イエス・キリストは人々に「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたしがあなた方を爽やかにしてあげましょう」と招かれました(マタイ11:28)。現在も世界中の239の国や地域で、このイエスの招きにこたえ応じる人々がエホバの証人のクリスチャン会衆に交わっています。次いでマタイの福音書には、春の季節にイエスの弟子たちが、神の王国の良いたよりの伝道の旅の途中で空腹になり、穀物畑を通った時に穀物の穂をむしって食べました。その日は丁度安息日でしたので、パリサイ人たち(偽りの宗教指導者たち)が、イエスの弟子たちが安息日のおきてを破った、と非難しました。その時、イエスは聖書に記録されているダビデ王とその部下たちが空腹時に神殿でパンを食べたことから、イエスの弟子たちの行った事柄は神エホバに許されていることを諭されました。その時イエスは、パリサイ人たちに「神殿より偉大なものがここのいるのです」と教えられました。次のようにマタイの福音書に記されています。
「その季節(春)のこと、イエスは安息日に穀物畑の中を通られた。その弟子たちは飢えを覚え、穀物の穂をむしって食べ始めた。これを見てパリサイ人たちは彼(イエス)に言った、「ご覧んなさい、あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています」。イエスは彼らに言われた、「あなた方は、ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時に、ダビデが何をしたかを読まなかったのですか。すなわち、彼(ダビデ)が神の家の中(神殿)に入り、みんなで供え物のパンを食べたことを。それは、彼(ダビデ)も、また共にいた者たちも食べることを許されず、ただ祭司たちだけに許されたものだったのです。またあなた方は、安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを、律法の中で読んだことがないのですか。ところが、あなた方に言いますが、神殿より偉大なものがここにいるのです。しかし、「わたし(神エホバ)は憐れみを望み、犠牲を望まない」ということの意味を理解していたなら、あなた方は罪科のない者(イエスの弟子たち)を罪に定めたりはしなかったでしょう。人の子(イエス)は安息日の主なのです」」(マタイ12:1~8)。
上記の聖句に示されている通り、イエスとその弟子たちが安息日の日に、春の穀物畑を通った時、弟子たちが空腹を覚え、穀物の穂をむしって食べたことに、パリサイ人たちは「あなたの弟子たちは安息日してはいけないこと」、つまり労働をしたと非難しました。パリサイ人たちは、人間独自の考えに基づき、自分たちの規則を設け人々に重荷を載せていました。その自分たち独自の規則に基づき、イエスの弟子たちを裁いたのです。しかし、イエスは上記の聖句に記されている通り、聖書に記録されているダビデ王とその部下たちが、お腹を空かした時、神殿に入り、祭司にしか許されていないパンを食べても、罪にならなかったことの事例をパリサイ人たちに丁寧に教えられました。加えてイエスはパリサイ人たちに、「神殿より偉大なものがここにいる」と説明されました。イエスはみ父エホバ神からすべての権威を委ねられていました(マタイ28:18)。そのイエスがそこの場にいて、弟子たちの行為はみ父エホバの許されている行為であることを証しされました。さらにイエス・キリストは後に神の王国の王として、み父エホバ神に任命されるその方がそこにおられたのです。最後にイエスは「人の子(イエス)は安息日の主なのです」と教えておられます。これは、どういう意味でしょうか。イエスは、大患難の後の千年にわたるご自身の義の宿る平和な神の王国支配のことを教えられたのです(ペテロ第二3:10~13.啓示7:14;22:1,2)。
パリサイ人たちは、「憐れみを望む」神エホバのご意志を全く無視し、自分たちの考えに固執し、人々にエホバのご意志を行うことを忘れ去っていました。私たちはマタイの福音書から多くの教訓を学ぶことができます。
人類はこれまで6,000年間、暴力や戦争やテロや不公正な扱いに明け暮れる悪魔サタンの支配下で苦しい奴隷状態にありました(ヨハネ第一5:19)。それとは逆に、イエス・キリストの大いなる安息の支配・神の王国政府の支配は、すべてのそうした悲しみ、苦しみや圧政から安息(真の平和と命)を得る時となるのです(啓示21:3,4)。
今日紹介のマタイ12章1節~8節の聖句に関連し、レビ記24章5節~9節、サムエル第一21章1節~6節、民数記28章の9節、ホセア6章6節も合わせてお読みくだされば、イエスの説明の意味がよく分かると思います。
大晦日 庭の一隅 スミレ咲く 今日の一句
師走の道端に咲いている「タンポポ」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます