鏡海亭 Kagami-Tei ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石? | ||||
孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン) |
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第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29
拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、 ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら! |
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小説目次 | 最新(第59)話| あらすじ | 登場人物 | 15分で分かるアルフェリオン | ||||
『アルフェリオン』まとめ読み!―第50話・後編
【再掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
4 「独裁」に魅入られる民たち?
◇ ◇
いまだ晴れぬ白煙。焼け落ちた木材と擦れた鋼の臭い。つい先ほどまで戦場であったその場所に、不安を宿した人々の影が集う。低く押し殺したざわめきとともに。
「あの砦が、たった1時間で落ちたらしい……。いったいどうやって。何の魔法だ」
《帝国先鋒隊》の侵攻により、この地方を治めるガノリスの政庁が、砦が落ちた。どのような意図からなのか、進駐した帝国軍によって緊急に呼び集められた近隣の人々。
「軍は何してるんだ。エスカリアの奴らにガノリスの士(もののふ)の魂を見せてやれというんだ。まったく」
「しっ、聞こえたらどうする。悔しいが相手が悪すぎたのさ。《帝国先鋒隊》だぞ、アポロニアには勝てっこねぇって……」
周りを気にしながら、男たちが声を落として語っている。
人々の周りを帝国の兵士やアルマ・ヴィオが整然と取り巻いていた。破滅を呼ぶ単眼(モノ・アイ)の白馬《シム・プフェール》が、重々しい排気音のような息とともに時折いななく。黄金色の甲冑に深紅の彩りも鮮やかな《ルガ・ロータ》が、それらに騎乗し、MTの長槍を構えて隊列をなす。
陸戦型重アルマ・ヴィオと重騎士タイプの汎用型アルマ・ヴィオという組み合わせは、たった一体であっても凄まじい威圧感を放つに違いなかろうが、それらが数十組も整然と並んでいる光景は、もはや言葉すら失わせる。
大人たちが必死に隠そうとしていた動揺を、幼い男の子の率直な疑問が敢えて掘り起こした。
「ねぇ、ママ。帝国軍は怖い人たちなんでしょ。僕たち、みんな殺されちゃうのかな……」
気まずい沈黙が漂う。何しろ相手は、幾万の住民の命とともに王都バンネスクを一瞬で消し飛ばした帝国軍である。こうして一箇所に呼び集められ、これから虐殺が始まるのかもしれない。
「そんなことはありません」
息苦しい静寂を、穏やかながらも抑揚のない声が静かに打ち砕いた。
「心配しないで。怖くなんてない……」
身をこわばらせている幼子を、そっと抱きしめる者があった。香しい黒髪に包まれて、その子は本能的な安心感を覚えた。恐怖の中でも。
帝国の軍服の上に上級将校らしきマントを羽織った女性が、男の子の隣にしゃがみ込んで、彼の頭を撫でる。そして再び立ち上がると、群衆の正面に歩み出て、凜とした口調でこう告げた。
「私は帝国先鋒隊の長、アポロニア・ド・ランキア特命准総督です」
アポロニアという名が聞こえたとき、人々の間にたちまちどよめきが走った。
「私たち帝国軍は、たしかにガノリスの王家や軍にとっては招かれざる敵です。しかし、あなたがた民衆からみれば、むしろ味方に当たるのです」
ガノリスの民たちは、恐れおののきながらも、アポロニアの言葉が詭弁であると言わんばかりに、冷ややかに背を向け、あるいは遠慮がちに目を背けてうつむいた。
アポロニアは表情一つ変えずに続ける。ただし、彼女の声の方には熱気が加わった。
「ガノリスの皆さん、おかしいとは思いませんか? どうしてこの国では――いいえ、この国だけではない、オーリウムでも、ミルファーンでも、その他の多くの群小国でも――貴族に生まれたか平民に生まれたかということだけで、本人の力ではどうしようもなく、何の責任も負いようのない《血筋》ということのために、どうしてこれほどまでに人としての生き方が左右されてしまうのでしょうか」
これまで恐怖や不信、嫌悪だけにとらわれていた人々が、不思議そうに互いに顔を見合わせた。自分が一歩近づくと、一歩、さらに二歩と引き下がろうとするガノリスの民たちに対し、アポロニアは清んだまなざしを向けて問いかける。
「みなさんは、この戦争で自分たちの《日常》が奪われたと言っています。しかし、その《日常》にこれまで満足していましたか。ガノリス王イーダンの圧政によって押しつけられた、不当な支配の日々に」
恐怖から困惑へ。帝国軍の将校が口にするとはよもや思われなかった言葉の数々に、人々は顔を見合わせつつ、さらなる戸惑いへと落ち込んでいく。
「どうして立ち上がろうとしないのです……」
アポロニアは声をいっそう高めて言った。
私たちは世界を悪夢から解放するためにここにやってきました。
帝国軍は、侵略軍ではなく解放軍なのです。
敢えて言いましょう。
いま必要なのは、肥え太った政治屋たちによる愚劣な駆け引きではない。
民が求めるのは、自分たちの声をくみ上げ、導いてくれる
英明な王による独裁なのであると。
ゼノフォス陛下の独裁は「善き独裁」です。
唯一絶対の「神帝」の支配のもと、新たな世界では、
貴族も平民も、富豪も貧民も、男も女も、
あらゆる者が等しく「臣民」となり、
理不尽な特権・差別・腐敗は一掃されるでしょう。
古い世界を打破し、そんな新しい未来に生きたいと思いませんか。
呆気にとられてアポロニアを見つめ直す民衆。
長い静寂を破って、ついに誰かがおずおずと口を開いた。
「そ、それはそうかも、しれないけど……」
人々の間から、今までとは違う反応が漏れる。
「そんな夢みたいな話、急に言われても」
「人がみんな平等だなんて。でも、そうだったらどんなにいいことか」
どよめきの声があちこちから上がる中、アポロニアがさらに群衆に近づいた。
「神帝陛下は世界を変えるお方。世界の潮目の変わるときがやってきたのです。なぜ、皆さんは立ち上がらないのですか!?」
集められたガノリスの人々が、一人また一人と声を上げ始める。
「そうだ、認めたくはないが、本当はその通りかもしれない。王国のお偉方ときたら、雲の上でぐだぐだともめているだけで肝心のことは何も決められない。強力な導き手が今は必要なんじゃないか。俺たちの声をくみ上げて、世界を実際に変えてくれる人が」
「あぁ、それがガノリスかエスカリアかなんて、本当はどうでもいい。偉いさん方の唱える天下国家や大義名分なんてくそ食らえだ。俺たちはそんなものより、穏やかな暮らしや、仕事やパンがほしいんだ!」
「そうだそうだ、そういう意味では、本当は《神帝》のような人に政をやらせてみたいと思ってた」
次第に大きくなり始めた民衆の声を、アポロニアがいったん丁重に押しとどめる。
「急に信じろと言っても無理かもしれません。だから言葉だけではなく、行動でもって、私たちは皆さんの信を問います。私は、ガノリス東部方面の総督として宣言します。エスカリア帝国の支配下に加わった、この地域では、本日よりガノリスの法を廃止し、エスカリアの法を導入します。今このときより、貴族も平民もありません。重税に苦しむこともありません。これでみなさんは《自由》です」
今や賞賛の吐息すら聞こえ始めた眼前の状況を見渡しつつ、アポロニアは、隣に控えていた副官に耳打ちし、それから声高らかに言った。
「先日までのガノリスの冬は、例年になく長く厳しいもので、食べ物の蓄えもしばしば底をついたと聞いています。それにもかかわらず、軍は、限られた食料を無理矢理に徴発したとも。民を守るべき王や軍隊が、自分たちの民をますます飢えさせるという、なんと愚かしい……。しかし、私たちはガノリス軍とは違うのです」
彼女が目配せすると、穀物の詰まった麻袋や、パン、干し肉、そして水や酒の樽が大量に運ばれてきた。兵士たちが次から次へと荷を担ぎ下ろし、配給の食料が山のように増えてゆく。
「これは、帝国からみなさんへのささやかな贈り物です。慌てなくても大丈夫、十分な量を用意させてあります。そしてもちろん、我が軍には一切の略奪を禁じています」
アポロニアがそう言い終わると、一瞬、耳を疑うような言葉が群衆の中から聞こえたような気がした。
「《帝国》……万歳……」
「《神帝》陛下、万歳……」
誰からともなく、《神帝》ゼノフォスの名を口々に呼び始めた。それらは次第に重なり、言葉の渦となり、気がつけば神帝ゼノフォスを称える声が辺りに充ち満ちていた。
「神帝、神帝、神帝、神帝!」
「アポロニア総督、万歳!!」
ひとたび揺らいだ群衆の意思は、雪崩を打ってくずれ、いともたやすく神帝ゼノフォスやアポロニアに対する賛美に変わっていた。あたかも、この地がエスカリア帝国そのものであるかのように。もはや人心はガノリスのもとにはなかった。
5 「兵器」になんてなりたくない… 失意のルキアン、時の止まった村へ
◇ ◇
アルフェリオンから降りたルキアンは、ぼんやりとした意識と涙に濡れた目で、周囲の状況をようやく把握し始めた。新緑の芽吹いた樹木、生い茂る下草、地を這い、木々に覆い被さるツタ。濃い緑の匂いが、鼻や口から胸に、さらには臓腑にまでもしみ通るように感じる。
時折、野鳥の声が遠くの方から聞こえてくる。陽は傾きかけてはいるにせよ、まだ周囲は明るく、夕暮れまでには少し時間がありそうだった。
それにしても静かである。
先ほどまでの凄惨な戦いが夢であったのかと錯覚させそうなほどに。
だが、目の前の景色が自分の中でいまだ完全には像を結ばぬまま、自らのしてしまったことに対する絶望の念が、ルキアンを再び支配する。《逆同調》によって鎖から解き放たれ、《暴走》した――いや、《暴走》どころかむしろ《本来の姿に戻った》――アルフェリオン・テュラヌスの猛り狂う姿が、ルキアンの脳裏に鮮明によみがえる。
生きたままの獲物を野獣が引き裂き喰らうのと同様に、テュラヌスは《イーヴァ》に対して暴虐の限りを尽くした。それは同時に、イーヴァの繰士であるカセリナが、言語に絶する苦痛をその身に受けたことを意味する。
あのとき、ルキアン自身はほとんど意識を失っていたはずなのだが、なぜか記憶ははっきりと残っている。身に覚えのないことについて、しかし完全な記憶がある。
「僕は……僕は……」
テュラヌスの吐き出した灼熱のブレスは、敵味方の一切の関係なく、あの戦場にいた多数のアルマ・ヴィオを溶けた金属塊へと瞬時に変え、数十あるいは百名以上にも及ぶであろうエクターたちを虐殺した。
また、アルフェリオンを介して異界から染み出した《闇》に、バーンの乗る《アトレイオス》が半ば呑み込まれかけたことを、ルキアンは知っていた。そして同じく漠然と理解していた。あの暗黒のフィールド《無限闇》が、すべてを無に帰す地獄の蝕であることを。
「この手で僕は、カセリナを、バーンを、みんなを……」
かすれた涙声で、途切れ途切れにつぶやくルキアン。
「それでも僕は《荊》になるって……。守るために戦うって……。失ってから嘆き、何も取り戻せない、守れないくらいなら、たとえ泣きながらでも剣を抜く」
あの悪夢のような晩、戦いを躊躇した彼の目の前で起きたこと。ならず者たちによってシャノンは嬲り尽くされ、トビーは瀕死の傷を負わされ、彼らの母は惨殺された。
そして今日、これまでルキアンを守るために《封印》を超えて召喚に応え、ついに力を使い果たして消滅してしまったリューヌ。幼い頃から、ルキアン自身も気づかない中でずっと見守ってくれていた大切な存在を、かけがえのないものを彼は失った。
「戦う……。戦うよ。迷ってなんかいないよ。だけど、だけど……」
何か言おうとして、何度も何度もルキアンは嗚咽する。
「でも酷すぎるよ。僕は虐殺なんか望んでいない。見境のない破壊なんて、嫌だ」
銀色の前髪の下、一瞬、狂気とも憎悪ともつかぬ光を瞳に宿して、天を仰いだルキアン。
「嫌だよ……。《人》で居たい。獣にはなりたくない。《兵器》になんてなりたくない」
そう言った彼に、あの《紅蓮の闇の翼》のイメージがありありと思い起こされた。
殺戮の果てに血に染まったかのような、深紅の機体。
燃え盛る炎の翼を広げ、流星のごとく尾を引き、
裁きの大鎌を手に星の海を舞う、終焉をもたらす天の騎士。
その怒りでかつて《天上界》を滅亡に導いた、
エインザールの赤いアルマ・ヴィオ、《アルファ・アポリオン》。
声にならない声で何かつぶやいたかと思うと、ルキアンは、その場に力なく座り込む。赤く腫れた目の向こう、にじむ涙に霞んだ風景の中、目線を右から左へとぼんやり動かしていくにつれて、自然界の生み出したものとは違う異物が目に入った。
もう幾年も前に放棄され、煉瓦屋根の表面は風化が進み、苔むした石壁に支えられた民家。それはひとつではなかった。地上に張り出した木の根に絡みつかれ、生い茂ったツタに巻かれ、あるいは藪の中に閉ざされ、今では半ば自然の一部と化しているものの、かつて明らかに人の住んでいたことが確認され得る家々。
「ここは、どこかの村……いや、村の跡、廃墟?」
人の手になる建築物を目にして、ルキアンは我に返った。得体の知れない土地で、周囲の安全や敵軍の有無も確かめずにアルマ・ヴィオから出たことが、今更のようにうかつであったと。
「でも、どうして僕は《ここ》に帰ってきたのかな」
そこまで言いかけ、ルキアンは自分自身の言葉を反芻する。
「《帰ってきた》だって? いま、なぜ、そんなことを思ったんだろうか。どうして僕は、こんなところに来たんだろう。ただ行き先も考えずに飛んだ、いや、《逃げて》きただけだったはずなのに」
6 霧の向こうに蘇る記憶…
「ここは、たぶん、広場か何かだったのかな」
アルフェリオンが着陸し、ルキアンが今こうして立っているこの場所では、周囲に広がる鬱蒼とした森と比べると、木や草の茂り方が若干まばらである。足元を見れば、この一角だけが舗装されているのが分かった。下草に埋もれつつも丁寧に貼り付けられた石畳を、明らかに見て取ることができる。
この場所は、どうやら村の広場のようなところであったようだ。
何と表現すればよいのか、一瞬、まばゆい日差しに目がくらんだような気分になり、ルキアンは頭を抱えた。
「僕は、この場所のことを……知っている?」
彼の目の前に広がるのは、誰も居ない荒れ果てた草むら。しかし、そこを行き交う沢山の人々の姿が、不意に目に浮かんだ気がした。そして、広場の真ん中にある井戸の周囲には、井戸端の雑談に興じる婦人たちや、その傍らで走り回る幼い子供たちの姿が、はっきりと見えたように思われた。
「井戸……が、ある? あったのか、本当に?」
ふと我に返ったルキアンの前に、すでに枯れ果てた井戸の遺構が横たわっていた。
無意識のうちに駆け寄ったルキアン。再び彼の目には、《村》の広場で繰り返される日常風景が浮かび上がった。広場を貫いて街道が走っている。時折、行き交う隊商の人々。
「ここは?」
ルキアンは唐突に駆け出した。何かに惹かれるように。
――広場を抜けて、街道を辿れば、そこから村はずれの門に出る。
そこには……。
《ワールトーア》村
この《村》の名が記されていたはず。
ルキアン自身が気づいたか否かは分からないにせよ、そこには古びた石碑が確かに残されていた。砂岩に似た質感の石に、刻まれた村の名前。苔の下に半ば隠されていたのは、まさしく《ワールトーア》という忘れられた地名であった。
さらに進み続けるルキアンは門を抜け、村を囲むまばらな林を通り過ぎる。
すると突然、彼の目の前に丘陵が広がった。奥深い森林の中にぽつんと開けた、しかし相当の広さをもつ草原だ。
風が走る。春草の花は盛りを終え、綿毛が舞っている。ルキアンの目の前をふわふわと飛んでゆく。
丘に向かって吹き上げるかのように、走り抜ける風。
立ちすくんだルキアンの肌に、空気の流れが心地よかった。
「この丘の上で、僕は、誰かと一緒に」
ルキアンの手に、遠い記憶の温もりが蘇った。
「あの娘(こ)だ。夕闇の中で僕の手を引いていた……」
彼自身の意識とは関係なく、無自覚に涙が流れた。
と、しばしの沈黙の後、彼はふと気づいた。
「あれ? 霧が出てきたのかな」
考えてみれば、先ほどから徐々に濃くなっていたのだが、夕霧が辺りを包み始めていた。丘の上から見渡す草の原も、次第に霞の向こうに見えなくなっている。ある種の幽玄さを伴う、その目先の見通しの悪さが不安をかき立てた。
《この場所は何かがおかしい。でも、僕にとって何か特別な場所かもしれない》
見習いながらも魔道士である彼の感覚が、そう告げていた。
【第51話に続く】
※2013年4月~5月に、本ブログにて初公開。
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第50話・前編
【再掲】 | 目次 | 15分で分かるアルフェリオン |
ゼノフォス陛下の独裁は「善き独裁」です。
唯一絶対の「神帝」の支配のもと、新たな世界では、
貴族も平民も、富豪も貧民も、男も女も、
あらゆる者が等しく「臣民」となり、
理不尽な特権・差別・腐敗は一掃されるでしょう。
(帝国先鋒隊司令官 アポロニア・ド・ランキア)
◇ 第50話 ◇
1 帝国先鋒隊
冷涼な大地に根を下ろし、天を突くほどに育った針葉樹の巨木たち。
それらが織りなす暗緑色の暗き森を、重々しくも規則正しい無数の地鳴りが満たす。
木々の葉の揺れ、小枝のざわめきは、森の精たちが何かを恐れて囁いているかのようだ。
清々とした緑の香の中、風に乗って濃密な金属臭が漂ってくる。
焼け焦げた匂い、血や硝煙の香りをまとって。
想像してたとえるならば――宙に吊られた鉄塔の数々がゆらゆらと揺れ、鈍い音を立ててぶつかっては離れ、これに混じって大きな金属の板、たとえば扉同士がいくつも擦れ合い、軋むような――得体の知れない音と響きだ。
だが、それらの源が何であるのか、何が近づいてくるのかは、この世界・イリュシオーネの人間であれば誰でも容易に察するだろう。
人や獣の姿を借りた、動く城塞のごとき巨躯に、
魔法金属の複合装甲をまとい、
儀式魔術によって虚ろな魂を宿した
旧世界の忘れ形見。
現世界の運命を揺るがす無比の兵器。
そう、人は呼ぶ……
《アルマ・ヴィオ(生ける鎧)》と。
音、振動、諸々の気配、すべてがとにかく重い。
ひときわ頑強な甲冑に身を包んだ、重装タイプの汎用型(人型)アルマ・ヴィオたちが、鬱蒼とした木々の向こうから、街道を抜けて今しも姿を現すだろう。大楯を並べ、槍をかざし、この巨人の重騎士たちが隊列をなして突き進んでくる姿を目にすれば、相当に戦場慣れした兵士ですら緊迫して脈動を乱すことだろう。
それも、機体の数がただ事ではない。
音も地鳴りのテンポも見事に揃った、気味が悪いほど整然とした進軍のため、機体の数は実際より少なく感じられる。それでも見当もつかないほどのアルマ・ヴィオがいることは確かだ。数十、いや、軽く百を超えるだろうか。百やそこらではない。三百、あるいはそれ以上。
そのとき、これまでには聞こえなかった奇怪な音、敢えていえば《鳴き声》が鳴り響いた。機械的な排気音に似た響きと、生き物の声が――直感的に表現すれば、馬のいななきが――渾然一体となったものとでも表現すべきだろうか。
そう思って耳を澄ますと、進軍の地響きの中に混じって、途方もなく大きな四つ足の《獣》がいくつも歩いているように感じられなくもない。静寂な森林地帯の空気を震わせ、同様の《いななき》がさらに続いた。
辺りを威圧するかのごとき声でひときわ大きく、一匹の《馬》が鳴き、いや、まるで《吠えた》かと思うと、街道の曲がり角の向こうから白い山のような何かが現れる。
光るものがまず見えた。一つ目の《生き物》だ……。冷たい眼光、レンズを想起させる単眼をもった獣。すらりとした機体は、その巨大さを別とすれば、たしかに《馬》に似ている。かつての騎士たちの乗馬さながら、己の主と同様に自らも鎧をまとった軍馬だ。真っ白な体に、関節部分や手先、足先、そして兜や胸甲にあたる部分は紅蓮のごとき赤、さらに機体の随所に描かれた装飾線は黄金色の輝きを放つ。
気高くも恐るべきその姿を一度見た敵は、次から決して見誤ることはないであろう。否、この機体に、運悪く遭遇した敵に《次》があればの話だが。戦場に絶望を運ぶ一つ目の白馬と恐れられる高機動陸戦型重アルマ・ヴィオ、《シム・プフェール》に。
後続の同じ機体、白馬の群れがさらに続々と姿を見せる。その間に堂々とひるがえる《鷹》の軍旗。王冠にとまって翼を広げた赤い鷹――エスカリア帝国旗だ。そして帝国軍数多しといえども、《シム・プフェール》をこれだけの大部隊で揃え、かつ、白い《シム・プフェール》を有しているのは、ただひとつ。
《帝国先鋒隊》。
森の中を貫く街道の先、木々の間からそびえる石造りの城塞から、いずこともなく、その名を呻く声がひとつまたひとつと発せられた。
城壁に立って警備を指揮していた若い下士官が、顔面蒼白となってつぶやく。
「まさか。この砦に到達するまでに、あと2、3日は要するはずだと……」
見てはならないもの、遭ってはならないものを目にしたように、遠眼鏡を握る彼の手は震えた。
城塞に立ち並ぶ旗には、焔のようにうねる毛並みをもった、いわゆる《ガノリスの熊》の紋章があった。白地に黒い熊をあしらったガノリスの国旗に他ならない。
他方、鷹の旗をなびかせて城塞に迫る帝国軍、その先頭を行く《シム・プフェール》に騎乗する紫色のアルマ・ヴィオの姿があった。ベースとなっている機体は、索敵・管制を主な用途とし、そのためのドーム状の装置を背中に背負っている《ヴァ・アギス》である。これに追加装甲を施し、いわば軽騎兵的な機体へと換装したものだ。行動の様子から察するに、おそらく指揮官機であろう。
――《四騎団》前へ。カイール機装騎士団は散開して侵攻せよ。他は、手はず通りの場所まで移動、指示があるまで待機。
《ヴァ・アギス》の乗り手が心の声で命ずる。それを合図に、《帝国先鋒隊》の中の《先鋒》となる勇猛果敢な《カイール機装騎士団》が前進を始めた。
騎士団の主力となるのは、《シム・プフェール》にまたがり、輝く金の甲冑に鮮やかな赤で彩りを添えた汎用型アルマ・ヴィオ《ルガ・ロータ》だ。《ルガ》タイプは、帝国軍の量産タイプの汎用型アルマ・ヴィオの中では最も優れた機体といわれる。この《ルガ》のいくつかのヴァリエーションのうち、近衛隊のエース格に与えられる鉄壁の拠点防衛型《緑のルガ=ルガ・ジェイダ》や、汎用性が高く各方面軍の精鋭の愛機となっている《青のルガ=ルガ・ブロア》に対し、《赤のルガ=ルガ・ロータ》は、特に機動力と白兵戦における優位性を重視している。
これに対し、帝国先鋒隊の重騎士たちを率いる《ヴァ・アギス》は、元々が比較的華奢な機体で、細身のMTレイピアをもっている以外には、これといった強力な火器や大型の得物は装備していないように思われる。
この指揮官機の最も特徴的な形状として、両方の肩当てが大きく膨らみ、さらに翼のように後ろにまで張り出していることがあげられる。大きな肩当て状の器官には、蜂の巣を思わせる無数の穴が空いている。また、額にある真っ直ぐな角と、その左右に一本ずつある同様の角が、顔の正面でひとつにつながり、いわば三つ叉槍のような形でマスクに張り付いている。それ以外には目立った装飾のない、簡素な仮面を思わせる表情だった。
――オーリウムの状況が流動的な現在、このようなところで時を費やすわけにはいきません。ならば私も少し急ぎましょうか。
そう念じた心の声。《ヴァ・アギス》の《ケーラ》すなわちコックピットには、真っ直ぐなサラサラした黒髪が印象的な、生真面目そうな女性が横たわっている。一見して戦いとは無縁に生きているような容姿にして、実のところ敵からすれば帝国軍の中でも最も危険で出会いたくない相手とされ、《戦う前から勝利を手にしている》と恐れられる知将、アポロニア・ド・ランキアその人である。
彼女の心の中、自分自身のイメージが立ち上がり、己の目に意識を集中する。
心象のうちに、威厳を帯びた調子で、アポロニアは声なき声で囁いた。
――我は観る、《万眼(ばんがん)のエーギド》……。
その瞬間、周囲が青い壁に、おそらく結界に包まれたような気がした。
2 神帝と美少年と仮面の機装騎士
鋼と血の王国ガノリスは深き森の国でもある。
イリュシオーネ屈指の軍事大国としてのイメージからは連想し難いような、懐の深い自然美が、この王国にはあふれているのだ。
濃緑、深緑、暗緑……鬱蒼とした原生の木々が樹海を織りなす。黒々と広がる森林地帯を上空から見下ろせば、縦横に走る街道に沿って点々と、煉瓦色の家並みが、市壁に囲まれて円形や多角形状に街を形成しているのが見て取れる。
だが、森の色と人の手になる街の色とが目に心地よく調和する眺望の中に、明らかに異質な不毛の地がぽっかりと広がっていた。緑の国土を走る街道の多くは、その場所へと続いている。そこにあるのは何も無い盆地……というよりも、これはもはや、星の海から落下した隕石の生み出す、旧世界の言葉でいうところの《クレーター》と呼んだ方がよい。
間違いなくそこに、つい先日までガノリスの都バンネスクが存在していたのである。
人を含め、生き物、否、動く物の姿は皆無であり、街路を飾った木々の姿どころか、豪奢なファサードを競った商家の数々や天に向かってそそり立つ大神殿の面影もない。イリュシオーネの世界にその壮麗さを知られたガノリス国王イーダンの居城さえ、跡形も無かった。
煉瓦造りの崩れた壁が、バンネスクを襲った惨劇を記した碑石のごとく、あちこちに立っている。驚くべきことに、それらの壁の輪郭は溶け、表面が黒くガラス質に変化している部分もみられた。焼け焦げた死の世界だ。
かつてバンネスクと呼ばれたその場所に今、上空から巨大な影を投げかけ、地上を日食さながらに覆い尽くす何かがあった。
天にそびえる山脈、あるいは浮遊する大地、落ちてきた月――その大きさを言葉でたとえようとすると、およそ現実味のある表現が浮かんでこない。だが現にこうして、青空を閉ざし、陽の光を遮るほど途方もない大きさの《それ》は、薄雲をまとって遙か高穹に静止している。
その周囲には、渡り鳥の大移動か回遊魚の大群かといった膨大な数で飛空艦隊が付き従い、幾重にも陣を敷いて天上を埋め尽くすのが見える。《それ》の現実離れした大きさを前にすると、一隻一隻の飛空艦は、巨岩に群がる羽虫同様に小さく感じられる。しかしそれらの飛空艦にしても、特に飛空戦艦クラスの船であれば、実際には城ひとつがそのまま空に浮かんだような規模の人工物なのである。
碧天に並ぶ者なき《それ》は、天上の主の住まう王宮を思わせる。
エスカリア帝国軍を率いる旗艦にして皇帝の居城、帝国がイリュシオーネの世界を統べるために造り上げた、絶対的な力と支配の象徴――浮遊城塞《エレオヴィンス》である。
円錐を逆さまにしたような形状ををもつ灰白色の浮島が、エレオヴィンスの土台となっている。その上に城壁が連なり、大小様々の城や塔が建ち並び、全体としてひとつの城塞を形成する。そして本体のまわりには、いくつかの小さな浮島が漂い、ゆっくりと規則的に周回していた。
城塞の最上層にある玉座から、いま世界を睥睨するエスカリア皇帝ゼノフォス2世は、《神帝》を名乗り、地上のみならず天上をも、この世のすべてを意のままにしようとしている。かつて旧世界を手中に収め、《天上界》から《地上界》を支配した《天帝》のように。
皇帝の冠の下に濃紺の長い髪をなびかせ、均整の取れた逞しい体躯で立ち、ゼノフォス2世は、前方のガラス張りの壁の向こうにみえる世界を見すえていた。若くして名君と称えられる聡明さ。同時に、ただ賢いだけでなく、それ以上に、冷徹な決断力・実行力を備えたカリスマ。理知的な光を宿した黒い瞳。形良く通った鼻。そして固く結んだ口元は意志の強さを感じさせる。
この《神帝》の怒りに触れたガノリスの帝都は、エレオヴィンスの下部に搭載された超兵器《天帝の火》によって、この世から消失したのである。
ゼノフォス自身は、大帝国の皇帝にしては意外なほど簡素な青い長衣をまとい、無言でたたずんでいる。おそらく軍事向きの話をしていたのであろう。帝国軍の制服に身を包んだ高級将校らしき2人が、主君に礼を捧げて部屋から出て行くところだった。
その一方は、帝国軍の総司令官ゲオール・ド・ゴッソである。目尻にも口元にも多数の皺が深く刻み込まれ、頭髪もほとんど抜け落ちた年の頃であるにもかかわらず、帝国軍を任された長の姿勢は凜として、言葉のひとつひとつにも堂々とした気力がみなぎっていた。 筋骨隆々とした逞しい肩に、ケープ状の短い黒マントを羽織り、その下には帝国軍の制服に共通する青地の上着と赤い襟、分厚い胸に並ぶ数々の勲章。最前線を離れ最高指揮官となった現在も、かつての荒武者たる姿は、ゴッソから微塵も損なわれていない。
他方は、帝国軍本陣の中核をなす機装騎士団《コルプ・レガロス》の団長オルロン・ド・マシュア。大柄なゴッソ総司令官に対し、マシュア団長は、中背で引き締まった細身の体型だ。金色に波打つ頭髪からつながる彼の濃いもみあげが、見る者の印象に残るだろう。少し野暮な男臭さと冷徹な合理的精神とが奇妙にバランスよく同居したような、一種独特の空気感をもつ中年の貴族である。
「キュルコス、話は聞いた通りだ。メリギオス大師と大地の巨人《パルサス・オメガ》から目を離すな」
ゴッソとマシュアが去った後、部屋に残った別の者たちに対し、ゼノフォス皇帝が抑揚に乏しい口調でささやいた。
「御意……」
まだ幼さの残る声とともに、水色がかった髪の美青年、いや、美少年が恭しく応える。
高貴ながらも透明なまなざし、白磁のような肌、綿菓子を思わせるふわりと膨らんだ髪型からは、彼は貴族のお坊ちゃんか何かに見える。また、その服装からすると小姓のようにも思われる。しかし、彼の《同業者》すなわち魔道士なら気づくはずである。虫も殺さなさそうなこの少年が、相手を魂から震撼させるほどの底知れない魔力を身に秘めていることに。
皇帝はさらにもう一人の男に声をかける。
「ネーマン、《黒騎衆》を率いて出られる準備をしておけ」
無言で一礼したのは、仮面を被った機装騎士だ。ちなみに《ネーマン》とは、エスカリア語で《名も無き者》を意味する言葉であり、おそらく彼の本名ではない。
くせの強い波打った赤髪の下、額から目、頬にかけての素顔を、彼は銀色の金属製のマスクで覆っている。口元の雰囲気からみて、20代後半から30代前半といったところだろう。ほとんど喋らず動作も最小限であり、無表情な、押し黙ったような顔つきをしている。彼自身のそのような内面が、冷たい銀の仮面に象徴されているようにも思えた。
3 かつて「時の司」とレマリア帝国に対し、立ち向かった者たち
◆ ◇ ◆
大理石に似た白い石を精緻に積み上げ、岩山の高みに造られた神殿。
エンタシスの柱の向こうに、砂ばかりの世界が延々と広がっているのが一望できる。
見渡す限りの砂漠には、鋼の鎧をまとった巨大な人型や獣型の残骸が――明らかにアルマ・ヴィオが――神殿の真下から地平の彼方まで埋め尽くすような勢いで、数百、数千、いやそれ以上という単位で、無数に折り重なって倒れている。生々しい損傷の様子から、どの機体も激しい戦闘によって破壊されたものだと分かる。
今やアルマ・ヴィオの墓場と化した熱砂の大地に、ひとり建つ神殿の最上部、満身に傷を負いながらも目もくらむような長い石段をここまで登ってきた戦士の姿があった。鶏冠状の大きな飾りのついた黄金色の兜、同じく黄金色の胸甲と深紅のマントを半裸の体にまとい、丸い楯と投げ槍をもった赤毛の青年である。
もはや息絶え絶えの彼は、前方にただならぬ異変を感じ、閉じたままの目を歪めた。
巫女を思わせる白い衣装と神秘的な雰囲気をまとった娘が、彼に隣で肩を貸し、必死に支えている。
「アレウス、しっかりしてください。立てますか……」
とても心配そうに、それでいて返事が無いことを最初から分かっているような様子で、娘は戦士の顔をのぞき込んだ。白き長衣に同じく純白の薄衣のケープ、彼女の出で立ちは荒々しい砂漠には不似合いなものだ。足元もサンダルのような軽装のため、擦り傷で足指が血まみれになっている。
ぼんやりと霞んだ視界の中、二人の行く手に、トーガ風の赤い衣をまとった男が見える。彼は微笑を浮かべつつ、侮辱的ながらも哀れむような口調で言った。
「よくぞここまで辿り着いたものだ。レマリア帝国に弓引く、身の程知らずたちよ。しかしその様子では、戦う力はもう残っていまい」
だが不意に、彼の目に一瞬のたじろぎが浮かぶ。
「それは……。《ノクティルカの匣(はこ)》? なぜこの《像世界》に、そのような実体をもって《匣》が顕現している。しかも《人の子》にすぎないそなたが、どうしてそれを持っているのだ」
娘は、両手で包み込むようにして、輝く銀色の箱を高く掲げている。それは、見た目には宝石箱やオルゴールのようにも感じられる。悲壮な決意をあらわにした表情で、彼女は金色の髪を振り乱しながら叫んだ。
「《あの存在》に連なる古き者たちよ。正体を現しなさい!」
彼女の掲げた《匣》が、その言葉に反応するかのように輝き始め、たちまち閃光となった。そこから放たれる神々しい光を浴びた途端、赤い衣の男の輪郭が溶け出すように歪み、黒い影と化した。影はみるみる大きくなり、天井までも覆う高さまで伸びると、爆風と共に四つの鎌首をもたげた。
――愚かな人間どもが我らの存在を見抜くとは、驚嘆に値する。だが残念であったな、《白の巫女》よ。お前たちの頼みの綱である《光の御子》の命はもはや尽きようとしているではないか。
影が急激に魔力を解放した勢いで、壁や床、柱が粉々になって飛び散る。突然、戦士と娘の前に翼をもった何かが現れ、結界を張って破片を防いだ。それは、ぼんやりと揺れる陽炎のようではあったが、白い衣をまとった長い髪の女の姿をしている。
――パラディーヴァか。忌々しきエインザールのしもべども。
思念波による地響きのごとき《声》が、心の中に直接伝わってくる。
――我ら《時の司》、万象の管理者なり。
対峙する相手の圧倒的な力に絶望めいたものを覚えながらも、《白の巫女》は言った。
「ここで命が消えても、私たちの想いはいつかお前たちを滅ぼす。たとえどんなことをしてでも、どんな姿に生まれ変わってでも……私は、いつか、運命の《御子》が現れるいずれかの世界で、《鍵(ノクティルカ・コード)》への手がかりを必ず《彼》に伝える」
◆ ◇ ◆
《私タチノ想イハ イツカ オ前タチヲ滅ボス》。
荒涼とした砂の世界のイメージと共に、誰かがそう告げる声が聞こえたような気がする。何かにうなされているのか、ルキアンは目を閉じたまま苦しげにうめいている。
アルフェリオンの《ケーラ》の中に眠るルキアン。棺のような暗くて狭い空間にその身を横たえ、彼は意識を失っていた。
《イツカ 必ズ晴ラシテクレル》
別の声が聞こえた。暗くよどんだ世界の心象を漠然と伴って。
◇ ◆ ◇
「僕は感じる。都合の良い主観あるいは妄想というには、このあまりにも強い確信はどこからやって来るのだろう」
彼は空を見上げた。
もしも空が青だというのなら、
ここには空は無い。
そういう空は、この世界ではとうに失われているから。
時計は夕刻を指している。
だが、見上げれば広がる《空》のくすんだ濃い藍色は、単に日没の近づいた結果として見えるものではなく、元々そういう色なのだ。強いていえば、天を閉ざすその暗い色が、夕暮れによって《昼間》よりもいくらか深くなったというだけだった。
分厚いガラスのゴーグルと、背中のボンベからチューブのつながった、宇宙服のような銀色の分厚い防護服をまとい、さらにマスクの下で彼はつぶやく。
「いつか、誰かが……誰なのかは分からないけれど、その登場だけはなぜか確実に予感できる誰かが、置き去りにされた僕らの思いを、必ず晴らしてくれる」
地表を覆ったケレスタリウム灰の絶望のカーテンは、世界を終わりなき薄明の檻に閉じ込めた。人はそれを《永遠の青い夜》と呼んだ。
《この想いを伝えたい、約束の人よ。この言葉があなたに直接届くことは永遠にない。それでも、感じて。僕らの願いを……》
◆ ◇ ◆
――この人たちは誰なんだ。沢山の声が、僕の中に流れ込んでくる。
いずれ来る者への《想い》や《願い》を告げる声。そこからルキアンは、あの《光と闇の歌い手》ルチアの幻を思い出した。
《我ら、魂の記憶で結ばれた血族。遠き未来に我が意志を継ぐ者よ》
車椅子に座ったルチアが、穏やかな茶色い瞳をルキアンに向ける。
と、今度は不意に彼女の姿が消え、真っ暗闇の中で子供たちの悲痛な声がいくつも聞こえてくる。ナッソス城で《楯なるソルミナ》がルキアンに見せた醜悪な幻。それが鮮明に思い出された。
宙を漂う鬼火、あるいは人魂の下に、虚ろな目をした子供たちが立っている。
見る見るうちに子供たちは数を増し、地の底から湧き出してくるかのように、一人また一人とゆらゆら立ち上がる。
血の気のない青白い男の子や女の子、命無き幼子たちは四方八方からルキアンの方に歩み寄ってくる。
「痛い、痛い! 熱いよ」
あちこちで同じように声が響いた。
「助けて。助けて」
「怖いよ、ここから出して!」
なおも、にじり寄ってくる子供たち。その小さな手がルキアンのフロックの裾を握った。そして足首、膝と、あちこちに冷たい手が掴みかかる。
そして、あのときと同じように、夕暮れの中でルキアンと手をつないでいた少女の影が、
夢の中で再び問うた。
《まだ思い出さないの?》
影はルキアンに向かって手を伸ばした。
こんなに近くにいるのに、見えるはずの彼女の表情がまったく分からない。
――だけど、僕はこの子を確かに知っている。でも思い出せない、誰なんだ!?
彼女が自分にとって大事な誰かであること、何か強い結びつきをもっている人であることをルキアンは直感する。知っているはずなのに、それにもかかわらず、まったく何も思い出せない。
どうしようもなさに胸が詰まる。彼は心の中で叫んだ。
思いあまって、飛び起きるように上半身を跳ね上げたルキアン。
彼は、ケーラの天井に頭を思い切りぶつけ、その痛みに我を取り戻す。
「アルフェリオンの中? ここは、どこだろう。あれから半狂乱で飛んで、僕は? どこまで来てしまったんだろう……」
ルキアンは、やがて緩慢な動作でケーラから這い出した。
機体のハッチを開いて外に出てみる。
まだ日は落ちていない。しかし、辺りはすでに薄暗くなりつつある。
【第50話 後編 に続く】
※2013年4月~5月に、本ブログにて初公開。
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