皆様方もご承知の通りに、私たちは何かのことで危険に遭遇した場合に健全な恐れを抱き、識別力を働かせ、危険を避けるようにします。私たち人間が抱く「恐れ」には正しい恐れと誤った恐れがあります。
聖書の箴言には、「人に対する恐れ」がわなとなることを次のように記し、識別力を働かすように促しています。
「人に対するおののきはわなとなる。しかし、エホバに依り頼んでいる者は保護される」(箴言29:25)。
聖書を学ばれた方々は、上の聖句がいみすることをよくご存じであり、日々の生活に適用していらっしゃいます。しかし、聖書を学ばれたことのない方々は、上の聖句を熟考してくだされば幸いです。「人に対するおののき・恐れ」がわなになるケースは次のような事例があります。例えば、中学生や高校生の不良グループが、普通の生徒を脅し、その脅かしに屈した生徒が心ならずも万引きをしたケースがあるようです。過渡な部活の活動でも「人に対する恐れ」がわなになり、生徒に深刻な状態が生じているようです。さらに、企業では、トップや所属の長の誤った意向に逆らえず、「人に対する恐れ」から正しい判断を曲げてしまうケースも生じています。真のクリスチャンであれば、イエスの命じられた通り、神の王国の良いたよりの真理を携えて家から家に伝道に行きます。その時に、家の人から罵声されるケースもあります。このような状況に直面すると、「人への恐れ」から、イエスの命じられた伝道ができなくなるなら、それはわなとなります。あるいは、国から武器を取って戦うように命じられることがあるかも知れません。このような場合、「人への恐れ」から、「互いを愛するように」と教える、イエスの教えを乗りこえ、武器を取って戦争に参加してしまうかも知れません(ヨハネ13:34,35)。このように「人への恐れ」は、罪を犯す誘因となりわなになります。真のクリスチャンたちは、「エホバに依り頼み」、エホバのご意志を最優先にします(箴言3:5)。使徒たちが述べた「わたしたちは、自分たちの支配者として人間より神(エホバ)に従わねばなりません」の教えの原則に従います(使徒5:29)。さらに、次の「恐れ」に関する説明を熟考してくだされば幸いです。
「恐れ」とは、普通の用法では、危害もしくは苦痛を予期している状態、つまり一般に驚き、恐怖、動揺を特徴とする悲痛な感情を意味しています。しかし「恐れ」はまた、何であれ傷ついたり害したりするようなものも冷静に認識する、もしくは考慮することおも意味する場合もあり、人はそのような認識に基づいて道理にかなった仕方で警戒したり、識別力を働かせて先を見通したりすることができます。
前書きに記しましたが、聖書は正しい怖れと誤った恐れがあることを示しています。したがって、人は危険に直面して健全な恐れを抱き、十分警戒することによって災難を回避できる場合もあれば、病的な恐れを抱いて絶望的になったり、気力を失ったりする場合もあり、そのために死に至るケースもあります。神エホバに対する恐れは健全な恐れです。それは畏敬の念であって、創造者エホバ神に対する深い崇敬の念であると共に、創造者の不興を買うことを恐れる健全な怖れです。神エホバ神への健全な恐れの気持ちは、この方が最高の裁き主で、全能者であり、ご自分に従わない者たちに処罰、もしくは死をもたらす力を持っておられるという認識と共に、エホバ神の愛ある親切や善良さに対する感謝の念から生じます。ですから、「エホバに依り頼む」信仰を表明するのです。
エホバ神に対する正しい恐れを抱くことは、神に仕えようとする者にとって肝要です。神エホバに対するこの深い恐れは、「知恵の始め」です(箴言9:10)。それは人を傷つける病的な怖れではありません。「エホバへの恐れは浄い」ものです(詩編19:9)。したがって、この恐れは箴言8章13節で、「エホバへの恐れは悪を憎むことを意味する」と定義しています。そのような怖れは、人が悪い道へ進むのを阻む力になります。「エホバへの恐れによって人は悪から遠ざかる」からです(箴言16:6)。ですから、「人への恐れ」ではなく、「神エホバへの恐れ」を抱かれますことを願っています。
トンボ来て 尖った先に なぜ止まる 今日の一句
裏庭の花トラオの先に止まった「トンボ」
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