも突飛な話のようだが、その言葉を待っていたかのようにリオーネは即座に答えた。
「あぁ、行っておいで。沢山釣ってきてよ。あたしはブレンネル坊と大事な話があるから。今晩は、久々に賑やかな、立派な食事にしたいね」
「はい、先生。それではご案内しますね。おにい……さん!」
 訳が分からないまま、ルキアンはエレオンに腕を取られて引き立てられていく。ひょっとすると、エレオンはリオーネから捕り手向きの体術でも習っているのだろうか、それともルキアンの頭の中が真っ白になっているだけなのだろうか、いずれにせよルキアンはまったく抵抗できないままに。
 庵から出ていく二人の後ろ姿を見ながら、何度か頷くリオーネ。
 そして、リオーネの横顔とルキアンたちの背中との間で視線を行ったり来たりさせている、怪訝そうな表情のブレンネルであった。

 


5.ふたりの想い


 

 気ままな軌跡で花の周囲を飛び回る蝶のように、エレオンは、ルキアンの隣に立ったかと思えば今度は後ろ、そして前に飛び出して先へと誘い、にこやかに弾けている。無邪気な妖精を思わせる魅力を振りまきながら、道すがらの草花や、鳥の鳴き声について、虫や岩石について、ひとつひとつエレオンが雑多な知識を披露する。海沿いの大都市、コルダーユで暮らしていたルキアンにとって、この山峡は目新しいものばかりだ。
「おにいさん。この花、知っていますか?」
 道端の少し奥まった茂みに手を伸ばしたエレオンが、はかなげながらも凛とした、小さな白い花をルキアンに差し出した。人との関わり合いがあまり得意ではない、どちらかといえば他者との親密な接触は避けがちなルキアンにとって、距離感を飛び越して懐に入り込んでくるエレオンの振る舞いは、いちいち気持ちを揺さぶられるものであった。それに対する受け止めに戸惑って、もはや反応すること自体をあきらめたようなルキアンに、エレオンが真面目な顔つきになって言った。
「僕の好きな花、おにいさんにあげます。花言葉は《あなたに、すべてを捧げます》」
「はい?」
 困惑するルキアンが、半ば裏返った声でエレオンの意図を問うと、彼は一転して沈黙し、ルキアンに背を向けて歩き出した。
「あ、あの、エレオン? いま、僕、何か気に入らないこと言ったかな。そうだったら、ごめん……」
 意味も分からず謝るルキアンに、なおも返事をしないエレオン。だが数歩進んだところで、エレオンは大きく振り返った。計画通りに、意味ありげな笑みを浮かべて。
「それは嘘、うっそでーす! びっくりしましたか?」
 心配して損をしたと、迷惑そうな顔つきになったルキアン。そんな彼の顔を見上げる目線で、エレオンは、喉で空気を擦るような、かすれた声でつぶやいた。
「本当は、この花はヴァイゼスティアーといいます。いにしえの勇者の時代、聖女を愛し、想いが届かずに魔界側の英雄へと堕ちた人の、最後の一粒の涙の生まれ変わりと言われています。そこが好きなんです。僕は、魔界に堕ちていった人の側の人間でしょうから」
 そのとき、ルキアンの瞳に漂う光に微かな変化が生まれたことを、エレオンは十分に理解していた。
「あ、おにいさん。今の言い伝えを聞いて、一瞬、何か共感するところがありましたね……」
 エレオンは一方的にルキアンの手を握ると、そのまま引っ張って小走りに駆け出した。
「闇、深いですね」
 だが、それは、この二人の宿命を考えれば、ひとつの歪んだ誉め言葉だ。

――何なんだ。あんたたちは。
 そうしたルキアンとエレオンのやり取りを、気取られぬよう天空高くから見張る者がいた。オパールの遊色よろしく七色に輝きを随時変化させながらも、人の子の瞳には決して映らない、おそらく旧世界の高度な光学迷彩あるいは精霊迷彩を、いや多分、それ以上の特殊な能力を備えた未確認のアルマ・ヴィオ、その乗り手の《美しき悪意の子》ことヌーラス・ゼロツーである。ルキアンやエレオンと同じく銀の髪と青い目をもち、《月闇の僧院》の執行部隊として先頭に立つ、人由来の、人の姿をした、しかし本質的には人からはもはや遠くなった存在だ。御子と同じく。
 ゼロツー、彼あるいは彼女は、子犬のようにルキアンにじゃれつくエレオンを機体の魔法眼で拡大してとらえながら、憎々しげに追う。一見して性別の境界を越えたような互いの姿がどこか似ていることに、さらには互いの境遇に、一種の同族嫌悪を感じてでもいるのだろうか、かなり感情を高ぶらせている。
 ――失敗作、何の役にも立たないゴミ以下の《不完全な片割れのアーカイブ》が、心底幸せそうに笑っちゃって。あんたなんか、あの婆さんが面倒な相手だから、ネリウス師父(マスター・ネリウス)がお情けで放任しているだけだろ。
 ――それに、ルキアン・ディ・シーマー。真の闇の御子のくせに、何を無駄な時間つぶしてるのさ。
 ゼロツーは声を震わせた。いや、アルマ・ヴィオと融合し《ケーラ》に横たわる今のゼロツーにしてみれば、音や響きを伴った現実のものにはならない、心の声であったが。
 ――僕らヌーラス、《不完全な片割れの執行体》は、死や暴走の恐怖におびえながら、こうして活動してるのに。あんたには力があって、やるべきことがあるのに……呑気に未来に迷って、こんな山奥でイチャイチャしてるのか。
 ――そもそも、あんたは、初めて成功した《ロード》によって生まれた、完全な《執行体》。だから、もともと対になる本来の《アーカイブ》が別に居るだろ。《ロード》に失敗して、魂の半分の相手を失い、自分ひとりだけ無駄に生まれ落ちてきた《不完全なアーカイブ》なんか、他の執行体と一緒にいたところで役に立たないのに。
 ゼロツーは冷え切った笑みを胸の奥にたたえて、二人の姿を見据えた。
 ――気に入らないな。ぶち壊したい。でも本当に壊すとマスターに怒られるから、ちょっと、いじめてやるよ。
 「お目付け役」のヌーラス・ゼロワンや、マスターのヌーラス・ゼロ、すなわちネリウス・スヴァンが同行していなかったことから、ゼロツーの悪意がルキアンとエレオンに、いや、エレオノーアに、ここで降りかかることになる。

 ◇

「おにいさん、着きました」
 ルキアンよりも数メートルほど先行したエレオンが振り返り、手に持った2本の釣り竿を掲げている。所々、道にまで張り出して邪魔する木々の枝を払いながら、ここまでやってきた二人だったが、突然、視界が開けた。ルキアンたちの辿ってきた川だけではなく、近隣の支流からも集まってきた幾つもの細く急な瀬が、集まって大きな淵を形作っている。
 道から岩を伝い、おっかなびっくりに淵に近づくも、吸い込まれるような、薄暗い壺の奥を思わせる水を蓄えた川面を目の当たりにして、ルキアンは身を震わせた。
「すごく、深いね……」
 落ちたらさぞ冷たいのだろうと、彼は一歩後ずさる。心地良く頬を撫でる風の暖かさからは考えられないほど、晩春の渓谷を流れる水は冷たい。当分はまだ人を拒否するつもりなのか、触れると凍てつくような、肌を切る感覚を残す。風に舞った水しぶきが、霧のように細かく散らばっていく。それらが溶け込んだ、ひんやりとした空気感。
「ここ、他の場所より、とっても大きな魚が釣れるんです。この前なんか、相手が大きすぎて竿が折れそうだったんですよ」
 エレオンはそう言って、釣り上げたのであろう魚の大きさを両手で表した。淵の周囲を睥睨する主さながらに、そびえ立つ大岩が一つ。それにエレオンは駆け寄り、軽々とよじ登って、ルキアンに手招きしている。
「おにいさん、こっちこっち。よく見えます」
 普段はおっとりとした動作であっても、こういうとき、エレオンは意外なほど俊敏な動きを見せる。それに対してルキアンは、恐々、腰の引けた様子で岩に手を掛ける。だが、少し上ったところで身動きがとれなくなり、カエルのように岩に張り付いて困っている。
「お、落ちる!」
「おにいさん。落ち着いて。僕が引っ張ってあげます」
 エレオンが手を差し出した。小柄で細い彼がルキアンを無理に引っ張りあげようとすれば、二人一緒に落ちてしまいそうな気もしたのだが、彼はエレオンの手を掴んだ。それを握り返した、細くて柔らかい指。
「離したら駄目ですよ! 僕の手を」
 そのままエレオンは、うつむき加減になると、風にかき消されそうなささやき声で言い足した。

「お願い、離さないで、ずっと。私の手を……」

 よじ登るのに必死で、エレオンのそんな言葉を聞き取る余裕もなかったルキアンだが、彼はふと見上げた。次の瞬間、何故か彼は足元を滑らせ、急に落ちそうになる。
「おにいさん! 危ないよ。僕まで落ちちゃう、暴れないで!」
 岩にしゃがみ込んだエレオンも、必死にルキアンを引っ張った。
 ルキアンは自らの愚かさ加減に呆れながら、とにかく落ち着いてエレオンのところまで登ろうと、自分に言い聞かせる。しかし……。
 ――ちょ、ちょっと。エレオンって。
 先ほどエレオンが岩の上から手を差し伸べたとき、下から見たルキアンの目には、考えてもいなかったものが映ったのだ。
 ――男の子、じゃなくて……女の、子?
 羽織った濃紺のローブの下、白いシャツの胸元から、弾けそうに押し込まれた膨らみが見えたのだ。ルキアンは目を疑ったけれど、エレオンは間違いなく女性である。
 男であると思い込んでいた相手が女であったからなのか、それとも岩から落ちそうになったせいなのか、いや、おそらく両方ゆえに、ルキアンの鼓動はむやみに高まり、気持ちも平静を失った。
 そんなルキアンの気持ちなど知ることもなく、エレオンは手に力を込めた。
「おにいさん、もう少しです。頑張って!」
 自分よりもずっと重いルキアンを健気に引っ張り上げようとするエレオンに対し、よこしまな気持ちを起こして申し訳ないと思ったものの、ルキアンはエレオンのことが急に気になって仕方がなかった。意識し始めると止まらなくて、悪いと思いつつ、そっと上目遣いをすると、エレオンの白い胸元に視線が吸い込まれた。
「ご、ごめん!」
 何に対して謝っているのか、よく分からないままに、ルキアンは懸命になって這い上がることができた。平らな大岩の上に座り込んで、荒い息をしている。
「おにいさん、大変だったね」
 巨岩とはいえ二人が座るには決して広くはない場所がら、エレオンが窮屈そうにルキアンに隣り合った。
「エ、エレオン!? そ、その……」
 彼くらいの年頃の少年に、同年代の少女のことを意識するなと言っても難しいだろう。少なくともルキアンには。先ほどまでと様子の違う彼に、エレオンは首を傾げ、特に意識せず膝を寄せた。
「え、何ですか? おにいさん」
「あ、あ、あの、エレオン!」
 今度は、白いキュロットから伸びるエレオンの脚のことが、ルキアンはついつい気になった。考えてみれば、すらっとして、細く滑らかな、それでいて一定の肉付きのある脚は、自然にみて男性ではなく女性のそれである。
 ルキアンは無理に横を向いて、エレオンに尋ねた。
「エ、エ、エレオンって……女の子、なの?」
 事情も分からず、不躾だと思ったものの、ルキアンは率直に口にした。エレオンの答えが気になったが、彼、いや、彼女はこれまで同様に微笑んで、いや、これまで以上に満面の笑みを浮かべ、落ち着いた口調で答えた。
「はい。そうですよ」
「そ、そうなんだ、ね……」
「はい! 実は私、女の人だったのです」
 エレオンは改まった調子で頭を下げ、少し舌を出して苦笑いした。
「おにいさんを騙すつもりは決してなかったです。本当はエレオノーアと言います……。そう呼んでください。でも、よその人がいるときには、エレオンでお願いします」
 黙ってうなずいたルキアンに対し、エレオノーアは慌てて首を振った。
「あ、おにいさんが気にする必要はないです。別に私は、何か秘密があって、その、たとえば……お話にあるじゃないですか、王子のふりをして剣を帯び、戦わなければならなかったお姫様のように……そういうのとは違うんです」
 エレオノーアは大岩の上から、下界を見渡すといわんばかりの素振りで、四方を眺めた。
「リオーネ先生が、敢えてそうしなさいと。このあたりはまだ本当の山奥なので、めったに誰も来ないし、大丈夫なのですが……隣の村まで行くと、もう、そうではなくて、一見すると自然が豊かで平和な山里に見えますが……実際には、田舎は、都会とはまた違った意味で治安が行き届かず、警備兵も居なくて、山賊や人さらいのようなならず者たちが好き勝手に暴れています」
 彼女は溜息をついた。
「少し前にも、近くの村の娘さんが誰かにさらわれて、後になって遠い遠い街の……あんなところで、その、知ってますよね、何ていうのかな、娼館? で、見つかったですとか」
 頬を微かに赤らめたエレオノーア。さらに彼女は東の方を指さして続ける。
「怖いです。あっちの村の方では、女の人が山賊に襲われて、その、ひどいことされて……最後には命まで……。だから気を付けないと、って。独りで出歩いているときに、一目ですぐ女だと分かる姿を決して見せるなと、先生が。いや、こんなの、見たらすぐ女だって分かってしまうけど……だとしても、です」
 不安そうな表情をしていたエレオノーアが、それを気にしたルキアンを慮ってか、可愛らしく首を傾けて笑った。
「大丈夫です。私、こう見えて結構強いんですよ! リオーネ先生は、むかしミルファーンで一番優れた機装騎士だったので、私も武術を習っています。おにいさんも守ってあげますからね!!」
「あ、ありが、とう……」
 ルキアンは無意識にそう答えた。だが直後に、本当は、僕が護ると告げるべきだったろうと彼は思った。それは、自身が男であるからだとか、一応の戦士としてのエクターであるからだとか、そのような理由からではない。

 ――僕は、二度と繰り返さないって覚悟したじゃないか。人を傷つけたくないから迷って、そのせいで大事な人を失ってしまうのは、もう嫌だから……決めたじゃないか。僕は《いばら》になると、泣きながらでも戦うと。弱い僕をかばって消滅してしまったリューヌや、僕が戦えなかったせいで犯されたシャノン、殺されたシャノンのお母さんのようなことは、もう絶対にさせないと。

 ルキアンはエレオノーアを見つめた。瞳と瞳で。同じ光を宿した目で。
 その眼差しに込められた想いを、エレオノーアも、他人事ではなく己自身のこととして、真の意味において理解していた。

「おにい、さん……」

 

【第53話 後編 に続く】

※2023年6~7月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・前編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


天与に恵まれていない者が、
変わらぬ自分自身のままで居続けることを望むなら、
敢えて独りで歩むことも恐れてはならない。

(手記: 旧世界の集合住宅と思われる
       高き塔の遺構にて発見)

 


1.連載小説『アルフェリオン』本格復帰です!


 

「はい。今日は、きっと何かが起こります」
 土鈴(どれい)がころころと音を奏でるような、素朴で親しみやすい響きながらも、同時に凛とした強さをも内に感じさせる口調のもと、まだ年若い誰かがつぶやいた。そして水音。大小様々な石や岩の転がる手つかずの地面を、幾筋にも分かれて流れる谷川を臨みつつ、こぢんまりとした台地の上に人影がみえる。その控えめな声は、周囲に広がる鬱蒼とした樹々の中に吸い込まれ、あるいは、苔むした岩を噛み、白泡(はくほう)を生んでは消えていく沢の流れに、かき消されるように霧散していく。
「素敵な天気ですね。服が良く乾きそうです」
 独り言であるにもかかわらず、何故か敬語で紡がれる少し奇妙な語り口。その声の主は、おそらく近辺の木の蔦で編まれたのであろう素朴な籠の中から、洗いたての衣を手に取り、出来ばえに満足して頷くと、掌で軽くはたいた。木々の間に渡されたロープと、そこに揺れる洗濯物がいくつか見える。
 全体的に華奢な感じではあるにせよ、その後ろ姿を遠くから一瞥しただけでは、少年と呼ぶべきか少女と呼ぶべきなのか、いまひとつ分からない。膝裏まで伸びる紺色の上着が風に吹かれ、簡素な白いキュロットがみえた。どことなく僧衣を思わせる上衣から細長い脚が伸びている様子は、大人の服を借りてきた子供のようでもあった。
 黒い帽子の下から遠慮がちにのぞく髪は、朝日を浴びて銀色に輝く。もはや目を覚まし、みるみる天高く登っていく太陽を横目に眺めるその瞳は、大きく、よく動き、澄んだ神秘的な光をたたえている。石灰質の川底の悪戯によって翡翠色に照り映える、あたかもここ、ハルスの谷の水色のように。

「分かります。感じます。やっと会える……。私の大切な」

 ――おにぃ、さん。

 心の奥にしまっておくようにそう付け加え、《彼女》は振り返ると、両の掌を胸元で握り合わせた。自らに花の色の漂うことをまだ知らない、男の子のような横顔から、しかし伸びる柔らかな輪郭線は、この子がいずれひとりの女性になることを告げていた。

 ◇

 イリュシオーネ大陸のおよそ中央部、オーリウム、ミルファーン、ガノリスの三国が国境を接する地域には、大陸最高峰の山岳からなるラプルス山脈がそびえている。その峻険な峰々については、使い古された喩えを繰り返すまでもないであろうが、それでも敢えて言えば、あたかも三つの国を区切る大屋根のようだ。
 この世界の屋根ラプルスの北端から伸びる、幾分穏やかな山々が、オーリウムとミルファーンの国境地帯となるハルス山地である。ラプルスの様相とは――すなわち、荒涼として灌木や下草程度しかみられない、白くて無機質な岩だらけの山並みが屏風のようにそそり立つ光景とは――大きく異なり、ハルスは昼なお暗き森や無数の谷川に覆われた深緑(しんりょく)の世界だ。隣り合った山脈であるにもかかわらず、両者の間で環境がここまで違うという点は、もはや驚きを超えて、何か人知を超えた力の作用すら感じさせる。
 さらに、エルハイン、ミトーニアに続くオーリウム第三の都市にして北部の要であるノルスハファーン(オーリウム語で「北の港」の意)と一方で近く、他方にはミルファーンの王都たるケンゲリックハヴン(ミルファーン語で「王の港」の意)を裾野に擁するハルスの山々は、それら二つの大都に比較的近いにもかかわらず、容易には人跡の届かない深山であるという土地柄から、古き詩や昔語りの中でもすでに、都落ちの者たちや隠棲者の隠れ里としての独特な位置づけを与えられてきた。そして今も、俗世を離れた一人の者にとって、静かな終の棲家となっているのである。

「おやまぁ。エレオノーア……いや、エレオン、もう洗濯終わったのかしら」
 魔道士のような頭巾を被った、否、魔道士の「ような」と、つまり彼女が魔法使いそのものではなかろうと直ちに表現できることには、理由がある。それは、素人目にも彼女が呪文使いであるというよりは、むしろ自らの手でもって戦う人、闘士や剣士であることを想起させる独特のたたずまいからであった。生来の銀髪か、後天の白髪か、もはやいずれか分からなくなった、いまなお猛々しく美しい目の前の老女は、かつてミルファーンにその人ありと讃えられた機装騎士であった。ちなみにここはミルファーンではなく、そこにほど近い、オーリウム領内の辺境なのだけれども。
 ただ、かつての勇猛な騎士も、現在では、少なくとも普段は、慈母の微笑みを浮かべた穏やかなお婆ちゃんという印象をまとっていた。
「今朝はいつになく早いね。朝ご飯前に、ひと眠り、やり直したらどうだい? あたしは、まだ眠いよ」
 谷あいに隠れるように立つ簡素な小屋、扉を開けて元気に帰ってきたエレオンを、つまりは少年の名で呼ばれた少女エレオノーアを前にして、彼女は寝ぼけまなこで手を振った。
「いえ。リオーネ先生。今日は、じっとしていられないんです」
 洗濯物の入っていた網籠を部屋の隅に置くと、エレオノーアは両手で胸を押さえながら答えた。
「こう、心の中がぞくぞくと……」
「その目、何か特別なことを感じたのかい。まぁ、お前の直感は、時々、預言者も真っ青なものだからね」
 彼女のことを師と呼んだエレオノーアの頭を、老女は優しく撫でた。一見して上品な見た目に反する、武骨で古傷にまみれた指先で。
 北方の雄・ミルファーン王国は、オーリウムの《パラス・テンプルナイツ》やガノリスの《デツァクロン》、あるいはエスカリアの《コルプ・レガロス》のような、戦場の只中を駆け巡り、その勇名を世界に轟かせるエリート機装騎士団を有しているとは、必ずしも言えないところがある。だが、いわゆる「特務機装騎士団」、いわば隠密行動の特殊部隊に関していえば、イリュシオーネ各国が恐れる《灰の旅団》がミルファーンには存在するのだ。この灰の旅団の中でもひときわ優れた機装騎士として、かつて知られた人物が、今ではこのフードの老婦人、リオーネ・デン・ヘルマレイアに他ならない。
 エレオノーアの溌溂とした姿、上着を脱いで壁に掛け、台所に向かって小走りしていく背中を見ながら、リオーネは軽くため息をついた。
「こっちは、良くないよ。今朝は、あのろくでもない娘が夢に出てきちまった」
 リオーネはフードの上から頭をかき、忌々しげに首を左右に振ると、面倒くさそうに奥の部屋に歩いていく。

「シェフィーア……。最近のオーリウムの雲行きをみていると、遠からずミルファーンも、あの娘が嬉々として暴れ回るような事態に巻き込まれそうだね」

 


2.ナッソス城陥落、次なる戦いに向けて……


 

ナッソス城の激戦を経て一夜明け、緑の果ての地平から昇る朝日に中央平原が照らし出されたとき、その様相は、おそらく大方の予想とは異なるものであったろう。あれほど壮絶な戦いの翌日にしては、城の周囲に残されたその爪痕が思ったよりも少ないのだ。両軍ともに多数のアルマ・ヴィオが倒れ、魔法合金に覆われた巨躯の残骸が秒刻みで積み上げられていった戦の場には、奇妙なことに、大きめの遺物の影が点々としか見当たらない。不思議に思って四方八方に視線を走らせてみたところで、時折、アルマ・ヴィオのちぎれた手足や、散乱する外装の破片、折れて使えなくなった武器などが目に留まる程度であろう。
 わびしげに、思いのままに吹き抜ける風。その行く手を遮るものもほとんどなく、わずかに雑草が頭を揺らし、所々黒く焼けただれた赤茶色の地面。いま目の前にある隙間だらけの荒涼感は、辛い勝利の後の言いようのない気分がもたらす、いささか過敏化された人の感覚の産物などではなく、ありのままの現実にすぎない。

「やるねぇ、《ハンター・ギルド》の奴らも。もう、目ぼしい機体はほとんど転がってないな。ハゲタカって呼ばれたら、奴らもいい気持ちはしないだろうが、本当に、あっという間に集まってきて、見る見る運び去っていきやがった。まだ、あれから一晩だぜ?」
 朝晩には冷え込みもなお侮れない晩春の草原に立ち、ベルセア・ヨールは首をすくめた。金色の長い髪が風に煽られ、好き放題に踊っている。それを無造作に手でかきあげると、彼は感嘆とも解せる溜息をついた。
「持ち主の確認が取れる残骸については、可能な限りエクター・ギルドに返すって条件で、これだけ大規模な回収支援を引き受けてもらったそうだが。あちらさんもどこまで本気なんだか。まぁ、ハンターには胡散臭い奴も多いが、さすがにハンター・ギルドが組織立って動く場合、約束を破ることはないだろう」
 平時のハンターの仕事は、旧世界の遺跡の発掘や見つかった遺物の取引を中心に、人によってはいわゆる《運び屋》や《賞金稼ぎ》なども生業とするといったところである。だが彼らは、アルマ・ヴィオを用いた一定以上の規模の戦闘が発生すると――たとえば今回は内戦だが、その他にも領主間の紛争、軍やギルドによる山賊・海賊等の討伐、野武士や私兵集団同士の果し合い等にともなって――戦いの跡に放棄された兵器や破壊された兵器の残骸などから、使える部分をそれこそハゲタカのようにさらって回り、売り捌くのだった。こうした行為の多くは、本来なら王国の法に反するはずである。だが実際のところは、まだ生きている者から武器を奪ったり、戦いの行われている戦場で兵器を取得したりするのでない限り、ハンターたちによるそのような《回収》は、当局からも黙認されている。ちなみに同様のことは、ハンターの側でも、《戦士たちが去った後、そこに残されているものを》という表現でもって最低限のルールとして共有されているのだ。
 ベルセアの隣には、長身の彼に比べて小柄な青年が、湯気の立つ白いカップを手に立っている。飛空艦クレドールの《目》の役割を果たす《鏡手》、ヴェンデイル・ライゼスだ。上から下まで黒ずくめで、ギルドの関係者にしてはあか抜けた、猫のような雰囲気をもつ優男である。
「ほんと、軍が言いがかりをつけて残骸を接収しに来たり、野良のハンターやら盗賊やらが群がってきたりして面倒になる前に、ここら一帯をさっさと囲い込んで、使えるパーツは全部おいしくいただきました、って感じかい。で、ナッソス側の機体の残骸はほとんどハンターさんらの取り分になって、結局は、またこちらに売りつけられてくる・・・。現金な奴らだからな。ま、それで持ちつ持たれつだし、仕方がないけどね」
 ヴェンデイルは飄々とした笑みを湛えながらも、そこで言葉を一瞬飲み込んだ。
「それにしても・・・ルキアンも、あれだけ沢山やっちゃったのに、味方も含めた黒焦げの機体の山、もう、すっかり片付けられているな」
 あの戦いの最中、《鏡手》として戦場の動向を監視していたヴェンデイル自身が、正気を失ったアルフェリオン・テュラヌスの姿を誰よりもよく見据えていたのであり、また、そうせざるを得なかった。飲み物を喉に含ませた後、彼の声のトーンが少し低くなった。
「火を噴くドラゴンみたいに好き勝手に暴れやがって。ルキアン、どうしちまったんだよ・・・」
「そうだな。彼、どこに飛んでいったのやら」
 ベルセアは青空を望むと、指で前方へと弧を描くような仕草をして、その先に位置する地平を見つめた。二人の背後には、草原に停泊し翼を休めるクレドールの巨大な艦体がみえる。中央平原という場所柄、この規模の飛空艦の着陸できる場所が随所にあるのは有り難い。

 そのとき、実直そうな口調で挨拶しながら、柿色のフロックをまとった男が近づいてきた。目立って太めであるというほどではないにせよ、若干、肉付きが良いようにもみえる。
「おはよう。ベルセア、ヴェンデイル」
 金髪の下に広い額をもった男だ。見た目には三十代後半から四十代くらいに思われるが、ひょっとすると多少老けてみえるのかもしれない。
「やぁ、ルティーニ。いいのかい? 補給や何やらで大変なんじゃないの」
 ベルセアが彼を気遣う素振りをみせながらも、あまり深刻さがみられない。いま、こうしていた間にも、彼、財務長ルティーニ・ラインマイルがクレドールの裏方の厄介事全般を問題なくこなしてきたであろうことを、よく分かっており、信頼しているからだ。
「えぇ。ミトーニアのギルド支部が昨晩寝ずに頑張ってくれたこともあって、物資の補給には目処が立ちました。あとはアルマ・ヴィオですね。ルキアン君のアルフェリオンとバーンのアトレイオスが一度に欠けてしまい、汎用型が一体もない状況です。いま、本部に派遣を依頼しつつ、近隣の支部にも急募をかけてもらっています。依頼料も、私としては、かなり大盤振る舞いしましたよ」
「それだよ、それ。汎用型は居ないし、陸戦型を含めても、いま地上で戦えるのが基本的にオレのリュコスだけって状況、これでは《戦争》になんて行けないな。空も飛べるアルフェリオンのおかげで、昨日までは飛行型にも余裕があったんだが・・・。今回はサモンのファノミウルが一緒に来てくれているから、まだなんとかなってるけど、いつものままだったらヤバかったぜ」
 そういうとベルセアは大げさに頭を下げ、ルティーニにしがみついた。
「頼む、とても、とっても困ってる! 神様、ルティーニ様!!」
 にこりと笑ってルティーニが片目を閉じた。こうしてみると意外に愛嬌もある男だ。
「えぇ。任せてください。それで、これは耳寄りな話ですが、実はレーイに新しい機体が来るらしいですよ」
「本当? まさかのカヴァリアンまで壊されちゃって、これからどうなるのかと・・・」
 ヴェンデイルの目が輝いた。いかにナッソスの戦姫(いくさひめ)と旧世界の機体・イーヴァが相手であったとはいえ、ギルド最強の《あのレーイ》が戦闘不能まで追い込まれたということは、彼には今でも信じ難かった。
 ヴェンデイルに同意しつつ、ベルセアがいずれにともなく尋ねた。
「そうそう、レーイと戦ったナッソスの姫さん、どこ行ったの? あれからずっと行方不明だって聞いてるぜ。遺体が見つかったという噂もない。いや、遺体という線はないかもな。アルマ・ヴィオの損傷状況からみて《ケーラ》は無事らしいし、中のエクター自身が生きていてもおかしくないだろ」
「カセリナ姫ですか。まだ私も状況を把握していませんが、どうなされたのでしょうね。いずれにせよ、ナッソス方としては、切り札の《四人衆》が次々と倒され、あるいは戦線を離脱し、通常の兵力もギルドとの乱戦で削られ、そのうえに、制御を失ったアルフェリオンのブレスに焼き尽くされ・・・ルキアン君が去った時点では、もう戦える力も意志も残っていなかったようでした」
 昨日、激戦の果てに、その結果としてはあまりにも呆気なく、ナッソス城が明け渡されたことを思い起こしつつ、ルティーニが応じた。
 彼らの話を黙って聞いていたヴェンデイルが、立ち上がって遠くを眺めながら、あまり抑揚のない口調で付け加える。
「今回の戦い、こちらも、いまひとつ勝利感とかそういうのが足りない気もするんだけど・・・それでもさ、ナッソス軍が最後まで城に立て籠って、あれからみんな血みどろの白兵戦に入るような流れにならなくて、もっと沢山の人が死ぬことにならなくて、それは本当に良かったと思うよ」
「そうですね。私もそう思います。おや、来たようですよ?」
 ルティーニがナッソス城の方を手で指した。背中のマギオ・スクロープ1門のみ、つまりは最低限の火力しか備えていないティグラーと、MT(マギオ・テルマ―)で形成された光の武器や楯ではなく、実体型の槍と楯を持った「型落ち」感の否めないペゾンを中心に、およそ精強とは表現し難いアルマ・ヴィオの一隊が城に向かって進んでくる。
 その様子を見ると、ベルセアは額を押さえて苦笑いした。
「いま議会軍が《レンゲイルの壁》攻略に全力をつぎ込んでいるからって、あんなのを送ってくるしかないのか? あれじゃ山賊以下だろ・・・。それでも軍のお偉いさんたちには、《形》が大事なんだろうさ」
「えぇ、まったく。宮廷や保守的な人々に言わせれば、我々エクター・ギルドなど得体の知れない無頼集団にすぎず、そんなゴロツキのような者たちが公爵の城を奪って居座るなど、きっと許せないことなのでしょう。ただ、そんなところで揉めてしまうと、議会軍にとっても好ましくありません。それで、戦いの済んだ今さらになって、議会軍のあのような寄せ集め部隊がナッソス領に慌てて進駐してきた・・・と、いうわけですか。勿論、この城やナッソス領を放置しておくのは治安上も戦略上も好ましくないですし、一時的に統制下に置く目的で軍が部隊を送るのは当然でしょうが、あれではね」
 三人は顔を見合わせて溜息をついている。

 それからしばらくして、ルティーニはベルセアたちと別れ、クレドールに戻った。途中で会った仲間たちに手を挙げてひとこと交わしつつ、彼は薄暗い廊下を進んでいく。
 ――もうひとつ、クレヴィス副長から密かに頼まれていたことがありましたね。医務室に行かないと。
 彼はフロックの内側から一通の手紙を取り出した。怪訝そうな顔をして。
 ――しかし、ミトーニアの神殿書庫に至急向かうよう、シャリオさんにお願いするとはどういう意図でしょうね。こんな緊急時に。副長は、レマリア時代の古地図や街道図が残っていないか彼女に調べてほしいと言っていましたが、次の戦いのために何か考えがあるのでしょうか・・・。

 


3.もう一人の御子!? 交錯する運命


 

「な、な、何だ、こりゃ!?」
 突然、ブレンネルの素っ頓狂な声が森に響いた。人の気配の無い、深い緑の懐に、とぼけた叫びが反響する。これに続いた無音の間が数秒、何とも滑稽だったが、しばらくして思い出したかのように、数羽の小鳥が頭上の木の枝から逃げ去っていった。
 ブレンネルは地面にしりもちをついて、目の前を遮る白銀色の鋼の巨塊を見上げている。
「ルキアン君、本当に・・・エクターだったんだな。しかし、こんなアルマ・ヴィオ、見たことないぞ。翼が生えた、竜・・・それとも、鷲の・・・騎士?」
「す、すみません。驚かせてしまって」
 ルキアンは手を額に当て、眩しそうに日光を遮った。様々な樹木の織り成す緑の天井の間から、木漏れ日というには意外にも強過ぎる陽の幾筋かが、二人を射抜くように差し込んでくる。この様子だと、もう日は高い。すでに昼前だろうか。ルキアンは若干急いた様子で告げる。
「パウリさん、僕がアルフェリオンに乗ったら開けますから、下の乗用室に入ってください」
 昨夕、ブレンネルと出会い――それが実は初めてではなく、再会あるいは《二周目》の出会いであると彼らが覚えているはずもなかったが――結局、ルキアンは、この森に来るまでに自身に起こった出来事をブレンネルに話し、彼に助力を求めることにしたのだった。《初対面》の胡散臭げな文筆屋を彼が何故か信用できたのは、ひょっとすると、ワールトーアの廃村という閉じた虚ろな世界における、あの幻夢のごとき体験が、なおも二人の無意識の底に沈んでいるからかもしれない。
 ちなみに現時点では、ワールトーア村の痕跡は彼らの周囲にほぼ残っていなかった。そもそも、ルキアンとブレンネルが入り込んだあの廃村が現実のものだったのか、幻影だったのか、もはやそれすらはっきりしない。実際には、足元の茂みや入り組んだ木々の壁の向こうに、廃墟の名残くらいは隠れていても不思議ではないだろうが。しかし今のルキアンには、ただ戦場から逃げ去って気が付けばここにいたという記憶しかなく、ワールトーア村のことは、ブレンネルに聞いて《初めて》知ったにすぎない。ブレンネルにしても、《ワールトーアの帰らずの森》の噂話を調べにやって来たことは覚えているにせよ、そこまでである。一応、彼は昨晩から今朝にかけて周囲を歩き回ってみたものの、せいぜいの成果は、かつて街路に敷かれていた石畳らしきものが点々と顔を出しているのを何か所か見つけた程度であった。
 いや、それ以前にブレンネルの目の前には、存在すら怪しいワールトーアの廃村よりもずっと興味津々な素材、オーリウムの内戦に深くかかわる白銀の天使とその乗り手がいるのだから。昨晩、彼は、飛びつかんばかりの勢いでルキアンの願いを聞き入れ、ある助力をすることにした。
 地面に片膝をついて屈み込み、森に幾分埋もれるようにしてアルフェリオンが置かれている。どことなく危なっかしい動作ではあれ、予想外に手早く機体に乗り込んでいくルキアンを見て、ブレンネルは、戦いとは縁の無さそうな彼がエクターとしての経験を本当にもっていることを、実感させられるのだった。
 そうしている間にもアルフェリオンは、鈍い響きを伴って兜のバイザーを降ろし、奥のくらがりで目を青白く光らせた。乗り手を得て、その魂と融合し、かりそめの生命を再び吹き込まれたのだ。魔法合金の装甲面を光が縦横に走り、白銀色の輝きが一段と増したようにみえる。幾重にも結界が展開され、目には見えないにせよ、あまりにも強い魔法力の波動が伝わってくる。
「おいおいおいおい、すごいな! この肌を刺すみたいな感じって」
 思わず声をあげたブレンネル。さらにアルフェリオンの背で六枚の翼が開かれ、森を貫いて真昼の太陽を浴び、煌めく威容を目の前にして、彼は、ただただ息を呑むばかりだった。

 ◇

「あの、このあたりでしょうか。ハルス山系にさっき入って、この谷の上を飛んで、両側から迫る崖があって・・・。あ、もしかしてあれが、パウリさんが言っていた、滝ですか?」
 遥か上空に輝く一点の光。それは真昼の刻に迷い出た星などではなく、銀色の閃光となって、およそ現実味のない速さで飛ぶ何かだ。アルフェリオン・ノヴィーア――その翼を自身に重ねているルキアンは、アルフェリオンの魔法眼にも強めに意識を込め、視点を地表に寄せてみた。大写しになった視界の中、ほど近い場所にあると思われる源流から、険しい崖を経て流れ落ちる、いわゆる「魚止め」と呼ばれそうな滝が見える。
「そうだ。あそこだよ。どこか降りられるところがあれば頼む。近くにリオーネおばさんの庵がある。もし、今も引っ越してなかったら、だけどな」
 トランクの中を思わせる、お世辞にも乗り心地が良いとは言い難い乗用室にて、ブレンネルは身体の位置がうまく定まらず、窮屈そうに手足を動かしている。ルキアンの声は機体を通じて響いてくる。どうも妙な感じだが、声は多少こもったような音になりがちではあれ、それなりに明瞭に聞き取れた。
「しかし、このアルマ・ヴィオ、どんだけ速いんだよ。着くのは夕方か夜になるかと思っていたが。まだ、さっき乗ったばかりだろ・・・」
 いかに立派な翼があるとはいえ、所詮は人の姿をした汎用型らしきアルマ・ヴィオ、まともに「飛べる」のかも怪しいと疑っていたブレンネルだったが、そんなアルフェリオンが飛行型アルマ・ヴィオにさえ不可能な速さで飛び、その驚きも冷めないうちに王国北部のハルス山系に到達したことで、いったい何が起こったのかと戸惑っている様子だ。

 ◇

「来ましたね」
 アルフェリオンが到着するよりも少し前、ハルスの谷を抱いた今日の気持ち良い蒼穹には、まだ何の影も映っていなかったとき、これから起こることにすでに気づいた者がいた。
 件の滝の前に置かれた小さな木製のベンチに、銀髪の少年らしき者、いや、エレオンことエレオノーアが腰掛けている。彼女は、ベレー帽を思わせる濃紺色の帽子を手で押さえながら、嬉しさが漏れ出しそうな弾んだ声でつぶやく。
「はい、待っていました」
 彼女は何の邪気も感じさせない澄んだ目を細め、そして再び開く。
「ずっと、待ってたのです」
一転、彼女の左目には、素朴な姿には似つかわしくない、ある種の魔術形象が浮かび上がっている。金色に輝く何重かの魔法円、その隅々にまで同じく黄金色の光で描き込まれているのは、現世界のいかなる国の言葉でもなく、旧世界のそれですらない得体の知れない文字と、見知らぬ記号や数式のような何かで記述された、極めて高度で複雑な術式。
「ふぅ・・・」
 彼女は深く息を吸い込み、小さな声とともに吐いた。
「やっと会えます」
 一瞬で左目の瞳が漆黒に染まり、金色の魔法円が白熱化したかのように、閃光のごとく輝きを増した。凄まじい魔力の高まりに、彼女の周囲の空間が歪み、靄さながらに二重三重に揺れている。それに呼応し、付近の山々や木、草、岩、すべてのものから色が失われ、灰色に凍り付いたかのように感じられた。

「おにい、さん」


【第53話 中編 に続く】

※2023年6月に本ブログにて初公開。

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