散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

斉藤由貴さんと理趣経

2017年09月12日 | 日記
斉藤由貴さんはモルモン教徒ですから、理趣経は関係ないのですが、日本人だから全く関係ない、とも言えない。

妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である

これは理趣経の最初の部分です。性は正常なる菩薩の境地なんです。

性のエネルギーというのは、生のエネルギーなんですね。密教では。

50歳過ぎて、同年配の私としては「お盛んで結構」ぐらいな感じです。

おじさんとおばさんの話なんです。

旦那も相手の奥さんも深く傷つくような年齢ではありません。個人差あるけど。

なんで「性というものを夫婦だけの関係に押し込めようとするのか」

キリスト教の悪弊かな、まあ夫婦制度の悪弊です。

私はフリーセックス論者でもないし、「性病が怖いから」誰かれかまわず、は「病気になるからやめたほうがいい」とも思います。

でも理趣経を持ち出すまでもなく、斉藤由貴さんの件は「いいじゃないか」、何故なら「おじさんとおばさんの話だ」という意見です。

円楽だって橋之助だって「いいじゃないか」ぐらいで終わっています。女性だけ責められるのは不公平です。

というか、何度も書くけど、おじさん、おばさん、が青春を思い出しているだけです。断然擁護します。

邪馬台国本の数について

2017年09月10日 | 日記
私の住む自治体の図書館で「邪馬台国」と検索してみます。

ヒットする本は2016年度出版で16冊、2017年出版で6冊です。しかもその6冊にうち2冊は天照大御神、竹内文書という文字がタイトルにあるので、まあトンデモ本です。

ちなみに「邪馬壹国」(やまいちこく)で検索すると8冊ぐらい。邪馬壹国説提唱の古田武彦さんの著作は95冊です。ずいぶんと書いている。

僕はずっとなんで「邪馬壹国」(やまいちこく)説が無視されるのだろうと思っていたのですが、「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀ぐらいのもののようです。

だから魏志倭人伝原本には「邪馬壹国」(やまいちこく)と書いてあるという主張はちょっと苦しい。原本ではなく、後世の写本にそう書いてあるのです。もっとも私には全面否定する力はありません。

さて

邪馬台国論争

上記の16冊、今年度まだ6冊という数(図書館にある本の数)からみて「盛り上がってはいない」ようです。

一時は随分と熱い論争があって、本もたくさん出版されました。

一つには政治的意味合いがあったでしょう。天皇制の是非がまだ問題になっていた時代は、邪馬台国と大和王朝の連続性や不連続性が問題であった。

でも今は共産党さえ天皇制打破とか言いません。「やまたいこく」と「やまとこく」の連続性や不連続性にあまり関心が払われなくなりました。

次に纏向遺跡の存在がある。

3世紀の奈良に大きな政治集団があったことは誰もが認めざるえなくなりました。

もっともそれで「纏向があるから邪馬台国は畿内だ」とはなりません。あくまでヤマト王朝が纏向から始まった可能性が高くなっただけです。

でもそうすると、九州説に立つならば、邪馬台国と大和政権が3世紀に併存していたことになります。

と、ここまで書いてきて、自分が恐ろしいぐらい「今まで邪馬台国に興味をもっていなかった」ことに気がつきました。

あれ「やまいちこく」はどうなったんだろう。「九州説だと纏向はどういう風に位置づけられるのだろう」ぐらいの関心からちょっと調べて書いただけです。

で、怒られそうなので、やめにします。知識のある方々、どうぞ笑ってお許しください。

歴史と暗記とエトセトラ

2017年09月10日 | 日記
「歴史は暗記じゃない」という方がいますが、いやいや半ば暗記でしょう、と思います。

勉強というのは「面白い」「楽しい」と思えば成績は必ず伸びます。

ただ私たちのように「歴史がもともと好き」な人間が、「歴史は楽しい」なんていくら強調しても意味ないわけです。楽しくない人は楽しくない。

たとえば私は英語が苦手です。英語が楽しいと言われても「君はそうだろうが僕は楽しくない」と考える。そんなもんです。

だからと言って何もかもを暗記する、のは無駄な作業です。「歴史の節目」だけ一応覚えれば、あとはかなり応用が利きます。

卑弥呼についてまず3世紀と覚える。すると弥生も3世紀まで、と分かります。

次に「空白の4世紀」という言葉を覚える。4世紀は古墳時代であまりよくわからないことが分かります。

次が聖徳太子(厩戸皇子)は6世紀の終わりの人。飛鳥時代のだいたいの時期が分かります。

次にナント見事な平城京。710年 奈良時代の始まり。その後で実は最も大切な年代は701大宝律令と覚えますが、あとでいいと思います。

でナクヨうぐいす平安京。794年

白紙にもどす遣唐使 894年

いい箱作ろう   鎌倉 1185年

次が面倒なんですがうまいことに1333年なんです。 鎌倉滅亡。  1333は3が三つと覚えればいい。

この間室町、戦国時代。

で、関ヶ原が見事なまでにきりがいい。 1600年、数年後に江戸幕府成立。で、徳川260年と覚える。

すると明治維新が大体1860年ごろになる。のち正確に1868年と覚える。

次はもう元号でいくしかない。明治45 大正15  昭和64

これだけで13ですが、明治維新までなら10です。  白紙にもどす遣唐使なんては後でもいい。 すると9つです。

これだけでかなりの応用がきく。たとえば平清盛、当然1185ぐらいの人です。

最澄、空海は桓武天皇時代だから794年ごろの人。

家康、秀吉、信長。まあだいたい1600年以前の人。

足利尊氏 1333年ごろの人。

坂本龍馬、徳川慶喜、西郷隆盛 1860年ごろの人。

むろんこの程度の暗記では網羅はできませんが、とりあえず上記の9つぐらいを覚えておくと、かなりの応用がききます。

歴史が楽しいと思えれば暗記は苦でもないですが、そう思えない人を思えるようにするのは難しい。

本日、フジテレビでやっているような「くだけた歴史番組」はどうなんでしょうか。僕にとっての「歴史の楽しさ」は「ああいう種類の楽しさ」でないことは確かです。

深みというかわびさびというか、お笑い的な面白さとは全く違ったもののように私個人は感じていますが、まあ所詮は個人の好みかも知れません。



古代宇宙人はどこへ行った?「未来の記憶」または「神々の戦車」

2017年08月31日 | 日記
古代宇宙人技術貸与説は本質的な欠陥をはらんでいて、その宇宙人は今どこにいるんだ、が分かりません。

古代人に技術を教えたなら、現代人にも教えてくれてもいいでしょう。恒星間移動ができるなら、まだ技術力は彼らの方が上です。

というか、宇宙人が古代人に技術を教えた証拠とされるもの、はほぼすべてが完全に否定されています。

夢物語としては面白いんですけどね。

巨石文明が宇宙人の仕業なら、大坂城の石垣だって宇宙人でしょう。でも違います。人力であの石垣は作れるのです。

70年代にデニケンという人が超古代文明説(宇宙人が教えた説)を唱え、角川春樹が積極的に彼の書物を売ったことで日本でも超古代文明プチブームが起きました。

特に「未来の記憶」は子供にとっては面白かったように思います。子供には、です。僕も文庫を持ってました。結構何回も読みました。

わが自治体の公立図書館では一冊だけ残っていて、前に借りましたが、大人になって読むと全く面白くありません。

インドには絶対にさびない鉄がある、宇宙人の遺産だとか言います。でも日本刀だってちゃんと手入れしていれば数百年たってもさびません。

デニケンの書物の原題は「Erinnerungen an die Zukunft」のようです。

これを日本語訳したのが「未来の記憶」なのか、その辺が分からないのですが、なるほど翻訳検索をかけると「将来の想い出」となりますから、「未来の記憶」という日本語タイトルは正しいことになります。

一方で英語だと「神々の戦車」となっていて、これが原題だという人もいます。全く違う書物なのか、英語タイトルをつけるとき、神々の戦車になったのか。まあよく分かりません。

はるかに大昔でもないのですが、超古代文明のプチブームが起こったころは、まだプレート移動説すら定説になっていなかったと思います。

だから超古代文明の拠点はアトランティスだったり、ムー大陸だったりしました。ついでにレムリア大陸というのもありました。「ムー」という本はまだ定期発行されいるのかなあ。

朝日新聞で何故か「万世一系」の特集

2017年08月28日 | 日記
万世一系というのは、「信じるか信じないかはあなた次第」の問題で、

僕のように「少なくとも継体天皇に万世一系を適用するのは無理だろ」と思っている人間であっても、「信じている人」を論破しようとは思いません。

どうぞご自由に信じてほしいと思います。

万世一系によって天皇権力が大きくなり何か弊害があるというなら別ですが、いまさらそんな事態も起きそうもありません。

今の総理のように暴走傾向が強い人間が首相の場合、天皇がいることは一定の重しともなるはずです。

ところで、

右翼的傾向が強い人にとっては「偏向新聞でおなじみの朝日」が、なぜか小特集をしています。

まあ、男系相続、女性宮家、女系相続の問題がありますから、朝日としては小特集などしているのでしょう。

内容はまあ平凡で、学者の説を紹介している感じです。むろん神武の実在を信じている学者さんはほとんどいないでしょうから、そういう説は載っていません。

5世紀以降ならあり得るという学者の説を紹介などしています。

つまり5世紀前はあり得ないということなんですが、そう「はっきりと否定する」のも面倒だと思ったのか、はっきりと否定はしていません。

でも読めば、つまり5世紀以前はありえない、と書いていることは明白なんですが。

12世紀の鳥羽天皇は、自分の子として産まれた崇徳天皇が、「じいさんの子」だと思っていたようです。「叔父子」などと言っています。

その真偽はどうでもよくて、つまりは「そういうことが起り得る状況があった」ことが重要です。「性の管理」がありませんから、そういう事態だって起りえたのです。

万世一系、特に男系相続に「神がかり的にこだわる」知識人の「脳の状態」が私にはわかりませんが、これは馬鹿にしているわけでもなく、本当に分からないし、不思議なのです。

女系天皇だと小馬鹿にされ、男系だと尊敬される、なんてこともないでしょう。つまりは伝統だから、なんでしょうが、一方で経済至上主義による伝統破壊にはそんなに関心がないような人もいます。

男系でも今の皇太子なんてネットで散々悪口を書かれています。天皇制に関して極めて客観的な私でも、「なんとなくかわいそう」になるほどです。

別に女系であっても、いや女系女性であっても、法律を遵守して(憲法ではなく法律と書くのは今のところ女系も女性も憲法違反だから)、象徴としての仕事をし、象徴からはみ出すような行動をしないなら何の問題もない。

私はそう思います。



中学校の七不思議 もしくは黄金風景

2017年08月28日 | 日記
私の中学は墓地の傍にあって、お決まりのように七不思議というのがありました。

ただし、ほとんど覚えていません。一つだけ覚えているのは、マネキンが動くというものです。

マネキンは新入生に制服を紹介する3月のみに使われて、あとは倉庫に置いてあるのです。

何故かその倉庫が「出入り自由」で(これの方が不思議です)、よく肝試しに見に行ったりしました。

ある日本当に動いた、ことになりました。本当は全く動いてないのですが、誰かが「動いた」といい、びっくりして逃げたのです。

逃げた、のが恥ずかしいので、みんなで「本当に動いたことにしよう」ということになり、一時学校が騒然となりました。我々の嘘によってです。

まあ平和でしたね。

「いじめ」も特にひどくはなかったし、不良グループはいましたが、なるべく接近しないようにしていれば何の被害もありませんでした。

不良って、少なくともあの頃は、一対一だと、特に暴力的でもないのです。「みんなの前」だと何故か虚勢を張ります。そういう習性を押さえていれば、被害を受けることはありませんでした。

それに親のおかげで私は腕力だけは強く、今も昔も小心者ですが、柔道大会などでは結構上に勝ち上がったりするものですから(柔道を左右する組手では腕力が大切なのです)、

普段は「勉強めがね」と思われていたようですが、不良も僕にやられたりしたら「みっともない」と思ったのでしょう、一切ちょっかいは出してきませんでした。

そのうちに3年になり、高校受験も終わり、その後の一カ月が「お気楽」というか、教師も授業に力は入れないし、遊びに学校に行ってたみたいなもんで、ああ平和だったなーと思います。

ただその一カ月で、今考えると不思議なことがありました。

担任からA子さんの「学校内家庭教師をしろ」と頼まれたことです。

A子さんは勉強が強烈に苦手で、「せめて漢字ぐらい読めるようにして卒業させてやってくれ」と担任が頼むのです。

僕より成績のいいやつはクラスに何人もいました。だから当然断ったのですが、担任に言わせると僕は「教え上手」なんだそうです。

まあそこは生意気でも中学生です。「ついおだでに乗って」、引き受けました。

「なんで分からないんだと怒らない」が条件で、今考えると、滅多に怒らない私の性格に担任が目をつけたのでしょう。

A子さんはずっと私の隣の席に座って、それで漢字を教えるのです。思春期といっても別に全ての女子に対して羞恥を持ったりはしないので、私は「厳格な教師」になって教えました。

そのうち、漢字を教えているだけでは「つまらない」と思い、期末テストの解説を始めたりしました。

するとA子さんが言うのです。「教師は間違えさせようとしていじわるでこんな問題を作ったに違いない」と。

それは「指示語が指し示す内容が、通常のように指示語の前にある、のではなく、指示語の後にある」という問題でした。まあ「いじわる」と言えばそうです。

A子さんはさらに言います。「こんないじわるな問題、分かるやつがいるわけない」と。

たぶん半分以上の生徒は正解していたと思います。私はA子さんにそのように言い「ちなみに僕も正解している、ほら」と解答用紙を見せました。

A子さんは虚空を眺めるような表情で僕を見て、そしてこう言ったのです。

「あんた、馬鹿じゃないの」

僕は「世の中にはいろいろな感性をもった面白い人間がいる」と思い、初めてA子さんに対して愛情というか、興味のようなものを持ちました。

なるほど、こんな「いじわる」な問題を正解したぐらいで「頭がいいだろ」と思っている人間の方が人としてレベルが低いのかも知れない。

むろん明確に言語化してそう思ったわけではないですが、なんとなくそんな気持ちになったのです。読書の毒を知った今となっては、ますますそのように感じます。

A子さんはきっと普通の奥さんになって、幸福な人生を送っていると思います。



タイと近代国家の成立について

2017年08月28日 | 日記
タイと日本は列強による全面的な植民地化を免れたアジアで唯一(唯二ですが)の国です。

日本については近代的軍隊を持っていたからだといわれますが、タイについては「列強の緩衝地帯だったから」などと説明されます。

どうなんでしょう。

1932年には立憲君主国家になっていますし、その前も様々な改革が行われています。国民国家だったから、または近代国家だったから、でいいように私は思います。

「国民国家」というのは便利ですが、意味が様々に使われる言葉です。

高橋和夫さんは「中東で国といえるのはエジプト、イラン、トルコの3つしかない」と書いています。国民国家と言えるのはこの3つだ、とも言っています。

後の国々は(イスラエルは分かりませんが)、「国もどき」なんだというのです。その代表がサウジアラビアで、国民国家とは到底言えないと言っておられます。

日本だって江戸時代までは「国もどき」なんて書くと、色々言われるでしょうが、たとえば「私は日本人だ」と考えていた人は多かったでしょうか。

薩摩の人間は薩摩人と思っていたでしょうし、江戸の人間は「江戸っ子」とか「幕臣だ」と考えていたと思います。

日本の防衛が危ういと指摘した外国人に対し、ある豪商が「それは武士のなさることで、私たちには関係ありません」と言った。それを聞いた勝海舟が「国民国家にしなくてはいけない」と考えた。

というのは割と有名な話です。

タイはやはり国民意識の成立が早かったと考えるべきでしょう。緩衝地帯だったかもしれないが、近代国家が成立していたので、侵略しづらかったのではないでしょうか。

国家に見えても、国民国家ではない。その典型例である北朝鮮という国を私たちは毎日話題にしています。もっとも本当に「北朝鮮人民意識」が薄いかどうかは、彼らの本音を聞かないと分かりませんが。

中国や朝鮮において「国民意識強化教育」が強いのは、やはりまだ「国民意識が不十分」であることの「裏返し」だと思います。

正直に書くと、アジア史に強くないというか、ほとんど知らないのですが、各国の「国民意識の成立はいつか」ぐらいはこれから勉強して知りたいと思います。

稲川さんの怪談 話芸の極み 帰れお前は!

2017年08月25日 | 日記
ナイナイの岡村さんが稲川さんの真似をしていて、「そうするってえと」という言葉を使っていました。

そういえば言います。

それから「帰れお前は」

誰もいない空間に向かって言うのです。この間もバラエティでやっていました。

やられた女性タレントさんは半泣きというか全泣きです。「そもそも急に大声が怖い」とも言ってました。ごもっともです。

落語が好きな人がいますが、私はどうもよく分からなくて、落語は味わえない。

その代わり、話芸としては稲川さんの怪談は超一流だと思っています。たぶん多くの方の評価も同じでしょうが。

怪談なんて、正直そんなに怖くはありません。

「生き人形」

最初に聴いたときは怖かったですね。たぶん「オールナイトフジ」。深夜だし、一人で聴いているし、怖かった。

でも今は全部筋が分かっています。なんなら私が語れます。

だから怖くはない。

でも「話芸として味わう」には最高です。同じ「生き人形」でも少しずつ違うのです。

短編で好きなのは「深夜に自分の頭で毬つきをする少女」。これも最初に聴いたときは怖かった。

今は話芸として味わっています。ちなみに「怖いな怖いな」とか「やだな、怖いな」とか、こういうセリフは実は稲川さんは滅多に使いません。

竹内まりやさんのこと

2017年08月25日 | 日記
久々に「眠れる森」をDVDで見ました。主題歌は竹内まりやさんの「カムフラージュ」です。

この歌は久々じゃありません。車の中でよく聴きます。

私も年を取りましたが、彼女は私よりさらに少しばかり「お姉さん」で、結構なお年なんですが、今でも完璧に現役ですね。

ウィキペディアを見たら、島根出身です。知らなかった。

デビュー当時は慶應大学出のバイリンガルで、とにかく華やかでした。島根感は全くなかったですね。

「戻っておいで私の時間」「セフテンバー」「不思議なピーチパイ」などがデビュー当時の代表曲です。

そういえば「恋人を堂々と紹介」してたことを思い出します。「私のステディはこの人」と書いてありました。なんじゃステディってと、チンプンカンプンでした。今は流石に分かります。

あのステディの方はどうしているのか。むろん山下達郎さんじゃありません。

とにかく「上品で頭のいい綺麗なお姉さん」でしたね。なんで芸能人やっているのかと不思議に思っていました。

彼女の代表曲というと「シングルアゲイン」とか「告白」とか「駅」とか言う人が多いみたいです。

実は私はほとんどそれらの曲は聞きません。

一番よく聴くのは「カムフラージュ」で一番好きな曲でもあります。次が「真夜中のナイチンゲール」。

静かなバラードは彼女風ではなく、あくまで私の中では彼女は「ポップで華やかな存在」です。あ「ナイチンゲール」はバラードですけれども。

「毎日がスペシャル」なんかは、デビュー当時の彼女の雰囲気を思い出させてくれる曲かな。

とにかく他の女性歌手とは雰囲気が全く違っていたのです。私の個人的感じ方かも知れませんが。

織田信長を「どうしても凡人にしたい人々」の間違い

2017年08月18日 | 日記
織田信長を「どうしても凡人にしたい」「どうしても普通の武将にしたい」という「奇妙な情熱」を持つ人々がいます。学者さんに多いですね。

庶民が「ドラマのイメージ」に引っぱられて、または司馬さんに引っ張られて、信長のカリスマ性に憧れることが「たまらなく嫌」「感情的に許せない」ようです。

さらに言えば、「なんか新しいことを言わないとTVに出られないから、信長のイメージを崩してやろう」とも考えてるみたいです。

そういう学者は馬鹿ですね。本人は「真実を言っているのだ」と言いたいのでしょうが、馬鹿な情熱です。

そういう学者が1万回ぐらい言うのが「天下とは近畿地方のことだ。天下布武とは近畿地方を掌握することだ」ってセリフです。

聞き飽きました。

「じゃあ、実際の行動として、日本全土を武力制圧しようとした武将がいますか」と「ブルゾンちえみ風」に聞いてみたいと思います。

答えは「35億でも35人でもなく、ただ1人、信長だけ、あと本能寺後の秀吉」

信玄の上洛なんてのも、それこそ「近畿の制圧目的」であって、日本全土なんて壮大な構想は全然頭になかったでしょう。ちまちま川中島で戦っていた人間です。

「事実として日本全土の武力制圧を考えたのは信長しかいない」のです。信玄も謙信も、浅井も、朝倉も、北条も、むろん毛利も、長曾我部も、そんな行動、みじんもとっていません。

「天下は近畿のこと」なんてのは「言葉遊び」で、信長の実際の行動を考えれば、彼のいう「天下」とは「日本全土」です。

こう言い換えてもいい。信長が「天下」という言葉を日本全土という意味にしたのだ、と。言葉の意味なんてあっという間に変わります。現代における「やばい」の用法のように。

さらに奇妙な情熱をもった学者は言います。

「3000丁の鉄砲の三段撃ちなんてなかった」

そりゃなかったでしょう。整然と1000丁ずつ撃つなんて無理です。だいたい3000丁も怪しく、1000丁ぐらいみたいです。

しかしながら、さはさりながら、

1000丁の火縄銃を各自が勝手に撃ったとします。そうなると大体200丁ぐらいの鉄砲玉が間断なく飛び交っていたでしょう。相手は進むことができません。

「騎馬軍団なんてなかった」を認めて、徒歩だとすると、余計に前に進めなくなります。

三段撃ちじゃなくても、そうなるはずです。しかも、火縄銃というのは、結構な威力で、射程も相当長いのです。

1000丁と仮定して、「玉ごめ時間を考えて稼働は5分の1ぐらい」と考えると200発。つまり200発の「実質5段撃ち状態」になります。各自がバラバラに撃ってもそうなるのです。

銃というのは一発でも怖いものです。今渋谷駅で一発の銃弾が発射されたとします。その音を聞けば、ほぼ全員が身をかがめるし、パニックが起きるでしょう。

銃弾というのは一発でも相当な心理的圧迫性があるのです。200発が間断なく発射されたら、もう乱射と同じです。竹の束で身を守って、おずおず進むのがやっとでしょう。

つまり三段撃ちを否定したぐらいで、学者さんに「したり顔」されても、困るしかありません。

というわけで、学者さんたちの奇妙な説明は、私にとっては何の意味もないというか、「はいはい、分かりました」という感じです。バッカだなーという感じすらします。

どうやら司馬さんが信長ブームを作ったと「勘違いしている」学者もいるようですが、実際は吉川英治の大河「太閤記」が昭和における信長ブームの始まりです。

実は司馬さんは信長についてはそれほど書いていないのです。「国盗り物語の後編」。最初これは書く気がなかったのですが、いろいろな事情で書くことにした。

最初は斉藤道三のみ書くつもりだったのです。信長はメインではなかったのです。確かに中世の破壊者としての信長は描きましたが、「本当に破壊者の側面を持っている」のだから、仕方ないことです。

ごりごりの合理主義者じゃないとしても、義昭追放だけでも、延暦寺焼き討ちだけでも、「破壊者」の名を与えられるのは当然だと思います。

信長は、「新史太閤記」でも登場します。でもメインは当然秀吉です。「尻喰らえ孫市」、メインは孫市ですね。あと小説の「功名が辻」には一切信長は登場しません。

司馬さんは、そんなに熱心に信長を描いてはいないのです。

一部の奇妙な学者さんはどうしても「信長を中世の破壊者にしたくない」ようですが、要するに「なんか目新しいことを言いたい」だけでしょう。

とにかく「どうしても信長を凡人に」したくてたまらないみたいです。それは「つまらない」し、なにより「間違い」です。



特攻を命じた人々

2017年08月18日 | 日記
特攻。

ここでは主に空の特攻を考えます。

「あはれ」なんですね。

何故かというと、最初は効果がありましたが、やがてアメリカ軍がVT信管というものを発明し、簡単に撃ち落されるようになります。

VT信管発明後はほとんどが敵に体当たりもできず、海の藻屑となってしまいました。

話ずれますが、0戦なんかは、ほとんど防御機能がないので、攻撃には向くのですが、攻撃されて撃たれると簡単に撃墜されてしまいます。

速く動けるのが0戦の特技なんですが、その為に機体を軽くする。防御機能を付けない、簡単に撃墜される、ということです。

で、命じた「大人たち」は戦後どうしたかというと、「だいたいがのうのうと生き残り」ました。

大西瀧治郎は流石に自決しました。が、猪口とか源田とか、戦後もちゃんと生きています。

大人たちは「最後はおれが行く」と言っていました。本当に最後に行ったのは、まあ1人だけしょうか。

その1人とは宇垣纏中将です。玉音放送後だったので、米軍に向かうわけにもいかず、おそらくどこかの島に自ら落ちて自決したものと考えられています。

その後、宇垣纏の行動は賞賛されることもなく、むしろ批判されます。若いものを引き連れていったという点が批判されたのです。

繰り返しますが、特攻は途中からほとんど効果がなくなります。効果がなくても続けられ、8月14日夜まで続きます。大人たちの愚策の犠牲となって、多くの若者が死にました。

ボクシング 山中は負け方もかっこいい

2017年08月17日 | 日記
ボクシングのお話です。

山中は最近は「打たれる試合」「ダウンする試合」が多かったので、嫌な予感がしていたのですが、的中して負けてしまいました。

でも堂々たる打ち合い。かっこいいと思います。

タオルはちょっと早いと、その瞬間は思いましたが、テンプルなんかを打たれて後ろに倒れたら、「最悪死ぬ」のがボクシングで、仕方ないと思います。

漫画の話ですが、矢吹丈も山中と同じバンタム級です。53キロぐらいみたいです。

あしたのジョーは最後は「真っ白な灰になって燃え尽きる」わけですが、それは漫画の話です。

実際の人間は「これからの人生」があります。

真っ白な灰になってしまうわけにはいきません。

同じ相手とリターンマッチをやって、そうして勝って引退、が理想ですが、

いちいち我々の理想に応えていたのでは、命がいくつあっても足りません。

何も気にせず、自分の体力を考えて、今後の答えを出して欲しいと思います。

このまま引退しても、偉大なる王者です。

自虐史観ではなく、自省史観だ。

2017年08月17日 | 日記
日本を悪く書くと「自虐史観」と言われます。

アホか、と一万回ぐらい言いたくなります。

たとえば、人間。自己を顧みる傾向がない人間は厄介だし、社会的に迷惑です。自己を顧みることは「自虐」とは言いません。

「自省」というのです。人間は自省心を持つようになって、やっと大人になります。もっとも6歳の子供にだって自省心はあります。

自虐史観と叫ぶことが好きな人間は、年だけとっても「自省」ができないのです。つまり子供よりたちが悪い。

歴史観は「自省」があってこそ、バランスが良くなります。

「自省史観」とは「歴史から学び」、そうして「現在を考えるため」の史観と言えるでしょう。

日本も、アメリカも、フランスもイギリスも、そして中国も朝鮮も「自省史観」を持つべきです。

フランスなんてナチスにパリが占領されて、レジスタンスでやっとパリを解放したくせに、大戦が終わると、とっととベトナム侵略を再開します。

結局ベトナムに散々やられて、その戦争をアメリカが引き継ぎます。フランス人はこの歴史を大いに反省すべきです。

アメリカがやってきた「悪行」は数知れず、日本の千倍ぐらいやってますから、反省も千倍ぐらい必要です。

朝鮮も反省しろ、というのはデリケートな問題ですね。でも、反省すべき点はあります。

明治期、日本人はなんとか朝鮮に近代化をして欲しかったのです。近代的軍隊を持ってくれないと、朝鮮を通ってロシアがやってくる。

だから福沢諭吉なんかは随分と留学生を育てます。ところが朝鮮はがんとして近代化を図らず、その留学生を逮捕したり、殺したり。

福沢はついに絶望してしまって「脱亜論」を書きます。

朝鮮には古い伝統的文化がありました。でもあの段階では、やはり近代化をしないと、自らも守れないし、アジア全体に影響が及んでしまう。

耐えがたきを耐えて朝鮮版の「維新」つまり「近代化」をするべきだったのです。

それをしなかったことが、今の北朝鮮問題に直接につながっています。近代化とは軍隊だけの話ではなく、政治の近代化でもあり、つまりは民主化であるからです。

日本が民主化したのは戦後じゃないかと言われそうですが、明治憲法は立憲君主制ですから、民主制度の一種です。ところが西南戦争があったため、天皇に絶対的な統帥権が付与されてしまい、

で、昭和初期の悪夢のような絶対君主であり神である天皇が登場してしまうのです。それでも天皇批判以外の部分では、かなりの言論の自由もありました、少なくとも大正期までは。

朝鮮(韓国、北朝鮮)も自省史観を持つべきです。中国もそうです。当然日本も。それは自虐などというものではなく、はるかに高い精神の表れなのです。

昭和天皇の戦争責任

2017年08月16日 | 日記
昨日「インパール戦慄の記録」を見ながら考えました。

昭和天皇に戦争責任があるかないか、なんてのは分かり切ったことで、本人も「ある」と言っているし、開戦も終戦も「詔勅」だし、「ないわけがない」のです。

ただし「あるのは当然だが、ないことにしよう。ない感じにしてしまおう。」ということになりました。マッカーサーと日本政府がそう政治的にしたのです。

東京裁判の初期ではオーストラリアなどは天皇の死刑を当然のこととして要求していました。が、結局「なかったことにしよう」となったのです。

昭和天皇はロボットだったなんてのは「都市伝説」です。

東条英機は毎日のように参内して、作戦を説明し、いちいち天皇の許可を得ていました。

東条の権力の源泉は天皇であり、天皇の「許可」がなければ、東条など「ただの暗記上手の男」に過ぎません。(陸軍での教育の根本は過去の勝利の暗記でした。)

サイパンが落ちて、天皇は東条をこう見捨てます。

「サイパンは絶対大丈夫と言ったではないか。もうお前は信用できぬ。」

で、東条は総理を辞めるのです。その流れだけでも「天皇はロボットだった」などという論理が成り立たないのは自明です。

ちなみにこの時東条に対しては複数の「暗殺計画」がありました。辞任によって、実は2年ばかり東条の命は延びたのです。

東条は戦時中に天皇の意思に逆らって行動したことはなかったのですが、東京裁判では、人を通じて「さからったことにしろ」と言われ、

非常に苦しんだあげく、「逆らったことももしかしたらあったかもしれない」という言葉を絞り出すように語ります。ちゃんと録画されています。

天皇の戦争責任が「なかったことになった」ことで、日本の治安は守られました。しかし治安が守られから「良かった」とはならないのです。

昭和天皇は「戦争責任」には戦後一貫して敏感でした。靖国に東条らが分祀された後は、ぴたりと靖国参拝をやめます。

それ以来、日本の皇族は一切靖国には参拝していません。

参拝すれば、「なかったことになった」戦争責任論が再燃することは当然で、だから参拝しないのです。

「戦慄の記録インパール」、佐藤師団長の抗命を話題にしなければ、何の意味もなし。

2017年08月15日 | 日記
本日放送の「戦慄の記録インパール」。

佐藤幸徳師団長の「独断撤退」とその後のこと、を話題にしていませんでした。

1992年のドキュメント太平洋戦争(NHK)では、むしろ独断撤退しなくていけないほどの軍の硬直的官僚化と牟田口の無能さがメインだったはずです。

今日の放送では、まるで「みんなが悪かった」ようになっています。ばかばかしい番組作成姿勢です。

インパール作戦というものを取り上げたことはよいことですが、佐藤師団長の無断撤退を取り上げなければ、何の意味もありません。

佐藤師団長は繰り返し食料の補給を求めますが、無能な牟田口にそれができるわけもありません。

そこで佐藤師団長は部下の命の一人でも救うため、日本陸軍初の「師団長の命令無視行動」をとります。

つまりは「抗命」、「独断撤退」です。

そうして史上最悪のインパール作戦は終わることになるのです。

本部に戻った佐藤中将(師団長)は牟田口を探します。兵站無視の作戦によって日本兵を無駄に餓死させた牟田口への佐藤の怒りは頂点に達していました。

「牟田口を出せ、俺が牟田口を斬る」と日本刀を振りかざします。

牟田口はとっくに逃げていました。

師団長は天皇が直に任命しますから、佐藤師団長の行動は天皇への「抵抗」でもありました。

そこで、陸軍は佐藤師団長を「心神喪失」扱いとし、陸軍という官僚組織を守ります。

帝国陸軍というものがいかに腐った官僚組織だったかを描かなければ、インパールで死んだ人々に対して失礼です。

本日の「戦慄の記録インパール」の「みんな悪かった」というような惰弱な描き方では、餓死した兵隊が泉下で「怒りにうち震える」と思います。

「つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め」、これはインパールの生存者が佐藤師団長顕彰の碑に刻んだ言葉です。

佐藤師団長は後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残しています。